鹿島市平仁田開拓

折口 太郎

梶山 絵理

鹿間 善人

 

 私達は鹿島市平仁田に住む平良城二さんのお宅に話を伺いに向かった。バスが通れない道幅になったので途中でバスを降りて20分ほど歩いた。途中に牛舎があり家畜のにおいがしていた。私たちが牛に近づくと牛たちはいっせいに こちらを振り向き後ろにいた牛たちも前に出てきた。牛舎にいる牛全部が私たちを物欲しそうに見つめてきた。壮観だった。そのあと急に道が細くなり少し迷い気味だった私達の後ろから1台の軽トラックが走ってきた。私達の隣で止まり,「どこにいくんね?」と尋ねてきた。「大良さんのお宅です。」と答えると、「私が大良です。」と笑顔でおっしゃった。そして私達を軽トラックの後ろに乗せ家へと案内してくださった。

 「そんなにたいしたことはしゃべれんよ。」とおっしゃる大良さんに私達は早速しこ名について尋ねてみた。しかし、ここにはそんなものはないという。近所の人たちだけで使っているような呼び方はないかと尋ねてもないという。大良さんの話によると、平仁田は近くの竹木庭のように古くからあった集落ではなく戦後の失業対策のために国が入植者を公募し、開拓された場所だということであった。「歴史のあるようなとこだとそういうのもあるかもしれんが、ここは50年ぐらいの歴史しかないけんそういうのはないんよ。」とちょっと困った風におっしゃったので、開拓時代のことについていろいろ尋ねてみることにした。

 開拓は公募によって最初は18人くらいからのスタートだったという。出身地は全国様々だが、比較的佐賀出身が多いということであった。平良さんは福井県の出身だそうである。奥さんは佐賀出身だそうで,「当時はどうやって結婚相手を探したんですか?」と尋ねるとちょっと照れたように「そうね、やっぱり友人の紹介っていうのが多かったね。」と教えてくださった。平良さんははじめから入植したわけではなく途中からだったので入植したてのことはわからないということであった。開拓はくわで朝から晩まで行い,よるは暗いので早く寝ていたそうである。ある程度開拓が進むと収入を得るためにみかん栽培、搾乳を始めたそうである。搾乳は1年に3000Kgで表彰されたが,今では1日で3000Kg取れるそうである。昭和30年に電気が通り,くわによる開拓から機械へと変化していったということである。現在では2件ほどが細々とみかん栽培を続けているほかは牛肉,繁殖が目的の牛の飼育をしている家がほとんどだということであった。畑では家で食べる分だけを栽培している。以前は牛や馬をもちいて畑を耕していたが、今では耕運機を使用するため,馬などはいなくなってしまった。「夜に娯楽はなかったんですか、みんなで集まって話すとか。」と尋ねるとやはり集まっていたそうである。‘公民館’と呼んでいた集会所でみんな集まり酒を飲みながら楽しく話をしたという。これが唯一の娯楽だったそうである。

 こうして開拓が進んできたが水のことについて尋ねると、この開拓により木を切ったことや営林所が雑木林を杉やヒノキに変えてしまったことから山の保水力が失われ、平仁田には以前のような水量がなくなってしまった。そして昔はあった水田が消えていったそうである。集落の人々は水源を求めて辺りを調査してまわったがよい結果は得られずわずかな湧水地のみを利用していた。そこからは数年前までパイプをつないできて水を得ていた。平仁田の水問題は家畜などの糞尿による汚染もあり大変だったようだ。7年前の渇水時には以前から利用していた湧水地も枯渇してしまい現在はボーリングを行い水を得ている。大良さんの家では牛を60頭ほど飼っており,雑用水で月に100トンもの水を使うという。牛の飼育にはたくさんの水が必要だということであった。

 牛について尋ねてみた。大良さんのお宅では牛肉用の牛を飼育しているということであった。生後7ヶ月の牛を仕入れ、25ヶ月まで育てて出荷するという。牛は寒さに強く暑さに弱い家畜だということである。「最近は狂牛病の影響で安くにしか売れん。」とおっしゃっており、辛そうであった。大良さんの息子さんは普通に会社に勤めており、他の家でも同じような状態だそうである。そして、牛の飼育は平良さんの代で終るのではないかとおしゃっていた。やはり、水にあまり恵まれていない土地なので栄えにくいということであった。現在,家の数は昔に比べ減ってきているということである。畑などは自分たちが食べる分だけ作っており、最近はいのししに荒らされて困っているという。わなを仕掛けても賢くてつかまらないそうである。

