鹿島市馬渡のしこな調査

                     松本静

                     矢野貴子

 

バスから降り立ったところは広い道路‘大村鹿島線’の上、大きなスーパーが目立っていた。右左どちらに行けばよいのかまったくわからないままとりあえず道沿いに歩いていき、近くのコンビニで道を尋ね、何とか馬渡に入った。何とかなるよね、と楽観的な私たちは歩き続けること10分、大きな橋に出た。‘石木津橋’という表示から私たちが馬渡の端にいることがわかった。現在地がわかったもののどちらに進めばいいのかさっぱりわからない。わからないことは土地の人に聞くのが一番と、近くの商店に入り「すいません、中島義治さんのお宅ご存知ですか。」と奥から出てきたおじいさんに尋ねると、聞き取れないほどの佐賀弁で「あぁ、中島先生ね。それなら、このみちをまっすぐ行ったら商店があるんだけど、その店から1,2,3・・・3軒目か4軒目のお宅だよ。(このようなことを言ったと思われる)」と教えてくださった。お礼をいい外に出たとたん2人とも恐ろしい不安に襲われた。・・・言葉がわからない。今から訪ねる方もこんな言葉だったら詳しいところは理解できないかもしれない。予想外の‘言葉の壁’に不安を感じながら、教えていただいた道を歩いた。人通りの少ない住宅街に入り込んだ。小さな道が何本も伸びていて、いかにも迷いそうだった。たまたま玄関先に出てきていた主婦らしき方に道を尋ねると、これは聞き取りやすい言葉で「まっすぐ行ったら商店があって、その3,4軒先が中島先生のお宅よ。」と先ほどのおじいさんと同じ事を教えてくださった。教えていただいたとおり進んでいくと、商店があった。ここからは2人でカウントダウン。「いーち、にーい、さーん・・・あったー!」見るからに広く立派なお宅には‘中島’の表札。時間余ったなぁと周りを見渡すと、なんだか見たことのある光景が。「・・・ねぇ、ここ見覚えない?最初に見たスーパーじゃない?」そこにはバスを降りたときに見た大きなスーパーがあった。どうやら私たちは馬渡を縦断したらしい。なんだか疲れ果て、持て余した時間をつぶしにスーパーで休憩。あらためて2人で、今日の質問事項を確認し、約束の1時の5分前に中島さんのお宅へ向かった。緊張しながらインターホンを押し、人が出てくるの待った。すぐに中島さん本人が出ていらっしゃったので、2人とも緊張しつつ自己紹介をした。「九州大学から来ました、松本静と矢野貴子です。よろしくおねがいします。」すると、中島さんが「もう一人の方にも手紙を出したでしょう。こちらに呼んであるから。」と、なんと私たちがまとめてお話がうかがえるよう配慮してくださっていた。お心遣いをうれしく思いながら、中島さんの後に続いて和室に入った。部屋には中島さんと、2人の方が座っていらっしゃった。あいさつをし、再び自己紹介。座っていらっしゃったのは、吉村さんと永林さん。手紙を出した中島さんと吉村さんではあまり説明できないからということで、土地に詳しい永林さんを呼んでくださったとのことだ。私たちの不手際で訪問する2日前にしかお願いする手紙が届いていないのに、ありがたいお話しである。「何せたった2日しかなかったから、永林さんが来れて本当によかったよ。まぁ、かわいい女の子が2人で来るって言ったら永林さんすぐにOKだったけどね。」と、中島さんが素敵な冗談を言っていた。少し場が和んだところで今回の調査の目的を説明し、持参した地図を広げた。5人でその地図をじっと見る。「うーん、これはどうなってるのかねぇ」どうやら私たちが持参した地図は見にくいらしい。と、永林さんが巻き物のようなものを広げ出した。「こっちのほうがわかりやすい。」なんとそれは小字が書き込まれた馬渡のお手製地図だった。しかもかなり見やすく、きれいだった。「すごいねぇ」と素直に感動しつつ、しっかり自分たちの地図に書き写す。「えっと、橋川はこのあたりで。山田がその下。その横が・・・」読み方に困っていると、「ひわたし。樋渡はこのあたりまでで。」と教えてくださった。「次は古川。古川はどのあたりまでですか?」「古川はねぇ、この水路までやね。」「で、その隣が井手口。ここが田原。たばるね。最後は石木津。石木津はどのあたりまでですか?」「この辺までじゃないかね。」「いや、もうちょっとこっち側やね。」と、永林さんと中島さんが話し合っていた。「1つ、2つ、・・・7つ。馬渡に全部で7つの小字があるんだぁ。」と、感心しているとさらに話しは続き、「前は鹿島町っていうのがあってね、そのなかに納富分、重の木、高津原という3つの大字があったんだよ。」と、よくわからない地名が。貴子が質問を続ける、「小字とかはなかったんですか?」「あったよ。納富分のなかに橋川とか石木津とか7つの字のあるとね。で、北鹿島には3つの大字のあって、中村、森、カネヒロね。七浦村は、音成<オトナシ>、飯田で2つやろ。浜町と古枝村には・・・なんていうとのあったかねー。」「なかったやろ」と、2人で話し合い始め、私たち2人にはもう何がなにやらわからずただ黙って結論が出るのを待っていた。結局出た結論は、浜町と古枝村には大字はなかったとのことだ。ここで私たちは恐る恐る切り出した。「あの、さっきからおっしゃっている村とかはどのあたりなんですか?」いきなりでてきた数々の地名は私たちにはさっぱりわからないものだったのだ。「あぁ、今の鹿島町ていうとは前は六町村やったとの合併してできたとよ。鹿島町、北鹿島、七浦村、浜町、古枝村、のごみ村の6つ。それで、この6町村が40年前に合併したから、藤津郡は間に鹿島市をはさむ格好になっとるとよ。合併前は、藤津郡鹿島町とか言う言い方をしよったとよね。それで、さっき言いよった大字が、あと、のごみに2つあるとね。」なんだか話しの範囲が広がりすぎている気がする。しかも小字と大字のどちらの話しをしているのかイマイチわからない・・・。私がひそかに助けを求め、貴子のほうを見ると、彼女は、なるほどという顔で聞いていた。自分の事前の勉強不足を反省していると、貴子がうまく話しを戻そうと試みた。「あの、小字はなかったんですか?」すると、永林さんが「あったやろうけど、よくは分からんね。のごみは広かけん、30くらいの小字のあったよ。