歴史の認識 現地調査レポート

佐賀県鹿島市大殿分及び鹿島市の歴史

石原 幸

小野美雪

話を伺った方

井上 榮さん  (昭和21年生)

松本 満代さん (大正10年生) 

 

我々は鹿島市の大殿分を調べるにあたり、まず区長の田中さんにお電話を差し上げた。しかし、生憎法要のため、田中さんの都合がつかず代わりにと鹿島市の歴史に詳しい井上さんを紹介して下さり、場所提供は、真言宗は御室派、金剛勝山の蓮厳院(れんごいん・地元ではデンゴインとも)松本さん宅となった。

お昼時にお邪魔したことで、お二方にご迷惑をおかけしてしまったと申し訳なく思った。井上さんがいらっしゃるまでの間、本堂のストーブに火を入れてくださり私たちに親切に応対してくださった松本さんには、感謝の念で恐縮してしまった程だ。井上さんがいらっしゃってお話を伺い始めると、その前日にも同じく調査に来た学生がいたということで、たいへんスムーズに話の流れを進めていってくださった。またもや恐縮である。

現地に着いてから実感した事なのだが、私たちが用意してきた地図は、実際の地域の範囲とは大きくずれていた。地図をそれぞれ教室で選んだ時から、大殿分の地名が記された物をみつける事ができなかったので薄々不安に感じながらも、それに近いものを選んできたつもりだったのだが、実際にはかなりの程度でずれていた。井上さんからも「これだと全然違うよぉ。ほら、ちょうどここよりももっと右になるんだよ」と、松本さんが持ってきてくださった観光用のパンフレットについていた地図を指して教えてくださった。きっと見当はずれな地図を持ってきた私たちに呆れておられた事だろう。思い返しても顔から火が出そうである。結局、ご厚意に甘えて、松本さん宅にあった住宅地図を急いで近くのコンビニでコピーさせていただいた。本当に、情けなくも恥ずかしい話である。井上さんと松本さんには、いくら感謝してもしきれない。その日は何度恐縮したかももはや数え切れない。

最初からいろいろつまずきはしたが、その後の調査のほうは滞りなく進められた。未熟な学生2人に根気よく付き合ってくださったお二人のおかげである。ではまず、しこなのことから順に述べていきたい。

 

しこなは次に示すように多くは存在しなかったが、井上さん、松本さんはご親切に鹿島市の歴史や、土地名の由来など詳しいお話を聞かせてくださった。まず、小字、しこなを示しておく。

 

小字−しこな

小字松原のうち       ―――――スギノババ(杉の馬場)

ショウノババ・ショウメンノババ(正面馬場)

インノババ(院の馬場)

小字八竜のうち       ―――――ハチリュウサン(八竜さん)

小字山下のうち       ―――――ドウノウエ(堂の上)

小字大石(ウーイシ)のうち ―――――ゴンゲンミゾ・ゴンネンミゾ(権現溝)

 

不動(フヅー)、山下、立馬場(タテノババ)の境―――――ボウチュウドウ(坊中道)

 

しこなの説明

井上さんにお伺いした話では、大殿分は田畑が今は多いのだが、もともとは平野で昔からの田というものがさして多くない。加えて、一度の土地整理の後、十年は売買を禁止するといった土地制度があるので土地の移動・売買がめったに無いらしい。そこで、地元の方々の間では誰がどこに田畑を所有しているかは言うまでもなく、熟知しきっている事なので『しこな』と言うものはほとんど存在しないそうだ。田畑を区別する時は小字を使い、そこの小字に土地を持っているのは〜〜さんだから、とか、文脈・会話の流れで細かく言わずとも通じるらしい。他者に紹介する時は実際に連れて行ったり、どこそこ(小字)の二段目の畑、といったふうに直接場所を提示したりするようだ。よって、しこな自体が殆ど生じなかった、ということだった。我々も「特定の田んぼに行くのを人に知らせるときにはどういう風に言うんですか?」や「持ち主の名前などで呼ぶ事はないんですか?」など、いろいろと角度を変えてアタックはしてみたが、これ以上の情報を得ることはできなかった。残念な事である。

