母ヶ浦を訪ねて
「歩き・見・触れる歴史学」レポート
松尾 康之介
森 大輔
7月7日心配していた天気にも恵まれ、知らない土地へ行くという好奇心とともに福岡を出発した。・・・
母ヶ浦に着くと先ず場所の確認から始まった。いきなりバスから降ろされた僕たちは、いったいどのあたりにいるのか見当もつかず、みんなで顔をより合わせ地図に見入った。そして、母ヶ浦への入り口を見つける。ほっとした思いで辺りを見回すと左手には有明海が広がり右手には母ヶ浦の豊かな自然がおい茂っている。僕たちは自然と笑顔になり大きく深呼吸した。母ヶ浦がどんなところなのか知りたいという思いが高鳴り、僕たちの足取りは速くなった。
母ヶ浦の看板がある道はずっと山のほうへまっすぐ続いている。道端で会う地元の人たちはみな「こんにちは」と佐賀のなまりで声をかけてくれた。僕の田舎は長崎だがなんとなくなまりが似ていた。田舎を思わせるような家のつくり、小屋、農具・機械があちらこちらにあり、水田の近くにはたくさんのトンボや蝶が飛び交っている。僕たちは、幼少時代にかえったようにはしゃぎながら訪問先の松本さん宅へと向かった。
訪問先の松本さんの家は、松尾平の鼻先(花咲)橋のちかくにある。出発して一時間ほどで着いた。松本さんは、今か今かと庭先で僕たちを待っていてくれた。「こんにちは」と挨拶をすると、「あんたたちが福岡から来た人たちねー暑かったろうが、はよなかに入らんね」と暖かく出迎えてくれた。
応接間に案内されると、簡単に僕たちの自己紹介し、さっそく地図を広げ、しこ名・小字・字を教えてもらうことにした。松本さんは、部屋の奥から最近編集されたという母ヶ浦の議定書や地図をもってきて丁寧に教えてくれた。小字は、詳しく知ることができたが、しこ名は各家庭で違い、自分たちがわかるように適当につけていたらしいので、ここはこうだというはっきりしたしこ名は分からなかった。松本さんの家では、宮ノ下・宮の上・分かれ道・ひらくっつぁん(ひらくち=ハブがたくさんいたらしい)・鬼塚・花咲(元は鼻先)・ずんぐり山(ドングリがたくさんあった)などというしこ名を使っていたらしい。できるだけたくさん教えてやろうとしてくださっているのに、方言が聞き取れず思ったより時間がかかってしまった。
一段落終えると「すこしばっかーやすもかね、あんたたちゃー飯は食うてきたんね?どら、たいしたもんはなかばってん昼飯ば食わすーけんまっときんしゃい」立ち上がり台所のほうへと歩いて行かれた。田だ調査に来ただけのに昼ご飯までご馳走になってよいのかと僕たちは戸惑った。しばらくすると、奥さん御手製のたくさんの料理が運ばれてきて、もう食べきれないほどたくさんご馳走になった。ほんとうにおいしく、うれしかった。
時間もあまりないのでまた調査に入ろうとすると、奥さんが畑へ出るというので、松本さんが畑まで送っていくついでに車で母ヶ浦を回りながら話を聞くことにした。車はどんどん山へと進む。母ヶ浦の海に近い平地は水田が広がっていたが、山の上に行くと段段畑になっておりミカン・ジャガイモなど栽培されている。しばらく行くと大きな貯め池へ着いた。ここで僕たちは母ヶ浦の水事情を聞いた。母ヶ浦にはたくさんのため池があり村全体に水路が引かれ水が豊富にある。僕たちの訪れたため池はその中でもこの近隣のなかでも一番大きなため池で国営パイロットができるさい、ブルで掘って作られた母ヶ浦貯め池である。2万4千トンもの水を貯めることができる。頭的存在のため池である。ここの水は上田のキョウカ岳から引かれている4〜8Kmの金属パイプラインを使って運ばれている。今でこそプラスティック製のパイプがあるがここのパイプラインができた昭和40年頃はまだ金属のものしかなかった。ここに貯められた水は高地にはポンプで引き上げ、低地には落差を利用して運び、飯田部落のナナマガリため池、音無の頭のササ浦堤ため池、そして花取り泉の三大ため池へと配水され農業、浄水所、その他施設に使われる。平成6年の飢饉の際には川が一時かれはしたが、このため池やその他のため池のおかげで水のことに関してはあまり困らなかったそうだ。