奥山の認識

 

調査メンバー

田久保あやか 

古賀環

杉田絢          

 

協力してくださった皆様

重松健次さん・・・昭和5年生まれ

上松強さん・・・昭和4年生まれ

三原マキさん・・・大正15年生まれ

 

調査内容

分かったしこ名

田・・・カンジャダン、キゾウダン、コウラギ、ヒロコウラ、インガソコ

石・・・チャーコ(太鼓)石、二つ石

山・・・イランジャラ、セトカギ(大字)、ムカエ(小字)

木・・・三本松

川・・・コンドコイ、淵の川

地名・・・ノドンス、イワナ(岩穴)、コウノヒラ

 

 

私たちは鹿島市の奥山を訪ねた。最初時間があったので(寒空の下、2時間も!うろつく羽目になった・・!)デジカメで風景を撮ることにした。まずは鯉(あとで鑑賞用と聞いた)や藁葺きの家を撮った。次に天満宮や、採石場、浜川を撮り、犬も撮った。犬がすごい勢いで軽トラを追いかけるのを目の当たりにし、一同奥山ってすごいとこだと感心した。途中でおじいさんやおばあさんに声をかけられたり、子供に挨拶されたりもした。アットホームな雰囲気で、久しぶりにほのぼのした気分になった。約束の時間になり、あられがぱらつく寒い中訪れた私たちを、重松さんは暖かく迎えて下さり「むつかしかことは、聞いたらいかんよ」と言いながら話しをはじめてくださった。話しをしていくうちにうちに、重松さんを訪ねてきた上松さんや、もの知りということで呼び出された三原さんも加わっていった。まずしこ名を聞いていると矢答などの地名の由来の話になった。どうやらこの村は落ち人の村らしい。三原さんは島原の乱の落ち人だと言い、重松さんは平家の落ち人だと言っていた。重松さんの話しによると、ここは三原と重松という姓が多いのだが、もとをたどればおそらく同じ平家の者だろうということだった。それから、上記したしこ名の話をしてもらった。イランジャラは石が多いという意味で、ノドンスは山と山が重なった人の喉のように狭まっている道という意味だと教わった。残念だったのは三本松で、今は虫害によって枯れてしまったために存在しないということだった。それからイワナにはコウモリがいて、戦時中は防空壕として利用されていたそうだ。三原さんは実際に入ったことはないと言っていたが、こんな山奥の村でも、戦争の爪あとは残っているのだなと思った。それから墓地について聞いてみると、昭和20年頃までは土葬だったらしい。墓は国の土地にあり、共同墓地として三ヶ所設けてあった。奥山を流れている川の名前は浜川で、昔はとても綺麗だったのだが、今は洗剤のために汚れてしまっているらしい。奥山は水が豊富なために旱魃は起きなかったが、逆に水害がひどかったらしい。昭和24年には大水害が起こり、川が削られて大きく深い川になったという。その時家が1軒流されたし、道路の破壊も起きたという。そのために明治時代に川を調整するための工事が行われ、川をまっすぐにしたり、低くしたりした、と重松さんは語った。当時は測量は提灯を用いて高低を測ったと聞いて驚いた。昔の人は賢いなぁと感心していると、防災についても知恵があったという話しを聞いた。それはこの村の川や裏の山に沿って植えられていた竹であり、土砂崩れを防ぐために植えたものらしかった。理屈としては、竹の根がよくはるからということだったが、おかげで土砂崩れにはあったことがないと聞いて、うまく自然を利用していたのだと思った。また、奥山には「コンドコイ」という滝や「淵の川」という川もあり、重松さんはそれを利用して村おこしをしようと計画しているとのことだった。この間子供を滝に連れて行ったが、とても喜んで遊んだ、と重松さんは嬉しそうだった。子供の頃は滝でサンショウウオを捕ったりしたらしい!三原さんは滝が冬凍っているのを見たことがある、と言っていた。それから下の方の神社について聞いたところ、これはもとは採石場にあったもので、今は一時移転しているとのことだった。天満宮と呼ばれていて、大きな石がまつられているのは神様を寄せてまつっているとのことだった。三原さんの話では、昔は村の上のあたりにお稲荷様があったのだが、そこに行く道が今は分からなくなってしまっているらしい。村・部落の範囲は奥山とは、赤岩+片木で、奥山は昔は七浦といい、今は音成というらしい。重松さんは鳴瀬峠をはさんで、奥山と瀬戸にわかれるのだと言っていた。こういう地名や村の自然に関する話は地図を広げて、三人で記憶をたどりながらやってくれたので広範囲にわたる詳しい話を聞くことができた。

