伊藤さと子
稲永晶子
大脇知子
残る人数も少なくなったバスから降りると、私たちは早速歓迎された。小さな猫が、少し丘になったところから近寄ってきたのである。とてもかわいらしい猫だった。野良猫なのか、それからしばらく私たちの後をついてきた。今思うと、その猫が、緊張気味であった私たちをリラックスさせてくれたおかげで、今回の実地調査を楽しく行うことが出来たのかもしれない。
到着時刻は11時。今回訪問する予定の中村巧さんとの約束は12時半であったので、1時間以上の時間がある。とにかく中村さんの家を確認しておこうと、私たちは、住宅地図を持って歩き出した。コピーした住宅地図の継ぎ目を見間違ったためか、行き過ぎたり困ったりした。が、そのおかげでこの付近に流れる大きめの川(中川)や、田んぼを眺めることができた。
暫くして中村さんのお宅を確認したが、まだ時間はたっぷりあった。そこで、見たことのない場所への興味に誘われて、さっきから視界に入ってくる川の方へ行ってみることにした。田んぼの中には、神社らしき建物が見えた。近寄ってみると、なんとなく厳かな感じがした。鳥居の横に、白い布が3枚ぶら下げてあるのが目に付いた。何かのおまじないだろうか、そう考えると子供のようにわくわくした。また、行く途中に目に入ったのだが、家先にお地蔵様が祀ってあるところがあった。デジカメを貸して頂いていたので、シャッターチャンスとばかりに撮った。川付近を歩いた後、道路に対して川と反対側にある丘のほうに行ってみたが、そこでもお地蔵様のある家を確認した。自分の地元にはないものなので、後で中村さんたちにこのことを聞いてみようと質問のことに思いをめぐらすと、早く話をしてみたくなった。
いろいろなところを見てまわり、気が付くと約束の時間の5分前だったので、中村さん宅へ向かった。ベルがなかったので、大声で呼んでみる。ところが、なかなか中村さんは出てきてはくれない。どうやらご在宅ではないらしい。私たちの班は3人組だが、そのうち2人は前期にも実地調査に行ったことがある。前回電話をしたときにあまりいい答えをもらえなかった経験が、頭をよぎった。幸いにも、そのときは当日に誤解のあったことが分かったが、今回は果たして大丈夫だろうか・・・という不安がこみ上げる。電話でアポをとった人も、責任を感じてしまう。今回が初めてであった人は言うまでもなく、心細くなる。いやな空気が広がった。隣のお宅を伺うが、こちらも不在。公民館へ行ってみたが、開いていない。死にそうなくらい焦る。気を取り直して、中村巧さんのお宅へもう一度行ってみた。声が聞こえてなかったのでは、と思ったからだ。家の前に行くと、先ほどはなかった車が一台。
今度はすぐに中村さんが出てきてくださった。中の部屋に通されると、暖かさにジーンとした。歩いているときに見かけたみかんが机の上に置いてあり、とてもおいしそうだった。暫く待っていると、近所で一番の物知りであるという井手口清男さんを呼んできてくださった。
こうして聞き取り調査は始まった。まず、何よりもしこ名を聞かねばならない。字としこ名の違いを説明すると、中村さんが大きな地図を持ってきてくださった。地元でまとめている図である。その地図と、井手口さん・中村さんの話を下にして、用意した地図に言われるとおりに地名を落としていった。北のほうから、峰(ミネ)・久エ門(キュウエモン)・内篭(ウチノコモリ)・松ノ原(マツノハラ)・才上(サイジョウ)・真崎(マッサキ)・北貝瀬(キタカゼ)・和田丸(ワタマル)・中島(ナカジマ)という地名を検出した。ちなみに、北貝瀬は貝瀬の南に位置するが、これより南の土穴という部落に南貝瀬が存在するらしい。後になって分かったが、これらのほとんどが小字と同じであった。私たちの説明が不足だったのか、この付近ではさほど地名が消されなかったのか、それとも、もうすでに昔の地名を知る人が居ないのか。可能性は様々だが、お話を伺った方は大学卒、ということで尊敬を集めていらっしゃったが、その分しこ名のようなものはあまり覚えていらっしゃらなかったのかもしれないとも考えられる。