しかし、昔は今のように立派なため池がなかったため、時水が行われていた。「はったごしらえ」と言って春にきちんとした時期は決めずなるべく早くからいたるところに水を貯めて、飢饉に見舞われた年にはみんなでその水を節約しながら使っていたらしい。「今はほらーこん池のあるじゃろ、こん池が頭じゃけん飢饉になっても母ヶ浦でひとんじめすればよかったない」なんて冗談を言う松本さんに僕た腹を抱えて笑った。あとから考えてみると、水の大切さをよく知っている村のひとにとってはその冗談も冗談ではないのかもしれない。ため池を見るとブラックバスが泳いでいた。「
あれ、ブラックバスじゃありませんか?」と聞くと、「誰が放したかしらんばってん、ビニールやら何やら捨てるともおるしね」と迷惑そうにしていた。
再び車で移動し、山から下の川まで降りてくると、川辺で数人の村人が何かやっていた。松本さんも気になったらしく車を止めて見に行った。「なんしよっと?」「うなぎばとりよーと」「とるっと?」「うーん」母ヶ浦ではなんとうなぎも取れるらしい。仕掛けは、わらで作った長い筒の中にミミズを入れたもの。まだ仕掛ける最中だったので残念ながら罠にかかったうなぎにお目見えすることはできなかった。
干拓へ着き堤防へ身を乗り出した。海岸沿いには干潟が広がり、なにやら小さく長細いものが動いている。よく見てみると、ムツゴロウだ「へームツゴロウいるんですねー」「うーん昔からおるよ。昔は夏休みにムツゴロウとってバイトしよったと、細か木の先に餌つけてさ」なつかしそうに語ってくれた。そしてなにより驚いたのは、そのムツゴロウを食べていたということだった。「えっ!食べるんですか?」「おいしかとよ、食べさすかい」
「いえいえ、いいです」ちょっと食べて見たいきもしたが、断った。
海から家へ帰ってまたいろいろ聞くことにした。母ヶ浦に電気が引かれたのは松本さんが生まれる前でよく分からないらしい。近所の老人に聞いてくれたが、あいにく不在でわからずじまいだった。ガスは最近で、ガスがくる前はずっと薪で、その後は油を使って湯を沸かしたりしていたそうだ。薪は山から年中通して取っていて、誰がどこを取るとか割り当てていたそうだ。国営パイロット地ができて山は国に取られたが、全てではなかったので、残りの山から取っていたらしい。国営パイロット地の跡地は個人に売られたそうだが、今松本さんたちは昔の自分たちの土地を取り戻そうと国からの認可を求めているそうだ。
昔、田は牛や馬を使って耕していた。松本さんの家では牛を1,2頭飼っていたそうだ。おじいさんの時代は馬で農耕をやっていたらしいが、牛のほうが馬に比べて扱いやすいので馬はだんだん少なくなった。その他の理由として戦争中軍馬となって国にとられていったことも挙げられる。雄馬は金取り(去勢)していた。牛はだいたいが雌で雄を飼っていた家は部落に一軒あるかないかだったらしく、これも雌が雄に比べて扱いやすかったからである。どの家も馬や牛はかま家(台所)の横に建てられた小屋の中で飼っていて、いつでも彼らの体調を診ることができるようにしていた。餌は山のカヤ、蓮華草を食べさせたりしていた。発情期になると雄と雌を何頭か柵の中に入れ種付けをさせていた。牛は農耕用として出なく、食用、家畜用にもなっていた。また、[馬洗い川]と言うのに[牛洗い川]と言わないのは牛より馬が先だったからだろうということだ。
肥料は化学肥料がない頃は、ガタとワラ、馬牛糞を混ぜたものや人糞であり肥溜めを作り醗酵させて使っていた。人糞が足りないと町へ出てカワラからもらって肩に担いでもってきていた。化学肥料ができてからは青草かりと石灰を何層にも積み重ねたものや、硫安・カ硫酸石灰・リン酸を調合して使っていた。他には緑肥として蓮華草を畑にはやしていた。
地域全体の現金収入は米からだけであった。米を作っていたにもかかわらず、できた米のほとんどが国から取られ自分たちのための保有米はわずかしかなかった。闇米は見つかりでもすれば、厳しく罰せられた。この状態は昭和40年ほどまで続き、自分たちの食べるものと言えば、ジャガイモ・かぼちゃ・干し芋・芋ご飯・麦ご飯・だご汁。といってもほとんど米は入っていなかった。米の保存の仕方は手編みの籠に麦を入れ、その中に米を入れておく方法だった。こうするとねずみが食い漁ることもなかったそうだ。
