鹿島市大宮道

 

 

  11:45バスを下車した私達を今回調査を依頼した光武春次さんが温かく迎えてくれた。光武さんは永吉文造さんと光武惣一さんを紹介してくれ、公民館に呼んでおいて下さった。私達が光武さんの車で公民館に到着する頃には二人は既においでになっていた。

  まず三人に伺ったのが田のしこ名について。それを三人に尋ねたところ、しこ名は分からないがあざ名ならあると言って、『ゲンダロウ(源太郎)』と『ベットイシ(別当石)』の二つのあざ名をあげてくれた。地図でその場所を示してもらい、他には無いのかと尋ねたところ、あざ名は二つだけだと言われた。

  次に、山や谷、橋や道の呼び方について尋ねた。山の呼び名で『シリナシオ』、橋の呼び名で『ゲンダロウバシ(源太郎橋)』、『ヨロイダバシ』という名が出てきた。ここで、実際に現場を見ておいた方がいいだろうということになって、車で連れて行ってもらった。まずゲンダロウバシに到着し、その場所を地図に落とした。この辺りの田は補助整備が行き届いていた。近くの山の斜面にはみかんが栽培されていた。ここで三人から「補助整備ができていない上流の方も見とかな。」と言われ、好意に甘えて、もっと上流の方へとさかのぼって行った。『ヨロイダバシ』に到着したところで車を降り、説明を受けた。確かにその橋の周りの田は、面積も狭く、荒地のままの田があった。話によると、昔はじんぱちくらいの大きさの田もあったという。さらに説明は続き、田に行くまでの道はその地区の人達で整備していたという。しかし、昔は大型機械やコンクリートといったものは全くないため、『しょうけい』という道具で泥を運んでいた。ところが、雨が一度降るとその泥は流されてしまい、また一からやり直しと、同じことを繰り返し行われていたという。まだ苦労話は続き、『ヨロイダバシ』の近くでは、大きな岩が流されてきて、それを取り除くのが重労働だったと、昔の事を思い出しながら語ってくれた。確かに『ヨロイダバシ』から川をのぞむと大きな岩がたくさんあった。「写真を持って来にゃー。」と言われ、私達もかなり後悔した。その日は雨の予報だったのに運よく晴れ、写真を撮るには絶好の日だったのに、持って行くのを忘れてしまい、近くにもカメラを売っていそうなところがなかった為、結局写真を撮ることができなかった。

  公民館に帰って来て、背後地として『』、『ドゥカツ』、『アカマツ』という三つの名を教えてもらった。これらも地図に落とすことができた。

  続いて、ほりについて尋ねた。『ナカノホイ』、『テッドシタ(鉄道下)』という二つの名をあげてもらったが、この二つは正式かどうかは分からないが、地域の中ではこう呼ばれていたらしい。これらも地図に落とすことができた。

次に「しいど」について尋ねると、特別な名は無いらしく、「井」について尋ねた。私達には「井」と「井堰」の差は分からないが、『ゲンダロウ井堰』、『サンネンダケ(三年岳)井堰』、『ベットイシ(別当石)頭首工(井堰)』という三つの名を教えてもらった。これらは地図上ではだいたいの位置を示すことができた。

それから、村の名前について尋ねた。「古賀」について教えて下さいと尋ねると、『東古賀(班)』、『中古賀(班)』、『西下古賀(班)』、『西上古賀(班)』、『上東古賀(班)』、『上西古賀(班)』という五つの名を教えて下さり、住宅地図の方にその班域を示すことができた。班は道路に沿って分けられており、分かりやすかった。ちなみに永吉文造さんは『上東古賀』、光武惣一さんは『東古賀』、光武春次さんは『中古賀』に属していることが分かった。もう一つつけ加えると、私達が滞在した公民館は『中古賀』であった。

