「あるき・み・ふれる歴史学」

           鹿島市 大野

               2001年 1223

          

阿部由美子

吉村映里

 

 

 私たちは午前八時半に九州大学六本松キャンパスに集合であった。午前九時前、朝の冷気に震えていた私たちは、暖房のついたバスの中に吸い込まれるように乗り込んだ。高速を使い佐賀県の鹿島市に着くと、そこから早速2,3グループが降りていった。さらにバスを走らせ私たちの担当地区、大野に着く頃には私たち以外みんな降りてしまっていた。時間は午前十一時半。最初のグループが降りてから一時間が経過していた。朝渡された予定表によれば、私たちは最初にバスに拾われるはずであった。他のグループより時間が少ない。私たちは多少の焦燥感を感じながら、先生方とともにバスを降りた。

 焦燥感を感じつつも、やはり空腹感を無視できない。先生方と私たちは公民館の横にあるちょっとした阿弥陀様の所で昼食をとっていた。しばらくすると目の前の道を一人の御老人が挨拶をされながら通り過ぎた。それにしても静かな所である。目の前には山々が連なり、目下にはしっかりした石垣に囲まれた畑が見える。福岡よりも少し寒く感じるのは、この高度のせいであろうか。と、そこへ先程の御老人が少し迷った後に私たちの方へ向かってこられた。この方は山上篤さんで、実は私たちがお話を伺うことになっていた山上勇さんから話を聞いていたそうである。こんな寒い所で食べてないで家においでと言って下さった。私たちがお訪ねするべきところをこうして迎えに来ていただいて、しかも暖かいこたつとストーブの中で昼食を食べさせていただいて本当に有り難かった。昼食を終えた私たちは先生方と山上篤さん、勇さんに早速お話を伺った。

 まず持参した地図を出し、あざなについて教えてもらった。あざなを列挙する。

小字宇土のうちに・・・・・・イチノタニ、ニノタニ、シノタケ

小字昇立のうちに・・・・・・ハヤノセゴエ

小字野田のうちに・・・・・・ノダイデ(野田井出)

小字石堂のうちに・・・・・・イシドウイデ(石堂井出)、ゼンコウイデ(前向井出)

小字樫椎川のうちに・・・・・・ナラフチ、メオトイワ、ゼンコウゴエ(前向越え)、ヒコウシロウイデ

小字谷深のうちに・・・・・・ムラダ(村田)

小字瀬戸のうちに・・・・・・ホンイデ

小字越露のうちに・・・・・・カキノオ(柿尾)、カキノオダニ(柿尾谷)、マエノヒラ、ヤタケ

小字本谷のうちに・・・・・・ナカダニ、クラタニ、コシジイ、マツヤマ峠

 大野には大きな山が周りにあるので、谷や峠や川のあざなが多かった。谷と川があれば滝がある。コシジイという谷のナラフチという川には昔サンショウウオがいたそうだ。小さなサンショウウオは石の下にいるので、石を少しあげては手でピッと捕まえて、噛まずに飲み込むのだ。味はおいしいのかと尋ねると、噛まずに飲み込むから味なんか分からんということであった。サンショウウオを食べる、しかも踊り食いというのは初めて聞いたので驚いた。山上さんは実に懐かしそうに話していた。他にもギッチョという魚が年に一、二回川を上り下りしていた。ギッチョとはヤマメやエノハの事である。しかし砂防ができてしまったので、今では上ってこない。またそこでは毎年7月11日くらいにたきまつりがあるそうだ。「そこで水泳をしよったなた。」「そして大きな畳五枚分くらいの滝ば、平たい石から下の中に、飛びよったとですよ。」と教えてくれた。

