歴史の認識 現地調査レポート

                              鹿島市 中尾地区

                                                           九州大学法学部1年

                                                                  川原 依子 

                                                                 貞包 真理子

 

 私たちがお話をうかがった中村正さんは中尾地区で唯一のスーパーを営んでいらっしゃった。昼過ぎに訪ねると、地域の物知りなお年寄りを大勢呼んでくださった。お話を伺ったのはスーパーのとなりの小さな部屋だったため、その中から特に四人の方に質問させていただいた。

 

 

【T 調査結果(地図編)】

  槿廟(キンビョウ)→ホンギョウ、ノゾエ、ナカシマ(中島)、ヒエダ

    門守(カドモリ) →センビョウモリ(千俵守)

    瑞徳(ズイトク) →サイヤシキ(侍屋敷)

  瀬戸       →コバタケ(小畑)

 

 中尾地区の範囲を訪ねたところかなり広範囲にわたっていたが、皆さんが知っているのはこれだけであった。昔はもっと多くそれぞれの地域がしこなを持っていたそうだが、それは皆さん(80代)よりもうひとつ上の世代しかわからないそうだ。しかし、おおむね小字で呼ばれているようだ。また、中尾の南半分ほど(平原)は明治時代長崎県だったらしい。昭和29年の区画整理で市町村合併し、話し合いがあったそうだ。「その時はみんな古枝になりたい、ノゴミになりたいといってねぇ、話し合いですけんねぇ、いろいろあっとですよ。」と話してくださった。古枝やノゴミは昔の大字のようだ。

 槿廟とは高貴な人の墓という意味らしく、その昔あさがお姫というお姫様のお墓があったそうだ。また、今中尾の中央を流れる川(浜川)は300年程前二つに分かれていたが、大雨によって現在のように一本になったらしい。その二本の川の間に中州のようなものがあり(現在の天満宮のあたり)、それを「ナカノシマ」と呼んでいたものが「ナカシマ」になった。門守は昔「モンマモリ」と呼ばれていた。現在の天満宮を守る門があったからではないかといわれている。「サイヤシキ」は瑞徳のあたりに城跡が少し残っていることから「侍屋敷」がなまったものだ。

湿田(裏作として麦ができない)は「ハッタ」とよばれていた。米はホンギョウでよくとれ(一反につき6〜7俵)、それに対して藤ノ瀬あたりの山の斜面では出水のため水が冷たく、朝日があたらないのであまり収穫はなかった(2〜3俵)。中尾の中央を流れる川は「錦波川」と呼ばれ、南から北へ向かって流れている。

 その川を中心に棚田(たんなか)が広がっており水役人という人がいたため村の中では上手く分配されていた。村の生活用水(飲み水も)はすべてこの川からとっていたため、井戸を掘っているところはなかった。昔の道は現在と同じところを通っていたが今はそれが整備されて広い道路となっている。天満宮に「イチノキ」と呼ばれる大きな樫の木があったが、昭和四年の台風で倒れてしまったということだ。 

 

 

【U 調査結果(村の姿編)】

1、    村の農業

  化学肥料が入ってくる前は、かや・土手の草・牛馬のフンといった堆肥を使っていた。化学肥料に変えた今はお金はかかるがそのぶん手間はずいぶん省けている。またかつては平均一反300kg程の収穫しかなかったが、今は480〜500kgとれるようになり、今堆肥に戻そうとしても、経済的に難しいそうだ。

