川内
羽田悦子
濱本淳子
福岡真由
12月23日、日曜日。天気は曇りで少し寒い中、私達3人は佐賀県の能古見にある川内を訪れました。私達が今回、川内を訪れた目的は、大学の「あるきみふれる歴史学」の講義の一環として、近代化と区画化が進む現代において、失われつつある地域の呼び方を記録して後世に残すことです。そして実際に現地に行き、そこで生活なさってきた年輩の方に話を聞くことを通して、そのほか記録されずに忘れられつつある昔の村の姿、記憶を記録することです。この度訪問させていただいたお宅は、川内の前区長さんである村田義典さんのお家でした。村田さんは昭和10年のお生まれです。
事前に出した手紙では12時30分頃に伺うと書いていたのですが、予定よりバスが早く着き、川内の権限橋でバスを降りたのが10時45分頃でした。お昼時に重なってしまい、ご迷惑をおかけすると思いながら電話をすると、ご承知していただいたので、お邪魔させていただきました。私達が降りた権限橋から村田さんの家までは、住宅地図があったので迷うことなく行くことができました。到着した私達3人を、村田さんはあたたかく迎えてくださり、部屋に通していただきました。そこには村田さんが呼んでくださった、現区長さんである坂本豊さんもいらっしゃいました。坂本さんは昭和15年生まれです。私達は、村田さんと坂本さんという二人の方にお話をうかがえる嬉しさを感じながら、まず自己紹介をし、今回の訪問の目的を話しました。
そして、いよいよ川内について聞かせてもらいました。まず川内の範囲をお聞きし、地図に書きこんでいきました。地理は坂本さんが得意だそうで、私達にはほとんど見分けのつかない地図の上を、村田さんと伴にすいすいと指でなぞって教えてくれました。この1万分の1の地図上に小さく書かれている家を指しながら、「〜さんちがここやろ。」と言われているのを聞いて、さすが地元の区長さんたちだなあと思いました。私は水梨まで入ると思っていましたが、川内には入っていませんでした。川内の範囲を地図に書きこみ終わると、次に、私達が地図に書きうつしたさまざまな小字の読み方を教えていただきました。以下の通りです。坂本(サカモト)、阿弥陀(アミダ)、羊鹿(ヨウロク)、多々羅(タタラ)、今才(コンザイ)、長日(チョウニチ)、焼山(ヤキヤマ)、山王(サンノウ)、東(ヒガシ)、西(ニシ)、谷田(タンダ)、横谷(ヨコダニ)、権限(ゴンゲン)、千石(センゴク)、合角(ヤカク)、長谷(ナダタニ)、弥川(ヤガワ)。お伺いするまでは何と呼ぶか分からなかったので、羊鹿を「ヒツジシカ」と言っていましたが、「ヨウロク」だと教えていただき、なるほどと思い、お2人の前で「ヒツジシカ」と口にしないでと良かったと思いました。
村田さんは事前に川内について、いろいろ調べて下さっていました。まとめると以下の通りです。川内は全戸で62戸あり、人口は262人(男136人・女126人、内75歳以上27人)の山あいの地区です。大字が山浦、小字が川内で、川内の中でも、横谷、西古賀、清水という3つの班にわかれているそうです。(私の地元の班は1班、2班というようなものなので、この班についてはあまりピンときませんでした。)清水班は新興住宅地が出てきて、班長さんが1人でまとめるのも大変なため、来年2月1日からは3班にわかれるということでした。行政は区長さん、その下に区長代理さん、次に班長さん(3人)、更に区長さんの相談役として役員さん(5人)がいらっしゃって、この人たちが川内の経費を勘定するなどの仕事をしています。
また、川内の開拓についても話していただきました。まず山林を開き、昭和13年に第一期工事、14年に2期工事、15年に3期工事が為され、18年に約15丁の水田が完成したそうです。いも、大根、麦などが育てられていたそうですが、昭和29年頃を境にしてみかん畑に変化したそうです。この年には、能古見や古枝が合併して