 ゼンコウゴエ(前向越え)とカキノオ(柿尾)の話になった。「ちょっとばかり前向越えの方が下ばってんが、柿尾が上ばってんが」両者はほとんど同じである。柿尾はカキノオタニ(柿尾谷)と言って谷を指す。「あら、あがんとはなかね、夫婦岩(めおといわ)はなかね?」と言って探すと、柿尾谷の近くに二つの岩があった。その二つの岩は一所にあり、上が男、下が女である。「こっから見んさい。」と言われるように帰りに家を出ると、夫婦岩が見えた。柿尾谷は「たいがい植林する前はやまたきばして、そして「蕎麦とあと小豆とのいねて言うたとば、そういうのを作った」「さといもも確かできよった」そうだ。焼畑にした所はアラキと呼び、自分の土地のみしていた。ほとんどみんなやまたきをしていた。これは40年くらい前までは、よくやっていたが「今はもう、アラキば作らん」そうだ。焼いた後は木の成育が良かった。植えたのは、スギやヒノキやマツであった。中腹より下はスギ、七合目より上はマツ、その間はヒノキを植えた。下の方は「仮に良か時はヒノキを植えたけんて、よくはヒノキは育たんなた。」「だから、段階的になた」植えなければいけない。元はナベシマの殿様の山だったのを、部落が買った。その時はカシやタブの木の雑木林だった。それを昭和2728年に炭を焼いてスギを植えた。炭を焼いて木炭にしたものは家計だった。その炭はかまで焼いた。このかまは全て個人個人で資本し、コエジのかまなどと山の名前を用いて呼んだ。「このコシジイの山でも梨の木の前にあったけん梨の木がまて言うて」いた。その梨は小梨で「食べれるとですよ。」「二十世紀梨のようなのですか?」という問いに、「小さか。あげん改良したっとじゃなし、味が良かもん。山梨は。」と得意げであった。他にも山の果物について「トンコウガキっちゅうてなた、甘かともあっし」「ゴマが入ってゴマガキていうとですよ。」という事だった。木になる木いちごも、ブルーベリーもあった。しかし何故か「部落ではあけびをブルーベリーと呼んどっと。」そしてブルーベリーの事はあけびと呼ぶらしい。つまり種があって割れるものをブルーベリー、割れないものをあけびと呼ぶのだそうだ。しかしあけびとブルーベリーの説明を聞いていくうちに、山上さん達の言うあけびと私たちの考えるあけび、ブルーベリーの特徴が合わなくなってきた。お互いどっちがどっちなのだか、何がどうなっているのか分からなくなって皆で笑ってしまった。山栗もあった。山栗は保存する事はなく、採ってきて運動会に持って行くくらいであった。食べる分だけ採って、あとはイノシシや「ヤマネズミが食ったりするたいね。」と言っていた。イノシシなどは雑食なので、栗を食べに来るヤマネズミを狙って栗の木の下に来る事もある。「イノシシがヤマネズミを食べるんですか?」と驚嘆の声をあげた私たちに「もちろんですよ。」と山上さんも驚いたように答えた。イノシシが泥浴びをする所をニタバ、スギの木に体をこすりつけた所をニタウチと呼ぶ。その泥の跡を見て「ああ、あのぐらいやったら70キロくらいのイノシシとか、小さかとか」分かるそうだ。たまに畑を荒らしに来たりしていた。しかし手負いイノシシ以外は攻撃してくることもなく、逃げて行った。今ではここは禁猟区である。「わな免許、絶対持っとかんば、今は。」「今はなた、鉄砲で捕獲すっとよりわなの方。」で捕まえる。そのわなは、はねあげ式でブイアゲという。輪を作ってそこにイノシシが入るとパーンと跳ね上げるものだそうだ。

 次に田んぼのあざなについて尋ねた。「自分たちの言う言葉でしょう?」と言ってたくさん教えていただいた。これを列挙する。

ヒコウシロウ、ウーダ(大田)、ゴセダ、ムラダ(村田)、タナダ(棚田)またはダンダンダンナカ、サカシタ(坂下)