では、少数でも何故上のようなしこなが存在するかというと、それは田畑ではなくむしろ歴史に依存するようだ。

スギノババ、インノババ、ショウノババはそれぞれ一直線上にあり、八幡神社へと続いている。端のスギノババ付近には大門があり、位が低いものはここで下馬する。中門付近のインノババでは中位の者が、お偉方は最終地近くショウノババまで乗馬で乗り入れても構わなかったそうだ。

小字八竜自体は広いのだが地元の方は水の神八大竜王を親しんで『八竜さん』と呼んでいる。特にこれは寺の一角の庭だった(今は畑?)地域を指し示す事になる。

ドウノウエはそもそも小字山浦―蓮厳院の付近―に講堂・金堂の推定地とされるところが広がっており(これも今は畑である)、その金堂の上に位置しているのでそう呼ばれるようになったらしい。ちなみにそこには家屋が一軒しかないのでドウノウエといったらそれだけでそこの方を示す意味合いも込められる。

ゴンゲンミゾは水路のことである。中川から大殿分の田を潤すために引かれているもので、権現様の前で水を取ったのでこの名がついたそうだ。正式名称は無いらしい。

ボウチュウドウは大殿分と他の村を分ける境の道に当たる。昔、この道をはさんで左右に堂が並び立っていたので坊の中道、つまり坊中道となった。

 

 

その他の地名に関して

 しこなとはまた別物であろうが、地名に関してお聞きした話がある。調査にあたった地域は、元は全部海だったそうで、それを干拓して田に変えたものだそうだ。その中でも自然にできた干潟にはムタ(牟田)という地名がつき、人工的に陸地にしたところにはコモリ(篭)という地名がつく。

 例えば、その干潟が山田さんのものだったら山田篭になるが、そこを干拓するのに寄付金をくれた人の名前をつけることもある。面白いものでは、その干潟の幅が19間である事から、十九間(じゅくま)篭というのも存在するらしい。地名の面白さを端的に表していて、興味深い話である。

 

 

水利とその起こり

鹿島市の歴史はなんと言っても三代目藩主鍋島(なべしま)直朝(なおとも)氏から始まる。彼は鹿島市全土ではないものの、私たちがお伺いした所では『直朝さん』と親しまれ、彼こそが実質上の初代藩主であると多大な崇敬を受けていた。それというのも、この直朝氏が今の鹿島市を潤す水源のもとを整え、石高の増大に貢献したからである。

まず、1650年、江戸時代中期に水梨堤が造られた。水梨の地は今でこそこの字を書くが、当時はまだ「水無」と表記されていた。堤の建設を願い出る旨を示した書面にも、「水無谷の上流に〜」と記されていたらしい。「水梨」と表記されるようになったのは、堤が造られて以後の事であるようだ。

そして江戸時代中期(享保10年)には水天宮が造られた。当時のお殿様に30坪の土地をもらい受けて水天宮を祭ったのだという。

その水天宮からの落ち水をもらい、溜めておくために造られたのが花木庭堤である。他にも、この地には水が上手く巡り、また溜める事のできるように、新堤や諸干堤(上堤と下堤の親子堤になっている)が配置されている事から、直朝氏の治水事業にかける情熱の片鱗がうかがえる。

そして、貝瀬のじゃーわん(大応庵)の地から花木庭まで続くシードー(水道)を花木庭水道という。このシードーは貝瀬からぐるりとカーブを描き、驚くほどの長い距離を通って水梨堤に達している。これもまた、鹿島を潤した重要な水路である。