つづいて、海に関係する名を尋ねていった。まず、「磯」について尋ねると、『カキトコ』という場所があった。これは、お金を払ってカキを取る場所らしい。『イシホシアバ』とは、海中の瀬や根のこと。『おしまさん』とは、沖に3.5kmのところにある男島、女島からなる「岩礁」のことだ。「潮の流れ」は『カラマ』と『シオトキ(潮時)』があって、月に二度ずつやってくる。だいたい7月8日が『カラマ』の峠で15日あたりが『シオトキ』の峠である。潮の満ち引きのことである。「仕掛け」には『ナガハジ』、『マチャミ(待ち網)』というものが取り入れられている。『ナガハジ』とは10〜20mのモウソウタケ(かたつらが50〜70m)を八の字にして網をはる。『マチャミ』とは網を仕掛けておいて、潮が引いて再び満ちてきた時にすくうやり方である。沖にある『嘉セ浦』という場所では特定の人(船持ちの人)だけが漁を行うということだ。あと、昔は207号線が海岸線だったことも教えてもらった。(207号線は明治19年8月に完成)その他には『天神山』、『天神鼻』、『長崎平』というものがあることも教えてもらった。そして、海岸から約50kmのところには『コシケイシ』という岩があることもまた教えてもらった。

ここで、気が付いてみると、時間が14時10分にもなっていた。光武さん達も私達も食事をとっていないことに気づく。時間に気づいた途端、私達も急にお腹が減ってきて、しかし、調べる事が山のようにあるため、休憩しましょうと言いづらいところに、昼食を持って来てくれて、1時間休憩しようと言ってくれたのには正直ありがたかった。しかも昼食は手作りのものばかりで、何だか実家の味に似ていた。その昼食の中で、ムツゴロウは初めて食べるものだった。テレビではムツゴロウはよく見るが、食べるのは初めてで、これも私達の口にあうものであった。食事が済んでもまだ休憩時間は30分以上残っていた。そこに地域の子供が1人でやってきたので、一緒に近くの公園で遊んだ。公園にはコオロギやバッタなどがかなりいて、その子とコオロギを取ろうと必死になってしまった私達がいた。ウグイスの鳴き声も聞こえ、本当に穏やかな風景であった。これは私達が二人とも思ったことだった。

つい、こののんびりした気分を満喫しすぎて、公民館に戻るのが遅れて、光武さん達を待たせてしまった。ここで、既に時計の針は15時20分をまわっていた。私達も光武さん達も少し焦っていた。

休憩後、はじめに尋ねたのは村の水利に関することであった。水田にかかる水は「音成川の上流にある笹原ため池から引水」している。昔は3万tほどの水であったが、今では11〜12万tにまでためることができるという。ため池は『ツツミガカリ』という人が管理していた。この『ツツミガカリ』は当番制ではなく、適任者を選んでいた。田に水が少ない時に、『ツツミガカリ』が栓を抜き、水を流した。今では、電気で事務所から管理され、生協長さんがその責任を任されている。用水は大宮田尾の人達なら、ほとんど皆使うことができ、他の部落と併用はなかった。今ではみかんの消毒にも使われている。ため池の管理は前述したとおり『ツツミガカリ』が行っていたが、受益者は火災の時には栓を抜いてもかまわないというルールがあった。(しかし、火災の為に用水を使ったことは今までにはない。)今では、笹原ダムからの供給で広範囲に利用できるようになった。漁業者とのルールでは浜川から堰みにパイプで水をとってきて堰みを満タンにしておくというのがあった。この地区では他の村との水争いはなかったが、他の地区ではあったという。ため池をめぐる行事としては『フナンゴ食い』(フナのこぶ巻き)という風習が残っている。旧正月にフナをとって、こんぶ巻きにして食べることである。現在では、フナを買って来て食べている。

