那須怜緒奈
西川晶子
現地に着いたのは午前11時ごろ。約束の時間まではまだ時間があるので、とりあえず飯田の
様子を見て回る。
海岸線の方を歩いてみる。この日はとても日差しが強く、ちょうど引き潮の時間だったこともあ
って、遠くまでからからに水がひいている。
また、高台にある駅から見渡すと、丁度村を囲むようにみかん畑が見える。
約束の時間、中村さん宅を訪問する。ちょうどお客様がみえていて、その方にもお話をうかがう
ことができた。
お話を伺ったのは
中村正幸さん 大正15年12月5日生まれ(なんと、昭和に変わる直前!) 76歳
木原正治さん 昭和7年3月12日生まれ 69歳
まず、私たちの持っていった地図の「小字図」と「小字一覧」にはずいぶん違うところがあった
ので、それが実際にある小字なのか…ということから尋ねてみた。
<私たちが持っていった、小字一覧にあった小字>
大白藤(オオシラトウ)、元浦(モトウラ)、中田(ナカタ)、東(ヒガシ)、押ヶ当(オシガトウ)、善王
寺(ゼンノオジ)、立石(タテイシ)、門前(モンゼン)、八ヶ坂(ハチガサカ)、多良川(タラガワ)、
藤ノ坂(トウノサカ)、田中(タンナカ)、九郎庄ェ門山(クロウショウエモンヤマ)、橋本(ハシモト)、
名切(ナキリ)、狩峰(カリミネ)、石仏(イシボトケ)、山神(ヤマガミ)、川内(コウチ)、百合野(ユ
リノ)、道手(ドウデ)、木場田(コバダ)、七曲(ナナマガリ)、真手平(マテビラ)、平畑(ヒラハタ
ケ)、熊副(クマゾエ)、菅牟田(スガムタ)、海元(カイモト)、飯田搦(イイダガラミ)、一本杉(イッ
ポンスギ)、大崎(ウーサキ)
<実際に存在する小字>
大白藤(オオシラトウ)、元浦(モトウラ)、中田(ナカタ)、押ヶ当(オシガトウ)、善王寺(ゼンノオ
ジ)、立石(タテイシ)、八ヶ坂(ハチガサカ)、石仏(イシボトケ)、山神(ヤマカミ)、川内(コウチ)、
百合野(ユリノ)、道手(ドウデ)、木場田(コバダ)、七曲(ナナマガリ)、真手平(マテビラ)、平
畑(ヒラハタケ)、熊副(クマゾエ)、菅牟田(スガムタ)、飯田搦(イイダガラミ)、一本杉(イッポン
スギ)、大崎(ウーサキ)
この二つの差は、「小字一覧」に載っている小字の中に、「班」というものが混じっているからら
しい。つまり小字と班が混じっているということだ。これはマニュアルに「シュウジ」とかで書いて
あったもので、全部で22ある。分かった範囲で地図に記しておいた。また、どこまでが何という
小字なのか…ということは、複雑なので現地の方にもはっきりとした境界はわからないらしい。
わかる範囲での大体の地域を聞いてみた。大字の範囲が広いので、地図に記していない小
字の範囲を聞いていくだけでもずいぶん時間がかかる。
*飯田は佐賀県で一番広い大字になるらしく、実際持っていった地図よりも広い範囲で
長細い地域だった。特に高い位置にある「七曲」は広い。また、高い位置にたくさんあ
る溜池は、この地域が「国営パイロット事業」という名で山を切り開き、開拓された昭
和初期(ちょうど恐慌のころであったらしい)にできたもので、七曲堤はそのとき作っ
たものを改修したもの。また高い位置に走っている道路もこのころ作られたものが多い
とのこと。
*小字一覧の「飯田村」とは、明治時代の名前。
*「小字図」と「小字一覧」で漢字が違うものがいくつかあった。本当は地籍図(小字
図)の方に書いてある漢字らしい。実際どっちでもいいものだと思っていたのだけれど、
用意した資料と実際の違いの多さに驚くこと数回。中村さんには「あんたたちゃ、よう
調べとる」とほめられたけれど、もっと多くの資料を集めて吟味してから調査に出かけ
ればよかったと今更後悔。
<<「しこ名」について>>
「小字の中にたくさん田んぼがあって、それぞれの田とかをなんと呼んでいたかという名前がわ
かりますか?」と尋ねてみた。中村さんはこちらがお聞きしたい内容はなんとなくお分かりにな
ったらしいのだけれど、「いわれとか知っている人はもう亡くなっているからねぇ」とおっしゃって
いた。ひとつ聞き取れて、「ほかにこのように何人かで呼んでいたような地名はないのです
か?」とお尋ねすると、一部はあるけれど、しこ名自体がない地域もあるらしい。(例えば、地図
に記した「中田(ナカダ)」という地域はしこ名がある。)実際、「この田に行く」などという場合に
は「今日はナカダのうちの田に行く」という場合が多いとのこと。
中村さんのお宅の裏、駅との間(今はグラウンドがある)は、昔は田だったが、その地域は「カラ
