歴史の認識

佐賀県鹿島市古枝久保山

地区に関する調査

 

 

 

 

 

 

 

調査者

松田純一

 

大和辰徳

 

 

 

 

 

調査日 01’1222

 

調査内容

 午前9時頃.

我々を乗せたバスは六本松キャンパスを出発し,調査の対象となっている,佐賀県鹿島市へと向かった.二時間ほどバスに揺られて着いたそこは,私の祖父母が住み,私自身も幼年時代を過ごした鹿児島県の大隈半島の雰囲気によく似ており,郷愁を感じさせる.典型的な良い意味での“田舎"といった感じだ.

「久保山」バス停で下車し,そこから住宅地図を見ながら歩いて,前日に電話で調査のお願いをしていた下村諌美さんのお宅へ向かった.途中で道に迷ったが,民家も道も少ないのですぐに分かった.

ただ表札が見えず,また約束の時間より早すぎてご迷惑かと思い,「おそらくここだろう」と思われた家の前で立ち往生していたが,思い切って庭でミカンの箱を並べて選別らしき作業をしている方に声を掛けてみた.

「こんにちは.あのー…九州大学の者ですが」

と私.

「おー,早かったねぇ」

作業をしていらしたその方こそ下村さんご本人であった.下村さんはにこやかな笑顔で迎えて下さった.下村さんは区長を勤められた方だが,「私は昭和生まれで昭和初期の話は出来ないから,この地区の長老である梶山辰馬さんという方を紹介してあげますが」と前日の電話で仰っていた.

我々が下村さんの家に着いたのは,11時半頃であった.

 前日の電話で,時間に遅れるよりはまだいいだろうと思い,遅めの昼過ぎに着くと連絡していたのが仇となったようだ.

「あんたたちぁー昼過ぎに着くって聞いてたから,今日案内する梶山さんにも昼過ぎに行くち言ってしもたがー」

と困惑気味の下村さん.早すぎる来訪でご迷惑を掛けては,とブラブラ散歩して時間を潰そうかと思ったが,下村さんに家の中に案内され,それに甘える事にした.

家の中で緊張する我々に,下村さんは気さくに声を掛けて下さったり,お茶を出して頂いたりして,徐々に緊張が解けてきた.せっかく時間も余っているので,下村さんにも質問をしてみる事にした.

 質問事項とその回答は後述.

 今日,紹介して頂く梶山辰馬さんの事についても教えて下さった.梶山さんは戦後,佐賀大学付属中学校に勤められた方で,大変な物知りでいらっしゃるそうだ.またお話好きでもあると言う.厳格で気難しい方を想像していた私は,内心ホッとした.

 うっかり昼食を忘れてしまった私は,下村さんに昼食までご馳走になってしまった.大変申し訳なかった.その後少し雑談などをして,時間もいい塩梅になり,,梶山さんのお宅まで案内して頂いた.

梶山さん宅のチャイムを鳴らす.……反応無し.

「あらっ?昼過ぎに来るち言っとったんですがねぇ」

下村さん.我々はどうして良いのか分からず困惑していたが,下村さんが梶山さんを探しに行かれたその時,ドアが開いて梶山辰馬さんが登場.

 「あ,こんにちは.九州大学の者です」

 「あぁ_すいませんねぇ.今山から帰ったとこですが_

下村さんに聞いた通り,梶山さんはかなりの博識でいらっしゃった.また大変気さくな方で,そのにこやかな笑顔は,まさにキュートなおじいちゃんと言った感じだった.その若々しさは,もうすぐ90歳という高齢をとても感じさせない.また,この上ないほど厚遇して頂いて,本当に有難かった.

 

しこ名について

この地方では,しこ名と言うのは悪い意味をもっているようだ.

 人名が主で,土地や田畑にはこれと言ってしこ名は決まってないらしい.事前に配布されていた資料を参考に,何度も尋ねてみたのだが,どうやら本当に使われていないようだ.

 あるのは人に対して使う,相手の短所を卑下して使うあだ名のようなものだと言う.ただし蔑視語そのものではなく,冗談で使ったりもするそうである.

 何とか聞けた数少ないしこ名を以下に挙げる.

  ■鼻ぺちゃ…文字通り,鼻が低い者の事.

  ■ホケキ……餅をつく際に,湯気を取り除く藁製の物.

 

水利について

 この地区ではわりと水は豊富であるが,潮が引くと川の水が減少するため,川を堰き止め,高低差を利用して水を分配しているそうである.高低差のない場所では,潮の満ち引きを利用して給水を行っていた.川に土管を作って水が通るようにしていたのだそうだ.部落ごとに給水出来る時間は決まっていて,いわゆる時間給水となっているそうで,この地区では“回し水”と呼んでいるそうだ.梶山さんが子供の頃はその時間を鐘を鳴らす事で伝えており,その鐘が鳴れば学校にいようとも,水を取りに飛んで帰ったと言う.