次に農業用水の話をした。浜川は用水源として利用されていてために、七浦までトンネルで水が引かれていたらしい。用水は共有で、水利権は七浦・古枝・浜の三村が強かったという。水利に強かったのは船越で、これは国営事業である土地改良の権利を持っていたためらしい。なにか規則はなかったのかと聞いてみると、奥山から七浦のパイロットには、5〜9月の間は水を流し、赤石から船越へは4〜9月の間に水を流すことにしていたとの

ことだった。このあたりは水が豊富にあったので、水争いはなかったという。

それから村の農業についての話をした。みかんについて聞くと、以前参議院であった組合長が七浦の村おこしのために、国営事業としてパイロットというみかんの土地改良にのりだしたことがあったそうだ。しかし生産過剰や質の悪化により、みかんでやっていけなくなってしまった。そのためにみかんは村ではあまり見かけないのだが、上松さんの出してくれたみかんは、とても美味しかった。また田んぼは、米の生産調整のために減反されたりして荒れてしまい、手入れ不足となってしまったという。畑はこんにゃくが一番儲かるものの、こちらも荒れてしまっているとのことだった。しいたけや、ビニールハウスでの花の栽培などもあるが、こちらも盛んとは言えない。農業はやっても採算がとれないために、出稼ぎで生計を立てている人が主だという。国からの補助が受けられる農業認定書も持っているのは、村では二人だけであり、農業は後継者不足に悩んでいるという。そのため村の田畑は、よそもので事情を知らない私たちから見ても荒れており、枯れかけた作物が放置されていたりして、痛々しいという印象を与えるようなものだった。

 その後で耕作に関する慣行を聞いてみた。村で共同作業で行っていたのは何ですか、と聞くと意外にも皆でやっていたのは、道路の清掃くらいだとのことだった。ただ、戦時中は人手不足だったので、その時だけは共同で農作業を行ったらしい。農薬のない時はガスをかけたり、焼畑をしたりしていた、と上松さんに教わった。農作業は楽しいものではなく、今趣味みたいに農業できるのは、農業認定者くらいだと重松さんがつぶやいていた。

田植え行事は、田植え後に部落祭りである「さなぶり」、稲刈り後はおてんとう様と川に感謝する「おひまち(おひ祭り)」というものが行われていた。また、昔は皆で水車(コットン車)で米をついたりもしていたらしい。

森林の話を聞くと、昔は共有林が片木にあったらしい。杉・ヒノキは昔は高値で、1本売れば2、3日は生活できていたらしいが、80年代から安くなってしまったという。昔は木炭が盛んで、生計を支える手段になっていたらしい。そのために各家に炭を運ぶための牛馬が飼われていた。炭焼き場で1週間泊まって炭を焼いたりしていたのだが、戦中に炭を焼く煙を工場のものと勘違いされて爆撃を受け、破壊されてしまったという。最近は、海を綺麗にするために漁業組合の人が「海の森」として山地に空気と水が綺麗になるように落葉樹林を植える活動を行っている。責任者は市長であり、現在奥山には三ヶ所が設けられている、とのことだった。林業も農業同様に苦しくなっているようだった。

