佐賀県鹿島市能古見中川内地区

     2001年12月23日調査

      調査者  村上 聡    

           田中 勝也   

           藤重 有典   

      協力者  森田 政秋さん (昭和11年生まれ 65歳)

 

 (一日の行動記録)

     8:30 九大集合

     8:50 九大出発

    11:30 バス到着

    12:30 森田さん宅に到着

    12:40 お土産を渡す(いも九)

    12:50 質問を始める(聞き取り調査)

    14:30 昼食をいただく 田舎のおふくろの味に触れる

          (うどん・ご飯・つまみ)

    15:30 森田さん宅出発

    15:40 見回り調査

    16:00 バス乗車

    19:20 九大到着

 

 

明治22年  町村制が施行されて、山浦、三河内の二村を併して能古見村と称す。

  23年  全村を分けて十七区とする。そのうちの1つが中川内。

 

 

 <小字名一覧>  読み      

1.馬場田    ばばた

2.笠井     かさのい

3.中曽根    なかそね

4.妙見     みょうけん(みゅうけん)

5.二反田    にただ

6.城平     しろびろ・じょうびら

7.    中村     なかむら

8.山下     やました

9.    中島     なかしま

10.井手口    いでぐち

11.垣ノ内    かきのうち

12.見渡     みわたし

13.平原     ひらばる

14.野中     のなか

15.板ノ     いたのさこ

16.掛橋     かけはし

17.宇土     うど

18.松尾     まつお

19.口無     くちなし

20.妻夫岩    ふうふいわ・めおといわ

21.金原     かなんばる

22.割石     わりいし

23.戸崎     とさき

 

 <平原について> 峠を越えると開ける地があるのでそういう名ができた。また、集落

としての名もある。

 

 <山下について> 山下というのは一番高い琴路岳(501,1m)からおりてきた地

名である。

 

 

 

  <しこ名について>

小字 見渡  ムカイハラ

       マツウォトウギ

   戸崎  シモサコ

       ナンガイイワ(長岩)

       エザイ           集落の共有林がある

       ミヤンサコ

   二反田 カミザコ

   妻夫岩 シライタ

       ウウバヤシ(大林)

       ミズブネ

       シイノキビラ(椎ノ木平)

       ハチミャジキ(八枚敷)   量八枚ぐらいの光

   平原  アン

   野中  アンノシタ

       タニガシラ(谷がしら)  谷の一番上という意味。

   垣ノ内 ナカニワ

   中島  タオ

       イノセ 

   口無  ヒランカシラ

   井手口 タテイワ

   中村  ムカエ

       ババンダ

   山下  テランババ

       ヤマシタ 

   城干  ヒトセイシ        ひとつぐらいの大きな石が残っていた。

   板拓  ヒロガリ         等高線が広くなっているため

   松尾  チョウジャウエ      もともと畑が今は山になっている。

 

 

 

  <災害について>

 

(1)水害について

昭和37年と昭和51年に水害があった。特に、昭和51年の方が被害が大きかった。災

害の復旧活動で水田の面積が広くなった。また、川(木庭川)の流れそのものは変わって

いる。災害の復旧で河川沿いを直したのである。具体的には、ブロックなどで堤防を積ん

だりしている。ちなみに、雨量について言えば、佐賀県南西部では雨足が激しく、西部の

有田で1時間に67mm、日雨量が229mm、鹿島で1時間に72mm、日雨量が28

9mmを記録した。

 

(2)雪害について

昭和43年には雪害もあった。死者が29名、このときはひどかった。材木として使えな

くなった木が多くなった。わりと、雪に針葉樹が弱いらしい。

 

(3)いのししの被害について

近頃話題となったのがいのししの被害。ここでもよくでた。対策としては、鉄砲だけ。猟

師さんもこの辺によくいた。いのししは結構頭がよく、一回取りそこなうと次の機会で取

るのは至難の業であった。ここ10年ぐらい前まではその辺を通りかかっていたりしてい

た。

 

 

 

  <村の動物について>

 

村には牛がいた。今でいうトラクターの代わりの仕事をさせていた。他には、冬の山仕事

に連れて行った。本当に牛は利用価値があった。多いときは30頭ぐらいいたらしい。雄

は気性が粗いので、特に発情期は粗いので、やはり去勢していた。去勢をしていなかった

ところはかなり少なかった。馬を飼っているところは少なかった。基本的に、馬にも牛と

同じような働きをさせていた。また、牛や馬に関して言えば、血統書付きの牛を買って育

てて売ることもあった。それによって、ばくりょうさん(仲介)としてうまいこと儲けて

いる人もいたらしい。森田さんの近所にもそういう人がいた。そして、不要な牛が出たと

きにはそれを処分していた。

 