次に、村の耕地について尋ねた。本当はどの辺りが良田で、どの辺りが悪田だったかという質問などには答えたくなかったと思うが、光武さん達は答えてくれた。これは感謝し、失礼に値する為詫びなければならないことだと思う。まず、「どの田が湿田か」を尋ねた。そうすると、補助整備ができていない田の1割は湿田になり、そして補助整備のできていないところは滅田のために荒地になりつつあると答えてくれた。米が良くとれるところからA地区、B地区、C地区と格づけがあった。格づけが生まれた理由として、小作者の働き、日当たり、地形があった。化学肥料が入る前までは米は反当3俵くらいだった。今では反当10俵くらいだという。この地区では、『ゲンダロウ』地区が良田で『ヨロイダバシ』周辺は八等田(悪田)が多かった。戦前の肥料としては「ジメキ(海の中にいる貝)」、「タイ肥(牛の糞)」、「草」だった。良田、悪田は地図の上で確認することだけにとどまった。

ここで時間がほとんどなくなってきたので、大宮田尾の発達について尋ねた。まず、「村に電気がいつ来たか?」と尋ねると、先方が郷土史料を用意しておいてくれたおかげでかなり詳しい日付まで調べることができた。大正時代まではランプが電気のかわりとなるものであったが、大正9年旧暦6月19日の晩、初めて沖の島に電気がついたという。「プロパンガスはいつ来たのか?」という質問には、「昭和30年には通っていた」という答えが返って来た。(ちなみにタバコの栽培は昭和35年から。)だが、これらが通っても、当初は一家に20wの電灯一個だけであった。通う前は、暗くなるまで作業のしどおしで、灯りといえば、油、カラシ油(なたね油)、ツバキ油(最高品)であったという。やはり、通う前なので、戦前ということになるので、自給自足の生活が中心であった。たき木も切りに行ったという。戦時中は、大宮田尾でも灯火間制がひかれた。井戸(3m)が一家に一つずつあって、川の水も風呂や米たきなどにかなり利用していたという。しかし、昭和53年に水道を着工し、約70戸が一戸あたり11万円の負担金を支払った。

この時点で残り30分となり、手当たり次第尋ねた。米は農協に出す前の時代は、米殻商、闇買人などに売っていた。闇買人は都市の方からも来ていたらしい。地主は小作人に対して権力を持っていたという。そして、青田売りはなかったという。家族で食べる飯米は『保有米(自家米)』といい、戦後はいも、きび、あわ、きょうしつ、いもがゆを食べていた。戦時中は米は全て戦場へと運ばれたと語ってくれた。昔の隣の村に行く道は『里道』と呼ばれた。

残り10分となり、何を聞こうか迷ったが、祭りのことを聞くことに決めた。

 

  1月10日    初祈とう

                御神さん

  6月の初め、又は末    田の祈とう

  9月10日    秋祭り(宮崎神社)

                浮立(無形文化財で面浮立と鐘浮立がある。)

  9月24日    せんとうろう(天神さん)

  旧暦6月19日    有明海の中の沖の島まつり

                    七浦夏祭り

 

これらの祭りは集落全体で全員参加の行事である。そして、集落の者以外の者が芸に参加することは困難なことであろうという話であった。

最後に大宮田尾の姿の変わり方について尋ねた。昔は専業農家主体だったのが、今では1/4から1/5だけが専業農家であるという。

 

  専業農家(米・麦・大豆・いも)

     

  昭和初期から養蚕(マユ)

     

  昭和20年から葉タバコのこう作

     

  かいこ、タバコの両立は無理  養蚕が減少し、タバコが増加

     

  昭和25年  柑橘栽培(みかん)(山を切り開く)

              (国営多良岳パイロット事業(700兆円のみかん増園))

     

  昭和45年  みかん盛成期

     

  みかんの減少(理由は農業従事者の高齢化とみかんの安値)

     

  現在  一部にぶどう栽培をとり入れる

        七浦干拓が完成したので玉ネギがさかんになる

 

  今回の調査が成功したのは永吉文造さん、光武春次さん、光武惣一さんのおかげです。私達が訪ねた時には既に光武さん達は、私達以上に史料、地図、写真などを持ってきて下さっていました。感謝でいっぱいです。私達が佐賀弁を理解できない時はやわらかく、丁寧に教えて下さり、5時間もの長時間、私達のために時間を割き、失礼な質問にも答えて下さり、ありがとうございました。