井出分(納富分)の現地調査結果 7月7日(土)

                                 

調査メンバー

藤本裕之

松本雄大

藤田浩文

 

お話をしていただいた方々

田中キヨ子(67)

宮崎源子

中原敏子

宮園ミスエ

 

 

(はじめに)

今回は、当初お話を伺おうと思っていた方とうまく連絡がとれず、井手分現地での直接の聞き込みという形をとることになりました。そこで現地の方から紹介された区長さんのお宅でお話を伺うことになりました。お伺いした内容を次のようにまとめてみました。

 

(1.シコ名)

シコ名について質問をすると、農家の人ではなかったこともあり、四人中ご存知だったのは一人だけで詳しく聞くことは出来ませんでした。(存在についてはご存知でしたが、実際にシコ名と呼ばれていることをご存じなかったということ)

しかし、田中さんの話によると、シコ名の意味は俗に言うあだ名・ニックネームのようなもので、決して良い意味で用いられてなかったので、農家の人たちは好んで使わなかった記憶があるとのことでした。この事実は、現在シコ名が広く使われていない理由の一つでないかと考えられます。もちろん、時代の変化や数多くの圃場整備事業により自然とシコ名の存在が消えていったことは言うまでもありませんが。

 

(2.昔の若者の生活)

田中さんたちが僕たちの世代のころの生活について質問をすると、現在の若者との一番の大きな違いは昔は外で遊ぶことが多かったことであると口をそろえて言われていました。

また、外で遊ぶと言っても「じんとり」などの他に「松葉かき」などの実益のある遊びを行っていたとのことでした。実益のある遊びという言葉に、まず違和感を感じてしまうのですが、この事実は現在の若者のにとっては「松葉かき」を遊びとして認識できないということの証拠であると考えられます。何気ない会話からも昔と現在の考え方の違いを感じ取ることが出来ました。そしてなぜ「松葉かき」が実益であるかというと、なんでも松葉は薪などと同じように利用(松葉は火がつきやすい)していたようで、松葉を燃やして釜で米を炊いたこともあると言われていました。

その他には、たまに映画に行っていたのがすごく楽しかったと言われていました。なかでも、「家の近くの三輪自動車を所有している人に何度も乗せてもらったことが楽しくて仕方が無かった」と目を輝かせて宮園さんが言われていたのが大変印象的でした。

 

(3.お店の無い時代)

今のようにお店(スーパーなど)が無い時代どのようにして自給自足できない品物を手に入れていたかを質問すると、長崎から魚売りの行商がやって来て米と交換したこともあると言われていました。このことは海に近い村の者の魚介類と、水田や畑を持つ者の農作物とを交換する昔ならではの物物交換であります。しかし、そういった遠距離を経ての交換よりは近距離、つまり近所どうしの交換が主であったと言われていました。「そんなことを思い出すと、昔はちょっとした物、例えばこんにゃくだけとかならすぐ近く(隣の家とか)で手に入ったのに、今は何でも、たとえ買うのが1個であろうと、スーパーに行かなければならなくなった」と言われているのが印象的でした。現在の若者の意見からすると遅い時間にかかわらず気軽に行けるコンビニなどの方が、世間体を気にする必要が無く良いと思いますが、これは昔と現在の様々な生活空間の違いから生じることであると考えられます。また、近所どうしでの交換や遠距離からの行商などが消えていった理由であるとも考えられます。

 

(4.7年前の大旱魃)

この井手分というところは比較的気候の穏やかなところで、旱魃の影響はそううけていないようでした。唯一聞けた情報は、当時水が不足しているとき、田んぼへの水まわしのことであらそいになったのだということでした。ゆえに「水まわしを取り仕切る区長は百姓の方でないとつとまらなかった。」というお話でありました。ここで旱魃とはべつに今から数十年前の大水害のお話を聞くことができました。その被害はかなりひどかったようで、みなさんよく覚えているようでした。皆さんが言うにはその水害があってから鹿島の治水は整い、水利はぐんとよくなったとのことでした。今ではほんとに住みよいところになったとのことでした。鹿島に住む人たちの言葉をかりれば「鹿島は周りと比べれば、産業的にはあまり発展していないが、生活するには安全でとても住みやすいところ」と言うことが出来ます。