お二人の話を聞いていく中で、昭和37年の大水害は川内の小字や、田んぼの区画整備の最大の原因となったことが分かりました。この大水害は死者3名をだし、家2戸を流出させ、稲の苗がほぼ全部流れるという被害をだしました。この水害後、圃場整備が行われ区画整備が為されたそうです。そしてこの水害以前は、水田の名前は坂本、阿弥陀、羊鹿、多々羅、今才、長日、焼山、山王などとなっていましたが、この区画整備の結果、水田の小字は東、西の2つにわかれたそうです。しかし今でも川内の人は、長日や今才や阿弥陀や多々羅のような名前を田んぼにも使っているそうです。だから、私達が、「役所で使っている名前ではなくて、川内の人だけが使っている名前を教えてください。」と言ったところ、長日や今才や阿弥陀や多々羅のような名前を答えてくださりました。私達は、多々羅や阿弥陀や今才というのは小字であり、しこ名とは違うと思っていたので少し戸惑いました。地図にも載っている地名だったため、あざ名と小字は同じなのかな?と思いましたが、「田んぼに水をはりに行ったり、畑仕事に行く時には、その田んぼのことをなんと呼んでいますか。」「この辺りの人々だけが、伝統的に、ある特定の呼び方をしている田んぼはありますか。」と尋ねると、
「自分が住んでいる所しか分からないけれど」
おっしゃいながら、他に地図に載っていないしこ名をいろいろ教えてくださいました。次のようなものです。
・田んぼのしこ名について
小字坂本のうちに―ムゲビラ、イワヤグチ(岩屋口)、トクミチ
小字西のうちに―イワヤグチ(岩屋口)
小字多々羅のうちに―クボ
小字東のうちに―ババゾエ、テント、イチノカク(一ノ角)
小字山王のうちに―カキノウチ(柿ノ内)、アラキ
イワヤグチというのは、岩屋観音という場所のふもとにあるのでイワヤグチ(岩屋口)と呼んでいるとおっしゃられたのを聞いて、明確な由来を実感できてうれしかったです。
・山のしこ名について
小字横谷のうちに―ヨウロク(羊鹿)
小字長日のうちに―ホンタニ(本谷)
小字今才のうちに―ベンノタニ、イワヤ(岩屋)、ナガタニ(長谷)
川内は山あいの村なので、山のしこ名はたくさんありました。
・山道のしこ名について
イワヤミチ(岩屋道)、チャエンバヤシ(茶園林)、タンダミチ(谷田道)がありました。これらのしこ名は山道についてなので、複数の小字にまたがっていました。チャエンバヤシ(茶園林)は今はなく、工業団地になっているそうです。なぜチャエンバヤシ(茶園林)と呼んでいるのかお聞きすると、昔からそう呼ばれており分からないとおっしゃっていました。お茶には関係ないそうです。
・大きな木などの目印になるものにつけられた名前について
「大きな木などの目印になるものはありますか。」と尋ねると、すぐに小字多々羅にある、センダンという木を教えていただきました。川内ではかなり有名な木らしいです。また、岩屋観音の所にある、モミジノキという大きな木も教えていただきました。木以外で目印となるものは特になかったそうです。
以上のしこ名、山道、木は地図に場所を書きこんでいます。村田さんも坂本さんも、いくつかのあざ名については思い出しにくそうでした。このような昔からその村に伝わってきたあざ名をお聞きして、地図に書きこみながら、本当に失われつつあるあざ名もあるということを実感し、私達の調査の意義を感じ取ることができました。また、お二人であざ名について話してらっしゃる時の雰囲気で、村の人々があざ名に親しみをもっていることも知りました。ちなみに草切り場や焼き畑はなかったそうです。草は特定の場所から取ってくるのではなく、道端やあぜに生えているススキなどを使って利用したそうです。
・村の水利と水利慣行について
