鹿島市納富分

   鳥巣達也   野崎秀忠

お尋ねした古老:白濱 光義さん・佐々木 勝さん(昭和2年生まれ)

   

7月7日土曜日、天気予報はあまり良くないと心配されたが、現地はまずまずの天候で、日差しがややきつかった。バスを降り、地図で位置を確認して、まずは田んぼのあるところへ行こうと思い、目の前にあった明倫小学校の脇を抜け、馬渡の田んぼに行った。まわりには,ビニールハウスが張り巡らされていていかにも田舎という雰囲気だった。お昼時なので、農家の方たちも食事をしていると思い、僕たちも先に食事を済ませておこうということで、食事をとる場所を探し歩いた。道路脇でまわりの景色を堪能しながら食べたご飯は格別だった。胃袋を満たした僕たちは、とりあえず農家の人を探した。すると途中で、遠くに珍しい色と形の屋根の家を見つけた。どんな屋根なのかと思い、近くに行ってみると、それは、稲穂を刈ったあとに残った下の部分を引っこ抜き、そのまま屋根に粘土か何かで固めていた。全体の色はこげ茶で、まるで弥生時代の竪穴式住居のような屋根だった。見た目の雰囲気は「たわし」に似ていた。僕たちはこれを、「納富分のピラミッド」と命名し、すごいところに来たなぁと実感しつつ、再び道を歩きはじめた。しばらく行くと、道路の溝に約12.7cmのドジョウがピチャピチャと音をたて、クニョクニョ動いていた。近くに田んぼもあったので、そこから落ちたのだろうと思い、ずっと観察していたが、そのうちニョロニョロと逃げて行った。

そのすぐ近くに、石垣に囲まれているところがあったので、大きな屋敷があるのだろうかと思い、行って見てみると、「誕生院」というお寺であった。中に、保育園などがあり、奥のほうには鬼塚遺跡があるとお寺内の地図に記されていた。そこを出ると、隣りに七福神ののぼりがあったので、ここの地域は七福神のゆえんがあるのかなと思い、七福神の神様の名前は何だったかなと考えた、「弁財天」「毘沙門天」「大黒天」「恵比寿」「布袋」「福禄寿」・・・、と6つまで出たのだが、残りのひとつは出てこなかった(あとで調べたら「寿老人」であった)。

それから少し歩いたが、再び同じところへ戻ってしまったので、今度は明倫小学校の前を通っていくことにした。すると明倫小学校の向かい側のほうに、大きな台座に座っている座高5mぐらいの真っ白な菩薩像が見えた。近くに行ってみたが、田んぼが周りになかったので、すぐに引き返した。僕たちは少し観光気分を味わいつつも、気だるさと日差しによる頭痛が足取りを重くしていくのがわかった。

そのうち、いつの間にか納富分を一周してしまった。このままでは時間内に調査が終わらないと思い、本腰を入れて聞き込みを開始することにした。

まずは吉田さんという人のお宅に伺ってみたが、誰もいなかったので、別の家にまわることにした。次にたどり着いたのは白濱光義さんのお宅。ボタンを押すとすぐに出てきてくださった。まずは事情を説明して、了解をいただいた。聞き始めは不安であったが、しだいに慣れて、いくつか知っていることをお話していただいた。まず、個人の田の名前として、「シンタク(新家)」「ツボネ(局)」などがあるということだった。また、大字納富分のうち、小字若殿分の山の方面には、「カタヤマ(片山)」「カマエ」「ミズナシ」などのしこながあるとおっしゃっていた。白濱さんに小字納富分のことについて、もっと詳しいことをお聞きしようと思ったが、「わたしゃあんま知らんけん、小学校の校長先生をしとった佐々木先生に連絡してみちゃるけん、ちょっと待っちょき。」とおっしゃり、佐々木先生に電話をしてくださった。しかも佐々木先生のご自宅まで車で案内してくださった。とても親切な方で、「忙しいのにありがとうございます。」とお礼の言葉を何度も言った。車に乗せてもらい、5分ほどで、小字井手分にある佐々木さんのお宅に着いた。すると白濱さんは「わたしはもうこれで帰りますけん。がんばんしゃいよ。」と言ってお帰りになった。白濱さんありがとうございました。

