鹿島市七浦小宮道

 

中島 恵

藤村 亜衣子

松永 幸

 

7月7日の調査日は、七夕だということにもかかわらず、朝から小雨のぱらつく、ぐずついた天気だった。しかし、雨がひどくなることを心配して持っていった傘が無意味なほど、現地に着いたときは空は明るく晴れ上がり、汗ばむほどの陽気だった。

ガソリンスタンドでバスを降りて、とりあえずは、昼食を摂る場所を探して道に沿って歩いた。歩きながら見る小宮道の景色は、緑色や桃色、紫色といった、実に鮮やかな色彩の網がところどころに干してある、まさに、「海の町」という感じを受けた。ふと、干潟に何かしら、動いているものを見つける。何が動いているのだろうか?目を凝らすと、それは、コガニであった。それも、1匹、2匹ではない、他にもたくさんのコガニたちがあちこちでざわざわと歩き回っている。すると、それらの中に、明らかに他のコガニとは異なる動きをする生き物がいるのに気がついた。メンバーの一人が、「あれ、ムツゴロウなんじゃない?」と言う。「えー、ムツゴロウ!?」今まで、ムツゴロウ=諫早湾という固定観念にとらわれていた私には、にわかには信じがたいことであったが、確かにそれはムツゴロウに他ならなかった。ピョコピョコとあのヒレというべきか、ウデというべきかというものを使って干潟を這う姿はなんとも愛らしいものである。こんなにも愛らしい生き物が、今、干潟の干拓作業によって危機にさらされていると思うと、改めて寂しい思いがした。

それから、またしばらく歩くと、「干潟公園」の看板が目にとまった。私たちは、干潟公園で昼食をとることに決めた。公園に着くと、「ガタリンピック」の大きな文字が掲げられており、「ここが、うわさのガタリンピックの会場になるのだと思うと、なんだか、胸がわくわくしてしまう。

昼食を済ませた私たちは、まっすぐ、調査にご協力してくださる石橋さん宅へ向かった。途中、「ガッチ ガッチ」という特異な鳴き声をしたカチガラスの歓迎も受けて、少し嬉しい気分になる。石川さん宅には案外スムーズに辿り着くことができた。石川さんは、先日の電話連絡の際と同じ、穏やかな親しみのある声で、私たちを迎えてくださった。

 

 

 

 

 

 

 

小宮道は有明海に面してるということで、当然のごとく海苔産業のことについてもうかがった。そして、ここにおいて私たちは、それまでの勘違いに気付かされることになった。石橋さん宅に向かう途中に見た、あの色とりどりの網は、漁のために使用するものだと思い込んでいたが、実は、海苔の養殖に使用するものらしいのだ。よく考えれば、確かに網の目は普通の魚には大きすぎるものであり、逃げられてしまうに違いない。全く、とんだ勘違いをしてしまったものだ。少し恥ずかしかった。ところで、小宮道での海苔の養殖は以外にも40年程前に始まったものなのだそうだ。今となっては、有明海の海苔といえば、一つのブランドでもあるといって過言でないほどに、その確固たる地位を持った海苔。それゆえ、私たちは、海苔の養殖は、それこそ、江戸時代、もしくはそれ以前から、地域に伝わる歴史あるものとして信じきっていただけに、この年月の短さは驚きだった。またしても、大きな勘違い、勝手な思い込み、今考えてみても恥ずかしいばかりである。しかし、この短期間のうちに、海苔は小宮道を大きく変化させたのである。それまで、生活に余裕のなかった者が、海苔の養殖によって、家計が豊かになった。部落の中の貧富の差もしだいに小さくなっていく。現金収入を手にした人々は、消費を拡大していった。それにともなうようにして、人々の活動の範囲も部落の中のみにとどまらず、いろいろな地域へと拡大して行くことになった。地域の近代化はこの時期から非常に急激なスピードで進んでいった。海苔があってこそ、現在の小宮道があるということもできるだろう。