 

(5.農家以外の現金収入)

当時農家以外の仕事としては大工、左官、傘屋、自転車屋、その他様々な小売店があったそうです。現在とは違いスーパーやデパートがない時代だったため、それだけでも十分生活していけたそうです。「今のような嗜好品が欲しいとは思わなかったし、嗜好品自体が身近に存在していなかった。」という意見も聞くことが出来ました。

 

(6.電気がない時代どのようにしていたのか)

米は釜で炊き、火をおこすには、かしの木やわらなどを使っていたそうです。その後は薪で炊いていたそうですが戦後ガス釜が出てきてからは、家庭ではガス釜が使われるようになったとのことでした。その他、洗濯機は大変役に立ったと伺いました。生まれたころからありとあらゆる電化製品に囲まれていた我々には味わえない感動だったのではないかと思いました。

 

(7.これからの生活・自然を考える)

この項目については、直接、井手分とは関わりがありませんが、「これからも、自然と人間とがうまく生活していけるようにつとめていけたらいいんだけどね。」とか、「あと何年、世界の自然は持ちこたえられるの?」といった話にもなり、大変グローバル的な意見についても多数の考えをお持ちでした。

 

(感想)

<藤本裕之>

今回ちょっとしたハプニングがあり、現地での突撃訪問という形をとらざるをえなくなりました。そういう事情もあり、ちゃんとお話が聞けるのだろうかと不安になっていましたが、何のまえぶれもなく突然現れた、見知らぬ男三人を、いやな顔一つせずあたたかく迎え入れてくださった田中キヨ子さん宮崎源子さん中原敏子さん宮園ミスエさんにまずは感謝したいと思います。みなさんは友の会という集まりのメンバーで、普段は健康によい料理の研究をなさっているそうです。

このたびは本当に貴重な経験ができたと思っています。井手分の昔を調べるため、直接現地に行き、住人の方にお話を聞く。すべてが初めてのことでした。そこでは様々な話を聞くことができました。もちろん昔の生活についてもお伺いしましたが、それ以外に、これは一部ですが、いい嫁を選ぶポイントなどもおしえていただきました。そのポイントとは、自分の親を大切にする人だそうです。これはつまり、自分の親を大切にする人は、相手の親も大切にできる人だからということなのだそうです。ぜひ参考にしたいと思います。

ところで、これとはべつに、昔の若者の生活について聞いていたときにおっしゃられていたことが、私は大変印象に残っております。それは今の若者のマナーの悪さについて言われていたことです。電車の中での座り込みや、携帯の使用、女性の化粧直しなどです。確かに今では昔のような礼儀作法というのは失われたのかもしれません。今の若者とは、まさに我々のことであり、何か自分に言われているようで、気をつけなければと反省しました。

このように三時間くらい様々なお話をしたのですが、昔のことを話している友の会

のみなさんは、話をしているとだんだんと昔を思い出されたようで、皆さんとても楽しそうでした。もちろん我々も昔の暮らしやいろんな思い出を聞けて、すばらしい時間を過ごせたことはいうまでもありません。

 

<松本雄大>

出だしから、事前の手紙の返事が返ってこないので、不安な気持ちいっぱいで調査に向かうことになった訳ですが、運良く区長さん(田中さん)のお宅にお邪魔させていただくことになり、たまたまいらっしゃった奥様の友人3名と合わせて4名にお話を聞くことが出来ました。大変快く迎えていただいて僕たちの不安は一気に無くなりました。少し残念なのは、シコ名を集めることが出来なかったことですが、シコ名に関する背景を少しでも聞けることが出来て良かったと思っています。