これらの詳しい場所は地図では示せなかった。

棚田と石堂の間の石堂坂(イシドウザカ)は狭い道であるが、道具を担いで行った。石堂の田を囲んでいる石垣は谷の庄屋が職人を春日から呼んで作ってもらった。しかしその職人は一年中石垣作りをしているわけではなく、いつもは木炭を焼いていて副業として石垣を作っていた。谷の庄屋とは、その人が田んぼではなく谷に住んでいたからそう呼んでいたのだそうだ。その石垣は小さいタンナカ56個をひとつにして作ったものであるが、5060年前のものと100200年前のものが混ざっている。

このように細かいタンナカを大きくしていたのは、昭和4050年の牛を使っていた時代であった。馬は田んぼでは使っていなかった。しかしドビキと言って、山で切り出した材木を運ぶのには馬を使っていた。今はワイヤーを渡して運んでいるが、昔はずっと牛に引かせていた。キンマミチという、枕木を敷いてそりを滑らせる道があった。キンマミチは曲がりくねっていたが、ドビキミチはまっすぐだった。ドビキミチは馬に引かせる道で、近道していく時に使われた。「大体一回、二回通れば、ずっとそれが道になってしもうた。」とにこやかに話してくれた。「あがんとすっときゃ、せんがきくっちゅうて」牛よりも足の速い馬を使っていた。「ただじわじわ行くとは、せんとは言わんね。ただ持久力っちゅうたら、牛の方。」「その時の牛はゴッテですか?」と尋ねると、「ああ、コッテウシね。男牛。」と答えてくれた。去勢した牛の方が力は強いのかと思っていたが、どうやら去勢した牛の方が体は大きくなるが力は弱いらしい。「雌じゃなかけんいくら去勢してもコッテウシって言いよった。」去勢した牛は殆どいなかったそうだ。その技術が入ってきたのが、明治以降だったからである。牛は「その人の人間性に似てくるなた。」と言われ、私たちは犬を思い浮かべ笑ってしまったが本当にその持ち主に似てくるそうだ。例えば、親方がびくびくしていれば、牛もびくびくしていた。牛は一家に一頭いればいいが、一年中は飼えなかったのでモヤイと言って何軒かで共同に飼っていた。その引渡しの時も、遅いなぁと思って待っていると女の人が連れてゆっくりと来ていた。しかし男の人が手綱を引き始めると、牛はサーッと走り始めたのだそうだ。また牛はトウトウと言いながら鼻輪に繋がっている手綱で顔を叩くと左に、ケシケシと言いながら手綱を引くと右に曲がった。鼻は何ででも穴があいた。鼻の中でも狭くあけやすい所があった。またそこにはコバナと言って白い縄をもう一本通す事もあった。「これぁもう」相当痛いのだそうだ。だからどんな牛も言う事を聞いていた。それを想像して一同苦笑してしまった。「この牛は大変ていう時は、コバナ通しとこう。」と言っていた。「普通の鼻輪じゃなしに、二重に通すとばコバナ通しっち」言っていた。コバナは鼻から鞍に繋がっていたので、牛は行きたい方向には進めなかった。その方向に進もうとすると、コバナを引っ張られ痛かったからだ。「普通の牛には必要なかと。」と言うように、荒い牛にのみしていた。「危なか牛」にはコバナを通し、左綱を取っていた。そうしないと「前さ行かんと、ぐるっと廻って来ると。自分の方に。」そしてぐるぐる廻ってしまうのだそうだ。