しかし、小字ていうとは農業関係の手続きのときくらいしか今は使わんね。」と。中島さんもおっしゃっていたが、馬渡でも橋川、田原などといった小字はもう知っている人も少ないだろうとのことだ。なんだかしんみりしてしまう。しかし、こうしてもいられないので本題に入らせていただいた。「えっと、この馬渡にあるしこなをお聞きしたいんですが。」と切り出すと、これは農家の永林さんがしっかり話してくださった。「このあたりがアラキダ。」私たちもようやくペースをつかみ、質問を返す、「アラキダという名前の由来はわかりますか?」「こん上んほうに荒木田井堰<アラキダイゼキ>ていうとのあって、それとなんか関係のあっとやろーねぇ。開墾したとこば荒木ていうとよ。でも、ようはわからんね。そして、ここは八反(段)坪<ハッタンツボ>。こいは土地の八段あったけんやろうね。ここは道越<ミチゴシ>。こっちがホイムネ。こっちが岸上<キシノウエ>。こっちが山田<ヤマダ>。ここが五角<ゴノカク>。ここは末光になるけど、しめごていうとのあるよ。あとここらへんには昔、観音様のあったけん古観音<フルカンノン>。まぁ、このくらいかね。あとはようわからんよ。」私たちは永林さんの話してくださる話しを地図に記し、ノートに残すのに手いっぱいだった。さらに一つ一つ由来を聞いてみると、はっきりした由来のわからないものや文字のとおりだったりした。例えば岸上は石木津川の岸のとこのタンナカといった感じだ。あとは由来がはっきりしない。ひととおり納得し、次の質問をする。このころには私たちも少し緊張が解けてきていた。「堰や水路で名前がついているものはありますか」「あぁ、この石木津川の上のほうにあるとがホンイデ。で、この下のとこにあるとが樋渡いで。どっちも昔はもっと下のほうにあったとけど、上流から水をひくために上流に移築したとね。」なるほど、それで現在樋渡にあるわけでもない堰に樋渡の名がついているのか。しかし、どうして上流に移さなくてはいけないのか疑問に思いきいてみると、水路は当然、土地すなわち田んぼよりも下を流れているので効率よく水を引くために堰を上流に移すのだとわかりやすく教えてくださった。「他にはないですか?」「あるよ。この左側の水路の上流に荒木田の堰。それで、八反坪に流れ込むこの水路が八反坪水路で、この上の方にあるのが八反坪堰。で、この下流に看場<カンバ>、船着場のこと。このくらいやなかかね。」ここで気になったことを聞いてみた。「堰がたくさんありますけど、何か理由があるんですか?」すると、馬渡は水が少ないので上流から来る水はなるべくすべて取れるようにしているのだと説明してくださった。しかし、すべての水を受け入れるので、大水のときは明倫小学校などの土地は水没してしまっていたとのことだ。「上流の村と水争いなどはなかったんですか?」と聞くと、あっさりと「そういうことはなかね。」と返された。水に苦労しているのだから争いの1つや2つ、と思った私たちの期待はあっさり終わった。「劇的な話しができなくて悪いけど、そういうことが起こらないようにやってきているんだよ。」と中島さんがおっしゃっていた。「堤防とかに特別な名前がついているものはありますか?」と他の質問をしてみると、「そうだねぇ、特別にはなかねぇ。その地域地域の名前では呼ぶけどね。樋渡にある堤防は樋渡堤防ていうことやね。」と教えてくださった。「他に何か特別な名前がついている場所ってないんですか?」と尋ねてみると、「ここのとこに禅物墓<ゼンモンバカ>ていうとのあるね。まぁ、祠みたいなものやねぇ。」と、思い出したように話してくださった。私たちはそろそろ用意してきた質問をしなくては時間が足りなくなることに気づき、質問を開始した。「村全部の田にどのようにして水は流れていくのですか?」「古観音より下のタンナカは、ホンイデの水からやね。しかし、やっぱり下のほうに行けばそれだけ水の足りんくなるね。馬渡は圃場整備のできとらんで、昔の水路のままなんよ。」一通り写し終え、次の質問。「村の中を『古賀』とか言う言い分けをしますか?」これは私にとって最も理解できない項目であった。伺ったお話しによると、石木津古賀(14,5軒)古川古賀(橋川なども含む)というように地域の人たちの少人数な分け方らしい。私にははじめ、古賀と小字の違いがわからず、よく理解できないことを伝えると、「まぁ、以前はまず住んでいる人の数が少なかったから、このあたりに14,5軒、このあたりに十数軒というふうに少なくまとまって暮らしていたんよ。」と教えてくださり、私もどうにか理解できたのである。「古賀の役割というか、働きを教えてください。」「そうやねぇ、代表的なのは、おちゃご古賀やないかね。ちゃごは茶講て書くとよ。つまり法事のあるときに近所の家々でお手伝いすることね。あんたのとこもするやろう。」確かに法事などがあるときは近所の人たちが手伝っていたなぁ、と自分の地元も同じことをすることを思い出した。「まぁ、隣組ていうのかな、地主さん1人に対して古賀が1つっていう、生活共同体みたいなもんやね。馬渡の場合は、国道あたりに住んでいる人たちが少なかったもんだから、そのひとたちは隣接する他の部落の人たちと一緒に古賀をつくっていたんよ。」なるほど、遠くの親戚より近くの他人ということだなと思いつつ、次の質問へ。「水争いは・・・なかったんでしたね。じゃあ、水利に関する慣行とかありませんか?」「取り決めのごたっとはなかねぇ。」と、話しが終わりかけてしまったが、あきらめず、「じゃあ水に関する行事 みたいなのはないですか?例えば、川掃除みたいな。」と食い下がると、「そがんとなら、まぁありゃするけど。みぞさらいとか、可動堰の取水口の掃除とか。」と、話してくださった。聞いてみるものだなと思いつつ、気になったことを聞いてみる。「可動堰ってなんですか?」「あぁ、昔の堰ていうとは石組みやったとけど、最近じゃ、ある程度水のたまったら自動で仕切りの開いたり、水の少なくなったら閉まったりするようになっとるとよ。」ハイテクだなぁと感心していると、「堰ていうとは水のたくさんたまってプールみたいになっとるから、子どもんころは堰で泳いだりしよったとよ。本当は危ないかけんだめていいよっとけどね。」と、子どものころの思い出を話してくださった。この日は暑い日だったので、この話しを聞いて少しうらやましく感じた。

