『歴史の認識』レポート(火曜四限服部教官)
佐賀県鹿島市三河内広平 12月23日実施
◎一日の行動記録
8:50 出発
11:25 中木庭のヘアピンカーブ手前にてバスを降ろされる。そして山越え……
12:30 広平に到着、予定していた話者のところに向かうも留守。途方にくれる
13:30 どうしようもなくうろうろしているとご近所のかたに古老の方をご紹介していただき伺うことに
13:50 岩屋邸到着、聞き取り調査を開始
15:40 聞き取り調査を終え岩屋邸発
16:25 バス乗車
19:00〜九大着
話者:岩屋 進(いわや すすむ)大正6年2月11日
調査員:木村 聡、佐藤 洋之
(1)小字の呼び名の違い
私たちが話者から伺った小字名は以下の通りである。
ハエノカワ
カクレコバ
カマドイワ
ヒロダイラ
オオタニ
コエジ
ミヅナシダニ
ホヨウジ
イタニサコ
ヤダケ
スズリイシ
オオコバシ
対して私たちのほうで事前に調べていた小字名は
広平(ヒロダイラ)
蕪谷(カブタニ)
越露(コエツユ)
ハエイワ(漢字が見つからず…)
竃岩(カマドイワ)
大岩(オオイワ)
矢岳(ヤダケ)
隠木庭(カクレコバ)
硯石(スズリイシ)
オオコバシ
・しこ名については話者のあてが変わったため先方のほうで調べる時間がなかったのもあるかもしれないがそんな風な呼び習わしをしているようなことはないとのことだっった。
また、これはしこ名というわけではないだろうが、広平川(大川)に流れてくる川にはそれぞれの地名に谷川(タンゴウ)がつくらしい。
(例)大谷谷川(オオタニタンゴウ)
(2)村の水利
・使用している水
広平川(大川)の水を田に引いているが平坦部のように複雑になっていない。
ため池などを利用することなく、溝を田に通すのみであるらしい。
部落間の争いもないらしく、水という点で特に困難な状況に陥ったこともない。
(3)村の農業
・水田→稲
肥料として464を使用。昔は雑草や馬糞牛糞を使用していたらしい。家畜の餌に特別な配慮はなく藁や草を普通に食べさせていたとのことである。私たちが訪れた現在となってはもはや家畜を飼っている必要性はないらしく、家畜の姿をみることはなかったように思われる。現在の肥料を使うようになったのは昭和30年くらいになってからということ。米はずっと昔は俵にいれて保存していて、戦後には金物で作った缶にいれていたらしい。そして今使うような袋にいれるようになったのはだいたい昭和40年くらいのことだということだ。収穫後はすぐに農協に出荷する。
・畑→茶
私たちが広平についたとき、少し見慣れない緑の膨らみを見て驚いた。それはわたしたちが知っている茶畑のそれであったが、いかんせん鹿島の山奥で茶が取れるなどということは私たちの知識にはない。改めて住宅地図を見て『茶工場』とあるので「あぁ…」と納得したものである。三河内の集落の中でも茶を生産しているのはこの広平だけらしい。この地の標高の高さがポイント、ということだ。広平では大昔よりずっと茶をつくっており地域でも1、2番を争う収穫高ということだ。作った茶は農協に出荷されており、佐賀県内でも有数のお茶のブランドのようだ。また、個人売りもみうけられるとのことである。
・野菜について
畑には茶しか栽培していないとおっしゃられたが、ここに来るまでに野菜を栽培して
いたのが見えたので尋ねて見たところ、自給用のみ栽培しているとのことだった。
・棚田について
作られたのは100年以上前なので誰が作ったのかははっきり明らかではないが、補修は働き手総出でやっているということだ。
・農機具について
すき、まが(くわのことをこう呼んでいたらしい)を使用していた
・まき、ガス、電気について
薪は地元の山のものを、昭和24年ごろから電気、昭和35年ごろガスが普及。
(3)村の林業
・育てる林業
全戸で行っているが、部落の小ささのために成果は微々たるものであった。
良質のスギ、ヒノキ。木炭製造も。
(4)村の道について
・下の方は一ヶ月に一度行くかどうかだったらしい。10kmばかり歩く。
・昔は学校は4年生までは早瀬の分校に山を越えて通っていた。
それからはずっと下のほうにある本校(能古見小)に『高等科』として通っていた。
・現在1日に2本(行き帰り分)のバスがあるのでそれを利用可能。
だが両親が仕事のついでに連れていくことが多い。
そもそも児童の絶対数が少ない。
(5)村の過去
・鹿島の鍋島藩
広平がいつ成立したかは不明。広平は昔からそう呼ばれていた(標高が高くひらたいから?)ここを通って武士が大村に移動していたらしい。
「恩二霊社」について…鍋島藩三代目の手によるものか?昔は武士が大村に行くときに殿が立ち寄ったのでそのことから『お茶屋さん』と呼び慣わしていた。毎年5月1日に『例祭』を執り行っている。
・結婚形式
以前は押しつけ婚(見合いもなかった)。縁戚や知り合いだったらしい。
現在はよそからの結びつきが多い
・家族形態
家督相続者は残り、他は出ていく。
(6)村のこれから
・悩み
後継者不足、戸数が減るかもという懸念。しかし子供が全くいない場合にしか後継者無しという状況は発生していないらしく流れとしては特に重荷には感じていないらしい。木材を出しているが石炭は原料不足のため今はやっていない。専業農家はあまり減ってはいない様子である。悩みといっても深刻な状況はないらしくいたって平穏に時が流れていくだろうとのことであった。
(感想)
初め中木庭のヘアピンカーブでバスを降ろされたときには未だ山の向こうに見えな
い目的地に暗澹たる心地にさせられたものだった。やっとの思いで林道の入り口まで
戻ってくる。その入り口にいた男性の方にこの先の行き道を教えていただき道がつ
づらおりにかさなっている林道を歩いた。正直体力が落ちている身には辛いものがあ
った。それでもなんとか山を越え棚田の光景が目に入り小川のせせらぎの音が耳をつ
つんだ時には軽い感動を覚えたものだった。しかし、少ないバスの数に驚きながらア
ポをとっていた話者のお宅にいくともぬけの殻。へこんだ。一時間くらいをふらふら
したりせめて話者の家族を待ったりしながら過ごしたが結局現れず、他の古老の方を
紹介していただくことに。いきなりの私たちの来訪にもあまり迷惑することなく、事
前に調べもしていないのに集落のことをすらすらと話すことが出来る話者の方に正直
舌を巻いた。そしてそんな状況の中でも数々の貴重なお話を伺うことが出来私たちは
ほっとしたものだった。こうやって今レポートを作成することができているのも、広
平の方々の親切なお心のおかげである。いろいろ肉体的精神的にショックの大きい体
験だったがそれを上回ることを知ることができて本当に参加してよかったと思う。