 他にもお話して下さる方を呼ぼうとして下さったが、どうやら年賀状書きでお忙しいみたいだった。よく考えれば、年の瀬のお忙しい時期にこうして何時間もお話してもらい申し訳なかったが、本当に有り難いと思った。話は戻って牛を洗うウマレヤガワ。大野では田んぼの井出で洗っていた。馬はおらず牛を洗っていたがウマレヤガワと呼んだ。ムラダのホイイデ、ヒコシロウイデ、イシドウイデ(石堂井出)、ゼンコウイデ(前向井出)、ノダイデなどで道の近くにあった。イシドウイデ(石堂井出)とゼンコウイデ(前向井出)は川の右岸左岸での名前だった。子供などが泳げる程の水深はなく、牛を洗うくらいだから浅かった。「泳ぐっちゅうたらナラフチ」「泳ぐとはまた下の下流で」という事だった。今では井出はなく流し込みである。井出の名前が田にちなんで付けられていたので、再び田の話になった。やはり田によって単当収量は、例えばヤマダは六俵半、ムラダは八俵、サカシタは七俵半と違った。この違いは日照時間によるものであって、土はあまり変わらなかった。山上さんは少しためらってからダノという言葉を口にした。「自分で行動して成育させる能力」をダノと言うそうで、そのダノの差もあったそうだ。例えばまめに雑草を抜くとか、温かい水を流すなどといったものだそうだ。冷たい水では駄目なのだ。ダノとはその能力が劣っている人の事を意味するので、普通の人とダノの差つまり手を入れるか入れないかの差でも収穫は決まった。秋の収穫の時、きちんと手入れいている人の稲は米の重みで穂先がねていた。しかし手入れしていなかった田では、シイラと言って米になっていない穂先の立ったままの稲が多かった。大野は山に囲まれているので、一年中山水が流れていた。そこでもちろん湿田もあったそうだ。「普通は二毛作できるばってんが、一作で」あった。これには理由があり、「麦ば作ると稲ばできんとですよ。麦ができんうちに稲を植えないかんとですね。」という事だった。麦を作ったら田植えに間に合わないから麦のみになってしまった。湿田は昔から一期作のみであった。「出水(デミズ)で仕方なかもんのお。」といって、湿田はあちらこちらにあった。「山の中を通ってくる水は止めようがなかとですもんね。」

牛の草をとる山は「マエノヒラて言うて、今はもうあちこち植林しとうばってんが」昔は草場にしていた。その山一つで大体20頭くらいの牛を養っていた。アサクサキリと言って一日分の草を刈っていた。「アサクサを切らん人もおるたいなた。」「登りよんしゃあって聞いて、いっちょかれるごた」ここで私たちがよく分からないという顔をしていたのだろう。篤さんが「いっちょかれるって分かる?」と聞いてくれた。私たちは「いっちょかれる?」と首をかしげていると「人より遅れる事よ。」と教えてくれた。さらに「あの人はふゆかごた。」と例を出して、「ふゆか」とは動作がのろい事だとも教えてくれた。語尾などは少し博多弁と似ているところがあり、また私たちのうち一人は長崎出身なので祖父母の方言に似ているということで、知らない単語はそんなに出てこなかった。しかしなにせ聞いた話がどれも初めて聞く事ばかりなので、どれが名称でどれが方言なのか分からない事もあったが、佐賀弁にもだんだん慣れてきていた。牛の餌をとってくる草場はマエヒラくらいだった。山上勇さんはマエヒラには行った事はなく、田んぼのあぜに生えている草をとってきて餌にしていたそうだ。「牛の餌っちゅうても田んぼの藁ですもんね、主食は。」夏には冬のためにとって保存していた。「こっちは米のぬかば時々混ぜよったですもんね。」牛も生きている以上使わない時でも、餌はあげなくてはならないので結構大変だったみたいだ。ここで前述したモヤイの話になった。どうやら共同で使う農器具全般をモヤイと言うそうだ。百姓する時期が大野は七月、下の部落は八月とずれているからできるのである。田植えは大野は六月で、下の部落は七月二十日くらいだそうだ。下の部落とはもっと鹿島市に近い辺りである。牛を日当で貸す事もあった。

