鹿島市南船津

 

西岡雄平

戸次 弘

 

 

南船津到着

 予定より一時間以上早く現地に到着したので、地図を手に南船津周辺を歩いてみることにした。この一帯には多くのわらぶき屋根の家が残っており(写真参照)、はじめて見る私は、自分が歴史学の講義に参加している実感を感じいきなり感動してしまった。たくさんのわらぶき屋根の家がある中、浜川では護岸工事、堤防工事が着々と進み(写真参照)、鉄橋を「白いかもめ」がけたたましい音を立てて通過してゆく。その先には、これまた近代的で立派な橋が掛かっていた(写真参照)。古いものと新しいものが混在する町。そんな印象を受けた。海へ向けて歩き続ける。物珍しげに私たちは見られた。こういうときは挨拶をするに限る。こちらの挨拶に土地の皆さんは、温かく挨拶を返してくれた。曇り空もいつの間にか晴れ、自然と足取りは軽くなる。南船津の端、高い堤防の向こう側を見るとそこには、見渡す限りの干拓地が広がっていた。諫早干拓の影響で今話題になっている有明の海を見ることはできなかった。

 予定通りの12時30分。私たちは今日お世話になる松尾さん宅を訪問した。住宅地図で何度も確認して、やや緊張しながら門をたたく。「こんにちはー、九州大学の者です。」と言うと温かく出迎えてくれた。

 

しこ名について

 「今日は何の話が聞きたいとね?」。松尾さんの言葉で、こちらがテープレコーダーを準備する前に話が始まった。私が、しこ名・あだ名の説明をすると松尾さんは「田んなかの名前はなかけど。」と言いながら、一枚の地図を出してきてくれた。それは南船津一帯の地図で、その上には細かく地名が手書きで記されていた。「私は、この一帯の歴史に興味がありましてですね、自分で少しばかり調べよっとですよ。田んなかに行くときは、この「岡山」に行くって言いよったね。」と地図を指さしてくれた。「岡山篭(おかやまごもり)」とそこにはピンクの蛍光ペンで書いてあった。探しているのはまさにこれだ!他にもいくつか書き込んであった。これらの地名は、現在は使われておらず、今は全部まとめて南船津なのだそうだ。

 地名の語尾の「篭(こもり)」についても説明してくれた。篭というのは、昔この地を干拓する際に使った籠(かご)のことだそうだ。時代劇に出てくる、人を乗せる駕籠(かご)くらいの大きさの竹を編んだ籠に石をつめて沈めて干拓をしていったらしい。その干拓が進んでいった単位ごとに何々篭という地名がついていったという。南船津も干拓地だったとは知らなかった。てっきり、さっき見た堤防の向こう側が干拓地なんだと私は思っていた。この地の干拓の歴史がそれほどまで古かったとは。

 

農業について

 松尾さんはこの地で五代目の船大工だそうで、田んぼは持っていないそうだ。午前中に見てきた、南船津の田んぼは本当にきれいで、干拓地でも立派に米が作れるものだと感心してしまった。田んぼの良し悪しについて尋ねたが、干拓地ということで、それはあまりないようだ。ただ、20年近く前にポンプ場(写真参照)ができるまでは、葦がたくさん生えて大変だったそうだ。

 

◇災害について

 1994年の旱魃について尋ねてみたが、南船津では被害はあまりなかったようだ。土地の低い干拓地へは水は流れてきたそうだ。旱魃というものは、まず山の方から被害が拡大するらしい。1994年の旱魃の際も、山のほうの被害は聞いたことがあるという。山のほうの田んぼが水を止めてしまうということもなかったそうだ。

 この地に旱魃より甚大な被害を与える災害として、台風とそれに伴う高潮があげられる。わらぶきの家の台風の被害は凄まじく、台風が来るたびに屋根を吹き飛ばされていたそうだ。また、松尾さんは、大正三年の高潮の際に、松尾さんのお父さんが学校にも行かず堤防作りに励んで肩が腫れ上がったという話を聞いたことがあるという。内海で高潮の被害が拡大する有明海沿岸で、土地の低いこの地は昔から高潮と戦ってきたようだ。高潮対策事業は現在も続いている。

 

◇青年クラブについて

 松尾さんが見せてくれた地図の中に、「クラブ」という書き込みがあったので尋ねてみると、やはりそれは青年クラブのことだった。60人くらいの若者がそこで寝泊りをしながら、知識を得たり道徳教育を受けたりしていたそうだ。終戦で戦地から人が戻ると、家の中は人であふれ、若者は青年クラブで暮らした。年長者からしばしば叩かれた経験もあるそうだ。終戦後間もない頃は、お菓子も何もなく、とにかくひもじくて、悪いこともたくさんしたらしい。びわやみかんをちぎったり、カキや赤貝を盗んだり、さつまイモをとってきて年長者に食べさせたりしていて、時には見つかって警察沙汰になることもあったそうだ。

 

漁業について(現在)