急な訪問にもかかわらず,佐々木さんは笑顔で迎えてくださった。居間に通された僕たちは,自己紹介をして,質問の内容は白濱さんが事前に話してくださっていたので,すんなりお話を伺うことができた。部屋の中はクーラーがきいていて、外の蒸し暑い中を、歩き回っていた僕たちにとってはまさに天国だった。しかも、佐々木さんの奥さんが、ヨーグルトと麦茶の差し入れを持ってきて下さった。おばあさんは足が不自由らしくて、立ったままでごまんねと気を使ってくれて、そんなにまでしてもらってなんか悪いような気がして、すごく恐縮だった。でもこんなにくつろいでいる場合じゃないと思って、さっそく質問することにした。佐々木さんはステテコ姿で、なんでも知っていそうな雰囲気である。僕たちは少し緊張していたが、「まず、この地方の田んぼのしこなを教えてください。」と尋ねると「しこなっちゅうのは小字のことかいね?」とおっしゃって、「ほんなら(鹿島市の)市役所の台帳があるけん、ちょっとまっちょき」とおっしゃり、部屋を出て行かれて、なにやら古そうな本(台帳)を持ってきてくださった。見てみるとそれは、鹿島市の大字と、小字の地名と小字のうちの村の名前が、全て記載されていて、僕たちはさっそく大字納富分の中の小字納富分の地名を写しはじめた。佐々木さんにこれらの私称を聞こうとしたが、「そういうのは、わたしゃ知らんばい。」とおっしゃり聞けなかった。以下は、僕たちが調べた村の名前としこなです。           

小字納富分のうち―コトジ(琴路)、ナゴ(名子)、ナガヨシラ(永吉良)、ババ(馬場)、インニャク(印鑰)、シマダ(島田)、キノミヤ(木宮)、クボ(久保)、ヒロセ(廣瀬)、ショウガンチ(正願地)、ウメキ(梅木)

上記のインニャクという名前の由来は,お坊さん兼代官が派遣されていた,仁和寺というお寺の荘園で,そこに印鑑や倉庫の鍵などを収める場所があったらしい。役所だった(今でいうと銀行といったところか)。久保は、その土地が窪地や湿地帯であったことからついた名だそうだ。また干拓地のことを,篭(カゴ)というらしい。堤防があるところは、地名に「提」の字がついているのもわかった。

その他に若殿分や行成,佐々木さんの住んでいる井出分などのしこなもあったが,僕たちの範囲ではないので省略しておきます。

次に,水路や橋などのしこなについて聞いてみたが,佐々木さんはご存知ではなかったので,田んぼの水はどこから引いているのかうかがったところ,主に中川や井出分川の水を利用しているということだった。水路が整備される前は,川が増水することも多々あったらしく,水害に悩まされていたとおっしゃっていた。また山沿いの村には,ダムの建設により埋没してしまった村もあったそうだ。そこに住んでいた人々は,平野部への移住を余儀なくされたらしい。佐々木さんの近所にもそれで引越して来た方がいらっしゃるそうだ。

それから,1994年の大旱魃の被害について,聞いてみたが「7年前かいな?ん〜…旱魃ね〜…あったかもしれんばってん,おぼえとらんばいね。」とおっしゃり残念ながら,詳しいことは聞けなかった。もしかしたら旱魃の被害がたいしたことなかったのかもしれない。ところが「昔の〜昭和37年の7月8日じゃったかいな、そんとき旱魃があってね〜あんときはひどかったばいね。」とお話してくださった。深刻な被害だったそうで,田んぼの村にとっては,生死にかかわるものであったそうだ。その年は米も不作で、遠くの村に米を買い出しに行ったらしい。そこで,農業以外の収入源についてどうだったのか、伺ってみると、鹿島市は有明海に面しているので漁業などが盛んだったらしい。他には、明治後期から大正前期にかけて,副業として養蚕をしていたそうだ。そのため、桑畑が点在していたそうである。執行分あたりでも盛んだったそうだ。しかし今では、この地域も兼業農家が主流で、専業農家はほんの一部しかいないらしい。田んぼを売ったりして農家をやめる人も増えてきているらしい。実は佐々木さんも、自分の田んぼを売ってしまったらしい!やはり時代の流れには逆らえないのであろうと僕たちは思った。しかも高齢化が進み、後継ぎの人がいなくて困っているそうだ。佐々木さんの話では、この辺も、戦後、軍国主義から民主主義に変わったことにより、財閥解体や、農地改革があってその影響を受け、村の農民の生活も大きく変化したそうだ。例えば年貢制度や地主の廃止により,田んぼは個人のものとなった。