わっかもん宿などありましたかと先生のほうから尋ねると、勇さんは少し考えられてか

ら、青年団のことでしょうと、篤さんはわっかもん宿ですぐに分かられた。また力比べの石

についても勇さんはご存知ではなかったが、篤さんは、自分が待ち上げられたことを懐かし

そうに語られた。

 昭和三十年代後半の勇さんの話では、現在の公民館が、当時は青年団に用いられており、

ちょうど停留所の前のところにあったそうだ。常に、5人ぐらいの若者がそこで寝泊りし

ていたらしい。「5人というのは?」と伺うと、年頃の若者がいつもそれくらいだったということだ。部落に1つずつしかなかったテレビがおいてあったのも公民館であったが、東京オリンピックの時には各家庭にあったようなお話であった。電気自体が村にきていた時期についても伺ってみたところ、大正13年ぐらいには来ていたそうだ。又、他の村との交流については、たまに下の(村の)人が途中で寄って遊んでいくようなことはあったとのことだ。特に交流を嫌ったわけでも、推奨したわけでもなさそうである。

 食事から戻っていらっしゃった篤さんにも同じように、わっかもん宿についてお話を伺

った。食事の時間に重なってしまい、大変申し訳ないことをしてしまったけれども、同時に、そんな中お話をしてくださったことに感謝している。

 力石については120斤ぐらいあったという。70kg位のようだ。今は阿弥陀様の祭ってあ

る祠の前においてあるらしい。私達が食事の時に行っていたあの場所だ。そういわれると、

大きな石がおいてあったが、本当にあんなものが持ち上げられるのだろうかと思った。実際、持ち上げることが出来た方々の名前を覚えていらっしゃり、3人しかいなかったというので大変名誉なことだったに違いない。又、石はただ持ち上げればいいという訳ではなく、持って祠の石段を上り、そこから転がしたのだという。

 その他、わっかもん宿の上下関係についても伺ってみたが、特に厳しいといったことは無

かったと言う。もちろん言葉遣いとかの上下はしっかりしとったと、今の若者は言葉使いが悪いということを示唆しつつ話された。

 若者がする悪さといったこともなかったようだ。昔は冷蔵庫がなかったので、柿とかが軒の下に吊るしてあったが、それを取っても「わっかもんの仕業たい」というぐらいで、社会集団としての意識が強かったため、現在のように泥棒という観念はなかった。

 行事として、ハルホウエンというお祭りについて話してくださった。お坊さんを呼んで、

1週間ぐらい毎晩続くお祭りらしい。近くの早ノ瀬、春日(嬉野)、あかぜ(現在はダムになっている)と、4つの部落でいっしょに行っていた。あかぜに住んでいらっしゃった方々は、嬉野に移住された方が大半で、よこだけというダムの上のほうに3件ぐらいのお宅が残っているだけだという。また、若者だけで行う行事に、ハンナグサミというものがあったらしい。5月のツツジでの花見のようなものであろう。ご馳走とお酒をいただきながら、34日昼も夜も続くものだった。

 夜ばいについてもお話を伺ってみると、はじめは照れくさそうにして中々話して下さら

なかったが、一度話し出すととても楽しそうにしていらっしゃったようだ。若いころのいい思い出なのだろう。武勇伝ですねという言葉に、顔を赤らめつつ笑っていらっしゃった。

 夜ばいも、今でこそなんだか良くないもののように聞こえるが、当時は来てくれるぐらい

の方が器量のいい娘だということで、親も安心したらしい。「牛を見にきた」など他の用事にかこつけて、器量がいいと噂の娘の顔を、昼のうちに見に行った。「あそけよか牛のおる」といった言葉は娘に置き換えてとることが出来たそうだ。娘さんのほうも牛を見に来た事を知ると、「私を見にきんしゃったごた」と思うらしい。それで、来て欲しくないと思ったら、頑丈に鍵をかけるといった対処をなす。また、仲人を頼んで毒見をする事や、お茶を摘みに、隣町から、3,4日泊りがけで茶摘娘としてくる時などに下見をすることもあったようだ。そんな娘さん目当てで、隣りの町まで夜ばいに行ったりすることもあったようだが、ほとんどは、同じ村での話らしい。親との関係が気になったりしないかと疑問だったが、それは親もおなじことをやってきたので黙認されることが多かった。昼の顔と夜の顔は違うらしい。遠いところで、山を越えて夜ばいに行くこともあったようだが、それでも、朝にはただわっかもん宿によって帰ってきたふりをした。