この偉業を成し遂げた直朝氏を誇らしげに語る井上さんの話を聞きながら、他郷の事ながら、妙に感動したような気持ちになった。それは、まっとうに生き、何かを後世に残した尊敬すべき日本人の姿を垣間見る事ができた喜びゆえであろう。「直朝さんの功績は地元ではあんまり検証されてない」と井上さんがこぼしていたが、私もそれを残念に思う。このレポートは、少しでも彼の事を世に知らしめる役割を果たしてくれるだろうか。もしそれができるのなら光栄である。

 

 

7年前(1994年)の大旱魃に対して

 直朝氏が心を注いで築いた水道には、当然のことながら厳しい決め事が付いてまわった。所々に位置する水門を「ここで10センチ開けたらあっちでは5センチくらい」といったように、村々の間で取り決めがなされ、岐点ごとに水当番が置かれ、夜通しの番も時にはいたらしい。

 そしてこの取り決めは、今でも存在しているそうだ。1994年の大旱魃の際には、花木庭水道で昔にも劣らず厳しい決め事があったという。

 ここでたいへん興味深い話を記したい。私たちが場所をお借りした蓮厳院では、件の旱魃のときに雨乞いの行事を行ったというのだ。松本さんが少し照れたように話してくださったところによると、水の神様を祀ってある『八竜さん』にお米とお酒を持っていき、一時間くらいの間、松本さん自らが祈祷を捧げたそうだ。そしてその後、大殿分の地域には何と本当に雨が降ったという。驚きを隠せないほど不思議で、神秘的な話である。

 今も昔も、水利をめぐる慣習には変わらずに受け継がれているものが多い。お借りした場所に特有の、貴重な話をお聞きできたと思う。

 

 

昔の農業以外での村の収入

お話を伺うと、農業の他に、意外にも多くの商売があった。あまりに多いので、箇条書きで記していきたいと思う。

・シチトウという植物を育てて畳を作る。

・山から木を切り取ってきて、炭や薪として売る。

・ハゼノキ(地元ではハジと呼ぶ)の実からろうをとり、ろうそくを作る。

・ミツマタを育て、和紙の原料とする。

・カチャシ油(椿の実から絞った油)を売る。

・酒屋から酒を樽ごと買ってきて、その酒を小売する。

・クーヤ(紺屋)と呼ばれる染物屋を商う。

・日本三大稲荷である祐徳稲荷への参詣道には、木賃宿と呼ばれる、参詣客や行商人を相手にした宿、また料理屋があった。

・同じくその参詣道には多くの鍛冶屋があった。

(刀を扱う刀鍛冶、農作業に使う鍬や鋤、鎌を扱う野鍛冶、鉄砲を扱う鉄砲鍛冶、そして、馬の蹄に付ける轍を扱う所など、専門の分野に分かれてそれぞれ商っていたようだ)

 

これは後に別の話をしている時に聞いた事だが、雄の馬を去勢していたかどうかという話になった時、去勢はせず、種馬としての商売にしていたという話に発展した事も付け加えておくべきであろう。

  農家に子馬が生まれたのを聞きつけると、誰よりも早くやってきて、「これは売った方がいい」と薦め、その仲介業を行うのが、ばくりゅう(博労)と呼ばれる人々であった。彼らは正規の仕事に就けない者として生活は荒んでいたが、前述した馬の売り買いは売る方にとって思わぬ収入には違いなく、農家にとってはそれで助かっている面もあったということだ。しかし、井上さんもやや苦々しいと思われる顔で語っておられたことから、博労はやはり忌み嫌われる職業であり、諸手を挙げて歓迎されたり、有り難がられたりする職業ではなかったようだ。

 

 

ユイ(結)、およびユイ返しについて

 ユイとは、農作業における共同作業である。例えば田の作業を行う時、村の住民が集まって「まずここをしよう」「じゃあ次はここを」と順番に決めていって、一つ一つの田に対して村人全員が協力する形をとっていた。機械の貸し借りもそれに含まれる。