次に、昔の古道についての話を伺うと、今では国道(404号線)を利用しているが、以前は鹿島市役所の裏側の道を通り、明治に中川橋ができる前は渡し船があって、そこから物資の調達や、村間の行き来を行っていたそうだ。それと、昔から祐徳稲荷神社への参拝者が多かったらしく、そこへ行く道が非常に狭く荒れ土で、バスが通ると砂埃が舞い上がっていたそうだ。正月などは、人々が大勢やってくるので、道は完全にふさがってしまっていたという。そういったことから、当時から、道を広くしてほしいという声が多かった。そこに政府の都市計画が導入され、道路も整備され多少は広くなったそうだが、ジープなどの大型車が通ると、田んぼに落ちるほどまだ道は狭かったそうである。今の広さになったのは15,6年前だそうだ。最近では、町にバイパスも通るようになり、市内も渋滞するようになったそうだ。

都市計画は、道路だけでなく、市内を住宅・商業・工業・農業地域などに分担し、さらには減反政策の実施もあって、田んぼはどんどん減っていった。

佐々木さんの住んでいる井出分は住宅地域だそうだ。僕たちが調べている納富分の田んぼはほとんど、つぶされてしまっているということだった。このままでは10年、20年後には、この辺の田んぼはなくなってしまっているかもしれない、と佐々木さんはおっしゃっていた。僕たちは、この美しい自然と広々とした田園を失うのは、寂しいことだなと思った。

それから、佐々木さんの若いころの話も伺ってみた。佐々木さんは昭和2年生まれの、鹿島市生まれ鹿島市育ちだそうで、当時のことを聞いてみると、「わたしが生まれた時は電気はとおっとったばってん、ガスはなかった。風呂は焚き物でね。麦わらとか、わらに火ぃつけて沸かしとった。ご飯は釜炊き。」ということだった。電気は大正時代にはすでに通っていたらしい。だが、テレビやラジオはなかった。村の若者の遊びについても聞いてみると、「青年クラブ」という集まりがあってその中で、他の若者たちと共同生活を行い、厳しい規律などがあり、先輩・後輩の縦の関係など学びながら生活していたそうだ。他の村の若者が入ってくることは、あまりなかったらしい。力石もあったらしい。中木庭というところでは、力試しの行事が行われていたそうだ。重さは成人の男性がやっと持てるくらいのものだったらしい。

お日待ちの習慣もあり、毎年11月15日がその日だったそうだ。それから、プライベートの話で少し聞きにくかったが、「夜這い」のことについても伺ってみたが、佐々木さんの若いころはもうその習慣?はなかったそうだ。大正前期頃はあったんじゃないかとおっしゃっていた。

 最後に、村のこれからとして、諫早の干拓事業について意見を伺ってみた。

佐々木さんは、「そうねぇ。干拓ができたから、このあたりの漁民がどう思うかはわからんけど、やはり自然は残しておきたかね。竹崎のりの業者は困っておんしゃろうねぇ。竹崎のたいらぎ漁がとれんごとなって、そういう人たちが一番困っとんじゃなかかねぇ。」という感想を述べられた。「これで質問は終わりです。ほんとにありがとうございました。」というと、「もうよかとね?(ヨーグルト)食べんね。」とおっしゃり、せっかく出してもらったのでお言葉に甘えていただいた。仕事が終わったあとの一杯はおいしかった。

時間も押し迫ってきたので、僕たちは、佐々木さんに何度もお礼をいい、帰ることにした。おばさんにもお礼を言いたかったが、そこにいなかったので、その分をお手紙で言おうと思う。貴重な時間を削っていただいて本当にありがとうございました。僕たちはこの調査を通して、人の優しさとおもいやりに触れたような気がする。短い時間であったが充実した時間を過ごすことができて、非常によかったと思う。顔も焼けてしまったが、帰りのバスの中は満足感でいっぱいだった。