 まずは障子をあけるところからスリル満点だった。手で障子を開ける仕草をしながら、きしまない所を探して、音がしないようにそっと開けるんだと話して下さった。雨戸袋から棒を入れて、戸が開かないように入れてあるつっかえを上げたり、すべりが悪い溝に水を注したりしていたらしい。そうやって努力して扉を開けたところで、家族が雑魚寝で、娘さんが親の間に寝ていたりすると、あちゃーと言う感じで失敗だ。ただ雑魚寝でも娘さんが蚊帳の端のほうに寝ていれば声がかけられるので、袖を引っ張って外へ誘い出して会っていた。ぞうり持ち、ちょうちん持ちと呼ばれる人もいて、夜ばいに行く人と一緒に行くが、ころあいを見計らっていなくなる。篤さんが、ちょうちん持ちをしていた時に、本人が音を立てて親に見つかってしまったが、篤さんが穴からのぞいていて早くにそれにきづいたので、まんまと逃げおおせることが出来たというようなこともあったらしい。

 戦時中など食料のない時にどんな物を食べていたかについて伺ったところ、戦場にも行かれたらしく、様々なお話をして下さった。悲しい体験も多かったようで、顔を曇らせながらお話してくださるところもあった。なかなかないような体験談をたくさん聞かせて頂く事が出来た。

 まず、犬は結構一般的に食べられていたらしい。茶色がかった赤犬の味がいいそうで、野

犬やはぐれ犬を罠にかけて捕まえた。犬のほうもお腹を空かせていたから、餌をかけておけば、足輪を作って引っ張る程度ですぐに捕まったようだ。比べてみれば確かに味は違ったかもしれないが、牛と大して変わらなかったらしい。また、猫も食べていた。皮をはいで、時代鍵(囲炉裏にかけるもの)でぶら下げて煮込む。泡が出るのでそれを捨てて食べた。美味しかったとはいうが、勿論犬のほうが食べやすかったようだ。犬や猫を狩って、料理するのは若者の仕事だったらしい。

 戦時中にガダルカナル島にいたときは、タロイモや野ねずみを食べたそうだ。マスの缶詰の空き缶に、コプラを下げて取った。それをドラム缶に集めたものが、軍のほうから一日三匹、蛋白源の補給として支給された。焼いて食べると、小鳥とあまり変わらないような味がした。一度きりだったようだが、森でオオトカゲに会って、それを銃で仕留めた事もあったらしい。鶏の何十匹分という大きさだったものの皮をはいだお話をして下さった。無断発砲で処罰を受けそうだったが、オオトカゲの大きさを示し、危害を加えられそうだったから発砲したというと、始末書で済んだという話だ。

 半年ほどは島で自給自足の生活を送っていたが、餓死するようなことはなかった。バナナや椰子が自生していた為それを食べることが出来た。敗戦後は、手榴弾を用いて魚をとったりもした。カヌーに乗って、良さそうな場所まで行き、手榴弾を投げてそれで死んだ魚をとった。浮いてきそうなものだが、魚の浮き袋までが破れてしまうので、沈んでしまい自分達では取れないので、島民に取らせていたそうだ。当時は使役に使っており、椰子の木に登ったり、泳いだりするのが得意で、半日ぐらいは泳いでられたそうだ。その他1m30cmもあるような槍を用いて魚を取ることも出来たという。島民の習慣について、お母さんが赤ちゃんの腕を握って水にちゃぷちゃぷして洗っていたことや、朝から海の中でお手洗いを済ませることに驚いたという。最初は何をやっているんだろうと思ったそうだ。排泄物を集めて肥料にしようと、島民に集めるように指示したがそれだけは嫌がってやらなかった。また、彼らはたばこを好み、4,5歳からすっていた。従って、たばこで食べ物と交換が出来た。