ここを流れる川は中川と地図に書かれているが、地元の人は大川とか、本城川などと呼ぶらしい。大川という呼び名は、以前の実地調査でも聞いた。一般的に、大きい川が近くに存在する地元では、その川をこのように呼ぶようだ。本城川と呼ぶのは、これより上流にある地名に由来する。この中川は貝瀬の北のほうで別の流れと合流しているが、この川全体をさして木庭(コバ)川という。もっとも、これは少し昔の呼び名で、今ではあまり言わないらしい。
田んぼの多いこの地には、やはり水路が多く存在し、土穴部落から中島・真崎を流れる水路が真崎水路(棚溝水路ともいう)、その真崎水路と川を隔てて反対側から出ているのが峰水路と花木庭(ハナコバ)水路だ。真崎水路は、途中壊れている箇所があったのを、近年修理して使うようになった水路だ。峰水路と花木庭水路の井関の間は50mほどで、この2本は途中で合流し、再び分かれている。松ノ原にその分岐地点があるが、そこから峰のほうへ下って中川へ注ぐのが峰水路である。もう一方の花木庭水路は、3km下流までずっと流れているという。また、この付近の人たちは井関のことを「大湾(ダイワン、あるいはジャワン)」というそうだ。「イゼキ」という漢字にクエスチョンマークを浮かべている私たちに微笑みながら、昔はジャワンで泳いだものだ、と、井手口さんが教えてくださった。
貝瀬の北にある山のほうには、人工のため池が2つあった。諸干下堤(モロホシシタツツミ)と、諸干上堤(モロホシウエツツミ)だ。貝瀬の人は、2つを合わせて親子堤と呼ぶ。この地方の豊富な水資源がわかる。近年、この堤ではブラックバスが捕れるということで、春にはいろいろな人でにぎわうそうだ。中村さんが、本当にたくさんの人をご覧になったのだと思わせる、なにやら自慢気な表情で話された。
貝瀬は、中川付近でも比較的上流に位置して、井関が近いため、優先的に水をとることができた。したがって、旱魃などの被害には比較的遭いにくい土地である。水乞いという儀式もなかったようだ。1994年の大旱魃のときも、
そこで一息ついたので、気になっていた質問をしてみた。まず、家々にあるお地蔵様のことだ。井手口さんたちの説明によると、これは蓮厳院(レンゴイン)という4km下流にあるお寺の影響と考えられる。蓮厳院は、782〜805年ごろ、桓武天皇の治世の世で建てられたという。国宝に指定されている仏像も納められている。ここにいらっしゃる大師様は、ある時期になると白装束でこの付近を歩かれるそうだ。そのときは、ここにすむ人たちは、毎朝6件くらいがお茶だしをするらしい。それぞれの家がお米をあげると、大師様はそのお米を持ってお帰りになる。
蓮厳院の詳しい話を伺いつつ、そういえば、と思って、質問したかったもう1つのこと、神社にあった3枚の白い布についても伺った。実は、これも蓮厳院に関係していた。岩屋という土地から蓮厳院にお参りする人が、この貝瀬を通るときに、その神社にお参りし、そのときに手を拭くためにつるしてあるものだという。おまじないだと信じ込んでいたので、密かにガッカリした。この神社は、貝瀬天満宮という名前で、地元の人が「天満宮」という場合はこれを指す。貝瀬天満宮は、知る人ぞ知る、という学業の神様の神社らしい。中村さんたちのお話では、この付近には縁のない遠い土地に住む人がお参りに来ていたことがあるそうだ。
