火曜4限「歴史の認識」レポート
越口沙織
柴田智美
調査地
調査日 12月23日
1.はじめに
古城(ふるしろ)という地域を調べるにあたって、私たちはまず通例より代表の中原昌一郎さん宅にお手紙を送り調査の旨を伝えた。ところが、後日中原さんと約束を取り付けようと、電話したところ、中原さんの声は意外なほど若く、中原さん宅は数年前に古城に移住したばかりなので古い地名・慣習などについての知識はまったくなく、また古老もおらず、農業をやっている方も少ないという。お話を聞いてみると、この古城という地域には農業をやっている家が3〜4件しかなく、全体的に移住してきた人、お嫁にきた人が多いので、どの人に話を聞いても昔のことはわからないのではないかということだった。私たちは、仕方がないので、数件しかないという農家の方に直接しこ名について尋ねてみたり、歩き回ってみて出会ったお年寄りの方に古城に古くからある慣習などを聞いてみることにした。
写真1:古城の家屋
はじめに、槌間さんという農業を営んでいる男性にお話を伺った。槌間さん宅も古城には二、三十年前に移住してこられたそうで、以前住んでいた長崎では農業を営んでいて、古城に移ってからの1年目は大変苦労なさったそうだ。その苦労とは、古城部落の内外に知り合いがいなかったことや、漁業と農業とのギャップである。今は笑顔で語れるが当時は本当につらかったとおっしゃっていた。次第にそれらのギャップも克服していき、前々回の区長まで務められたそうである。前に区長をやっていた方なら古いしこ名について知っているのではないか、と思い尋ねてみた。槌間さんは数個しかわからない、とおっしゃりながらも、「しんどう」「城内(しろうち)」などのしこ名を教えてくださった。
次に訪れた林さん宅も農業をしているそうだが、ご主人がご不在で、奥さんにお話を伺った。しかし、奥さんはお嫁に来たときに古城に移り住んできたため古い慣習・地名のについてはあまり知らないという。それでも、槌間さんと同様に「小学校のあたりは鍋島の城があったので城内と呼ばれていたよ」と教えてくださった。そこで、小学校まで移動し、周辺を調査することにした。
写真2:北鹿島小学校正門
写真3:記念碑
(記念碑全文)旧鹿島城跡由来
この校地は旧鹿島藩の城跡である。
戦国時代の終わりごろ北鹿島一帯は有馬と竜造寺が対峙していた。天正四年(一五七六年)竜造寺が鹿島を攻め、鹿島地方にあった有馬の城を次々と攻め落とした。竜造寺が支配することになったこの鹿島城には戦で手柄のあった鍋島信房がおかれた。信房はやがて佐賀藩祖となった鍋島直茂の兄である。
竜造寺隆信がなおも有馬を追って天正一二年島原で戦死すると肥前国の実権は鍋島直茂のものとなり、その子勝茂が佐賀初代藩主となる。
慶長一二年勝茂は弟忠茂に鹿島二万石を与え、ここに鹿島藩が成立した。慶長一六年忠茂は初めて鹿島城に入った。
承応元年三代藩主鍋島直朝はこの地に新しく城を築き直した。城は一般に恒広城と呼ばれ、東側三二四メートル、西側二八八メートル、南側四一五メートル、北側三八七メートルに及びその外側を幾重もの堀で囲んだ。城の西方には洪水を防ぐため、鹿島川と塩田川を結んだ堤防を築き松並木が植え込まれた。
城は文化四年高津原(現在鹿島高等学校の地)に移転されるまで鹿島鍋島藩の館であった。
小学校前にある「農村婦人の家」で、一人のおばあさんからお話を伺うことができた。大体の話をまとめると、鍋島直朝は、水害から逃れるために現小学校(城門を復元したもの)の位置に城を構えることにしたそうであるが、その後もたびたび水害はあったらしく、40年前もひどい洪水があり、床上50cmまで水があがってきたらしい。「そん時は、船で近隣から食料を運んでもらって生活したけど、農家の被害は大変なものだった。」と辛そうに顔をしかめて教えてくださった。さっき田んぼ周辺を歩いたときに、貝殻があるのを不思議に思っていた私たちは、「その洪水のときに、貝殻は川(海)から流れてきたのですか?」と尋ねたところ、「ここら辺は昔は有明海でそれを干拓したから(貝が)あるんだろうね」とのことだった。その他にもおばあさんは古い慣例についても教えてくださった。まずは@男の人が先にお風呂に入ると良い、やA魚のお頭は男の人が食べる、などといった感じで男の人を大切に扱っている、ということである。また、夜、女の人は洗濯などの仕事を、農家の男の人は次の日の準備などの仕事をそれぞれ行ってきたそうである。その他にも十月には「氏神祭り」という祭りも開かれていたらしい。
最後に訪ねた土居さん宅はここら辺で一番古い農家の方だそうだ。しかし、詳しいことを知ってらっしゃる方がもう亡くなっており、奥さんが「女では古いしこ名や農業についてはわからない」と言う。かわりに農業について教えてくださった。私たちの「日照りなどで困ったことはありますか?」との質問に「ここら辺はすぐに水が溜まって、日照りがむしろうれしかったね」とおっしゃり「四十年前の洪水の時はひさしまで水があがってきて、船で弁当を運んでもらったり、そのあと‘うね(ていぼう)’を作ったりして大変だった」と水害の時の苦労を語ってくださった。また、小学校近くの‘おみやさん’について「あそこら辺に明神様があったでしょ。あそこはね、今はもうやってないけど十二月の第一日曜にお祭りをしていたんだよ。ちゃんと掃除もしてしめ縄も飾って、神主さんも呼んでね」と昔のお祭りについてもおしえてくださった。
以上のほかにも何人かの人にお話を伺ったが、前述したとうり移住してきた人が多く、また高齢者も少ない為、なかなか昔のことを知っている方がおらず、全体的にしこ名をあまり集めることができなかった。だが、古城中を歩き回り、自分の足で地理を実感することができたと思う。地名調査は大変だったが、古城の雰囲気はとても気持ちがいいもので充実した一日をすごせた。