 食事などに大切な火は、基本的に絶やさないようにしていたらしい。本島から南に300メートルほど行ったところに、小さな島があって、遠浅の珊瑚礁の海で、イワダコが面白いように取れたそうだが、そこでスコールに遇い、凍えていたときには、島民が火をおこしてくれたという。蛮刀でマングローブ(たしかではないようだ)の木を切って、棒状のものと、板状のものを作り、板の方に三角形の溝を作りそこに椰子の皮の白くてもやもやしたところを詰めて摩擦で火をおこしたようだ。火花がたったところで、詰めていたものを椰子の皮に包んでボール状にし、それをころころ転がすことで、摩擦で火がおきつづけるのを利用して、暖かい火の玉にした。そんなに簡単に火がおこせたのか伺うと、やはり出来たのは島民達だけで、自分でやってみても上手くいかなかったということだ。   

戦争の話

 トラク島の大空襲で戦友を失った話、命からがら秋島まで泳ぎ切った話を伺った。B29や、グラマンによる空襲だったそうだ。交互に見張りをしており、交代した後に見張り台がやられ、食事をしていた人たちが一斉にやられ、たばこ場も襲撃にあった。篤さんはなんとなくいくのをためらっていたことで、命を取り留めたそうだ。そこで50人ほどの兵士が死んでしまったらしい。篤さんは見張りを交代した方の名前を挙げながら、辛そうな顔をなさっていた。船が沈むとき、総員退避命令が出るのは、天皇陛下の写真が持ち出された後だ。重たい戦艦が沈むとき、周辺150mぐらいは逃げないと渦に巻き込まれてしまうので、碇の鎖を伝わって降りて、板に捕まって必死になって泳いだ。16歳の少年兵と、軍曹が一緒に捕まっていたが彼らは放心していて、何もできなかった。編み上げの軍靴を脱ぎ、板にくくりつけて、秋島まで六時間かけて泳ぎ切ったお話を誇らしげにしておられた。二人の人間の命を救えたのだから当然だろう。ただ、六時間も泳いでいると足でも何でもふやけてしまって、魚がつつき出すのだというお話もしておられた。本当に大変な体験をなさってこられたのだろう。人がいなくなっている間に、飛行場が空襲にあうことが屡々あったそうだ。そうすると、遊軍は降り立つ場所がないので全滅するしかなかった。都合良く爆撃があるのでスパイがいたんじゃないだろうかとおっしゃっていた。

 死んでいった仲間達は、椰子の葉で建てた兵舎で、名札を使って荼毘に付した。

 玉音放送は通信器具があって、それで聴いたそうだが、ほとんど聞き取れなかったそうだ。ただ負けたんだなということは解った。モートロック警備隊という名はあったが、配属されてから、ただ生きるために食料を取ったりというようなことしかなかったので、あまり感慨もなく、素直に受け止められたようだ。号泣するような者もいなかった。武装解除の時には、篤さんは有章兵だったため拳銃を持つことを許されたという。もしも、アメリカに逆らうような者がいれば、友軍であっても撃てということだった。燃料タンクの引き渡しや、大砲のびせん撤去を行った。大砲はびせんを取ることで、あっても使えなくなるそうだ。

 いろいろなお話を聞いているうちに、時間が来てしまっていた。とても長い時間お話をしていただいたことになる。お礼を言ってお宅を後にした。家族の方もわざわざ見送りに出てきて下さった。外では犬が寒そうに震えていた。お話を伺った山や、岩が実際どの辺りに当たるのか、最後まで外で教えて下さっていた。年末の忙しい中親切に教えて下さって大変感謝している。この場をかりてお礼を述べさせて頂きます。本当にありがとうございました。

 

お話を聞かせていただいた方

 山上篤さん(大正15年生まれ)、山上勇さん(昭和18年生まれ)