ミ」と呼ばれている。これはしこ名ではなく、かつて干拓して、ぬかるんでいた田につけられた
名前らしい。(立つと太ももくらいまでぬかるんで泥だったとのこと)このあたりは「搦=カラミ」と
呼ばれていて、「飯田搦」という小字もこれに由来しているとのこと。
<<村の水利について>>
用水源はため池。
七曲堤・笹原堤・花取堤 …ハマガワから入れて、雨が降った時に水を溜める。主とし
て飯田の上の方にある。昭和初期に新田のためにつくったもの。実際この地域にはたくさんた
め池がある。ため池は村で作っているが、この三つは、国がパイロットで灌漑のために
作った。(昔からあることはあるが、昔はもっと規模が小さかったのを大きくした。)み
かんに水をまくため。七曲堤の水の60%は灌漑用、40%は水田用。
他の村と共有できたのはこの花取と笹原。それ以外は地形の性質上、共有できなかった。
母ヶ浦(ホウガウラ)は西潮浦(ニシシオウラ)と共有。
飯田は共有しているものはない。ため池を部落で持たないのは竜ノ浦。出水(デミズ=
わき水)地帯だかららしい。
水は上から順々に少しずつ流していく。今でも上の地域は圃場整備はしていない。(今
年終わるらしい)ルールは時間をずらして流す(農家の暗黙の協定)ということ。
争いはない。干ばつの時は上の集落の水をせき止めたりしているのを夜にこっそりいっ
てはがしたりした。そのため夜も交代で見張りをした。下の人がはずしにいく、その争
いはある。
水利が強い村は特にはなかったが、昔からここのため池がよい…というのはあった。夕
立が一度来ると溜まった。昔は雑木林だったけれど今は開墾してみかんを植えているの
で保水力が弱く、干ばつになりやすい。
ため池をめぐる行事→花取堤は神を祭っているので神様の祭りはあるけれど飯田には
ない。
<<旱魃について>>
パイロットで配管してあるところから水をもらったりした。飯田は割りと出水が多いの
で大丈夫だった。
パイロット以前は、雑木山があったので、水が足りないことはなかった、昔はこの雑木
山は松茸の宝庫だったらしい(!!)平成6年に、ボーリングした。
犠牲田を作ったことはない。今は減反をしているし、個人の所有物なので。
雨ごい→94年の時は雨ごいした。多良岳に登った。
昔していた雨乞い→朝早くに弁当もって、多良岳に歩いて行った。
この地域は昔から沖の島に豊作祈願におまいりにいくことはあった。6/19(旧暦)、
(8/8)江戸時代にオシマさんという人(名主の娘)が、戸川という場所から雨ごい
のために身をなげた。そして沖ノ島に流れ着いた。子孫もいるらしい。七浦夏祭りを8
/8にする。夜の10時ごろおシマさんのとこに船を出す。昔は部落ごとに船を出して
いたが、今は七浦でまとめてやるようになった。
中村さん「来てみんしゃい(笑)」
雨ごいをして本当に降ったか→
中村さん 「(笑)…雨ごいはね、きかんとよ」
おしまさんだけは普賢岳が噴火したとき以外は毎年行っている。
<<水害について>>
昔被害は3回あった。
昭和22年、当時は川の護岸がしっかりしていなかったので、大雨が降って護岸が決壊
した。今は護岸の補強をしたのでそういうことはない。昭和57年が最後。その時は堤
防が石でできていたので弱かった。
台風被害は必ず稲を倒す。飯田川の決壊というのは今は考えられない。
<<村の耕地>>
「搦」とよばれている所は以前湿田だった。
米はおおむね平均的にとれる。反あたり8俵程度。
肥料→がた。海の泥を乾かして砕いて堆肥と混ぜる。堆肥だけの人もいる。今は使って
いない。圃場整備は今年で終わる。
<<耕作に伴う慣行>>
共同作業は水路の修理などの仕事のことを“シュウイ”と呼んでいた。
そのお礼を“イイシュウ”と呼ぶ。
昔はあぜに小豆を植えていた。てんびん棒(両端がとがっている)で畦に穴を開けて蒔
いた。小豆のせいで田の端の育ちが悪いので今は植えない。農薬まくのにじゃまにもな
る。
小豆をつくっていた理由→耕地が昔は少なかったので。食料源のため。
虫除けの農薬→廃油をまいた。水田にかけて足でけった。虫の気門をふさぐ。
<<農作業に伴う楽しみ>>
共同作業の楽しみ→“たなぼり”さなえ祭りのこと。今はやってない。昔は娯楽がなか
ったのでざるにまんじゅうを外干しているのを道々ごちそうになっていった。(まんじ
ゅう、うどんがごちそうだった)稲刈りのあとはやらない。他に春に同級生が集まって
寄合=春夏会(飲み会)をやっていた、昔は映画とかも
らず、他に楽しみがなかった。
<<村の生活に必要な土地、山の利用>>
入会山は、部落の人に限って枯れた木だけをとってよかった。雑木を切って牛につんで