国道208号線を境にして,海岸側を“道下(みちした)”,反対側を“道上(みちうえ)”と言ったそうで,水が豊富な道下ではイチゴなどの多くの水を必要とする作物を,道上ではブドウなどのあまり水を必要としない作物も作っているそうだ.このように,地区の中でも水利の違いで作物を作り分けているのだ.

ちなみに,ブドウの栽培と言うのは設備投資に非常に金が掛かり,とても難しいものなのだそうだ.梶山さんはパイオニア(先駆者)として自腹を切ってブドウ栽培を始め,佐賀の各地から見学に訪れる農家の方が絶えないと言う.

 水に関する行事として,“当夜(とうや)”と言うものがあるそうだ.これは現在でも残っており,9月に行われるらしい.後述する“浮立(ふりゅう)”と呼ばれる囃子などが,部落ごとに披露されるのだそうだ.

 また’94年の大旱魃の際は,井戸を二箇所,田の真ん中に掘って対処したらしい.ちなみにその井戸は現在は使われていないそうだ.圃場整備によって比較的少ない水で農業が出来るようになったため,水の豊富なこの地方では,もはや井戸は必要ないからだそうだ.とは言え,昔は水を巡って争ったこともあったらしい.今はもう争いはないそうだが,水利はその時その時の利害関係によって変動する.よって一概には言えない.

圃場整備後に旱魃は起きていないので,今旱魃が起きればどうするか分からないそうだ.もしかするとまたこの井戸が必要になる時が来るのかも知れない.

 

昔の暮らしについて

 昔の古い道は,三尺道と呼ばれる細い道以外は山にわずかにあるくらいだそうだ.道路整備の際,古い道をそのまま舗装したらしい.

 またこの地区は山も近いが有明海にも近く,海産物などは歩いて取りに行けたそうだ.また川でも魚がたくさん釣れたと言う.自然に恵まれた素晴らしい土地である.

 この地区は戦前は焼き物が盛んで,元々はそれが主産業だったらしい.最初に聞いた時は驚きだったが,考えてみると,この地方には有田や伊万里など,全国有数の窯元が多数ある.それを考えれば決して不思議な事ではない.

山の斜面を利用して“登釜”という手法で,職人が微妙な温度調節をして焼き物を創り上げていたと言う.温度調節を一つ間違えば,釜の中の焼き物が全て駄目になってしまう.まさに玄人の業と言えるだろう.陶石はなんと天草から取っていたらしい.それを細かくする職業の方が,現在でも一軒あるそうだ.

戦後,焼き物が衰退するにつれて,山にミカンを植えて平地には水田を作り,農業が盛んとなった.前述した通り,水利の違いでイチゴや玉葱等も作るらしいのだが,中でもミカンは全国でも有名な産地にまで発展した.我々も下村さんや梶山さん宅でミカンをご馳走になったが,とても美味しかった.

更に驚いた事に,電気が通ったのは平成になってからなのだそうだ.それ以前は照明もランプを用いていた.そう言われれば確かに,下山さん宅も梶山さん宅も,家電製品に古い物は見られなかった.若者にとってはさぞかし退屈な所だったろうと思ってしまったが,若者は学校を卒業すると青年団に入り,“浮立(ふりゅう)”と呼ばれる囃子の稽古に勤しんだと言う.これは100年近くの伝統を誇るが,実は若者にとっては伝統芸能の練習を兼ねた男女の交流会であったのだそうだ.早い話が結婚相手探しの場である.だが,和やかな雰囲気だったとは言え,さすがに夜這いについて触れる事は出来なかった….

 

調査を終えて

 まず,話を聞かせて下さった下村さんと梶山さんには本当に感謝している.

 下村さんは,我々の急なお願いを,嫌な顔一つ見せずに親切に対応して下さった.

 梶山さんは,そのお茶目なキャラクターと博識ぶりを存分に発揮し,様々な情報を我々に提供して下さった.

 このような方々に協力して頂けた我々は,とても幸運だったと思う.

 しかし残念な点もあった.

 しこ名がほとんど分からなかった事だ.

 だがこれは,梶山さんですらご存知なかったのだから仕方がないだろう.

 村の生活についてはとても興味深い話も聞かせて頂けたし,調査はおおむね成功だったと言える.

 私は,私の故郷の歴史をほとんど知らない.

 祖父母は健在だが,聞こうと思った事すらなかった.興味がなかったからだ.

 しかし,故郷と似た雰囲気をもつ久保山の歴史を垣間見た事で,故郷についても知りたいと思うようになった.

 故郷の歴史について興味を持てるようになった事を考えても,大変有意義な調査であったと思う.