鹿島市東塩屋

渡辺欣亨

北川隼也

 

 僕達は東塩屋地区の委員を勤めておられる松本弘義さんをはじめ、小柳吉次さん、小柳岑生さん、大島修さんにお話を伺った。

 手紙の返事は無かったが,いざ行ってみると4名の方々がいらっしゃり、いろいろな話を伺うことができた。「九州大学からきた・・・」というとすぐ分かったらしく,お宅に案内された。でも実際は福岡大学から来たと勘違いされていたようで笑いから話がはじまり、話しやすい雰囲気の中で話を聞くことが出来た。

 

まずはじめに、「しこ名について教えてください。」という話をすると,「今はあんまり使ってないけんねぇ。わからんところもあるかもしれんよ。」ということだった。そして4人で雑談なども交えながら、東塩屋地区のしこ名をていねいに教えていただいた。

 教えていただいたしこ名は、海側から,

    赤碕(アカサキ)

    寺崎(テラザキ)

    新地(シンチ)

    高見(タカミ)

    竹下(タケシタ)

    デーサキ

    山下(ヤマシタ)

    倉前(クラマエ)

    墓地(ボチ)

    天神橋(テンジンバシ)

    アンニョウジ:“寺の跡地”の意

    タタイゴ

以上が東塩屋の方々から聞くことの出来たしこ名である。

 この話の中で、東塩屋と小宮道とを分ける境界線は元国道であり、また「立安寺」の前の道が「テラシュウジ」であると分かった。そして地区は大昔は現在の山のほうに海岸線があったが、干拓などによって少しずつ前進し、今の海岸線になっていったということらしかった。また、鹿島市で2箇所しかない石橋が4つほどあることが分かり、その石橋の先の鎮守神社のとりいと旗竿立ての石に刻まれた日付を聞き、旗竿立ての石と石橋のできたときが同じであるかもしれないという話になった。

 

 次に干拓と海についてお話を伺った。干拓は昭和21年の代行干拓事業に始まり、20余年の歳月を経て、昭和42年12月にできあがった。出来あがるまでの過程は、

@    海岸線に沿って木のくいを平行線状に並べて打つ(間隔は1軒か2軒くらい)

A    その間にかしの木を束ねたものを置く

B    その上に石を積んでいく

C    有明の6メートルの干満差を利用して塩の引いたときに堤防を閉め切り完成

 

旱魃を迎えたときの対処の話を聞いた。七年前の旱魃では、七浦干拓へ水を補給するため池がかれてしまい、補給できる水がなくなってしまった。そこで新たに320メートルのボーリングを行い、地下から水を汲み上げ旱魃に対応した。そのため地区に大きな旱魃の被害はなく今に至った。水害についてたずねた。僕達の予想では台風による影響で水害に悩まされたのではないかかと考えたが、実際のところは海からの風による塩により塩害の被害のほうに頭を悩ませていたのは意外だった。代表的なものは台風17号・19号による塩害だったそうだ。

 

裏作については主にたまねぎや麦を作っているということだった。これらのものが作れるかどうかという条件では、日照時間のちがいが考えられている。山間部のほうや谷のほうでは日照時間が短く、冬場は野菜類ができないということが分かった。丁度この地区の山の並びは太陽の軌道と平行になっているようだ。そのため冬場は日がなかなか当たりにくい。

 

農薬については昔は田の水面に油の幕を張り、外から水中に虫が入らないようにしていた。しかし、水中の虫の被害は無かったが、空気中の虫(中国などから気流に乗ってやって来る虫など)にはもちろん効果がなかった。農薬を使わなければ収穫は半分以下だったそうだ。一度虫が出始めるとなかなか減らず、稲を食い散らかしてしまった。特に秋の虫は稲穂の下に隠れて農薬も届かない、といった状況もあるということだった。農業には牛が主に使われていたようだ。牛は耕作のときに使われ、一家に1頭はいたそうだ。また戦前には馬も活躍していたらしい。これらは他の動物や人に比べて段違いの馬力を持ち、とても重要視されていた。他に飼っていた家畜についても聞いてみると、牛や馬以外に豚ややぎがいて、豚は食事の余りものを与えさせながら、育っていった太りやすい豚は昭和20年当時でも1匹500円といった高額で売られた。「豚はゼニになる。」またやぎからは乳や卵が取れ、重要な食料の一部に当てられた。

