川邊典子
組坂史
河原孝太郎
私たちは
お食事の途中だったようで,大変申し訳なかった。コタツに入るよう勧められ,緊張しながら入らせてもらった。座布団しきなさい,と別の部屋から座布団を3枚もってきてくださった。テレビでマラソンを見ておられたので,少しマラソンの話をした。そうしているうちに奥様がお茶とみかんとお菓子を出してくださった。私たちは本当に緊張して「あ,すみません。ありがとうございます。」というと,森田さんは「早く飲みなさい。飲まんならさげるよ。」と笑いながらおっしゃって,私たちはすこしだけ緊張が解けた。
最初に,大木庭の範囲を尋ねた。10000分の1の地図ではなかなか場所を把握することができず,(結局地図が間違っていたのだが)森田さんは「こぎゃん,分かりにくうした地図は初めてやがねえ。」とおっしゃっていた。そこで,住宅地図で示してもらうことにした。住宅地図を見て「ああ,これやったらよう分かる。」と,丁寧に赤ペンで村の範囲を考え考え書いてくださった。大木庭は私たちが思っていたよりも広かった。昔はこのあたりは海だったらしく,「おそらくここら辺は昔は,なんちゅうか,海じゃったらしいもんね,この山で貝殻の見つかったもんね。」と説明してくださった。「大木庭」という名前の由来を聞いてみたが,木庭川という川が近くにあるからなのか,それとも,大木庭の近くにあるから,その川を木庭川というようになったかは分からない。つまり,どちらが先かは分からない,とのことだった。
川の話になると,森田さんは嬉しそうに話し始められた。私たちが水利権についてお尋ねすると,本当に詳しく教えてくださった。「私たちでん,今でも不思議に思っとうばってん,いまだにこの大木庭の部落は川の権利をもって恩恵ばうけとるわけよ。昔から大木庭川の水利権を大木庭がにぎっとったとよね。」どのように恩恵をうけているのか,「この川の水ばつかって水車動かして,米ついたり粉ひいたりするとよね。18軒水車があったとよ。そいで一軒から米を四斗より少ないぐらいの,そうねえ,今のあれで言えば,四斗は60キロやけん,50キロちょっとぐらいやろうか,取りよったもんね。」と私たちにも分かるように説明してくださった。また当時の様子についてこうおっしゃった。「川の上流の方からとるならまだ分かるばってん,下の方からの取りよったよ。今から四代ぐらい前かなあ,非常に立派な鍋島のお殿様がおらして,大木庭がよそから米ばとっていいって決めたらしいっちゅうか,そうしたと思うんよね。まあ,それで大木庭の経費はだいぶ助かったもんね。」それに対してなにか反発はなかったのか尋ねると,「うんうん,それでもよそんとこが,『そぎゃん,お礼ばせにゃいかんのか,そぎゃんた廃止しなさい,そぎゃん水の上流から下流に流れるとは自然のことやけん,廃止しなさい。』って言いよったとよね。ばってん,そりゃ水のお礼やないっていうわけよ。水路ば作るとに,個人のもっとった畑やら,水田やらを突き抜けて来とるやろうが。畑ば半分になしたり,3分の1になしたりしとるわけよ。そいて,水路ば作ったらそこにどうしても,ゴミやらなんやらたまるやろ?その処理は自分でせんやろうが。それのお礼やっちゅうわけやな。」と話してくださった。
「今でも上流の人も下流の人も大木庭に払ってるんですか?」と尋ねると「そうよ,いくらかはね。」とおっしゃったので,「え?今でもお米で払ってるんですか?」というと,「いやいや,今は金になっとる。」ということだった。
今でも,大木庭は水利に関して大きな権利をもっているようだ。そのことを示す別の話もしてくださった。井堰である。「井堰を作るにしても,うちは大きかけんね。川の井堰は大きく作って,川の水はほとんどこっち側さい流るうようにしとったもんね。それだけ,うちは水に関して権利が強かったわけで・・・。」
次に水害の有無について尋ねた。すると,思い出すようにちょっと空を見つめて「37年8月の大洪水。さっすがに,この川は大きかばってんが,堤防を逸水してからね。全部泥に流された。やっと7月に田植えばしとったとにね・・・。」と,今思い出しても残念だというように,森田さんの顔がちょっと曇った。「それから,53年。あのころの面影はもうないね。60年に古枝っていう谷から16部落整備したけんね。」とすこしだけ寂しそうだった。大木庭は昔も今も水と密接な関係を持った地域なんだなあと驚いた。