 ユイ返しとはその返礼のことだが、前述したようにユイ自体が村ぐるみの形態をとるため、個人的にお礼をするというよりも、同じように労力で返す事が主だったようだ。

 恩を着せるのではなく、お互いの持っているもので補い合うこの仕組みは、いわばギブアンドテイクの原型のようなものではなかろうか。個人間の小さなものではなく、もっと大きな形でのつながりが存在した時代もあったのである。いろいろと勉強になる事が多い。

 

 

村と村との間では

 ユイによって村の内での人々の結びつきがなされていたとして、それでは村と村同士の間ではどうだったかというのも気になるところである。村は、地縁団体の登録をする事で自治体(ジジタイと呼んでいらした)になる。そうなると自治体をまかなっていくために予算書を作らなければならない。区長を務めてくれる人への賃金も当然必要になる。そのために、区の仕事である区役や、常会の欠席者には罰金が課せられたりした。ちなみに常会は昼と夜とでは欠席の罰金が異なったそうだ。そのようにして区でお金を集めていろいろな用途に使っていくのだが、その集めるお金に関して、自治体同士で共通の取り決めがあったということだ。金銭が絡む問題は今も昔も複雑だから、当然といえば当然の事だろう。しかし、そのように自治体としての付き合いが始まる以前にも村同士の交流はあった。水路の運営での取り決めはもちろんのこと、農作業などにおいても、自分たちだけではまかないきれない問題は数多くあったのである。村同士での付き合いは、そのように改まって始まるのではなく、必要に応じて自然と形成されていったのであろう。

 

 

これからの農村について

 お話の最後に、これからの村はどうなっていくと思うかということを井上さんにお聞きした。井上さんは少し考えるような間を空けてから、次のように語ってくれた。

「今の時代は農協が統制権を持ちきれていないね。作物を作っていくのにも赤字になるから、いつまでも続けられないだろう。兼業というよりも間業になっちゃってるしね。米の輸入みたいに、外部からは農業を入れるべきじゃないけどそれじゃ相手国が成り立たない。お互いのやり取りがなければいけないのは何に対してもいえることだけど、過度になると制限も必要になるだろうね。ユイなどにつながるような昔ながらのサービスは成り立たないだろうから、機械によるサービスはいいかもしれない(こう話す井上さんはどこか寂しそうだった)。今からの農業は、他をまねるんじゃなく特色・工夫を持っていかなきゃならない。消費者と一対一で向き合う事が必要なんだ。その地でできたものはその地で消費する地産地消の考え方が大事になるよ。なにより地元に元気がなきゃいけない。だからとにかく労働の場が必要なんだよ。若い人が働く職場がいる。過疎地が増えていくのは、他に糧となるものを求めていってるからかな。部落の崩壊だろうね、それは」

普段から胸に溜めていた憂いを一気に放ったような話し方であった。生まれ住んできた土地をじっと見つめてきたゆえの重みのある言葉だった。私たちのような一介の学生でも、現在の日本の農業の先行きが決して明るくはないということくらい知っているけれど、実際に井上さんの口からお聞きするとかなり現実的なものとして受け止められた。なにか強烈な焦燥感のようなものを感じさせられた思いがある。だからといって自分にできることなど思いつくものではないが、そういう事を知る経験ができた事自体が、自分たちにとって貴重なものであったと思う。

 

 

こういった現地調査というのは初めての試みで、いろいろと不安な事もまた至らない事も数多くあったのだが、調査を終えた今、鹿島市に赴く前にはなかった感慨が生まれている。他にもお聞きした貴重なお話も含めて、確実に自分の学習の糧となってゆくだろう。第一の目的であるしこなについてはあまり多くは調べられなかったが、それを補うほどの素晴らしいお話を伺う事ができたと思う。

ご協力していただいた井上さん、松本さん、そして田中さんに心からお礼を申し上げます。本当に有難うございました。