さらに質問は続く。「お祭りみたいなものってありますか?」「お祭りっていうか、田植えの後‘お礼参り’にはいくね。氏神様のところに行って、お酒をまつって、お神酒をいただくとね。あと、春と秋には馬渡として五穀豊穣祈願をしますね。新嘗祭とかと同じことやね。昔は権現祭りていいよったとのあるけど、今は集落の親睦会になっとるね。今説明したのが春で、秋には宮司さんに来ていただいて祝詞を上げてもらうとよ。魚、野菜の根もの、葉もの、果物、米、塩、酒の7品をお供えしてね。」「それは誰がしきるとか決まってるんですか?」と尋ねると、「毎年ごとに、いえつーがしきるとよ。家の頭と書いていえつー。」と聞いたことのない言葉を聞き、調査して残す必要性をあらためて実感した。私たちが夢中になってお話しを伺っていると、部屋のドアが少し開き、小さな子が覗き込んでいた。中島さんのお孫さんらしい。「こんにちは」と声をかけると恥ずかしそうにドアを閉めてしまった。恥ずかしがりやさんなんだなと思いつつ、中島さんの奥さんに出していただいた冷たいお茶をいただき、一息ついた。まだまだ質問は残っている。「お祭りというか、行事のようなものは他にはありませんか?」と聞くと「行事ていうか習慣のごたっとならあるよ。わさうえっていうとが、あぁ、わさは早いていう字で、うえは植えるね。で、この早植えは、田植えの始まりの日に、これからがんばるために一日体休めばするとよ。昔でいうごっつ(ごちそう)の魚と酒を食べるとよ。で、さなぼいっていうとが、さなはさっきの早いと同じ字ね、田植えが済んだときに、一日ゆっくり休んで、酒と魚ば食べるとね。」と、またまた聞いたことのない話しを教えてくださった。どこの人もお酒が好きだなぁと思いつつ、次の質問へ。雨乞いのことを聞こうかなと思っていると、中島さんがお孫さんの用があるとのことで、すぐ戻ってきますからと言い残し、部屋を出て行かれた。話しに夢中になって気にも留めなかったが、私たちが中島さん宅を訪れて、はやくも2時間半が経過していた。長居してしまっていることを申し訳なく思いながら、手早く次の質問へ。「雨乞いってしたことありますか?」と聞くと「雨乞いねぇ。10年くらい前に、JAで宮司さんを呼んでしてもらったことはあるけど。」と興味なさそうに答えが返ってきた。「そのときは雨は降りましたか?」と聞くと「どうかなぁ。まぁ、少しくらいは降ったかもねぇ。しかし、