木庭川のおかげで水に恵まれていたこの地域は水が不足するということはなかったようだ。雨乞いはしたことがないとのことだった。「なんっちゅうか,雨乞いやらはしたことんなかね。」とおっしゃった。旱魃で被害を受けたということは特にないようだ。
水利の話でひとしきり盛り上がったあと,第一の目的である「しこ名」を尋ねることにした。森田さんは「何やったかなあ。」と思い出し思い出し地図に書いてくださった。ほとんど漢字表記だったので意外だった。その中でも唯一漢字がはっきりせずカタカナで書いた名があった。コクラと呼ばれる山の上に立っている巨大な松の木で「コルラさんの松」と呼んでいるそうだ。「由来も分かっているところだけで結構ですので教えてください。」とお願いすると,丁寧に教えてくださった。「まず,この倉床ね。うちの一番中心のところやったもんね。地頭があったからね,それと関係があって,米倉っちゅうか,宝倉っちゅうかそれが由来じゃないかと思うとよね。この塚原っちゅうのは川近くで,大きな石が点々とあって,石を積んであってそういう語源だろうとも思うけどね。それから字田中っていうのはこの辺,一面がたんなか,あ,田んぼだからだろうと,思うけどね。」という具合に一つ一つ説明してくださった。「字大井手」というのは,このあたりでは井跡を井手と呼んでいるらしく,その井手が二つ重なっているところなのでそう呼ぶそうである。また,御手洗(おちょうず)という場所に関しては「ほら,ここら辺のお殿様のお参りの時,川で手やら口やらあらわしたけんね。」とおっしゃっていた。田や山のふもと,飛び石など結構細かいしこ名を聞くことができとても嬉しかった。
しこ名を大方聞き終え,次はいろいろな質問に答えていただいた。圃場整備について尋ねてみると,「私が全部圃場整備ばしたもんねえ。」とおっしゃっていた。圃場整備の田は,形状が悪いし,狭いし,湿田だったので,機械が入りにくく,都合が悪かったようだ。「これは笑い話になるけど,ある人が自分の田はいくつあるかなと思って,かぶってた傘をぬいでから,田ば見渡したって。そいで,覚えとったより一つ少なかったけん,あれっと思ってから傘ば取り上げたらそこに田がもう一つあったって。まあ,それだけ田が狭かったっちゅうことやね。」と笑いながら話してくださった。お話から,圃場整備はやはり必要だったのだと改めて感じた。
良田・悪田について尋ねると,「いやー,うちは佐賀県一水利が良く,水がこんかったのは一枚もないけんね。佐賀県一質がいい米が取れるとですよ。」と少し誇らしげにおっしゃった。この地域は水に恵まれ,昔から水田が多かったそうだ。昔は湿田が多かったが区画整備をして乾田になしてしまった,とおっしゃっていた。
肥料については「やわらぬか」などを一緒にした堆肥が主で,牛馬の堆肥も使用していた。堆肥小屋を家屋ごとに特別持っていたそうだ。森田さんは「(米が)よく取れるか,取れんかも堆肥の作り方で,余計に上手く作れるかつくれんか,ってことやったもんね。」とおっしゃっていた。やはり質の良い米を作るためには,良い堆肥を作ることが重要だったようだ。
害虫駆除としては,油を竹筒に入れて水面にばら撒き,三人ぐらいで足で蹴って害虫を落としていた。森田さんの話によると,共同田植えは昭和10年から終戦ごろまで行っており,その手間代返しとしての特別なものはなく,みんなの昼食ぐらいは作っていたそうだ。また,家族で食べる米のことは「ハンミャー」と呼び,その保存方法も教えてくださった。「結局,俵っちゅうとを編んでね。そしてその俵の中にこうぞで厚い紙を作ってさ,入れて虫がつかんように密閉して,ひょうたんのような縄のしめかたをして保存しとったもんね。」と絵を描きながら説明してくださった。
米は農協に出す前は,直接商人と取り引きをしていた。「商人さんのおらしたけんね。価格も統一できんとたいね。商人の言うごと売る人もおったし。」とおしゃっていた。50年ぐらい前は米と麦の比率が7〜6:3〜4だったそうだ。芋などもよく食べていたらしい。
地主と小作人の関係についても伺ってみた。「今としたら地主さんは,なんですか,もう雲泥の差で小作人は一生小作人で,なかなか頭の上がらんかったようやもんね。小作人は襤褸切れの服で過ごして,地主は袖着物,たびどんはいてかっこよくし,地主風を吹かせてね。」と懐かしそうに話してくださった。今の私たちにとってはそういう関係を想像するのはなかなか困難だったが,直接お話を伺ったことで,実際に地主と小作人のあいだには大きな差があったのだ,ということが感じられた。
