佐賀県鹿島市中村

 

萱島浩輝

徳永一宏

永野晃弘

 

 

 十二月二十二日。私たちは佐賀県鹿島市中村の過去の歴史や風土を調べるために行きました。まず、私たちが最初にお話を伺ったのは藤家定男さん。住宅地図を持っていたのにかかわらず、目的地に近い場所まで来ているはずなのにみわたしてみても藤家さん宅はみつからず、よく地図をみてみると私たちは一つ奥の道に行っており、引き返してようやくみつけられました。家の前では、この寒い冬のなか孫の子供たちが元気よく遊んでいました。中村は、空気がきれいでとても静かでのどかなとこだと感じました。訪問時間になり、「こんにちは、九州大学のものです。」と私たちが言うと、「いらっしゃい、遠くからわざわざ寒い中おつかれさま。」と快く私たちを家のなかに案内してくださった。孫たちによってとっても元気で明るい雰囲気の家庭でした。私たちは、初めての調査で少し緊張していましたが相手を緊張させないよう平穏をよそおい、質問を始めました。「水田にかかる水はどこから引水されているんですか。」と聞くと、「うーん、塩田っちゅところからばい。」と教えて下さいました。私たちはきっと、答えは本や資料などを見て答えてくれるだろうと、思っていました。しかし、思いがけないほど早い答えでこの

土地の人々が自分たちの土地の風土や歴史をよく理解していることに驚きまあした。話しによると、鹿島藩、蓮池藩という二つの藩がこの地域にはあって、水を使うには蓮池藩の許しが必要となっていたらしい。また、この地域は湿田地帯であり、水道はいつも使えるとは限らないらしい。さらに、梅雨の時にはここら辺一帯はつかってしまうそうだ。だが大型のポンプのおかげにより、なんとかなってきたらしい。この地域では、大規模な水の争いはなく、小規模なものしかなかったそうだ。一目見ると普通の穏やかな地域にそんな歴史があったなんて思いもよらず、驚き、私たちは歴史の奥深さを感じました。藤家さんは私たちが、藤家さんの話しをしっかりと聞いている様子にとてもうれしそうに笑顔で話してくださいました。質問も一段落して、時計をふとみると結構な時間がたっていたので長居しては失礼だと思い、「今日は本当にありがとうございました。とても為になりました。」と、三人で感謝の意を込めて頭をさげて藤家さん宅をあとにしました。次に私たちが伺ったのは、藤家さんに紹介してもらった藤家さん宅の目の前にある川崎さんでした。私たちが川崎さんを伺ったときは、川崎は、夫婦で畑仕事をされて

いられました。この地域の人々は、隣人や近所の方々の結束力が非常に強く、今の日本に失われつつあるこの近所付き合いというものがありました。今は隣人や近所の人々同士が会っても挨拶すらないと聞きます。失われつつあるこの風習があるこの地域を微笑ましく思うのと同時になんか温かい気持ちになりました。川崎さんに、私たちがこの地域の歴史などを調べていて話しを聞かせていただきたいという旨を伝えると快く川崎さんは私たちを家の中へ案内してくださいました。私たちはすぐに質問をしました。「この地域ではどんな災害があったのですか。」と聞くと、「たしか昭和三十七年じゃったかなあ。鹿島平野が水浸しになったのじゃ。ほーんとあの時は驚いたばい。」と。話しを詳しく聞いてみると、鹿島市は、市街地の中央を流れる中川、鹿島川と両脇から抱くように流れる塩田川と浜川の堤防がずたずたに寸断されたため全市が水浸しとなり、とくに鹿島市の中心部は、中川からあふれ出た濁流が軒先を洗い、この水が鹿島川の濁流まで加わり、北鹿島一帯は完全に孤立状態になったり救助艇を持ってかけつけた陸上自衛隊はさっそく救助作業にあたるとともに、決壊河川の復旧作業を開始したそうだ。鹿島警察署、鹿島市役所の災害対策本部にはいった鹿島、塩田両地区の被害状況によると、塩田町で行方不明十三人を出したのをはじめ、鹿島市内で死者二、行方不明二、重軽傷三、床上浸水1,500戸、床下浸水2,000戸で、買ってない大水害となったと、川崎さんは深刻そうな顔で資料や当時の写真を見せながら、はなしてくださいました。今はのどかなこのまちではそんなことがあったなんて感じられないくらいに平和であたたかい町でした。私たちは自然の恐ろしさを改めて感じました。災害直後は、堤防、道路などの応急工事におわれたが、やがて抜本的な対策がたてられ、各地で改良工事が進められたそうだ。川崎さんは鹿島市の市街地の災害を大きくした原因を中川橋の構造とその周辺の川幅の狭さだと言っておられました。中川橋は洪水時には端脚を二本持つ木造の橋梁であったが、今は、橋脚一本のコンクリート製に改良をされたそうです。洪水があった当時の写真を見せてもらいましたが、その光景は、私たちが今まで見たこともないようなすさまじい光景でした。あたり一面が水面で家がどっぷりと水につかっていて、水害の恐ろしさ改めて身に感じました。私たちは、川崎さんにお話ししていただいた後、そんなにひどい洪水があったことに驚かされて今では洪水の爪あとさえ見えない辺りを見渡しました。塩田川が氾濫したときは穀物を船で運んでいたそうです。私達は川崎さんにお礼を言った後、他にその辺りに詳しい人がいないか尋ねました。すると川崎さんは親切にも「それなら川上さんがいいだろう。この辺りではこの人に聞くのが一番いい。みんなくるまで送ってやるよ。」と初対面の私達をわざわざ車で送ってくださいました。今度は川上さんのお宅を訪ねました。すると川上さんの奥さんが出てこられて川上さんは病院にいっていて、二時頃ならいいとおっしゃったので私達はそれまでの間、佐賀の町を見て回りました。時間が経つのは早いものですぐに約束の時間になりました。私達が行くとすぐに川上さんは家に戻られました。川上さんは私達が突然訪ねたにも関わらず笑顔で迎えて下さりました。私達は川上さんの書斎に招かれました。そこにはたくさんの本があり私達はここのに来て正解だったと思いました。ソファーに座るとすぐに質問に答えて下さいました。まず私は水田の水はどこから引くのか尋ねました。すると現在は塩田川からだそうです。それからその水についてですがその当時その地方には蓮池藩と鹿島藩がありそれらの藩許しが必要だったそうです。また私はどうやって水害をのりきったのか尋ねると大型ポンプのおかげでなんとかなったとおっしゃいました。また鹿島に昔城があったことも知りました。横澤城といい1576年の横澤城の合戦という大きな戦いがありましたがむしろをたててなんとか防いだそうです。その城を建てたのは島原半島の有馬晴純