私はあんまりそういうのは信じらんね。」とクールな答え。そんなもんかなぁとおもいつつ、「台風よけの儀式とかあります?」と尋ねると「9月ついたちに一番通夜<イチバントウヤ>っていって夜通し祈願するのがあるね。9月10日が二番通夜、9月20日が三番通夜。」と、教えてくださった。「どうして9月10日なんですか?」と尋ねると、このころが台風の一番多い時期だからだと、なるほどな答えが返ってきた。「で、効果は信じますか?」と聞くと、案の定、「信じらんね。私は非科学的なもんは信じらん。」とかっこよく言い放たれた。そろそろ時間もおしてきたので、しめの質問を持ち出した。「村のこれからについてどのようにお考えですか。」すると、「その質問はやっぱり区長さんの中島さんに聞かんと。」と、吉村さんと永林さんは少し困った顔をされていた。まだ中島さんは戻られないし、どうしようかと思っていると、永林さんが考えるようにゆっくりと話し始めた。「村の考え方も何もかんも近代化してきとる。‘助け合い’の気持ちが薄れてきている。農業ていうとはもっとゆっくりしたほうがいいとけど、現金収入を得るために、ほとんどが兼業になっとるけん、ゆっくりていうとも難しかもんね。昔は5段あれば、家族を養っていけたとけどねぇ。」と、ゆっくり話す言葉が寂しく感じられた。そこへ中島さんが帰ってこられた。早速さっきの質問を尋ねてみた。中島さんも少し考え込むような顔つきで自分の考えを話してくださった。「馬渡も昔は戸数が少なかったけれど、今では年々10戸くらいずつ新興住宅が増え、190戸ほどにまでなっています。私が一番気にしているのは、元々ここに住んでいる人と新しく転入してきた人たちとの融和をいかにはかるのか。お互いに足を引っ張り合うのではなく、理解し、支えて助け合っていけるようにしたいということです。昔からの土地の人というのは、新しく入ってこられた人に対して数も少ないが、地域、土地情報を知った人がいないと地域というのは成り立たないと思います。若い人たちが、ただ住めればいいというふうに土地を買って住むのではなく、共同体としての役割を持ち、馬渡がどういうことを望んでいるのか、ということを考えて生活してほしい。区長や班長、月番(10戸〜20戸のまとめを担当する)などの役割の人間で、通知やお願い事を徹底していきたいです。隣は何する人ぞ、というのは望ましくないので、仲睦まじくやっていきましょうという気持ちをみんなで持てば住みよい区になる、という心意気でやっております。」言い終わった後で少し恥ずかしそうにしていらっしゃったが、さすがに区長さんだなと力強く感じられた。時間も使い果たし、失礼することにした。何度もお礼を言い、玄関先まで見送ってくださった中島さんにもう一度お礼を言い、お宅を後にした。本当に3時間もの長い時間お話しを伺ったにもかかわらず、まだまだ聞いてみたいことがたくさんあった。また機会があれば是非、と思いつつ調査を終えた。

 

 

      以下、調査で得たしこなの名称

    山田のうちに・・・・・・アラキダ

    樋渡のうちに・・・・・・ミチゴシ(道越)、ホイムネ、キシノウエ(岸上)

    橋川のうちに・・・・・・ハッタンツボ(八反/段坪)

    古川、橋川にかけて・・・ゴノカク(五角)

    古川、橋川、樋渡にかけて・・・フルカンノン(古観音)