歩き・見・ふれる歴史学
佐賀県鹿島市における調査に関するレポート・
担当者:阪本雅巳・
担当区域:佐賀県鹿島市北舟津地区・
話をして下さった方:栗文蔵さん(77歳)・
聞き取りを行った日:2001年7月7日・
・
北舟津に着いたのは午前11時のことであった。先方との約束は午後1時頃、というこ
とであったので、それまで調査対象区域を見て回ることにした。地図を頼りに国道から細
い路地へと入っていくと、なんだか懐かしい印象のする下町風景が広がっていた。北舟津
は有明海に面し、干拓地に広い水田が広がる地域である。漁業か農業を生業とする家がほ
とんどである。私の祖母の家が宮崎県の門川町にあった。門川もまた西部においては漁業
をする家がほとんどである。親戚の家も西部に位置し、やはり漁師であった。祖母が宮崎
市内の私の家に移ってきてからは訪ねる機会もめっきり減ってしまったが、幼いころはよ
く行き、遊んだりしたものだ。その親戚が住んでいた下納屋という地域の風景に、北舟津
はよく似ていた。庭のない家々がぴたりとくっついて立ち並び、車の入ることのできない
路地が数多く存在する。家のすぐ横を路地は通っているため、中から話し声が聞こえて来
たりする。そんな情緒豊かな下町の風景を楽しみつつしばらく歩くと路地を抜け、川沿い
の道へ出た。浜川である。潮の香が漂ってくる。さすがは有明の町、地図にもあるとおり
海苔の加工場や海苔小屋が多くあった。目的地の栗さんの家も加工場のとなりであった。
家の場所を確認すると、私は海に向かって歩きはじめた。1時から撤収の4時まではできる
だけ聞き取りにあてたい。あらかじめ写真を撮っておく必要があった。途中、網を干して
いる家があった。栗さんが電話でおっしゃっていたとおり、やはり漁業の家のほうが多い
ようであった。停船所を過ぎると、広い広い水田が広がっていた。道の分かれ目に、何や
ら石碑が建てられている。近づいてみると、浜の干拓完工記念碑であった。なるほど、振
り返ると石垣とコンクリートでできた防波堤のようなものがある。ここがかつての海岸線
であったのだろう。写真に収め、現在の防波堤まで歩いた。上まで登ってみて驚いた。防
波堤のむこうには見渡す限りの干潟が広がっていた。少し降りてそこで昼食を取った。階
段に腰掛け干潟を眺めていると、なにやら干潟の上にピョコピョコ跳ねるものがある。か
の有名な魚、ムツゴロウであったB一度見たいとは思っていたが、この調査でその機会が
あろうとは予想だにしなかった。思いがけない出会いに、私は上機嫌になっていた。・
さて、昼食も取り、頃合いもちょうどよいころとなった。もと来た道を引き返し、栗
さんの家へと向かった。来る時は無人であった停船所で何人かが作業をしていた。栗さん
の家は農家で、大きな小屋があり、農業用の機械などがしまってあった。インターホンを
押したが返事がないので窓から声をかけると、栗さんが出てきてくださった。人のよさそ
うなおじいさんで、改めて調査のことなどを告げると、「私が知ってることでいいんかね
ぇ」と少し照れくさそうであった。本題に入る前に、「質問事項は?」とおっしゃるので
、簡単に説明すると、さっそくいくつかの地名や「とうみ」などの農具の話をしてくださ
った。こちらはまだノートの用意もできていなかったので、少し慌てた。また改めて聞く
事にして、腰掛け、いよいよ聞き取りを始める事となった。・
まずは地名についての質問をしたのだが、残念ながら小字以外の通称地名、私称地名
はあまりご存知ないようであった。小字地図を見せると、「ああ、全部これにのっとるが
ね」とのこと。ただし、圃場整備前の田の名前については、どうやら地図に記載してある
名前とあまり変わらなかったようである。お年がまだ77であられたことも関係している
のであろう。小字地名以外は聞き出せなかった。例外もあった。最初の説明のときにチラ
リと話してくださった磯の名前を改めて聞いておいたので、以下に記す。・
・塩田川尻 ・浜川尻 ・エゴ尻(江○尻と書くそうだが、ゴの字が思い出せないそう
である。) ・鹿島エゴ(こちらも同様。)・
漁師なんかがこういった通称で話をしているのを聞かれたそうだが、さすがに本業ではな
いので詳しい場所まではわからないそうだ。その他地名に関して聞けたことは、北舟津は
かつては長崎県藤津郡八本木村の一部であったという。明治十年の頃である。現在工業団
地となっている大村方地区についても小字を話してくださった。小字以外で聞く事が出来
た陸の地名もある。たとえば、現在の南舟津にかつてあった地名だそうで、トノサマコモ
リと言うらしい。(発音はトンサンゴモイ)何でも、堤防の強度を保つために今から200