  農業の楽しみを伺ったところ、「さなぼり」というお祭りのことについて話してくださった。年に一回ナカウチ(田植え後、土を耕す作業)をする頃、区長さんを中心に開かれる神に対して豊作を祈るための祭りで、浴衣を着て出かけていたそうだ。逆に辛いのはやはり真夏の作業で、水の温度も35〜40度になる中、年二回の草取りやアゼツケ(水漏れを防ぐためあぜを修理する作業)などするべきことが多くその苦労がうかがえた。また、戦時中は田植え・稲刈りなどの農作業はもちろん家のかやぶきなども共同作業で行われていたという。かやぶきは10年に一回ほど行われていた。かやぶき屋根の民家はもうほとんど見なくなったとおっしゃっていたが、村を歩くと数件まだ残っており、また話を伺った4名の中にもかやぶき屋根の家に住んでいる方がいらっしゃった。

 今は収穫した米は農協に出しているが、昔は「コメキャーサン」という商人や酒屋に出したりしていた。今は質のよい米を自分の家で食べているが、地主と小作人の関係があった時代は地主による検査があり1等から3等までに位付けされていたため、小作米にならなかった質の悪い米を家族で食べていた。味噌や醤油に使うなどしていて、主食は芋・麦・粟が多くお米は少なかったと言う。当時白米に「ジョウトンガイ」という特別な名をつけ呼んでいたことからもその貴重さがわかる。小作米として6:4また7:3の割合で地主に納めなければならず、生産のほとんどは小作にとられていたため、麦の取れない農家(ハッタで農業を営んでいた農家)はとても苦しかった。

  米は虫がこないように瓶に密封して保存しており、ねずみ対策としては杉の葉を使っていた。また、昔の猫は今のようにだらしなくなかったので、猫がねずみを退治してくれていたのだ、と笑顔で語ってくださった。

  問題はやはり水利をめぐるものであった。しかし、村の中ではさほど争いはなく、争いが起こっても「どんぽさん」という魚があぜをほがしたと笑い話にして、上手く解決をしていたそうだ。他の村とは激しい争いがしょっちゅう起こっていた。水道を夜開けて、朝閉めすなどと水をめぐっての命がけの争いだったという。今は、コンクリート化され争いもなくなったそうだ。1994年の大干ばつの時は水の大切さやありがたさが実感できたという。川の水はかれるまでひき、それでも足りず温泉から水をもらうためみんなとりに行っていた。山の木も枯れてしまった。水利のよかったという中尾でさえ、このような状況だったのだからよほどひどい旱魃だったのだろう。当時の苦労が思い出されたのか、真剣な表情で語ってくださった。

  雨乞いは今でも風習として残っている。年に二回田植えの前と後に行っており、各神社・寺で豊作を祈って祈祷する。20人で輪を作りじゅずをまわしたり、家々をまわり祈祷したりと様々で、地区によってもずいぶん違うようだ。昔は、ブーワンギャーという笛を吹きながら山からおりてくる山伏に対して、道に沿って子供たちがひれ伏し、その背中を山伏が歩いていくという今では考えられないような風習もあったそうだ。また、エビを食べた人は豊作を望めないという迷信も残っているという。言い伝えによると、タラダケに住む田の神がその昔船で移動中に台風にあい船が転覆した時、エビに助けてもらったということで、そこからこのような迷信が生まれたそうだ。 

  太平洋戦争直後は食糧不足のため、山の斜面では焼き畑もおこなわれていた。草きり場ももちろんあったが、分配の規則などはなく男たちが早い者勝ちでもっていっていた。しかし、草きり場の草がなくなっても稲やわらが取ってあったため、困ることはなかった。

  今では見られなくなったものとして、たいまつを用いた虫対策の話も聞いた。鐘を鳴らしながらたいまつを掲げ、その灯りに虫を集めていたそうである。

 

2、    村の祭り

 1月25日「ハッキジョウ」

     年始めに「おてんとさん」への感謝をこめて行われる。区長以下神主さんも含めて全員参加のお祭り

 9月25日「中尾祭」 部落の祭り

 11月1日「かんまち」

     10月(神無月)に出雲大社に出かけていた神様をお迎えする祭りで「神待ち」からその名がきている

 11月15日「おいまち」

 