あぜには大豆・小豆・里芋など様々なものを作っていたそうだ。森田さんは「本当に,一部でん,隙間のなかごと使いよったもんね。土地は大事に使いよったよ。」とおっしゃっていた。お話によると,本当に一部の隙間もなく土地を使用しており,そのため農作業は大変忙しかったようだ。稲刈りが済むと,水田全部に麦まきをし,村から離れたところにある畑で芋を掘ったりしていたということだ。「五月までに芋ば植えにゃいかんじゃろ。馬鈴薯をつくったりね。畑も全部クワでしなきゃいかんで,年中忙しかったとよ。」と話してくださった。確かに畑の位置は村はずれの諸干堤あたりにあり,その行き来だけでも大変さがうかがえる。今はちゃんと舗装された道があるが昔はどうだったのかも尋ねてみた。森田さんは思い出しながらゆっくり地図の上に道を書いてくださった。畑への道は二本あったらしく,獣道のような山道だったそうだ。淡々と,そしてにこやかに話してくださったが,歩きにくい長い距離をクワを担ぎ,また堆肥など肥料も背負って移動するのは相当な労働だったろうと思う。畑へ行く古道を教えていただいたついでに,隣村に行く古道や村の古道についても伺った。主な古道は山のふもと(モトモリ)の辺りを通っていたらしいが,他の村のあちこちにあった古道の細かなことは覚えていらっしゃらないようだった。
よその村とは自由に行き来していたそうで,立ち入らせないようにしたり,自衛団のように活動するということはなかったそうだ。「かわいい女子(おなご)がおるということで,隣村から連れてきたりとかねえ。」と言って,笑っていらっしゃった。
「圃場整備してしまったから,農道はもうのうなってしまってね。」と少し申し訳なさそうにおっしゃった。しかし私たちの方こそ,お訪ねする前に森田さんと連絡をとり,お聞きする詳しい内容を伝えておくべきだったと,申し訳なく思った。そのことが悔やまれる。
次に牛馬のことについて伺った。「ほとんど昔はおったからねえ。牛がほとんどやったもんね。戦時中は一割で馬が案外少なかった。」と説明してくださった。馬は少なかったが馬車がはやり,木材を乗せて下の製材所まで運んでいたそうだ。また蚊が多いために夏だけ平野の馬を預かり,山の草を食べさせていたそうだ。特に牧草を作ったりはせず(草きり場はあったらしいが)牛・馬洗い場としては川を利用し水浴びをあせていたそうだ。
大木庭に電気がきたのは大正5〜6年ごろで,それ以前はやはり石油ランプを使用していたそうだ。ランプは毎日,布や紙で拭いていたらしい。炊飯や風呂には薪を用いていた。近くの山によく薪を採りに行っていたらしく,懐かしそうに話してくださった。
細かい質問が続き,いささか申し訳なかったが,ここ大木庭は山地だったので,魚や塩はどのようにしていたのかを尋ねた。魚は売りに来ていたのを(行商)買ったりしていたらしく,鯨の食べていたそうだ。今は鯨を口にすることは珍しいが,森田さんのお話から,当時はよく食べ,大切な食料だったことがうかがえた。塩については,やはり貴重品だったらしく,やはり貴重品だったらしく,「戦時中になったらうちはもう,塩水を桶に汲んで炊いて塩つくったりしとったもんね。塩が一番貴重品だったかなあ。」とおっしゃっていた。水は重たく,私たちがバケツなどでちょっとした距離を歩くのも大変なのに,何キロも離れた場所から運ぶのは大変な重労働だったと思う。またサトウキビも育てており,砂糖もそれからつくったそうだ。
夜,若者たちは何をしてすごしていたのかお聞きすると,すぐにわっかもん宿(若者宿)のことを教えてくださった。「もうねえ,あのーわっかもん宿があって,晩飯が済むと妻帯者意外は皆来て,青年クラブっていうクラブばつくって,そこに全部寄ってたもんね。」と本当に楽しそうにおっしゃっていた。そして若いときのことを生き生きと話してくださった。「彼女をつくって遊びに行ったり,飲み屋に遊びに行ったりしとったもんね。黒砂糖を溶かして飴をつくったり,こんぺいとうもたべた。」と懐かしそうに笑いながらおっしゃった。その宿で,なにか長老の教えを受けたりとか,規律などはなかったのか尋ねると,「なぁーにが,言われんようなことばっかり習いよった。」と奥様と笑いながらおっしゃった。