年前に現在の国道207号線から海岸にかけて100本のハデノキ(ハゼノキ)を5mおきにう
えたのだそうだ。それをウせたのが鍋島の殿様であったので、この名前がついたとのこと
である。また、現在の八宿(ハッシュク)はかつて宿場町であったこともおしえてくださ
った。国道207号線は、昔は多良街道という参勤交代に使われた道であったという。その
ため宿場町が発達したのであろう。いまでも土蔵などが残っており、町並み保存会も発足
しているそうだ。山手の方の地名でウマノハカ(馬の墓。実際馬の墓場であったため。)
というのも聞く事が出来た。地名に関してはこれくらいで、栗さんも「今は漁業の事とか
地名とかに詳しい古老もおらんなってしもたもんなあ」としみじみ語っておられた。残念
なことだ。 ・
水利のこと、田の事に関してはさすがにお詳しかった。話は時代等前後し、統一でき
るものではないのでそれぞれ箇条書きのかたちで記していく。・
・シイド(水路)について・
浜川の水を堰でとめて、堤(ため池)からひいてくるのだが、勾配を緩やかにしない
と水が一気に流れて危険なので、勾配を測る作業が必要であった。その方法とは、夜に
大人達がちょうちんを持って水路沿いに並び、それを離れたところから見る事により勾
配を測る、といったものであったということだ。堤から引いてきた水は、井樋と呼ばれ
る水門から各々の田へと配分される。さらに、井樋から水田へは、水口(ミナクチ)と
いう取水口から取りこまれ、はけ口から排水されるのである。水利には、当番がいた。
夜中に水を盗む輩がいないかどうか、二人一組で徹夜で見まわるのである。・
・水害などについて・
北舟津は水はけが悪かったので、水害こそあったものの、旱魃による被害はなかった
。山田(棚田)のほうでは旱魃の被害があったそうだが、それでも米がとれないほどで
はなかったようである。平坦部においては、むしろ旱魃のほうが収穫があったそうであ
る。土の下に水分が豊富で、上が乾いていても大丈夫なのである。旱魃のとき(かんぱ
つ年)は水が少ない田から優先的に水をまわしていた。圃場整備前は大雨になると水は
けが悪いので一週間ほど水に浸かったそうだ。ポンプによる排水がなかったので、何度
も床下浸水がおこった。ポンプのなかったころは、防波堤に厚さ30cm、縦横2mの樫
の木でできた扉を取り付け、そこから排水していた。この扉は満潮になると水圧で閉ま
り水が田に入るのを防ぎ、潮が引くと排水できるしくみになっていたそうだ。昔の防波
堤は、石を積み上げ、その隙間に三和土という石灰、赤土、粘土をこねてつくったもの
を詰めてつくっていたそうで、栗さんがおっしゃるにはコンクリート並の強度があった
そうだ。そういえば先日講義で見た大分県田染荘のビデオの中でも、この三和土と同じ
物が水路の補修用としてつかわれていたと思う。
昭和37年の八月、鹿島に水害が起こり、3〜4日水浸しとなった。このときはそこ
までひどい被害はなかったそうだが、その二年前の昭和35年、諫早の大水害では何百
人も死者がでたという。・
・田について・
北舟津の田は泥のゆるい田(ゆったんぼと呼ばれる)が多かったため、牛や馬を入れ
ることができず、農作業は人力で行われていた。このゆったんぼはその水気の多さから
一毛作しかできず、冬はカモやシギのねぐらとなっていた。40年ほど前までは田には
びる(ヒルのこと)が非常にたくさん生息し、くつのなかったころには大いに悩まされ
たとのこと。きゃはんの間などから吸い付かれ、ちょっと水の中に手を入れただけでも
何匹かのびるがついてくる、というほどそれはそれはすごい数であったらしい。対策と
して石灰をまいたりしていたそうだ。PCP、ホリドール、パラチオンといった有機リ
ン剤、除草剤が使われるようになってからびるの量はめっきり減ったが、同時に水路に
生息するフナやエビ、メダカなどもへってしまったという。最近になってメダカなんか
が出てくるようになったそうだ。「無農薬のころのゆったんぼの米はうまかった」と栗
さんは語る。農薬を使わなかった頃は、機械の廃油を手作りの油差しで田に撒きながら
歩き、油の入った水を足でイネにかけてやると虫が死んでいたという。肥料は昭和25
年ころから硫安の配給があった。少なかったので他の家と分け合って使ったそうだ。取
れた米はねぶく(むしろをつなげたもの)で3〜4日天気のいい日に干し、車力(荷車
の一種)、あるいは前だなつき(車力に前棚をつけたもの)ではこんでいたそうだ。車
力では約10俵ほど、前だなつきでは約20俵ほど運べたそうで、前だなつきは牛に引
かせていた。前述の通りゆったんぼであったため農耕用の牛馬は少なく、牛がこういっ
た運搬用に飼われていた程度であったという。・