田んぼの用水源は主に石木津川で、山の谷の涌き水なども利用したそうです。また川の上流にはため池(番才ダム)があり、非常時にはその水を放出し使うことになっていたということでした。水を取り入れる井堰は7つあり、大井出・今才・新井出・多々羅・長日・山王・一ノ角です。用水源の川は流域の村全てが、上流の村から順に利用したけれど、水の利用のルールについて他村と取り決めたり交渉したりすることや、水争いは全くなかったそうです。私達はそれでは上流の村がずいぶん得をするだろう思い、しつこく本当にルールや水争いがなかったかどうか質問しましたが、全くないということだったのでびっくりしました。人間同士のことだから、地区内の水をめぐる小競り合いくらいはあったそうですが、それも話し合いでちゃんとカタがついたそうです。
・旱魃について
旱魃のときには川内内で、区長さん達が中心となり水回し(時間給水)を行ったり、番才ダムの水を放出したりして工夫したそうです。1994年の大旱魃は、杉やヒノキといった林の木も枯れてしまう程大変だったようでした。これを乗り切る為に水の権利は部落で管理し、昼夜を問わず水番をし、また堰で水が上がらないのでポンプを使って水をくみ上げたりしたそうです。ただこの時は犠牲田は作らなくても良かったそうです。もっと以前には、田を犠牲にして水田に溝を入れ水を通す、というようなこともあったということでした。
川内では雨乞いをすることはなかったそうで、少し残念でした。ちなみに、筆者3人のうち2人の地元である鳥取県では、しゃんしゃん祭りという傘を使って踊る雨乞いの祭りがあります。効果の程は定かではありません。
・災害について
旱魃の他にも、平成12年9月には台風の被害にあい、13町全部の稲が倒れ、倒れた稲が発芽してしまい、一等米がとれず米の品質が低下してしまうこともあったそうです。しかし、川内は既に専業農戸は、全川内農戸34戸中2戸(米の専業は0戸)になっているそうで、幸い生計は何とかなったようです。他にも昭和52年には台風で杉の木がたくさん折れたということもあったらしいです。
・村の耕地について
川内は山あいにあるため山陰で日照時間が少なかったり、小さい田が多いので‘やぐらしか’(面倒くさい)くて、裏作ができず、ほとんど湿田だったそうです。川沿いは山陰にならないので少し乾田があり、そこではほとんど麦を、それと少し菜種を植えていたということでした。私達が乾田の具体的な場所をお聞きすると、
「単純ばってね。」「ここんだらはできようなかった。」
と言われながら、自分でペンを取り、地図に範囲を書きこんでくださいました。米も日照時間によって収穫高に違いがあり、良い所では8俵とれたけれど、悪い所では6俵しかとれなかったということでした。またこのころは良い農薬もなかったそうです。化学肥料が入る前は、牛や馬のたい肥がほとんどで、他にれんげ草や大豆を水田にまいたり、まだ成長していないやわらかい貝殻をまいたりしていました。
始めは割と標準語でのお話でしたが、この頃から大分うちとけて、だんだん佐賀弁が多くなってきました。
・耕作に伴う慣行について
次に耕作に伴う慣行についてお聞きしました。ゆい(共同作業)はどのようなものだったのかお尋ねしたところ、
「部落みんなでしたのは、大水害があった37年から田んぼを配分する40年まで。一緒に稲刈りをして、まず田ごしらいたいね。田ごしらいをして、田植えも一緒、そいから収穫までたいね。」
と話して下さいました。大水害で稲が流れるまでは、個人ごとで稲作をしていたそうですが、この大水害後3年間は、自分の田んぼの権利は投げ出して、全員一致で協力し、稲作にあたったそうです。収穫高が多い田んぼと少ない田んぼが助け合って、この水害に対処されたそうです。やはりこの水害は大きな影響を与えたのだと知りました。この水害以前は、親戚同士で、米作りを助け合い、手伝い合うこともあったそうです。