この天満宮を中心にして行ったりそうでなかったりマチマチだが、この土地には、いろいろな儀式・祭りがある。田植えの時期には、毎年決まってすることがある。田植え前には皆で溝そうじ、田植えの後には願成就(ガンジョウジ)だ。溝の手入れは、下の部落からも頼まれることだそうだ。この点は、水源に近い貝瀬の大変な点であるだろう。願成就は、昔は天満宮だったが、今では公民館で行うようになったらしい。夏、7月25日には、天満宮祭が行われる。そして11月15日には、感謝祭として「お日待(オヒマチ)」が催される。14日の晩から始められ、15日の朝は皆が早起きしてもちをつく。ただし、11月15日という日付は、最近ではあまり正確には守られず、この日の来る前の土曜の晩から日曜の朝にかけて行われる。近年、農業だけでなく別の仕事も持つという人が多くなったためだ。このようなことは、ほかの地方でも見られることであろう。あまり関係はないかもしれないが、1月15日から1月の第2月曜に変更された成人の日が連想された。
ここでは、上に挙げたように、お米やみかんが主に作られる。米を育てる田んぼは、やはり圃場整備が行われた。それ以前は田によりいろんな形・段差があったけれども、整備することで機械の入りやすい四角い田になった。数では50枚ほどあった田は、約10枚になってしまったという。
機械の入ってくる前は、田植えの準備としてまず鍬で田をおこし、それから牛に鋤を引かせ、田をならしていたそうだ。みんなで行う手作業は、結(イイ)と言っていた。買っていた牛はほとんどメスだった。メス牛が産んだ子を、副産物として売るためだ。牛の売買をする業者はバクローさんと呼ばれた。彼らは、口が上手く、その取引は2,3時間くらいかかったと言う。ここで、急に井手口さんが私の手を取った。何事かとドキドキすると、値段の交渉は、タオルなどの下でそのように手をつないで「この値段で・・・」とこっそりきめることもあった、と説明してくださった。同時に、豚も飼育していたが、これは残飯を食べさせるためであり、売るためでもあった。
作られた米は、昔は、礼米(小作料)として納めたり、産業組合に出荷したりしていた。礼米は、田の等級によって差があり、良い田では礼米は多く納めなければならず、悪い田では少ない量収めるよう決められていた。産業組合とは、今でいう農協のことだ。これ以外にも、昔から米屋さんは多かったらしい。
米だけでなく、この地方では色々な作物を作ってきた。主要な作物として、平地では米の裏作である麦の生産が挙げられる。貝瀬にある田んぼは、乾田も湿田もどちらもあった。多いのは乾田で、ここでは良い麦が作れる。昔は、田んぼの畦道を利用して豆類を育てたりもしていたという。もっぱら自分の家で食べるためであったらしいが、今ではそのようなことはしていない。逆に、ほとんど水路の近くに存在する湿田では、麦は作れない。山地では、99パーセント近くみかんを栽培している。ぶどうやキウイなども作っているそうだが、みかんに比べるとかなりまれである。ハウス栽培は、基本的に行われていない。また、近年の減反政策によって米を作ることができなくなった土地では、大豆の栽培などが始められている。大豆を一晩つけておいて、朝つぶして食べるのが、とてもおいしいという話を伺った。大豆は輸入が多いと中学・高校の頃に聞いた気がするので、ここで国内産の大豆が栽培され始めたのは、心なしうれしく感じた。
肥料や害虫対策なども、以前と今では大きく変わった。昔は、田や畑を使わないときには、そら豆やれんげ草を育てておいて、それを枯らして肥料にしていた。害虫に対しては、田んぼに菜種・椿油が少しずつ出てくる仕掛けを作っておき、油によって息をできなくさせる、という方法をとっていた。今では他の地方と同じく、化学肥料や農薬を使用しているそうだ。農薬は、使い始められた頃に比べて今の使用量はとても少ない、と、お2人は強調された。年に5回くらい行われていた散布は、2、3回になった。一時期、農薬は体に悪いとマスコミがかなり騒ぎ立て、それ以来人々の農作物への意識も高まったので、その影響かと思われる。
化学肥料・農薬というと、現代社会の産物、というイメージが強い。まぎれもない現代社会の産物の代表例・電気がこの地区にひかれたのは、今から約100年前らしい。70歳の井手口さんが子供だった頃には、電気とランプがどちらも使われていたそうだ。ガス(プロパンガス)は、昭和30年くらいに来たのではないか、という話だった。昭和24,5年ごろに東京に来ていたようなので、こういったものが地方に広まるのは、現在よりは少し遅かったと考えられる。
