佐賀県鹿島市  森のしこ名について

杉浦 進介

古澤

 

 

  前の講義で私たち二人は、鹿島市の森という地域のしこ名について調査することになった。

  事前に電話で一ノ瀬熊次郎さんにご都合をお伺いしたところ、当日はご都合が悪いようだ。代わりに森の地域に詳しく、物知りの方を紹介していただくことになった。

学校から乗ってきたバスから降り、一ノ瀬さん宅をめざす。どんよりと曇って小雨の降る寒い中、住宅地図を片手にだだっぴろい田んぼの中を歩くこと約20分。途中で12時を知らせる合図であろうか、田んぼの中に設置してあったスピーカーから音楽(おそらくyesterdayだと思われる)が流れていた。約束の時間の12時半前に一ノ瀬さん宅を訪ねる。『こんにちは。九州大学の者ですが。熊次郎さんはいらっしゃいますか?』と尋ねると、息子さんが熊次郎さんを呼んできてくださった。簡単に自己紹介をして、中尾重俊さんという代わりの方を紹介していただいた。

一ノ瀬さん宅から再び歩くこと約10分。中尾重俊さん宅に到着する。『こんにちは。九州大学の者です。しこ名についてお話しをお聞きしたいのですが。あっあの、一ノ瀬熊次郎さんにこちらをご紹介いただいて・・・・・』初めてのことにかなり緊張していたためだろうか。話の順序がおかしくなってしまい、中尾さんを混乱させてしまった。『ちょっとまて。落ち着いてゆっくり話しなさい。』とフォローしていただき、二人でひといきついて、気を取り直してもう一度。『こんにちは。九州大学の杉浦と古澤と申します。この度この森という地域の田んぼの古い呼び名を調査しに一ノ瀬熊次郎さんをお訪ねしたのですが、一ノ瀬さんのご都合が悪いそうなので、中尾さんをご紹介していただきました。』今度は十分に話の内容が伝わったようだ。『しこ名?字(アザナ)のことね?そんなら俺より区長さんのところに行って話ば聞いたほうがよか。』と中尾さんがおっしゃった。さらに『どっちの方から歩いてきたね?』と尋ねられたので、住宅地図を出して、来た方向を指で指しながら『あっちからです。』と言うと、『えーっと、区長さんの家はね・・・・・もう車で送ってやるけん。はよ車に乗り』とおっしゃって、中尾さんが車で送ってくださることになった。外は大変寒かったので、「なんて親切な人なんだろう・・・。私たちって本当に幸せ者だなぁ」と二人とも感動した。さらに、車に乗る時に『これば持っていき』と中尾さんからおいしそうな苺の入ったパックを一つずついただいた。車で送っていただくうえに苺までいただき、なんだか申し訳ない気分になった。

道中、中尾さんとこの地域のことについていろいろとお話しした。中尾さんの話によると、昔は形のそろっていない田んぼがたくさんあったが、約20年前に行われた田の区画整理で昔と今とではまったく違う風景になってしまい、しこ名はわからなくなってしまったそうである。

車で移動すること約1分。区長の大隈さん宅に到着する。送っていただいた中尾さんにお礼を言い、大隈さんのお家にお邪魔する。大隈さん宅ではお仏壇の前の広間に通され、そこでお話しをお伺いすることになった。少しの時間も無駄には出来ないので、さっそくしこ名についてお尋ねしたところ、いくつかの資料をだして見せていただいた。それは個人の田畑についての大字と字の書かれた一覧表や、森の地域全体の田畑と宅地の番地と持ち主の地図であった。『これがあれば宿題が全部かたづくじゃろ』とおっしゃったが、しかし実はこの資料は私たちが調査したいしこ名についてではなく、小字・字が載っている資料だったのだ。私たちの説明不足で、大隈さんはしこ名と小字・字を勘違いしてしまわれたようである。

とりあえず森全体の範囲や小字の範囲がわかったので、それを地図におとした。作業中に大隈さんが『あんたたちゃ、お昼ご飯はもう食べたね?』とおっしゃった。まだお昼ご飯を食べていなかった私たちは、『いいえ、まだです。』と、大隈さんのご厚意によりちゃんぽんをごちそうになった。野菜がたっぷり入ったあたたかいちゃんぽんは、寒い日には大変ありがたいものである。大隈さんにきちんとお礼を言ってありがたくいただいた。

ちゃんぽんを食べ終わり、作業を再開しようとしたら3・4才くらいのかわいい男の子が近づいてきた。大隈さんのお孫さんのようだ。『今いくつ?』『お名前なんていうの?』と話しかけると、人見知りもせずきちんと答えてくれた。その後、むこうからいろいろと話しかけてくるが、時間もなかったので一緒に遊ぶことができなかった。ちょっと残念。

そうこうしているうちに、残りの時間があと1時間半となった。この時点ではしこ名の調査にまだ全然入っていないので、早く地図に小字を書き込んで大隈さんにしこ名について尋ねなければならない。