 

 

   <農業以外の収入源>

 

田んぼが20haぐらいあるが、畑が今は山に変わっている。昔は周囲が山ばかりだから、

冬には山仕事というものがあった。農業で米を取れば冬になると暇ができる。その間は山

仕事をする。山仕事というのは具体的に言うと、山を伐採して、そしてそれを材木にして

いた。他には、掛橋のほうではお茶の仕事もあった。

 

 

 

   <村の発達(ガスや電気について)>

 

ご飯をたいたり、お風呂を沸かすには全部まきを使っていた。昔はこれだけ周りに山があ

るが、杉とか檜とかではなかった。雑木山であったのでそれを使った。今でもそういう名

残からまきを使っているところもある。でも、やはりガスや電気がないと不便である。ど

ちらかというと、電気のほうがくるのが速かった。プロパンガスがきたのはここ数年ぐら

いにきた。

 

 

 

   <村の山について>

 

村同志で山を共有していたこともあった。琴路岳を中心として共有林として分け合ってい

た。殿様が所有していた山を、近くの集落に分け与えて管理をしていた。そういう管理は

集落を超えてしているときもあった。

 

 

 

   <村の暮らし、遊びについて>

 

森田さんが二十歳のときぐらいは薪を割っていた。まさかりを使ったりして。子供の遊び

としては、例えば、今の子供はたぶんしていないであろうビー玉、めん棒、めんこ、そし

て、あまり聞いたことがなかった鳥わな、その鳥わなで取ってきた鳥を食べていたりして

いた。いわゆる焼き鳥にして。小学校の低学年から5,6年まで、中学校に行ってもして

いた時期はあった。学校の先生が「今日はわなは見てきたか。」と聞いてきたりもした。勉

強、勉強ではなかったから、ある意味いい時代ではあった。ただ、戦争が始まったときは、

学校は国民学校と言われていた。爆撃があったときは、空襲警報で学校に行かなくてもよ

かった。

 

 

 

   <村の祭りについて>

 

祭り自体はあった。三嶽神社というところで毎年、年に1回昔からの伝統であった。みこ

しをかついだり、さき払いとして、ししがでたりした。11月。集落によっては、2回あ

るところも。例えば、平原は、秋にお日待ちといって、もちをつく。米が取れた後に、お

日様に感謝する。春は川祭りといって、田んぼを作るために水が必要なので感謝しようと

いうことである。農作業の初めと終わりにお願いすることとお礼をすることがあちらこち

らであった。

 

 

 

   <村の男女交際>

 

形はいろいろある。今みたいに出会い系サイトとかはなかったけど、お見合いとかがあっ

た。昔は大学に行ったり、就職したりする女性は少なかったので、村にも女性は多かった。

青年団活動をしている女性も多かった。その青年団活動の中の寄合の場で付き合いをする

機会があった。また、昔はヨバイというものがあった。昔は電話があったわけでもなく、

話をすることができなかった。そこで、夜に彼女の家に忍び込んでいくということはあっ

た。ただ、その数は少数の人に限られたものであった。お互いに相思相愛であれば、入っ

ていきやすいように雨戸を開けていたりすることもあった。そんな時代もあった。でも本

当に、それでどれだけの人がそういうふうになったのかはわからない。携帯電話がはやる

前のころだったら、今の人も女の子から電話がかかってくるとオーっと思ったかもしれな

いけど。

 

 

 

   <村のこれから>

 

今のままでは、規模を拡大するといっても、後継者自体が少なく、また今の農作物の市場

価格では、特に米なんかは年々下がってきている。だから、農業に対する魅力が薄れてき

ている。でも、今の農地は守っていきたいと思っている。そう考えると、兼業をどんどん

進めていくしかないだろう。兼業農家は多くなっている。村おこし、町おこしとしては、

今大きな問題になっている。ダムを建設中で、18年くらいで完成予定である。これをあ

る程度の起爆剤として考えている。大村のほうに飲料水を組みにくる人が多いことからも

町おこしの一環と考えている。

 

 

 

   <今回の感想>

今回の調査に参加できて非常に良かったと思う。森田さんはとても僕たちに気をつかって

くれて、大変親切にしてもらいました。やっぱり、生で貴重な体験談を聞けたことは僕た

ちにとっても貴重な経験となった。また、僕たちの昼食まで出していただいた事に関して

はとてもお礼を言いたいです。あの、ご飯とうどんは本当においしかったです。また、話

を聞いてみて、普通の勉強ではわかり得ないことが、森田さんの話から心の中にすごく伝

わってきたし、とても楽しいものでありました。また、こういう機会があれば、自分たち

の足でその場で調査して、いろんなことを感じていければ良いと思いました。