 

電気やガスについては「生まれたときにはついちょったけん。」とおっしゃった。確かにそのとおりだ。昭和35年ころにはプロパンガスが家庭に入ってきた。それ以前は「たきもん」(薪のこと)で今のガスの代わりの役目を果たしていた。「たきもん」は古い木を割って燃やすもので近くの山へ行けば簡単にとることができ、それらは腐って枯れた木なので、奪い合ったりすることはなかった。

 

その後には「ぞうぎ」の話になった。(おそらく雑木林のことだと思うが)この辺りの「ぞうぎ」は竹(岩場などに)、くすのき、なら、かしなど・・・が存在しているという。

 

祭りについて尋ねてみた。大きな祭りとしては「沖ノ島祭り」と「秋祭り」があるそうだ。

 「沖ノ島祭り」について:

 この祭りは8月8日に豊作を祈願して毎年行われる祭りで、「鉦浮立(かねふうりゅう)」とも言われるらしく、その由縁は昔この地区にいた「お島さん」という娘が、長い旱魃の続くのを止めるために雨乞いを祈りながら海に身を投げたという話で、この地区で語り継がれている。沖ノ島は東塩屋から約8キロのところにあり、島自体は塩の干満によって浮き沈みするため、現在は灯台が建てられ以前より分かりやすくなっているらしい。昔は島を探すだけで朝まで時間がかかってしまったという話だった。船同士をつないで行くため、島までは船で往復2・3時間を要したそうだ。

 「秋祭り」について:

 この祭りは9月9日に豊作祈願の意を含むと同時に、豊作に対するお礼の気持ちをこめて行われているらしい。現在は9月9日に行われているけれど、昔は10月にしていた。ところが10月は忙しくて、また小学校の運動会なども重なるということから現在では9月に行われている。毎年この時期になると、東塩屋・西塩屋・母ヶ浦・西葉の4地区の人々が母ヶ浦のお宮に集まり、祭りがとりおこなわれる。祭りは、5種類のお面をかぶった5人の人達が先頭を歩き、後に同じ面をかぶったたくさんの人達が続いて歩く、といったふうにされるらしい。

 

 

 

 

 

 

 

写真

 

 

 

 

「実際に来て見てみんと分からんじゃろう」と僕達を祭りに誘われた。暇があれば行ってみたいと思った。残念ながら、そのころは試験があるだろうけれども・・・。

 

 豊作や雨乞いの話しが出てきたので、この地区に昔から伝わる迷信や言い伝えなどを聞いてみた。東塩屋の方々から教わった言い伝えは次の通りだった。

・多良岳に雲がかかれば風が吹く。雨が降る。

   昔の漁師さんは東塩屋の南方に見える多良岳に雲がかかっているかどうかである程度予測していたようだ。

他にも、

・南東の風が吹けば雨が降る。

・カニ(川などにいる)が家の中にきたら洪水が起こる。

・ねずみが昼間動けば家に異変が起こる。

などいろいろあった。もう少し時間があれば他にもいくつか聞けたかもしれない。

 

 最後に、これからの東塩屋地区に望む事などを伺った。すると主に次の2つの事を聞く事ができた。まず、

・山間部の開発と整備

  他の地区と比べるとそうでもないらしいが、東塩屋地区の範囲は縦に長く、沿岸部から山間部まで幅広い。そこで出てくる問題として大型機械の入れない山間部の農道の整備と開発が挙げられる。耕地面積などにも差が出てくる事からこうした整備が望まれるということだった。