普段の衣食住の生活はほとんど自給自足だったそうだ。鶏を家で飼い、野菜は自分たちで育て、足りないものは近所から分けてもらっていた。どうしても足りないものは、部落にひとつずつあった店に買いにいっていた。服も自分たちで作っていたそうである。干拓の土地を借り、綿を栽培し、また蚕を家で飼って糸をとり、はた織り機で織っていた。近所からおさがりをもらうこともあった。
松本さんの子供時代、小学校は分校で遠くにあった。小学校1,2年のときは空襲になると防空壕の中で遊んだり、先輩に連れられて山越え、ちゃんばら、メジロ籠作り、木の実とり、桶の輪で輪回し、クスの木の実でパチンコ、わらでヒヨドリを焼いて食べたりして遊んでいた。
大人になると、仕事が終わった後の一番の楽しみは町へ自転車で出かけ、映画を見ることだった。そうでない日は、たいてい若者の集まる青年団のクラブ(公民館のような場所)で夏祭りに行われる浮流の鐘の稽古に明け暮れた。酒を飲んだりはしなかったのか聞いてみると、昔はお酒がたいへん高価で土方の一日の賃金よりも高かったのでまれにしか飲み会などできなかったそうだ。「春なくさ」といって、春になると男女が米を持ち寄り、一週間ほど寄り合いをする行事があった。野菜を近所から分けてもらい料理を作り、持ち寄った米でコウジを作り濁酒を造って騒いだそうだ。そこを男女が触れ合う機会にしていてた。たいへん楽しかったそうだ。
夜這いの風習はあったが、松本さんの時代が最後だったらしい、「わたしゃそげなことはなかったないどん、夜女子の家にいてかせしたーなんだーしよったもんもおった。」笑いながら話してくれた。
農業をしていて一番うれしいことは、豊作だった時や自分たちの作ったものをおいしいと言ってもらえたときで、辛いことは最近海外から安価なものがたくさん入ってくるせいで、だんだん農業を続けることが困難になってきていることらしい。
「どらあんたたちゃーのういかなんとじゃろが、そんならはよいこで」まだ時間はあるのに突然僕たちを車に乗せた。その時は、何がなんだかサッパリわからなかった。車を走らせた先は定食屋。「ムツゴロウば食わせてやっけん、乗っとかんね」先に車を降りた松本さんはどこかへ走っていった。僕たちは思わぬ展開に驚きを隠せなかったしばらくして戻ってきたと思うとそそくさと今度は魚屋へ。そして、無理を言って魚屋さんにムツゴロウの蒲焼を作ってもらった。さあ食べるのかと思いきや、僕たちの読みはまだまだ甘かった。今度はまた定食屋へ。入るなり「生3杯急いで用意してん」またまた思わぬ展開に苦笑した。こんなことまでしてもらって本当によいのだろうかとは思ったが、出してくださったビールを飲まないわけにもいかず。グイッと飲み干した。そして時間が来たので、御礼を言って、松本さんと別れた。「また遊びにきんしゃいよ」今もあの暖かい人情味のある声は耳に残っている。
今回の調査は限られた時間の中でどれだけ詳しく調べることができるか心配であった。調査を終えてみて、あっという間に終わってしまったというのが一番感じたことだ。まだまだいろいろなことが聞きたかったし、いろんなところも見て回りたかった。歴史にはあまり興味けれど、本やプリントだけの勉強を抜け出し現地の雰囲気を見、空気を肌で感じ、現地の人たちと触れ合うことで歴史を探ることがこんなにも楽しく面白いものなのかと素直に感じた。訪問した松本廣冶さんには、貴重な体験をたくさんさせていただき本当に感謝している。松本さん、うなぎ取りをしていた人、魚屋さんの奥さん、定食屋のおばさん、道行く人、みんな愉快で暖かい人たちばかりでした。母ヶ浦、本当に母のようにやさしい村でした。また機会があれば母ヶ浦の松本さんを訪ねたいと思います。
訪問先の人名前: 松本 廣冶 (昭和15年生まれ)
レポート作成者: 松尾康之介
森 大輔