 開拓時代の話などいろいろ伺ったので、私達は誰か他の人を紹介してもらうことにした。「誰か他の方にもお話を伺いたいんですけど、誰か紹介していただけませんか?」と尋ねると、「それなら川副さんのとこに行ってみんさい。トラックにのっとる時すれ違ったおじいさんがおったでしょ。あの人よ。あの人は入植はじめからいる人だから。」と住宅地図を指して下さった。「突然伺っても大丈夫ですかね?」と尋ねると「大丈夫、大丈夫。」と笑顔でこたえてくださった。奥さんが「これもっていきんさい。」とミカンをお土産にくださった。平良さんと奥さんにお礼を言って私達は川副さんの家に向かった。

 大良さんの家のななめ向かいの川副さんの家に着くとちょうど奥さんが買い物から帰ってきたところだった。「こんにちは。」と声をかけ、現地調査でお話を伺いたいことを伝えると「そんなにはなすことなんてないよ。」と笑顔で言いながら、こころよく家へ招きいれてくださった。私達はだめもとでもう一度しこ名について尋ねてみた。すると、集落全体ではなく家族の中だけでの呼び名はあるという。そこでそれを教えてもらうことにした。昔、いでさんのものだったから‘イデバタケ’他に、‘ヨンタングチ’‘イケマツ’を教えてくださった。

 奥さんからお話を伺っていると川副さんが帰ってこられた。そこで、私達は入植直後の話を伺うことにした。川副さんの話によると、入植してきた時は平仁田はただの山の中で木がたくさんはえ、湧き水もあったという。とても人が住める状態ではなく、食べ物から何まで自分達で全て解決していかなければならなかった。虫(せせ虫)が多くよくさされていたという。家は屋根を杉の皮でつくった笹小屋で3世帯ほどが共同生活をしていた。「何を食べたんですか?」と尋ねると「蛇とかとって食べよったよ。」と昔を思い出すように目を細めながらおっしゃった。「犬は食べましたか?」と尋ねると食べたという。ほかに羊なども食べたそうである。朝は早く起きて夜は石油ランプしかなく早く寝たという。お風呂はドラム缶などで作った露天風呂だった。毎日毎日朝から晩までごついクワで木を切り、木の根を取り除き開拓していったという。畑は自分達の食べる分を作るのが精一杯で雑穀、いも、水のいらない陸稲(りくとう)というお米を育てていた。お金としての収入は開墾補助だけで、それも開墾検査がきびしくぎりぎりのものであった。お米の配給があったので7Km先まで歩いて取りに行き、1日がかりの仕事だった。そのお米を炊くのは自分達で取ってきた燃料としての薪でまわりの全てを生活するのに利用していたという。

「あなたたちと同じぐらいの孫がおって開墾時代の話をしてもあんまり聞かんのよ。あなたたちは勉強できてるから熱心に聞いてくれるけどねぇ。」と奥さんがおしゃった。私達もまさかこういう現地調査になるとは思ってなかったが、知らない初めて聞く話をたくさん聞けてよかったと思っている。一通り話を伺ったので私達は川副さんと奥さんにお礼をいい家を出た。奥さんから「帰りに食べんさい。」と、ミカンをひとつずついただいた。

私達は残り時間も少ないので平仁田を一周して川副さんに聞いた名前の場所を見てまわることにした。川副さんの家の前の道(昭和20年ごろできたそうである)を北へ向かった。しばらく行くとミカン畑が広がっていた。そして、あちらこちらに牧草地が広がっていた。つきあたりを右に行き(左へ行くと竹木庭へつながる)、今度は南へ向かった。牧草を一杯につめた小屋を過ぎ、途中に牛舎にて写真を撮り、ついにヨンタングチと川副さんが呼んでいた牧草地にきた。イデバタケも確認できた。時間を見ればすでに3時半を回っていたので、急いで戻ることにした。帰りに来る時に見た牛舎の前をまた通ったが、やはり牛たちは私たちに期待の視線を送ってきた。牛に見送られながら私たちは来る時に気になっていた家畜の臭いが気にならなくなっていたことに気づいた。こうして私たちは急ぎ足で平仁田をあとにした。

 

この場を借り今回の現地調査でお世話になった、大良さん、川副さん両夫妻にお礼を申し上げます。突然の訪問にも関わらずとても親切に平仁田についての貴重な体験談をお聞かせいただいたこと深く感謝いたします。ありがとうございました。