・魅力ある農業を

  やはりこの村でも若者の数は減っているらしく、そのためか山間部では特に開発が遅れ、まったく手のつけられていない土地もあるらしい。それを解決するためには「魅力ある農業」が必要だという話だった。最後だったがこの話に僕達は正直少し感動した。

 

 

地区中を案内していただいた時の話

 僕達は、松本さんのお宅でお話を伺った後、東塩屋の町を案内していただいた。

 まず最初は、鎮守神社への小道の入り口にある石橋だった。石橋は横から見るとT

字型になっており、2メートルくらいの溝を横切っていた。よくこれで流されなかっ

たなと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真

 

 

 

 

 

 

 次に、その先の鎮守神社に登った。敷地内は草が伸びていたが、確かにとりいの所

には「大正」にも「天正」にも読め、はっきりした年代はわからなかった。松本さんは、「磨いたけんが、もっといいたわしでこすれば読めたかもしれんかった」とおっしゃった。そこで僕達はそこで改めて、僕達がおじゃまする前にいろいろしてくださっていたようで申し訳ないなと思った。

 

 

 

 

 

写真

 

 

 

 

 

 

 

 

 さらに鎮守神社のふもとの道を進んだ。長崎本線を超えたそこには、「湿田」が広がっていた。湿田に足を踏み入れれば腰あたりまで入ってしまうという。

 その後は車に乗せていただいた。そして山道をずっと抜けて「平原(ひらばる)橋」に案内された。ちょっとした谷に街道ができるそうで、田んぼの真ん中に柱が立ちその上を道路が走るというものだった。きれいな直線状にまずは砂利がしきつめられていた。

  そして今度は山側から逆に海側へと下っていった。ぶどうやキウイなどいろいろな野菜や果物が左右に見えた。「このへんは大型の機械がはいれんけんねぇ。ほら、あそこなんかはもう荒れてしもて。」といった感じの話をしていただきながら下っていった。七浦干拓へ出た。そこには周囲4キロという広い田が広がっていた。少し曇っていたせいもあったか反対側の端が見えなかった。その中にぽつんといった感じで石碑が建っていた。

 

 

 

 

 

 

写真

 

 

 

 

 

 

 

 20余年という長い歳月をかけてできたこの干拓地はすばらしいと思った。話を伺った4人の方も土を運ぶなどしていろいろ手伝ったそうだ。今ではこの干拓地の米をはじめ玉ねぎなどその他の裏作物が、東塩屋地区の大きな収入となっているという。

 さらにきれいなまっすぐの干拓内の道路を走り、干拓地の最も奥のほう(海と反対側)に案内していただいた。

 

 

 

 

 

写真(ため池)

 

 

 

 

 

 

そこには今度はこの大きな七浦干拓に大量の水をもたらすため池が広がっていた。大きく、また深そうなこのため池があの旱魃でかれてしまったというから驚いた。旱魃のころにはみるみるうちに水がなくなっていき、慌ててこの320メートルのボーリングにより地下水が汲み上げられた。今でもスイッチを押せば大量の水が汲み上げられて、ため池と七浦干拓を潤している。実際に汲み上げるところを見せていただいた。すごい勢いだった。それと同時に、この地下水が七浦干拓を守ったのだと思うと鳥肌が立ってきた。

 

 

 

 

 

写真(注ぎ口)

 

 

 

 

 

 

 

(ここから干拓へと水は流れていく。)

 

最後に、僕達は東塩屋公民館へ案内され、祭りの写真や道具などを見せていただいた(写真は上)。祭りに使った古い太鼓や、5つのお面なども見せていただいた。この時さらに「試験がなかったら実際に見れるのになぁ・・・」と思った。

 

 僕達はこの調査で多くのことを学んだ。東塩屋地区の伝統・習慣・農業などだけではなく、本当に温かくしてくださった東塩屋のみなさんのことも知ることができた。この場をおかりして心から感謝したいと思います。