(入道化岩)だそうです。私は初め入道、ということを聞き、お坊さんだったのかと思いそれを聞きました。すると川上さんは笑顔で答えて下さいました。それは違って戦地では人を殺すので名前だけでも変えて死者を弔うということを教えて下さいました。それから水争いについてですが目立った大きな争いは見られなかったそうですがやはり小さなこぜりあいはあったそうです。また水田の多いその地域では当然水不足の時は困ります。現代のようにコンビにから買ってくるというわけには行きません。それに当時は代わりになる食べ物を外国から輸入するというわけにはいきません。つまり現代の水不足よりも深刻です。私はそこでよく雨乞いの話を聞くのでもしかしたらその地域でも雨乞いがあったのでは、と思い聞いたところ、予想した通りその地域でも行われていました。潮が満ちたら沈む沖の島という島に雨乞いの神様がいるという言い伝えがあったそうです。その雨乞いの神様には、いつ頃にどういう人達が行くのか気になり聞きました。すると川上さんは答えて下さいました。そこでは水不足の深刻な夏になると、部落ごとで雨乞いに行ったそうです。特にその地域では千日参拝という名前で呼ばれていたそうです。なぜ線日参拝というのかというと千日間、参拝を続けると雨が降るという願いかなうと信じられているからです。私は昔の人がいかに水不足を深刻に考えているかがよくわかりました。次に、中村でどんな作物が作られているか聞きました。そこでは昔から米作、麦、大豆、などが主流だそうです。確かに回りを見渡した限り田がたくさんあり米作がさかんだりうと来た時から思っていました。それから中村温泉とはなされたので温泉が湧くのと思い川上さんに尋ねると本来温泉とは私が考えていたようにお湯が湧くという意味で使われていたのではなく水が湧くということを教えていただきました。それから小字の話になりました。川上さんによると小字とは差別をうかがわせるものが含まれているため最近では使われなくなったそうです。それから昔は小さいときにおじいさんから教えてもらったので若い世代に伝わっていたそうですが今の若い人達はあまり話をしていないし戦争を経験していないので伝わっていないのだろうということです。川上さんは私達のために小字が書いてある昔の地図を下さいました。それから本題のしこ名について聞きました。しかし残念」ながらしこ名についてはわからないとおっしゃいました。かなり昔のことであるし今ではっもうほとんど知る人はいないだろうとのことです。資料にも残っていないとのことなので仕方がないので次の質問にうつりました。私は過疎化について聞きました。中村は若い人が減り年を追うごとに少なくなってきているそうです。地方ではどこも同じ悩みを抱えているのだと感じました。それから川上さんも何か作物を作っていたのか尋ねると川上さんは元々鹿児島県出身の人で国鉄に勤めていたそうです。その後教育委員会のほうに勤められたそうです。それでこんあに詳しいのだと私達は納得しました。私達は一通り質問を終えると世間話をしばらくしてお礼を言った後に川上さんのお宅を出ました。急に訪ねたにも関わらず私達のためになんでも詳しく話して下さった川上さん夫妻には本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。私達は佐賀に来たのはみんな初めてだったので大変不安でいっぱいでしたが丸一日過ごしてみると佐賀の町に親しみを持つようになりました。私達は普段、福岡市内で暮らしているために、そこでしか聞き取れない情報を得ることができたうえ、またのどかなのどかな町並みを味わうことができ大変有意義に一日を過ごすことができました。こういうきかいとはめったにないし普段自分の足で歩いてまわったりなどしないのでいい経験をつんだとつくづく思いました。私は高速で福岡に戻るまでずっとそのようなことを考えていました。私達はなんでも情報は何らかの形で文献として残っている考えがちですが実際はそうではないことがよくわかりました。直接対話することによってしか得ることのできないこともたくさなるし文字を読むだけではなくそうやってしか伝えることができないことであることがよくわかりました。佐賀で一日過ごした経験は決して無駄にはならないと思いましたし私達の生活に何か足りないものが加わったような気がしました。たった一日だったけどこういう体験はめったにすることはないと思うのできっと忘れることはないと思いました。普段の教室では味わうことのとてもできるようなことではないと感じました。今後の自分達の生活に佐賀での貴重な体験を生かしていこうと思いました。