それから昔の暮らしについては、やはり大地主と貧乏人がいて、小作人はかじき(小作料)を米で地主に払っていた。重松さんの話では小作人は本当にかわいそうだったが、今は出稼ぎにも行けるようになったので平等になったので大丈夫、むしろ貧乏なのは百姓だということだった。次に物品の売買について聞くと、浜からの商人を媒介として、米を渡して売ってもらったり、物を買ったりしていたということだった。商品である炭を運ぶための馬車や牛馬もいたらしい。そのため、道が3つの部分に分かれてしまい、自転車の練習の時は苦労したという。普段の食生活について聞いてみると、米は豊富にあったが、おかずが少なく、じゃこのつけや、あみつけなどを食べていたということだった。その他には、川であぶらはやや、やまめや、うなぎなどを捕って食べていたらしい。終戦後は、米と麦と芋を食べていた。また、この村は、ます料理が盛んだったらしい。村に電気がきたのはいつかと聞いてみると、昭和10年頃には、自家発電をしていたらしい。それ以降は、水力発電となって、今の採石場に発電機がおいてあったらしい。昼間は、そこは下駄工場や製材所、精米所として利用されていたらしい。村にいた動物について聞いてみると、峠のあたりで、たぬき・きつね・イノシシなどがでたらしい。野狐は当時、ヤコと呼んでいたという。むらには、馬や牛がいて、馬洗い場や馬捨て場もあったらしい。馬捨て場は「馬頭観」と呼ばれていたという。イノシシは、昔は1000mくらいのところで生息していたらしいが、今は食べ物がなくなってしまったので、村のあたりまで降りてくることもあるらしい。

村の行事について尋ねてみると、1/25は初祈祷で、豊作を祈った。今は各家から一人ずつ参加するようになっている。8/17.19.23は、お地蔵さん祭りで、これは、           子供がまつるものであり、昔はひいたきなこや煮豆をお地蔵さんに参ってくれた人に配っていた。その時に灯籠をつけていた。今は子供が少ないので老人会で手伝い、部落でお金を出してろうそくをつけたり、お菓子を配ったりしている。祀られているお地蔵さんの名前は、おじゃっさん・観音さん・お不動さんと、もう一体あるのだが、その名前は分からなかった。11/25は、天神祭りで、これは天満宮をまつったものであり、もとは五穀豊穣のおくんちだった。部落の災害がなかったことを感謝し、災害がないよう祈るものである。12/22は、はってん祭りで、火事の神様をまつるものであり、火災がないように祈る。村の祭りは全て各家が交代で接待をして、皆で当番の家で夕飯を食べるという部落全員が参加するものであった。しかし今は各家から一人しか参加しないでもいいようになっ

てしまっているという。

子供の頃にしていた遊びについては、昔は手伝いばかりでそんな暇はなかったと言っていたものの、聞いてみるとわんぐい回しや竹馬、なわとびや駒回しをしていたらしい。しかしまずは食べることであり、山芋をほったり柿やすいか、あけびやほんぐべをとったり、魚釣りをしていたとのことだった。冬は鳥にわなをかけたりもしたらしい。鳥は種類によっては(ひよ鳥・かっちょう等)は飼ったりもしたという。また、奥山は蛍も多くいたらしく、蛍をとって遊んだりもしたらしい。若者は遊んだりしなかったのか聞いてみると、重松さんの若い頃は戦中で、15の頃から竹槍で訓練したりしており、遊びはなかったとのことだった。そこで、若者について詳しく聞いてみると、わっかもんクラブというものがあって、男性は夜は皆で集まって公民館で寝泊りしたという。そこで柿や干し柿をとってきて食べたりしたらしい。田植え後の1週間は「はるなくさみ」といって手伝いをせずに遊べた。その間はクラブの者で生活したので、下っ端は炊事をさせられた。この間男女は里下りして映画館(活動写真と呼んでいた)でデートしたりもした。女性は着物や縫い物の稽古をしたりもした。三原さんの話によると、女性の嫁入りの条件は和裁が上手なことだったという。年間を通して、休みは「はるなくさみ」と正月3日、盆2日しかなかった。また、村には若者主催の銭湯があり、そこは男女の出会いの場でもあった。共同風呂は昭和2年頃からなくなって、各家に一軒ずつ五右衛門風呂ができた。また、子供のころに学校帰りに他の村の共同風呂で入浴中のおばあさんに石を投げたりもしていたらしい。お風呂は女性が最後に入るものとされており、当時の女性は肌を極力見せないようにしていたと重松さんが言っていた。ほかの村との交流については、他の部落から若い人が来たり、自分達が行ったりすることはあったらしい。いい女をとられないように、よそ者が入ってくるのを妨害したり、縄張りを争って喧嘩したりもしたという。4月3日には今の鹿島高校付近のまつかげ神社でよその村も合同で花見の踊りを練習する機会もあった。重松さんの話ではよそ者とは、喧嘩しながらも仲良くやっていたらしい。印象が強かったのは、消防の夜勤のときの話で、ヤギと赤犬を食べたという話だった。当時は肉がなかったのでご馳走だったらしい。ヤギは首に紐をひっかけて吊るして殺し、犬はくらした(殴った)と上松さんが言っていた。ただし、赤犬はおいしかったが、ヤギはくさくて不味かったという。なかには猫を食べた人もいたらしい。三人とも、若い頃の話になると楽しそうに生き生きとしていた。

