鹿島市浅浦調査報告

 

 

 

 浅浦地区の調査を行う前に、中村地区の地名調査を試みたがほとんど成果がなかった。かろうじて鹿島警察署前にヒャーボン(乙丸にある)という地名があったことを、公民館にいた古老に聞くことができたにすぎない。どうも、この地区で現在使われている小字名は「〜本松」といった記号的なものではなく、独自に昔からあった地名が多いようである。地図をお見せしたら、ここに書いてある地名しか分からないと言われた。圃場整備前の厳密な地名の位置についてお聞きしたが、教えていただくことができなかった。また、この区の区長である三原さんのお宅を訪ね、お話を聞こうとしたのだが、まともに取り合ってくれなかった。家に圃場整備前の地図などがあると言っていたが、面倒くさかったらしく見せていただくことができなかった。市役所に行けば分かる、と言われお払い箱。

 

また、西牟田でイチノカクという地名を聞いた。塩田町の報告にある小笠原さんからは、黒川の東側にゴノカクという地名があることをお聞きしたのでここに加えて記す。

 

結局鹿島市での調査は浅浦地区での成果しか上がらなかった。時間の都合上、浅浦での聞き取りも満足の行くものではなかった。最後に松尾さんを訪ねるまで10軒ほどの家を浅浦で回ったが、誰からも「分からない」と言われ、半ば諦めかけていたなかでのこの成果なので、運に助けられたと言えよう。 

 

ただ、森田さんという老婦人からチズコガ(鎮守古賀)、ウータン(大谷)、ジンベエの地名を聞くことができた。この方は救世神社のすぐ近くに住まわれていて、この辺りのことをチズ、チズコガと言うのだと教えてくださった。救世神社の鎮守という意味から来ているらしい。あと、名前をお聞きしなかったが六十代くらいの男性からナカシマという地名を聞いた。

 

浅浦は黒川が流れる、幅が二キロほどもある大きな谷にできた集落群である。谷の北側を中心に歩いたのだが、田や畑、家にはよく石垣が築かれていた。茅葺き屋根がいくつか残っており、古い石碑や橋もあった。救世神社の鳥居は「肥前鳥居」で、狛犬はかなり古いものだった。昔の生活の姿がよく残っていて、きれいな所だという印象を受けた。

 

 

 

話者:松尾直(昭和10年)

 

調査者:藤本維佐武

 

日時2003年11月23日(日)

 

地名:カンノンサン(お堂があった) サルワタリ ヌゲンタン(傾斜のある谷、ズルズル滑ったのだという) ヤマンタン ウメダニ コバゴエ オタマエ(ヤ) コヤンタン ミットリ(水取) ジゾウサン サクランババ(牛を洗ったり、爪を切ったり、コテの焼き入れを行った。花見もした) セイジアン トウジュウ

 

 

 

松尾さんのお宅は徳永の一番上にある。浅浦での調査はこれより上へは行かなかった。松尾さんは昔か

 

ら山の仕事に携わってこられ、谷の名前に精通しておられた。南北の山にはいくつもの小さな谷が走っている。耕地が少ないため、山からの恩恵がこの浅浦での生活を支えていたことが想像できる。昔のことについても少し聞くことができた。昔この辺りは嬉野家が治めていたのだという。嬉野家の土地は払い下げられて個人の畑になっている。元光寺の辺りである。元光寺近くのオタマヤ地名の場所は、嬉野家の墓に由来する。今でも立派な墓が残っているのだそうだ。