ここで、私達が「ゆい(共同作業)で手助けしたお礼はなされていたのですか」「先程、農作業は、ほとんど牛を使っていたとおっしゃっていましたが、牛を借りた場合は、牛にもお礼をしていたのですか」などと、共同作業のお礼の質問を繰り返していると、その時はお話になっていなかった坂本さんが、私達の目を見ながら、優しく、私達の行動をたしなめるように、話し始めました。
「あんた達ちょっと話すばってんさあ、今は、例えば一時間手伝うと一時間の賃金をやるとかそういうふうなことが当然のようにあんた達は思うばってんね、昔はね、人情的にね、困ったりしたら‘いなや’といって(‘いなや’って‘お互い’っていうことでね)手伝う、加勢するっていうことが当然のようにね、人情的なことがうちの部落ではあってきとうけさ、安くしたけん安くお礼っていうふうなことではのうしてね、お互いに助け合う気持ちが強かったばってん・・・」
私達は、何かをしてあげたら、何かお礼が返ってくるものだという前提で話を進めていました。アルバイトなどのことなどが頭にあったのかもしれません。しかし、坂本さんのお話を聞き、人間関係で大切なのは、困った時にお互いに助け合う心のつながりの面だということに気づきました。また、坂本さんが、人情的なつながりが強い川内を、誇りに思っていることも感じられました。
そして、「あぜに大豆や小豆を植えることはありましたか」とお聞きすると、昔は食べるためにあぜに大豆を植え収穫していたとおっしゃっていました。しかし今は、圃場整備がなされ、あぜはコンクリートとなり、また減反政策がなされ、水田ではなくなったところに大豆を植えるようになったため、あぜに大豆や小豆を植えることはなくなったそうです。
次に、農薬のなかった時代はどのようにして防虫していたのかお聞きすると、石油を使った方法を教えて下さりました。二人一組となって、一人が少し石油を田んぼの水の上に落とすとすぐに、もう一人がその部分を蹴って石油を広げます。そうするとひるなどの虫を殺すことができるそうです。石油は当時貴重だったので、ビール瓶に竹をさしたものを使って、少しずつ田んぼに石油を落とすなどの工夫をしていたのだと話して下さいました。3,40年前頃までされていたそうです。本当に石油を使って虫を殺していたことがわかり、驚きました。
・農作業に伴う楽しみ、苦しみについて
農作業では、早植え(わせうえ)といって、皆で田植えの前に「さあ始めよう」という気持ちでお祝いしたり、早苗振り(さなぶり)といって、皆で田植えの後に「終わったない」という気持ちでお祝いしたりすることもあったそうです。その費用は皆で分担しました。稲刈りの後には後述にある権現祭りが行われます。「農作業では、他にはどんな楽しみがありますか」とお聞きすると、
「なか。農作業はきつかばかりたい」
と笑っておられました。後は個人個人で「今年は多くとれた」という喜びなどだそうです。
次に農作業に伴う苦痛についてお聞きすると、少し間があってから、まず最初に「不作の時の金銭的苦痛」を挙げられました。更に「台風被害、折角二毛作で麦を作っても採算がとれない、急いでした区画整備だったので水はけが悪い」といったことや、国の減反政策に対する不満、外国の農作物が増え過ぎて日本の農作物を駆逐する勢いであることへの不満などたくさんあり、農業の厳しさを改めて感じました。
ちなみに田んぼにはカエル、ドジョウ、エビ(小さいの)、シジミ、ヒル(少なめ)、タニシ、ガなどがいたそうです。油による殺虫工作はヒルとガ以外の上記の動物には影響を与えませんでした。
・村の生活に必要な土地について
次に村の生活に必要な土地について伺いました。「山をどのように利用していますか。例えば草山や松山や杉山などですけど」とお聞きすると、ほとんどが杉山であり、松は松くい虫でだめになったとおっしゃていました。筆者のうちの一人の地元でも、昔海からふく潮風を防ぐために作られたと言われる松原が、松くい虫の被害でだめになりつつあり、年に数回ヘリコプターで殺虫剤の散布作業が行われているため、このお話は実感を持って聞くことができました。それから、