村の変わった点について聞くと、昔は食生活が貧しかったが、今は日雇いや出稼ぎで稼げるようになったので収入が増え、生活水準が上がったのが一番の変化だという。しかし、農家は農産物の自由化で被害を受けているし、採算がとれないために生活はまた苦しくなり昔に戻ってきているのではないか、と重松さんは危倶されていた。村のこれからについては、今は過疎化はしていないが4軒は減ってしまったし、後継者不足も深刻なので重松さんは村おこしを試みてみるつもりだということだった。滝などで人を呼んで、しいたけやたけのこ、きびもちやこんにゃく等の特産物を売っていくらか稼げるようになりたいと言っていた。滝でいくら人を呼んでも、村の産物を売らなければ、村おこしにはならないということだった。そのためにも再び田畑で農産物を作るようにすることが必要らしい。しかし地元の人は情報の範囲が狭いこともあって、こうした村おこしをよく思わない人もいるし、若者も無関心な人が多いという。このまま村を活かそうという意志がなく、しっかりした人がいなければ村は過疎化してしまう、と重松さんが心配されていたのが印象的だった。重松さんはずっとセールスをしてきたこともあって、村の外部の情報にも詳しいのでこうして村を活かそうと努力できていたし、若いころは外を回っていろいろな経験をしてきたほうがいいと、自分でも話していた。このあたりで服部先生も登場なさって、バスの時間が迫ってきていたのだが、せっかくだからということでイノシシの刺身ときびもちをご馳走になった。ちなみにそのきびもちは、村おこしに使われる予定であるらしい。どちらも非常に美味しく、おかげで私たちはバスの時間に遅れてしまいました・・。

この調査がうまくいったのは、ひとえに重松さん達のおかげです。質問に対して明瞭な答えを返していただけたので、スムーズに調査が進められました。この場を借りてお礼を述べさせていただきます。ありがとうございました。

 

 

 

 

拝啓

 

先日は、お忙しい時間をさいて、私たちに貴重なお話を聞かせて頂き、本当にありがとうございました。お話にでてきた地名や、奥山の昔の様子や風習などは、どれもとても興味深いものばかりで、多くのことを学ばせて頂けたことに心から感謝しています。

教えて頂いたことは、これから先の勉強の参考として役立たせていこうと思います。本当にありがとうございました。なお、今回の調査結果をレポートにまとめましたので、同封いたします。よろしかったら、ご覧になって下さい。

寒い日が続きますが、お体には気をつけて。

敬具

 

 

追伸  イノシシも、きびもちも美味しかったです。

村おこし頑張って下さい。

 

 

   九州大学  文学部1年

         古賀 環

         杉田 絢

         田久保 あやか