明治なかば、財閥が田を買い占め、土地を貸し付け、ここに地主ー小作の制度ができ
た。北舟津一帯、浜地区には十人ほどの財閥(大地主)がいたそうだ。田の80パーセ
ントは財閥が持ち、残り20パーセントを一般農家が所有していた。この関係は昭和2
1年の農地解放まで続くこととなる。一反(10アール)が700〜1000円で買い
取ることができた。大金であったため、産業組合(現在の農協)が金を援助した。また
、昭和21年に創設された小作農創設資金という金融システムから金を借りるところも
あったようである。小作料から解放され、農家の暮らしは楽になった。・
昭和24年、県政はアメリカの軍政部がとりしきっており、派遣された中尉、大尉な
どがその任についていた。この頃他県では食糧難から暴動が起こり、上層部からは米を
送るか鎮圧軍を送るかするようにとの命令が下ってきていた。佐賀の場合は米を送るこ
とになったのだが、問題が発生した。農業について詳しくないアメリカ兵たちは、他県
に送る米を乾燥させずに生のまま倉庫に入れてしまい、腐らせてしまったのである。農
家の人たちが「それじゃ腐る」と注意したにも関わらず聞き入れなかったという。それ
以降は懲りてちゃんと米を干したそうである。・
続いて昔の暮らしぶりについてうかがった。
・水道、電気、病気・
上水道が整ったのは昭和12年ごろのこと。それまでは井戸だったが、塩分が強かっ
たので山間部に水をもらいに行っていた。当時の飲料水には不純物が含まれていたため
、学校では生徒の二割がトラホームといわれる目の病気にかかった。学校で目薬をささ
れた。また、回虫も多く、海草を煮詰めて作った海人草という虫下しを学校で飲んだ。
靴が普及していなかったころは冬はつらかった。霜柱の上などを裸足で歩くのでひび、
あかぎれ、しもやけになった。これらには薬草が効いた。皮膚病も多かった。これも水
が悪かったためであると考えられる。雨水をためて使うようにしていたが、今度はいぼ
ができる子供が増えた。電気は終戦後でも山間部では通っておらず、「無灯火部落」と
呼んでいた。昼間は送電をストップしていた。・
・子供の仕事、食糧など・
昭和18年〜25年ごろが食糧難であり、当時は朝鮮動乱のため働き手がいなかった
ので、小、中学生が農作業を手伝った。手伝うと手伝い先からぼたもちや饅頭が出され
た。それ以外はこれといって報酬のない奉仕作業である。農作業以外のときはラミーや
桑の皮を学校ごとに集め、工場で加工して衣服の原料にした。このころ、鉄道沿線の土
手にかぼちゃを植えていた。氏神である松岡神社一帯は今はみかん畑となっているが、
むかしは梅の木があったので梅取りをしていた。だが、食糧難になると梅の木は伐採さ
れ、芋が植えられた。・
・娯楽 ・
戦争中の娯楽は学校での演劇会や巡回映写機であった。映画は無声映画で、筋を読み
上げる人がいた。ラジオは少なかったので、終戦の日は近所の家に玉音放送を聞きに行
った。昭和25〜6年にはマイクロフォンもなかった。戦後は、鹿島中心部にあった鹿
島座という劇場に有名人が来る事があり、一日かけて遊びに行った。昭和22年ごろ、
進駐軍のジープが来る事があり、珍しくて見に行ったりした。・
・恋愛・
70パーセントは親同士が決めたり、仲立ち人がまとめていた。だから、当人同士が
結婚当日までお互いの顔を知らない、なんてことがあった。その他の恋愛は自由であっ
た。しかし、男女が昼間から手をつないだりすることなどはもってのほかであった。・
・その他・
昭和12、3年ごろ、朝鮮出漁がよく行われていたので、朝鮮の人たちが北舟津に住
んでいた。・
セイタカアワダチソウについて話してくださった。セイタカアワダチソウは、カナダ
から輸入した麦に種がまじっており、これを列車にバラでつんでいたところ、列車の振
動のたびにそれが鉄道沿いにこぼれ、日本に定着したのだそうだ。・
・
以上で聞き取りを終えた。3時10分をまわったところであった。栗さんはこんなに
時間がかかるとは思っていなかったと笑っていらっしゃった。色々と面白い話が聞けて
有意義な調査であった。地名についてあまりきけなかったのは残念であったが、それも
仕方がない。ご存知の古老が少なくなってきている。土地の歴史を後世に伝えて行くた
めにも、やはり早急な記録作業が必要であろう。1977年に浜小学校では80歳くら
いのお年寄りを集めて浜小学校百年史なるものをつくったそうだが、残念ながら通称地
名などについては触れられていないという。しかし、地元でのこういった取り組みは重
要である。八宿地区の町並み保存会なども、すばらしい取り組みであると思う。歴史や
町並みを残そうとする町の人々の気概が感じられ、快い気持ちで今回の調査を終えるこ
とが出来た。