「戦時中から終戦後5、6年頃まで杉や檜を伐採した所にね、植林ばしながら、開拓、山ば開いて一毛作したりしよったとね。何ば作りよったかというと、いもや麦やすいかとか。こちらではアラキ(荒木)っていいます。畑、山のことを。アラキ(荒木)ば開拓してって」
と少し笑いながら教えて下さりました。しかし今では人工林が増えてきているそうです。
そして、「村の共有の山林はありましたか」と尋ねると、あったそうなので地図に場所を描いていただきました。その地図を見ると、入り会い山は、村の住宅がある場所からかなり離れていました。ガスが普及する前、村の人達がご飯を炊いたり、お風呂を沸かしたりする燃料として使っていた薪や、田に入れる肥料(草)をとってくるのに、入り会い山が離れていては苦労したのではないかと思いお聞きしてみると、昔を思い出されたように大きくうなずかれ、
「そうだよー」
と言われ、その大変さを話して下さいました。リヤカーや大八車や天秤を使い、1日がかりで運び出されていたそうです。「大変だったんですね。」と言うと、
「大変も大変、共同風呂といってね」
と、昔のお風呂について話して下さいました。昔は、少ないところで3〜4軒、多いところで10軒ぐらいの家が共同でお風呂を使っており、掃除などの当番も決まっていたそうです。
「昔は貧しかったからね」
と、共同でお風呂を使うことによって、薪や水や労力の節約ができていたことを話してくれました。お風呂を焚くための薪は、お風呂を持っている家の人達が冬にまとめて取りに行っており、薪を誰かから買うことは、ほとんどなかったそうです。昔の苦労と工夫がとても良く分かりました。
草切り場や焼畑はなかったそうです。また、炭について尋ねると、収入源としては作っていなかったけれど、火鉢の中に入れて暖をとるために自家生産していたとおっしゃっていました。一窯600kg弱作り、湿気がこないよう床下に保存していたそうです。収入源としてではなく、家庭用として作られていたものも結構あるなぁと思いました。
・米の保存について
「米は農協に出す前は誰に渡したり売ったりしていましたか」とお聞きしたところ、お二人の頃には既に農協に出していたというお話でした。次に、地主と小作人の関係について聞いてみると、やはり昔は小作人よりも地主の方が立場が強く、小作料として、収穫量の半分くらいは取られていたのではないかということです。小作米として出す米は一等米で、小作人の人は一等米にくず米を混ぜて食べていたそうです。小作人の人は大変だなぁと思って話を聞いていると、村田さんは
「今は逆ばってんね。今はもう、何もいらんけ作って下さいっていうような時代になってしもうた」
と少し残念そうに付け加えられ、地主と小作人の立場の逆転に日本の農業の衰退が実感させられました。
家族で食べる飯米は‘ハンミャー’と呼んで、まず紙袋に米を入れ、それを俵の中に入れて保存し、米虫やネズミを避けたそうです。次年度の作付けに必要な種籾の方は、種籾を天日で乾燥させてから紙袋に入れ、ネズミが来ないよう天井から吊るしていたそうです。今は種籾の乾燥は天日ではなく乾燥機です。
50年くらい前は、貧しくて、米と麦を1:1の割合で一緒に炊いたり、小さく切ったいもや大豆を混ぜたりしていたそうです。稗や粟は主食になったり、おまんじゅうにしておやつになったりしました。「(ご飯が麦が混ざって)真っ黒かったもん」
と、村田さん。
・食べ物について
その他の食べ物についてお聞きしました。上手に作るのが難しい干し柿について尋ねると、干し柿は、風通しが良いところで干す必要があり、非常に天候の影響を受けやすいそうです。重ならないように吊るすのが大変だとおっしゃており、また、干し柿は何年も保存ができると聞いてびっくりしました。もっとも、堅くなるそうですが。