僕の個人的に興味がわいた話は、宮園さんが言われていた三輪自動車と映画の話でした。昔の話は自分の祖父母(兵庫県在住)からも聞いたことがありますが、戦争の話が主であったこともあり、大変新鮮な気持ちで聞いていました。正直、すごく楽しそうに思い出を話される姿を見て、自分の祖母に聞いてもあんな表情をするのかなと思いました。しかし、ほとんどの昔の話は、以前祖母から聞いた話と共通点がありました。特に、「今のような店の無い時、どのように品物(自給自足が不可能なもの)を手に入れていたのか?」という質問に関しては、「近所どうしでの交換が主である。」という答えで、以前、祖母が僕の家は昔、「すべ屋」と呼ばれていて箒を作っていて、同じ地区の友達のあの家は風呂屋で、この家は豆腐屋と呼ばれていて、お互いに協力していたんだよと言っていたことに似ているなと感じました。

調査も一通り聞き終わり、多少余談ではあるが、話は政治や現代の若者の考えに移りました。(実際にこの話題の方が楽しかったのはどういうことなんだろうか?)現実に、田中さんたちは「友の会」といった団体で活躍されているようで(この日も、そういった団体の月刊誌の来月号の料理欄に載せる料理の案について話し合っている最中でした)、社会の変化に大変興味があったようで、「一度現在の若者と話してみたかったのよ」とも言われていました。逆に、僕個人の意見としても、同意見だったので大変貴重な時間を過ごすことが出来たと思っています。

今回の調査を通して、佐賀県鹿島市井出分(納富分)の昔から今に至るまでの生活(社会)について触れることが出来ました。長い歴史の中、まだまだ、ごく一部の部分にしか触れてないのだと思いますが、この調査における経験(成果)を大切に、これからも様々なことに興味を持って行きたいと思いました。

最後になりましたが快く話をして下さった田中さん・宮園さん・宮崎さん・中原さん、大変ありがとうございました。

 

<藤田浩文>

今回、地域調査ということで佐賀を訪れ、年配の方々とお話をしたのですが、地域の情報以外にも多くの得るものがありました。

田中さん宅には、十一時半にお宅を訪問し三時近くまでお話をしたのですが、祖母以外ではこんなに長い間お年よりのかたがたとお話したのははじめてだったので、非常に貴重な体験でした。

なかでも、一番印象に残ったお話は田中さんたちの幼少期や青年期のすごし方についてのお話で私たちの幼少期・青年期すごしかたとはまったく異なったものでした。田中さんの「私たちの若いころは家の手伝いが遊びのひとつでよく友達とかを集めて今日はこの家明日はあの家って感じでいろんな友達の家の手伝いをしたんだよ。そして夕飯とかご馳走になって家に帰って、それが本当に楽しかったね。」という言葉は私にとって正直かなり衝撃的でした。

産業が発達し田中さんたちの若い時代とは生活スタイルがまったく変わってしまった今現代本当にこの時代がいろんな意味で潤っているのかを考えさせられました。田中さんたちの若い時代は苦労も多く、テレビのような娯楽文化もあまり浸透していない一方で、人とのコミュニケーションの場が多く、おにごっこや陣取りが主流だったらしいのですが、今、人との交流からはずれて、テレビもしくはテレビゲームなどに没頭して若いときをすごしている子供たちよりはずっといいときをすごしていたといえるのではないでしょうか。これらを考えるとやはり産業・工業・情報などの発達イコール人の生活の豊かさの発達とは一概にはいえないということを実感しました。

また、この地域の人々は町にダムができることによって鹿島の住民が誇るおいしい水がきっと今ほどおいしくなくなるだろうと不安を感じていました。近代化イコール生活が豊かになるのではないということを教えてもらっただけでも私にとって田中さんたちとの対談はこれからの私の人生の糧となる貴重な対談でした。

 

(付録)

地図の見方について

道路・・・茶色

川・水路・・・青

主な尾根・・・緑

 

 

(あとがき)

大変良い思いをさせていただきながら宮園さんの「その」の漢字が今回使用したワードパットでは表せず、「園」で代用させていただきました、申し訳ありませんでした。