小宮道にとっての海苔の重要性を再確認した私たちであったが、最近の海苔の不作の問題について質問する際、やはり、諫早湾干拓事業のことばかりを話しにあげていたせいもあってか、「干拓だけが問題じゃなかとけどね。」との指摘を受けてしまった。優しい声の中にも厳しさの感じられる口調で。今、世間で話題になって大々的に取り上げられているのは諫早湾についてだけだが、実は、海苔をはじめ海の被害は、諫早湾以外の干拓事業、ダム等の建設が総合的に作用した結果なのだそうだ。そして、それらの事業が自然に及ぼす影響は、数年後にしかはっきりと分かるようにはならず、すぐには表れることがないので、その間に、また、次の事業がなされるということが繰り返されてきたのだともおっしゃった。いわば、現在の不作は、過去の事業のつけが回ってきたものなのかもしれない。しかし、干拓にしても、ダム建設にしても、大方の事業は防災のためになされていることも多く、自然か、防災か、の問題というのはきわめて難しい課題の一つでもある。少なくとも、私たちは、大きな生態系の中における、一部としての海の姿を認識する必要があるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

小宮道の水事情と、七年前の旱魃についてたずねた。「ここは地下水が多いからね」とおっしゃるように、小宮道の地下には多くの地下水があり、その地下水をボーリングで掘って利用している。そのおかげで、七年前の旱魃も、農業用水は不足したものの、生活用水には困らなかったそうだ。小宮道の自然は豊かで、民家のすぐ近くでも、林があって、川でどじょうやかになどが獲れたりするらしい。山からいのししが現れることもあるという。野菜も多く栽培されているが、商品用として栽培されているのではなく、自給用のためである。海にも山にも近いということもあって、食べ物が豊かなのだなあと思って聞いていたが、肉を食べることは少なかったらしい。家畜の種類は多くても、農作業などに使うために飼育しているのであって、食べるためではないらしい。実際、酪農業を営んでいるところはない。竹林が多いから、春になるとたけのこが多く生えてくるそうだが、会長さん曰く「たけのこはいいから、肉を食わせろ、肉を(笑い)」とのことで、たけのこはそんなに食べられていないようだ。すこしもったいないような・・・「どじょうの数は減っとったばってん、ここ何年かで増えてきたもんねー」という言葉を聞いたとき、小宮道における自然の状態がいくらかよくなっているのだろうかと思い、よいことだなあと思った。

 

 

 

 

小宮道にも、少ないながらも貧富の差は存在したらしい。たとえば、それは、地主と小作人の関係などであった。地主の生活が豊かであった。しかし、小作人の労働力に対する賃金は、今では考えられないほど低く、酒を一本飲もうと思えば、数日の労働が必要となったりで、実質的に、小作人にそういったささやかな贅沢は許されなかった。それぞれの家計の状況が最も顕著に表れてくるのは、やはり、食事である。小宮道は食べ物には恵まれていて、食べるものに事欠いていつも餓えに耐えていた、というような悲惨なことはなかったそうだが、それでも、今のように、みんなが真っ白なご飯を食べるという具合でもなかった。白米が足らない家は、米に麦を混ぜて炊いた。粟などを混ぜることもあったという。米に麦を混ぜて炊くと、比重の違いから炊き上がったときに二層に分かれるらしく、みんな、米の部分をほしがった。子供たちの弁当の中身はその家の経済状況の縮図であった。地域の中でも、家が医者をしている息子などの弁当は、白米に、少々のおかずも添えられていたらしい。大人にとっては、ささいな、そのような差異こそが、子供心には、痛々しいほどに、立場の違いを思い知らされることであったろうと思われる。

 

 

 

昔の若者のことについてもうかがった。すると、和登志さんの口から、「クラブ」という言葉が漏れた。配布されていたマニュアルにも確かに同じ言葉が記載されていたことを思い出しながら、さらに詳しく話を聞いてみる。和登志さんの話によると、当時、クラブといえば、今の公民館のようなものでそこに若者たちが寄り合って、寝泊りをしたり、一緒に酒を飲んだりして、楽しんだそうだ。今のように若者のための娯楽の施設などはなかったため、若者たちはクラブに集まって、毎年行われる祭りに備えた太鼓の練習などに励んだそうである。何をして楽しむというよりも、同じ年頃の仲間が一同に集うことこそが楽しみであったのかもしれない。また、若い男性は、クラブ集まった一方で、若い女性はというと、個人の家に集まることの方が多かったらしい。「はなくさみ」といって、春先の農休日(一週間程度)には、花見に行ったりもした。線路沿いに、はるばる桜の名所まで歩いて行くこともあったそうである。