栗は自家用として一部栽培している人もいたし、山に取りにも行ったそうです。栗は一ヶ月も保存できないそうで、皮付きの栗は虫が来るので、皮をむいて冷蔵庫で保存すると良いらしいです。栗はイノシシが荒らしに来て、食べられることもあるそうです。また、栗は干すことはないそうです。
その他に、自家用として、シイタケを作っていたことも話して下さいました。なすやきゅうりや大根は、なっているのちぎって、そのまま生で食べることもあったそうです。
・村の動物について
村には牛や馬、豚がいたようです。牛は各家庭に大抵いて、子供を産ませて儲けるためにも、ほとんど雌だったそうですが、馬は雄雌どちらもいて、ただし、村で持っている人は少なかったそうです。馬は去勢することはなかったけれど、豚は去勢していました。豚は肉用です。
馬も牛も同様に川のどこへでも連れて行って体を洗ってやったので、特定の場所はなかったそうです。
ばくろうさんもいたそうで、「口がうまいというのは本当ですか」と聞くと、
「そうそうそう。だましてもうけものする。口も上手でないといかんと」
と、笑って言われました。売る人とばくろうさんのモメ事もあったそうで、そのために仲裁する人もいたらしいです。
・村の道について
川内から山浦などの隣村へ行く道には、まず中川沿いの、現在の県道があります。この道は、昔は現在のようなコンクリート道ではなく砂利道だったために、水害などの時には、川からあふれた水で道がよどんでしまい、村の人達で砂利を運んできて整備しなければならなかったそうです。そうした整備の関係上、道の村境も昔からきちんと決められていたようです。川沿いの地域にとっての水害の影響の大きさを改めて感じました。隣村へ行く道には、この他にオチャゴミチと呼ばれる里道(リドウ)があります。
「今は車でばかり行くけんが、そういう小さか道は通らんけど、昔は歩いて行くけん里道とかなんとかをだいぶん利用しよった。この辺の隣さ行く細か道はオチャゴミチと言うたりしてね」
と、言われながら、里道の位置を地図で示して下さいました。
学校へは、昔も今も現在の県道を通り、3,40分かけて通うそうです。狭い橋を渡れない牛のために、回り道することはなかったか尋ねると、牛はほとんど人間と同じ道を通り、特定の道はないとのことでした。
川内は山間の地域なので、塩や魚は、それを専門の商売にしている商いの人が浜から運んで来ていたそうです。浜とは川内周辺で港に最も近い浜町のことで、毎日新鮮な魚が運ばれてきました。
峠は、浄土山の山頂部、標高500.8mの辺りです。この峠を越えてくる動物については、イノシシ、ウサギ、タヌキなどを挙げられていました。動物道は山の中の獣道なので、正確な位置は分からないとおっしゃっていましたが、イノシシは本当に堂々と山中から出てくるので、そこを狙って罠を仕掛けたりすることはあったそうです。
・まつりと行事について
川内で行われるまつりや行事については、村田さんがあらかじめ調べて下さっており、前述の川内の行政、今日までの歩みなどのお話の後にこの行事についてのお話を伺いました。
それによれば、まず8月25日に夏祭りが行われます。このお祭りは天神様を祀るものなで、別名天神祭りとも呼ばれます。「このお祭りは稲作などに関係のあるものだったのですか」と尋ねると、
「昔のあげんとはあんまり分からんけど」
とおっしゃいながらも、おそらく無病息災、五穀豊穣を祈願するものだろうと答えて下さいました。
「そこではね、一声浮立ていうてばい、若い人がね、お盆前頃から練習ばするわけよ。そしてその祭りに備えてたたいてもらうと。区長さん方から出発して、そしてこの神社に着くわけたい」