ようやく小字を地図に書き込む作業が終わった。家の外で作業していらした大隈さんにこちらに来ていただき、さっそくしこ名について尋ねてみた。『ところでしこ名・・・・ええっと、個人の田んぼの呼び名とかありましたか?』と聞くと、大隈さんは『あったことはあったが、区画整理があって昔と田畑の形がまったく違うもんねえ・・・・。今はようわからんようになった。そんなもん知るのは不可能じゃろ・・・・。あんたたちゃ、難しか宿題ばかかえとるねえ・・・。』とおっしゃった。大隈さんの話を聞いていると、私たちの推測だが、どうやら個人の所有している田畑のうちでもさらに細かく特別に名前がついているようだ。例えば大隈さんが所有しているいくつかの田んぼのうちで、形の長いほうの田んぼを「ナガワリ」、短いほうの田んぼを「センサワリ」と呼んだそうである。大隈さんとの話が進んでいくうちにわかってきたが、この森全体の範囲の田んぼの呼び名を把握している人はいないらしい。大隈さんが言うには『農業委員会へ行けば資料が残っているかもしれんが・・・。今はそんなもん必要ないもんじゃけん、まぁ無理じゃろ。おそらく残っとらんもんねぇ・・・・・・。昭和前半くらいになるかねぇ。』この進展しない話を約20分くらいしているうちに、あぁダメだったか・・・・・と落胆してきた。事前のマニュアルを読んでしこ名を聞き出すことが大変困難だと知り覚悟はしていたが、私たちの予想以上である。しこ名を聞き出す作業が進まなくなり、2人とも10分ぐらい「どうしよう・・・どうしよう・・・・・。」と困り果てていた。しかし、このままでは何も情報を得られないまま終わってしまう・・、それではダメだと思い、思い切って質問の言葉を変えてみた。『それではこの森の地域に共通する呼び名はありましたか?』と大隈さんに尋ねてみると、『それじゃったらぁ、このあたりはナカジマ(中島)って呼んじょったなぁ。それで、この辺りはレンコンボリって呼んじょった。このへんはな、昔れんこんがたくさん植わっとった。』と今まで困っていたのがウソみたいにしこ名が次々と大隈さんの口から出できた。急いで地図を取り出し、大隈さんに地図を見ながらその地域を示していただいた。以下、その範囲としこ名である。

 

  宇宮崎のうちに      デイベタ、シチノカク(七の角)、シチノマル(七の丸)、ハチノマル(八の丸)、ナカジマ(中島)

 

宇橋津のうちに      ハジヅ

 

宇五ノ宮のうちに    デイベタ、イツツガイ、レンコンボリ

 

宇貝橋のうちに      ナカジマ(中島)、ナガワリ、サンセワリ

 

宇宮下のうちに      デイベタ、ゼンジ、コキリ、カイノハシ(きゃーのはし)

 

 

しこ名によっては字をまたがっているものもあった。

 

しこ名の由来については、

  デイベタ      その地域が川の堤防沿いにあるからである。

 

     イツツガイ     5つの道が交わった場所であった。昔ここには幽霊がでるというウワサもあったらしい・・・。

 

《7年前、1994年に起きた大旱魃について》

    1994年に起きた大旱魃では、塩田川の上流の塩分の少ない所から水

   を引いて(ポンプでくんでいたそうだ)田んぼにいれていたそうである。

 

 《村の水利について》

     昔は時間帯を決めて合図で村の人たちがいっせいに水をくんでいたそうだ。たとえばAという村は1時から2時までなど。

     また特に水利権の強い村が今でも存在するようだ。イデという村が現在1番強いらしい。その水利権は明治時代から続いているらしく、なぜその村が1番強いのか大隈さんに聞いてみると、詳しくはわからないがどうやら昔のナベシマ藩が関係しているようだ。

     水利権に関しての争いは昔起こっていたらしいが、あまりにも昔すぎてわからないらしい。今は起こっていない。

     さらに大隈さんから教えていただいたのだが、川の水の流れをA村からB村へと板1つで変えられるようになっていたそうだ。これを「水前を立つ」と言うらしい。

 

    《村のまつりと行事について》

      大隈さんに『では、雨乞いの事について教えてください。』と聞くと、『今はぜんぜんしよらん。水不足だからといって特別に雨乞いをすることは今はなか。』と教えていただいた。ここで話を終わらせてはいけないと思い、『では、村の行事とかありますか?』と質問してみた。

       さなぼり    田んぼに苗を植えた後のお礼まいり

       たきと      植えた苗に悪い虫がよりつかないように。お坊さんが田んぼに入る

       五穀豊饒の祝い    年に4・5回行われる

                 上のはほんの一例である。

 

    《村のこれからと、今後の日本の農業について》

      そろそろ時間も残りわずかとなってきた。『では最後に将来の日本の農業はどのようになるとお考えですか?』と大隈さんに聞くと、『今、国は減反、減反とばかり言っている。これから日本の農業が発展していくことは難しいだろう。このままでは農業はなりたたなくなる。だから今は農家も企業のような共同体をつくらないとつぶれてしまう。』とおっしゃっていた。さらに、『昔は米が足りないから、国から米を作れ作れと言われていたし、米の価値も高かった。昭和の中期頃までは農業は栄えていた。しかし今となっては人口は増加したものの、若い人を中心に皆が米を食べなくなってしまい、米の価値も下がってしまった・・・。』と残念そうに話してくださった。

     

 

     今回の調査では、一ノ瀬さん・中尾さん・大隈さんに大変親切にしていただき、無事にしこ名を集めることができました。心より感謝申し上げます。また特にお忙しい中、貴重な時間を割いてくださった大隈さんにこの場を借りてお礼申し上げます。御協力ありがとうございました。