ふと思い出したので、さっき見たかわいい猫の事を聞いてみた。どうやら野良猫のようだ。ここには、米を作っていることもあり、ねずみが大変多いという。だから、付近の家では、猫を飼ったり、ゴキブリ用の団子を置いておいたり、ネズミ捕りの30cmくらいの罠を仕掛けたりしているそうだ。中村さん宅でも猫を1匹飼っているらしい。かわいい、かわいいと自慢の的だったその猫には、残念ながら私たちは1度も会えなかった。この付近で飼われている犬・猫は、合わせて8匹ほどだ。ノラ、というと、これまではほとんどが猫だったそうだが、最近、1匹の野良犬が確認されたそうだ。何処か別の土地に住む人が、山奥に捨てに来たということだろうか。
ねずみは米などしか食べないが、人間は様々なものを食べる生き物だ。中川の豊かさに恵まれたこの地の人々は、多くの魚を取った。ハヤ(ハエ)が最もたくさん取れ、ウナギやナマズ、コイ、フナ、アユなども取れた。カニも取れるそうで、もずくガニというとてもおいしいカニがいるらしい。10〜11月、雨が降ると海に下るので、川の流れを中央に寄せて、そこにかごを置いて捕った。捕れる時には、50〜100匹ほども捕れるという。海のカニよりもおいしい、と語られるそのカニを、ぜひ一度食べてみたいものである。
地上の動物では、キツネ・タヌキ・イノシシを捕らえた。イノシシは、ミミズを食べようとしてみかん畑を荒らすので、罠を仕掛けたり銃を使ったりして積極的に捕る。刺身にしたり、油をとったり、木の実や根とともに調理して食べる。刺身、と聞くとピンとこないが、おそらく、牛のタタキみたいなものであろう。
戦時中の、食料のあまりなかった頃の話も伺うことができた。学校には、10〜100匹のウサギがいた。井手口さんは、授業の一環として、そのウサギの解体・調理を行ったという。ある地方では飼っていた犬を食べたという話を聞いたことがあったが、ウサギを食べたと聞くのは初めてだったので、少なからず驚いた。ウサギは、捕まえたらまずぶら下げておき、ナイフできれいに皮をはぎ、そして他の肉と同じように料理して食べるらしい。また、学校で飼っているウサギ以外にも、山にいる山ウサギを捕っていたそうだ。山ウサギは、5・6月のみかん畑に来る。手づかみで捕まえられる、といって、井手口さんは片手で空をつかんだ。実際に、井手口さんは20年で20匹くらい捕まえたことがあるらしい。飼おうと試みたが、いつも逃げられるそうで、飼いにくい、と残念がっていらっしゃった。
戦時中・前には、白米を食べる機会もかなり少なかった。白米は年に2.3回しか食べられなかった。他のときは、米と麦を約1:1の割合で麦ご飯にしていた。貧しいときには、麦の割合がもっと高くなるそうだ。ちなみに、ここでは3種類の麦を栽培している。そのうち大麦は当然ながらビールに、小麦は多様に、そして、残る「はだか麦」というのが麦ご飯に使われた。今では、家族分のお米である保有米、出荷用のお米である自家米ともに、十分ある。ヒエはほとんど食べなかったし、アワもまれで、正月に粟餅を作って食べる程度であった。
中村さんの家からすぐの所に、コイの泳ぐ小さな池があった。こういったものも食べたのか聞いてみると、やはり食べていたらしい。庭にコイ、縁の下にはニワトリを飼っていた。体調の悪い人がいたら、そのニワトリをつぶし、肉が取れない骨を炊き込んで、スープにした。また、コイを味噌汁に入れたりもした。このような栄養のある料理を食べることで、1週間もすればすっかりよくなったそうだ。