と、天神祭りについて説明して下さったのですが、一声浮立を知らなかった筆者には、今一つ想像がつきませんでした。そこで、一声浮立についてお聞きしてみると、太鼓や笛などで演奏しながら行進していくものとのお話でした。20代から70代まで、幅広い年代の人々が奏者となるそうです。筆者の住む地区ではこのような行事がないため、一声浮立のお話を聞いて、川内の人々の結びつきの強さを感じ、また、とても楽しそうだという印象を受けました。市制施行になる前、昭和29年頃までは、一声浮立の後に川内の女性部の方々が踊っていたそうですが、今では踊ることはなくなったそうです。
「今はもう時代の変わって、テレビのあったりなんたりで、そげんことは流行らんごとなったんたいね」
と少し残念そうにおっしゃった後、
「今はしかし、その代わりにね、カラオケ大会。飲みながら、カラオケでも歌うたりしてね」
と笑っておられました。
次に祭りではありませんが、琴路神社への通夜(トオヤ)があります。これは鹿島、能古見の中の氏子の関係で行われるもので、天神祭りと同じく無病息災、五穀豊穣を祈願するものです。8月31日が一番通夜、9月10日が二番通夜、9月20日が三番通夜にあたります。これらの受け持ちが、8年に一度、各部落に回ってくるそうです。川内では、去年は神社のお世話や催し物の企画を担当する‘ウケムラ’の、そして今年は一声浮立を随行する‘オトモ’の当番が回ってきたそうです。
12月14日、もしくはその日に最も近い日曜日には、権限祭りがあります。この日は、お昼に川内中の人々が集まって、お食事会をします。その年の無病息災、五穀豊穣のお礼といった意味があるそうです。琴路神社の宮司さんを呼んで行うので、琴路神社ともつながりのあるお祭りかもしれない、とのことでした。
この他の行事としては、川内とその周辺の五部落親睦ゴルフ会があるそうです。もう一つ、大日さんと呼ばれて祀られているものがあるそうなのですが、由来など、正確なことは不明なのだそうです。ただ、一説によれば、昔戦に負けて島原から逃げ延びてきた武士を祀ったものではないか、ということでした。
現在行われている祭り、行事は以上ということだったので、ここで、昔行われていたけれど現在は行われていない祭りがないかどうか伺ってみました。すると、昔は春と秋、田植えと稲刈りの時期に、農家の祭りである社日祭りが行われていた、とのお答えが返ってきました。祭りの意味、形式、共に権限祭りと同じであるために、今では社日祭りは権限祭りに含まれているのだそうです。また、この後話を進めていく中でふと思い出されたように、開墾祝いのことも教えて下さいました。前述のように、川内では数年かけて開墾がなされてきたわけですが、その開墾を記念して、昭和24年頃まで毎年4月17日に行われていたそうです。内容は、開墾地で皆で餅つきをし、お面をかぶって浮立をするというものでした。
・村の発達について
川内に電気がきたのは、大正時代のことです。お二人は昭和のお生まれなので、電気がくる以前の生活は分からないとのことでした。しかし、電気は当時主に明かりのためのみに使用されており、また、全ての部屋に電気を引くわけではなく、別棟の小屋などではランプやロウソクの明かりで代用していたそうです。
プロパンガスは昭和30年頃にはきていましたが、節約、節約の時代だったっため、食生活などで大々的に使われ出したのは昭和40年頃のことだそうです。それまでは台所仕事にも風呂だきにも、山から自分達で取ってきた薪を使っていました。薪は、ガスなどに比べて湯の保温力が高く、現在でも、風呂に薪を使っているところもあるそうです。
・昔の若者について