「だごとか饅頭とか,軒下に下げてあったとば,取りに行けって下男に言ってぬすどりしたもんね。昔はあんまり戸締りはしてなかったもんね。いろいろしよったよ,悪いことばっかり。明日遠足っちゅうのを,白米炊いてかまぼこ準備しとったとば,外さい持ってきて食べてしもうたり。」と会話が大変弾んだ。私たちは森田さんの話に驚きながらも,本当に楽しくお話を聞くことができた。
そろそろ質問も残り少なくなってきた。ここで前にもちらほら話にでてきた大木庭の年間の行事について伺った。森田さんの話によると,「水神さん祭り」というのがあり,水の神様,川の神様に感謝する祭りなのだそうだ。6軒ぐらいでご馳走をつくり,その6軒の中でくじに当たった人が取り仕切ることになっていたそうだ。そして,次の年はその家からとなり6軒がすることになっていたそうだ。そのほか,「松山のお宮さん祭り」,「発展さん祭り」という祭りがある。11月1日から11月2日にかけて神輿を担いだり,峠を越えて山の向こうのお宮まで行き,明くる朝帰ってきて,余興を楽しんだりするという太陽に感謝する祭りでもあったそうだ。また,年に一回「殿様祭り」というのがあり,踊ったり,歌ったりしていたらしい。さらに,春慰み,夏願成就(被害がないように祈願する),秋おひまち(おてんとうさまのおかげということで餅や小豆を太陽にお供えする)という行事もあったそうだ。農作業で大変苦労したが,こういう祭りが楽しみだったとおっしゃっていた。
最後に村のこれからについてうかがった。「だんだん畑も荒廃していってさ,もうおそらく,つんぼ座敷で発展の可能性がないからね。ここの将来はおそらく,よっぽど良い企業が来れば発展性もあるけど,このままでは・・・。そうかというて,職人にしたって自由貿易の問題があるからね。希望がもたれん。水田もあんまりないし,山もないし,全部畑になしてしまって先祖に悪いという気持ちがあったからね。」と,俯き加減で何度も首を振りながら,深刻そうにおっしゃった。また「後継者が本当に苦労しとるんよね。」ともおっしゃっていた。森田さんは優秀な企業が来れば,農地を壱の一番に渡して,そこではたらいても良いと話しておられた。近くの東三山地域でミカンを植えて成功したため,真似をしてミカン園と作ったが,低価格で思うように行かなかったらしい。切実な問題だと,私たちにも強く感じられた。森田さんの表情も曇っていた。やはり後継者問題はこの大木庭でも深刻な問題なのだ。
森田さんは私たちの質問に一つひとつ丁寧に答えてくださり,しかも紙に地図や絵などまで描いて説明してくださった。森田さんは戦時中ビルマ(ミャンマー)に実際に出兵なさったそうで,そのときのことも会話の間に話してくださった。毎日が生と死の狭間にあり,仲間も次々と亡くなっていく,そんな毎日だったそうだ。犬はもちろん,ヘビやネズミも食べていたそうだ。私たちには想像もできない。森田さんは淡々と語っていらっしゃったが,森田さんはミャンマーには特別深い思い入れがあったようだ。戦争を実際に体験した方の話を聞くのは初めてだったので,驚き,またあらためて戦争の悲惨さを知ることができ,大変勉強になった。
調査は和やかに,またスムーズに進み本当によかった。これは,私たちの訪問に丁寧な対応をしてくださった森田さんご夫妻のおかげである。森田さんは大正6年生まれで,84歳になられるそうだ。私たちはもっとお若いと思っていたので驚いた。今では村で最年長だとおっしゃっていた。長年,進んで地域のためにいろいろなお世話をしてこられたことが,私たち初対面の人間にも分かるような,お人柄だった。
最後にこの場をかりて,森田龍さん,奥様,また森田さんを紹介してくださった田中巧さんにお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
しこ名はつぎのようになる
田・・・カナイシハラ(金石原) ホンカク(本格) ツカハラ(塚原)
オオイデ(大井手) タナカ(田中)
木・・・コクラさんの松 松山のくすのき
石の渡瀬・・・ヒラノセ(平瀬) マツヤマワタセ(松山渡瀬)
ホンカクワタゼ(本格渡瀬)
村の中・・・クラドコ(倉床) オチョウズ(御手洗)
山のふもと・・・モトモリ(本森) ツジノハナ(辻の花)
水路・・・カタヤマ水路(片山水路) オオトノブンミゾ(大殿分溝)