昔は、子供が農作物を泥棒するという話もある。井手口さんに、そこのところを伺うと、「当然、」と、盗んだことのある例を挙げてくださった。スイカ・柿・なし・饅頭・びわ・桃などがそれにあたる。饅頭はどこの家でも作っていて、冷蔵庫がないので取手付きのかごに入れ、ゲヤという屋根の少し突き出した部分においていた。子供がこれを盗るのは、もう公認の事実であったという。その時代に生まれて、盗ってみたい気がする。
子供が大目に見られたのは、昔の農業における協力体制のためかもしれない。農作業の半分は、早乙女を雇うのと、村民総出でのイイであった。田植えはその代表例であり、これが終わるとサナボリ(早苗振)が行われた。サナボリは、当時の大きな楽しみの一つで、絣のもんぺを買いに行くなどしたという。学校も、「サナボリ休み」になったそうだ。男の子によって作られているクラブも、公民館で寝泊りするらしい。
公民館は、昭和14・5年ごろに作業場として作られた。部落共有の道具(はしご、灯篭など)を置く場所であったが、クラブの活動にも用いられた。現在の公民館は、平成9年に新設されたため、とても新しくきれいである。
男の属するクラブは、春なぐさみや、農繁期に、酒は遊びをしていた。小学生の登下校では6年生が威張っていたように、今よりずっと、先輩・後輩の差は大きかった。他の村の人も、たまにこのクラブに来ており、他の村の者だからといって入れないことはなかった。しかし、女の人は、夜にお出かけをすること自体許されなかったので、クラブには参加しなかった。
こういうと、女の人と遊ぶ機会はあまり内容に思われる。では、どうやって男女はお付き合いを始めるのだろうか。まず、親が息子の結婚相手を捜す、ということが挙げられる。昔は、みんなが歩いて学校へ行っていたので、どこにどんな子が住んでいるのかが分かった。そこで、かわいい人を仲人に頼んで、礼を尽くして取り計らってもらった。今では、3km先の学校へ車で送り迎えをするため、子供たちの把握はあまりできないそうだ。また、ヨバイも行われていたという話を伺えた。この付近の家には、木でつくられた雨戸があった。当然、雨・風用のもので、障子の外側に備え付けられている。これを音がしないようにそっと開けて、忍び込んだわけである。
時間もなくなってきたので、最後に、圃場整理のために変わったことを尋ねてみた。一番大きく変わったのは、田んぼに水を張るときに、1枚ずつ張っていくことが可能になった点だ。以前は、この土地が棚田のようになっているために、上の田んぼから順番に行わなくてはならなかった。何か、悪くなった点も伺ってみたが、これといって何もないとのことだった。
お話が終わり、さて、私たちはどうしようかと思った瞬間、中村さんが、車を出してくださるとおっしゃった。遠くには尼さんが住んでいる浄土山の13仏像(ぶったん)もあるけれども、時間がないので、岩を削った仏像が数対置いてあるお寺に連れて行ってくださるらしい。2時間近くも興味深いお話をおしえていただいた後でお疲れなのに、と申し訳ない気持ちと、感謝の気持ちでいっぱいになった。行く途中に、広大なみかん畑を見た。そのうえ、山道では、丸々と太ったイノシシにも遭遇した。中村さんでさえ、あれくらい大きいのはあまり見ないという巨体に出会えて、うれしくなった。そのお寺にお参りして、岩を削った仏像を拝んだ。仏像は、平成10年ごろに新しく置かれたものもあり、みんなに大事にされている空間なのだと思わせられた。その帰り道には、親子堤である諸干下堤と諸干上堤を見た。水が穏やかにたたえられていた。
中村さんが下さったお菓子とみかんを手に、中村さんの車を降りた。笑顔で去っていかれる中村さんの車に、お礼を言うつもりで頭を下げた。こうして、今回の実地調査は終わった。
実地調査に行くと、必ず誰か知らない人との出会いがある。都会とは少し離れた所に住む人々は、たいていとても温厚そうな方で、親切に接してくださる。憧れのようなものを覚える。今回も、人の優しさに触れることができた。中村さん、井手口さんには御礼の言いようもない。心から、ありがとうございました。