 現在、南船津は主にのり漁を行う、漁業中心の部落である。松尾さん自身も昭和34年から4,5年前までのり漁をやっていたそうだ。東京オリンピックの開催された年、昭和39年には、のりの価格が高騰した。のりのおかげで、この一帯はうるおい、街並も一気に良くなったという。以前はのり漁のほかにも様々な漁がここでは行われていたが、価格の問題や、干拓による干潟の減少、合成洗剤や除草剤による有明海の汚染などの影響で、南船津のある浜町全体で、今でも魚を獲っているのは3軒だけになってしまった。

漁業について(過去)

 松尾さんから話をうかがう中で、様々な魚や貝の名前が登場した。かつて有明海がどれだけ豊かな海だったかがよく分かった。中には今まで聞いたこともなく、想像もできないものもあったが、一つ一つを丁寧に絵を書いて説明してくれた松尾さんにはとても感謝している。以下にその一つ一つを紹介する。

 

 タイラギ・・他の有明海沿岸の町と同じように、南船津でもかつてタイラギ漁が行われていた。この漁では山あてという、山や灯台などの角度で漁場を特定する方法が重要だったそうだ。ニュースでもよく取り上げられているように、近年では多くが死滅してしまっている。

 いわし、はだら・・昭和20年代前半頃に盛んにいわし漁やはだら漁が行われた。きんちゃく網というきんちゃく状の網で獲っていたらしい。はだらは岡山に出荷されていた。

かに(ガニ)・・かにの好物であるタコをえさにして、かごを仕掛けて獲っていた。とにかくたくさん獲れるのでガニカゴ船という、かに漁専用の小船を船で曳いて漁をしていた。

赤貝  ・・小倉や博多に向けて出荷されていた。

ムツ(ムツゴロウ)・・有明海と言えばおなじみのムツゴロウは、松尾さんの言葉を借りると今よりも「もこもこ(たくさん)、おった」らしい。竿先に針のついた糸をつるして、ムツゴロウを引っ掛ける「ムツかけ」は松尾さんも経験があるそうだ。素人には、なかなかできない技で、しっぽの側から頭と内臓を避けるようにして引っ掛けないとすぐに死んでしまうらしい。また、ムツを獲るには他にも「タカッポ」という方法がある。ムツのいる穴に一度くぐると後戻りできない仕掛けのついた筒を差し込んで獲る漁だ。松尾さんはこの仕掛けにひどく感心していた。ムツはうなぎのように蒲焼にして食べると美味しいらしい。

あげまき・・あげまきという二枚貝の一種らしいが、今では一匹も獲れなくなってしまった。

コノシロ・・投げ網を使って獲っていた。東京に出荷していた。投げ網発祥の地は浜町らしい。

うみたけ・・二枚貝の一種。見たこともないし、もちろん食べたこともないと言ったら、松尾さんが奥で調理してきて食べさせてくれた。うみたけを焼いたもので、するめのような味がして美味しかった。帰りに寄った魚屋さんでは干物にされたものが売られていた。後に図書館で調べたら、うみたけは有明海だけに生息しているようだ。

 

その他の南船津の歴史

 南船津にはなぜか二つ北船津という地名がある。今となってはその理由を知る人もなく、この土地についての書類や文献も明治3年の大火で失われてしまったそうだ。

 南船津は干拓地なので、元からこの地に住んでいる者はいない。その多くは約250年前の雲仙の噴火に頃に、島原から移り住んできたそうだ。

 私たちが訪ねたとき、浜町ではちょうど夏祭りの準備をしていた。浜町の9部落の祭りで、松岡神社(写真参照)というところで7月13日から15日まで行われるそうだ。

 

しこ名のまとめ

 南船津のうちに・・マチウラゴモリ(町裏篭)

          キタフナツ(北船津)

          キタフナツ(北船津)

          オカヤマゴモリ(岡山篭)

          ナカゴモリ(中篭)

          ヒラキゴモリ(開篭)

 

感想

 法学を専攻しようとしている自分にとって、歴史学というのはかなり縁が薄く、僕は教養科目でこの講義を取って初めて、土地を訪れてそこの住人に直接話を聞くというような歴史学のプロセスを体験しました。当初、佐賀県鹿島市という行ったことのない場所を訪れることは、不安だったし、実地調査もうまくいかないんじゃないかと思っていました。

 昼頃、松尾さんのお宅を訪れましたが、松尾さんは、僕たちのわけのわからない質問にも親切に答えてくださって、かなり感動しました。僕が将来、歴史について聞かれたとき、同じようにできるだろうかと思い、やはり、人と人とのつながりは大切にしないといけないと感じました。

 また、話をうかがう中で、やはり海苔のことが印象に残りました。松尾さんは、二種類の海苔を出してくださって、実際手にとると、色と香りがぜんぜん違っていました。味も色落ちしたものは固く、あまりおいしくなかったです。有明海に流れ出す合成洗剤や、工場からの汚水が、目に見える影響を与えているみたいでした。

 僕は、今回、地名に関する調査にいったわけだけど、歴史のことだけでなく様々なことを学びとれたと思います。この講義をとって正解だったと思いました。