運ぶ。昔は宝の山だった、みかん畑を作るために木を刈ってしまうのは30何年かかっ
たらしい。
草切り場はある。しかし、牛はレンゲなども食べた。
炭は七曲あたりで焼くところもあったらしい。
<<村の動物>>
牛はほとんどの家が飼っていた。だいたいメス。
オスをもっていたのは山から木を切って商売する人。重労働させる人は去勢はしない。
ばくりゅうはいた。昔は今みたいに日雇いがなくて現金収入が少なかったので牛をうっ
ていた。
馬→農業には馬車用の馬はいた。牛も馬も農業では同じように使っていた。
馬洗い場はあって、そこで牛もいっしょに洗っていた。
馬捨て場はうまばか(馬墓)と言っていたらしい。
<<米の保存>>
農協はかなり前からあって、中村さんの記憶にある限りでは農協があるらしい。
小作米は良質のものを大体三分の一くらい。1反あたり2〜3俵。
青田売りはなかった。
家族で食べる米はハンミャーといった。
保存は甕やトタンで囲った。玄米で保存。種籾も同様。ネズミ対策らしい。
50年前における米、麦の割合は3対1くらい。芋などを主食にすることはなく、あく
まで混ぜて食べていたらしい。
<<昔の暮らしについて>>
昔は衣類の店は飯田にはなかったので、祭りの時の出店で買っていた。
農業以外の現金収入は、山きり(薪を切る)、ため池つくりなど。
昭和初期は電気はあったがガスはなかった。そのころは薪で風呂を沸かしたりしていた。
<<村の道>>
昔の隣の村に行く道はトンザミチといって、それは参勤交代で通った道。
学校は江福にあった。中村さんは現在の海岸沿いにある道を通って通っていたらしいが、
それができる以前は山越えのようなことをしていたのではないか…とのこと。
牛は3尺くらいの幅の道を通っていた。
峠を越えてくる動物は野ウサギや狸など。今でも上のほうではイノシシが出るらしい!
<<まつりと行事>>
6月初旬 風上まつり ほうのうずもうをする。
9月中旬 おくんち 面浮立をつける(写真参照)
<<昔の若者>>
若者は夜、男子は縄をない、女子は機織や繕い物をした。
遊ぶときは将棋や剣道。
干し柿泥棒・すいか泥棒はしたらしい(これを聞いたら中村さんと木原さんはしきりに笑ってお
られた)
若者たちが夕御飯のあと集まる場所はクラブと呼ばれた。
規律は厳しかった。制裁といえば……中村さん曰く、畳の段差にひざ立ちをして耐えていた…
らしい。
よその村の若者が遊びに来ることもあった。(ここで、突然ヨビャーの話になる)
よそものを村に立ち入らせないよう妨害したり、あるいは自警団のように活動することはなかっ
た。
若者たちは祭りの時に出会うことが多かった。恋愛は自由であったけれど、村が狭いのでうわ
さはどんどん広まってしまうので、隠していたらしい。
<<村のこれから>>
諫早干拓について→「いかん」と一言。
当日の動き
11時過ぎ 現地到着
12時半 中村さんのお宅に伺う
16時 中村さんのお宅を出る
<小字としこ名と班>
先に書いたように、小字の名前で田を呼んでいて、しこ名が存在しない地域もあり、また、班の
名前で呼んでいた地域もあるらしい。しこ名にはアスタリスクをつけた。添付した地図は、しこ
名は広範になるので大きな地図に記したが、班は比較的狭い範囲になるので、住宅地図に記
した。
小字 しこ名・班
飯田搦(イイダカラミ)→新地(シンチ)、川西(カワニシ)、多良下(タラシタ)、多良上(タラウエ)、
田中(タンナカ)、小路(シュウジ)、橋本(ハシモト)
須ヶ牟田(スガムタ)→*海元(カイモト)、田中(タンナカ)←飯田搦の「タンナカ」の半分、
平畑(ヒラハタ)→上狩峯(ウエカリミネ)
一本杉(イッポンスギ)→中狩峯(ナカカリミネ)、館(タチ)、上舟津(カミフナツ)、下舟津(シモフナ
ツ)
熊副(クマゾエ)→*小柳(コヤナキ)
元浦(モトウラ)→*耕地整(コウチセイ)
川東(カワヒガシ)
善王寺(ゼンノオジ)→*門前(モンゼン)
中田(ナカタ)→*納手下(ノウテシタ)、*中田(ナカタ)、*山ノ口(ヤマノクチ)
河内(カワチ)→*下河内(シモカワチ)、*上河内(カミカワチ)
石仏(イシボトケ)
名切(ナキリ)
七曲(ナナマガリ)→*竹林(タカバヤシ)、*小川内(コゴウチ)、*新田(シンデン)
木場田(コバダ)
百合野(ユリノ)→*性海(ショウキャ)、*門前(モンゼン)、
山神(ヤマガミ)
麻手平(マテビラ)
押ヶ当(オシガトウ)
八ヶ坂(ハチガサカ)
道手(ドウデ)→*シンナシヲ、*扇山(オーギヤマ)
大崎(ウーザキ)
大白藤(オオシラトウ)
立石(タテイシ)