3、    村の生活

 農業が主であったが各家庭で馬と牛を一頭ずつ飼っていた。オスは扱いにくいためほとんどの家でメスを飼っていたが、扱いに慣れているところではオスも飼っていた。オスは去勢していた。なかでも元気なオスの牛を「コッテウシ」とよんでいた。天満宮の少し上流のあたりが「馬入れ川」であった。

 農業以外の収入源について聞いたところ「山仕事たいねー。あと、焼き物のふとか工場があった。水車があったもんねー。」と、話して下さった。山は、カシなどの広葉樹やマツ・スギなどの針葉樹からなる雑木林で、ガスがわりの燃料である薪にしていたそうだ。水車を使った青年工場で焼き物生産も行っていた。30〜40人が働く大工場で、有田焼として出荷していた。また、川のきれいな水を使って酒造もしていて、川沿いには酒屋があった。地元で歌われている歌の歌詞にも「どおせ飲むなら鹿島の酒 米がよか それから水もよか あぁ鹿島の酒はよかばんた〜」とあり、みなさん地元の酒を愛し、誇りをもっているようだ。

 電気やガスの話を伺うと「電気は何年じゃったかなー。おれが三つぐらいやった。ランプば磨きよったなー。その前はランプじゃったけんねー。学校行く前頃よ。まきたきはおいどんがしよった。」と話し始めて下さった。話によると電気は81歳の方が3歳だったとき、ガスは終戦後に来たらしい。今ではほぼ全戸ガスを使い生活しているが、中には今なお薪で風呂を焚いている家庭も残っている。

 風呂は昔は薪を使い当番制で焚き、12〜3家族50人ほどが共同の風呂に入っていた。「むすめもばーちゃんもみーんな一緒にはいっとった」とおっしゃっているように、老若男女混ざって入っていたそうだ。

 山間部に位置する中尾だが、50年前であっても魚屋はあったし小売りもあったため、品物が入って来ず困るといったことは特別なかった。塩は海に取りに行った塩水から得ていた。当時、塩は専売制であった。米や山のものの入れた天秤を担ぎ浜ヘ行き、鯨などとの物々交換もしていた。(鯨は保存食として重宝されていた。) 

 

4、    若者の生活

 テレビなどのない昔、若者達は夜は何をしていたのか伺うと、「青年クラブゆーて遊びに行きよっただ。よばいちゅーてね。」と楽しそうに話してくださった。青年クラブは、今の公民館にあったそうだ。恋愛は比較的自由であったが、結婚となると家同士の問題になりなかなか許しが出ず、結婚にまでいたった例は少なかったようだ。結婚は見合いで決められる事が多く、無理によそへ嫁にだされたり、顔を合わせるのは結婚式当日だったりということも珍しくなかったと言う。

  小学校を出ると地主や店に年金奉公に出される子供が多かったので、75歳以上の方は小卒である場合が多いそうだ。奉公に行った先では、子守りや畑仕事をしていた。奉公に出されるのは女性で、男性は馬引きなど職人系の修行をしていた。高等学校にすすむのはごく少数のかなりいいところの子供だった。

 

 

【V まとめ】

 水利のよかった中尾にはかつては200戸あったが、今は100戸に減ってしまったと言う。そして専業農家はもう2件しか残っていないそうだ。また、私たちにはとても美しく見えた中尾だったが、農業の移り変わりと共に、田の虫が減ったり川の水が汚れたりと村の様子も少しずつ変わってきたそうだ。そう語る中村さんたちの寂しそうな表情が印象的だった。政府は消費者ばかりを優先しているように思う、生産者のこともきちんと考えてほしいと、農業が後継者ができるような産業になったらと、語ってくださった。

 

【話者】

尾崎 猪佐吉さん

     (大正10年生まれ)

中村 正さん

     (大正11年生まれ)

細川 勇次郎さん

     (大正15年生まれ)

光山 良明さん

     (昭和6年生まれ)