まず、「テレビも映画もなかった頃、夜、若者は何をして遊んでいましたか」と質問すると、すぐに「青年クラブ」とのお答えが返ってきて、驚きました。自宅で夕飯を取った後、学校卒業後から結婚前までの男子が、皆公民館に集まり、毎日そこで寝泊りしていたそうです。女子は、公民館ではなく各家庭に集まって、裁縫などをしていたそうです。現在では考えられないようなことなので驚きましたが、昔はそれが当たり前で、逆に青年クラブに行かないということは、考えもしないことだったようです。
青年クラブでは年に一度、春に、4,5日家に帰らずに遊んだり、ということもあったそうです。これには決まった名前は無いようでしたが、春なぐさみとか春酒飲みとか呼ばれていたそうです。11月15日には、お日祭りという、太陽への感謝のお祭りがありました。この日は、夜明かしして餅つきをし、その餅を太陽が出る前に太陽に捧げるのだそうです。また、前述の一声浮立の練習も、田植え後、この青年クラブでやっていました。遊びとしては、腕相撲や相撲で力比べをしたり、時にはお墓へ肝試しに行ったりもしたそうです。青年クラブは上下関係が厳しく、肝試しの時には、先輩からコンニャクでおどかされたりもしたそうです。また、先輩から、果物泥棒をしてこいと言われたり、からかい半分で、絶対にないようなものを借りてこいと言われたりもした、と話して下さいました。果物泥棒は、特別な日にも許されてはいませんでしたが、大目にみてもらえることはありました。青年クラブは自警団のように活動することはありませんでしたが、青年クラブと消防団とは、ほぼ同じものだったそうです。青年クラブのことは、お二人ともとても楽しそうに、様々な思い出を語って下さいました。
隣村の若者が遊びに来ることもあったそうですが、普通に友達同士で、妨害したりということは全くなかったし、こちらから遊びに行くこともあったそうです。水利に関してもそうでしたが、川内では、あまり他村との争いといったことはなかったようです。
犬を食べるかどうかについては、最初にも少しお聞きしていたのですが、青年クラブで特に食べていたというわけではなく、食べ物が無い時に家庭で食べていたそうです。食べ物が無い時は、犬はお御馳走で、特に赤毛の犬がおいしいと言われていました。野良犬を捕まえて食べるのではなく、食べるのは、大抵、自分の家の飼い犬だったようです。
次に若者の恋愛のことをお聞きしました。男女が知り合う場には、学校卒業後の青年学級が挙げられます。これは、講師を雇って話しをしてもらったりするもので、男女参加だったそうです。この他に、男女参加の大きな組織である青年団もありました。恋愛は基本的に今と変わらず自由でしたが、地主と小作人のように階級差のある恋愛は、やはり反対されたそうです。‘ヨバイ’の風習について思い切って伺ってみると、あったとのことでした。なかには、子供ができて、結婚する人もいたそうです。前述の春なぐさみの日や8月7日の七夕の日などは、女性が泊まっているので、村田さんも女性がまだ起きている時にそこに遊びに行った経験ならあるとおっしゃっていました。ただ、村田さんの世代では、まだこの風習はあったそうですが、坂本さんの世代では、もう行われていなかったそうです。
結婚の話がでたところで、村田さんが、私達に結婚についてどう考えているか尋ねられ、それぞれの考え方はあろうけど、結婚はした方がいいと言われました。そしてその理由を、現代日本においてしばしばとり上げられる問題である少子化、高齢化問題とも関連して話して下さいました。私達が神妙な面持ちで伺っていると、話し終えた村田さんは、
「ちょっと堅苦しい話になってしもうたね」
とちょっと照れくさそうにおっしゃっていました。
最後に20分ほど余った時間を利用して、すぐ近くの有徳稲荷に連れて行っていただきました。お忙しい中、長時間に渡って質問し続けたにも関わらず、一つ一つの質問に大変丁寧に答えていただき、また、大変親切にしていただきました。この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。