石橋さん方の頃には、七浦にも劇場があったので、劇団がきた時には、いろいろな劇を見ることもできた。鹿島まで行けば、映画館もあったらしい。このような若者の娯楽の範囲は、乗り物の普及によって、急速に拡大していった。以前は若者の楽しみの中心となっていたクラブも、しだいに、寝泊りのためだけに利用されるようになっていった。昭和40年前後には、バイクが流行った。当時の道路の形は今の道路とほとんど変わっていないが、道はアスファルトの舗装が成されていないがたがた道で、現在ほど海岸の干拓事業も進んでいなかったため、結果的に、道路はほぼ、海岸線に沿う形となっていた。はいからなバイクにまたがり、風を切って海岸線を走り抜ける様は、想像するだけでも気分爽快なものである。

恋愛の事に関しての質問は、さすがに恥ずかしかったのもあり、調査日が七夕であったことにかこつけて切り出してみた。恋愛については、今も昔も若者たちは素敵な出会いを求めているというのだろうか、部落間で交流会といって、いわゆる合同コンパ等様のことを行っていたらしい。(「部落」という言葉が、部落差別の点において問題視されることもしばしばだが、石橋さん方がそうおっしゃっていらしたので、ここではあえてこの言葉を使用することにした。)また、結婚については、昔、人々が自分の部落から出るということがほとんどなかった頃に、部落内での結婚が重なり、ある一族の出身者ばかりの住む部落というものも存在するらしい。しかし、人を介して、他の部落の人と結婚することもあり、その場合、世話好きおばさん(おじさん)とでもいうべき、どこにどのような年頃の娘さんあるいは、青年が住んでいるかを把握している人たちが仲介となったそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

調査で現地に到着するまでの間は、本当にいろいろな不安があった。しこ名は小宮道にもちゃんとあるのだろうか。仮に、しこ名があったとして、それを現代においても使用したり、覚えていたりする人がいるのかどうか。初対面の石橋さんとうまく話をすることができるだろうか。失礼があったりはしないだろうか。・・・ただ、手紙のあとの電話連絡の際に耳にした、石橋さんの親切そうな声だけが、頼りであった。

実際、小宮道について驚いたのは、小宮道が海の町であったことだ。一瞬、あまりの恐怖にめまいがする思いだった。これは、完全に私のミスだった。小宮道は農耕の町だと何の根拠があったわけでもないのに信じていた。しかし、私は、ボケでも、私の友人はしっかり者である。彼女は海の町と農耕の町の両方の場合に備えていた。もつべきものは、友である。石橋さん宅におじゃまするまでには、時間が少しあったので、海の町についての項目を頭の中にたたきこむ。おかげで、このことについては、後々に支障をきたす問題は残らなかった。一安心である。

石橋さんは快く私たちを迎えてくださったし、はじめは緊張して言葉に詰まったり、一度にいろいろなことを質問しようと意気込みすぎたりしていた私も、しだいに緊張も解けて、みんな打ち解けた感じで話をすることができて、本当によかった。先の手紙により、石橋さん方が今回の調査の趣旨をよく理解してくださっていたので、こちらとしても話が進めやすい状況でもあった。やはり、事前の交渉の重要性というものを感じた。石橋さん方はお二方とも昭和生まれで、お若くいらっしったにもかかわらず、地域のことをいろいろと勉強なさっている様子で、思いもよらなかった貴重な話を聞くこともできた。

調査に行くまでは、あれほど不安がいっぱいで、億劫な気持ちさえ、なきしもあらずという感じであったが、今思うことは、本当に行って良かったということに尽きるものである。

そして、最後になってしまったけれども、私たちの訪問を快く受け入れてくださり、貴重なお話をしてくださった石橋次一さん、石橋和登志さんにこの場を借りてお礼申し上げたい。