平成15年629

厳木町浦川内の

昔の暮らし

 

 

 

話をしてくれた人

篠原鶴太さん(昭和12年生まれ)

嶺川隆敏さん(昭和7年生まれ)

秀島安さん (昭和14年生まれ)

 

 

 

 

1TE02056 松澤博幸

1TE02806 深川正樹

1TE02823 松雪和

目的

厳木町浦川内の昔の様子、暮らしを調べ、半世紀前に青春を過ごした人々の生活と、現代の生活の差を考える。

 

方法

事前に浦川内の駐在員(区長)である篠原鶴太さん(昭和12年生まれ)に手紙と資料を送った。現地では、篠原さんの紹介でこの地の歴史に詳しい嶺川隆敏さん(昭和7年生まれ)と秀島安さん(昭和14年生まれ)の三人に公民館で話を聞いた。

 

 

質問に入る前に公民館の前にある道について話してくれた。その道は明治30年から6年かけて作られたもので、その記念碑が五ヶ山里道改修記念碑である。嶺川さんは浦川内文化財について調査していて、この記念碑についての碑文なども調べていた。

石碑の調査は春先にするのが一番よい。石碑は山の中にあるものも多いので、暑くて草も生い茂っている夏には適さないと言っていた。碑文で彫が浅く読みにくいもの(江戸時代の碑文など)は、夕方に下方から懐中電灯で照らしと読みやすくなるということだ。懐中電灯は昼でも持ち歩くほど必需品であるとおっしゃっていた。この碑文を書いたのは秀島与一郎さんで当時の村長だった。この人は話を聞いた秀島安さんの祖先で庄屋だった。昔の年貢は米で、絹やお金を納めるときは博多に行き、物々交換をしていた。浦川内では米が通貨のようなものだった。一公二民とはいっていたが、実際はもっとひどかった。農民は生かさず殺さずだった。江戸時代の初期は米の収穫高によって年貢が決められていたが、のちに収穫高に関係なく一定に決められた。幕府は一定の年貢が確保でき、楽であったが、農民は不作のときは借金してでも納めなければならず苦しかった。ここでも一揆が起きていて、五ヶ山騒動といわれている。このような一揆ではリーダーがいて読み書きのできる人だった。五ヶ山騒動では大分の竹田からきた人であった。農民は読み書きができず、その人に従うだけだった。

 

1、 田んぼからの水はどこから引いてますか?

浦川内川と平野川から取水。

2、 水争いはありましたか?

水争いはなかった。土留では水番人がいて下中原の人が順番でしていた。

よその地域では梅雨がこないと田んぼを耕せなかったから水争いが起こるらしいがここでは水が豊富だから。

水番人は何をしてたんですか?

堤を守っていた。堤を壊すと下の人が得をする。

3、 用水路、田の中にはどんな生き物がいましたか?今と昔は違いますか?

もずくがに、うなぎ、あぶらめ。今はほとんどいない。昔は石垣だったので、隙間がたくさんあった。でも今は六角ブロックやコンクリートだから。

4、 田んぼでは何を作っていましたか?

米、麦しか作っていない。そばは作っていない。

何でそばは作っていないのですか。

そばはどんなところでも育ちやすいが、ここでは土地が肥えているので作らなくていい。

5、 昔はどんな肥料を使っていましたか?

今でいう有機肥料。草を刈ってきてすきこむ。草を敷き詰めてその上から土をかぶせる。今は?

化学肥料。

6、 害虫はどうやって駆除しましたか?

油をまく。油をまくと虫は呼吸ができなくなる。今使っているような薬みたいに積極的な方法ではない。油をまいても取れないイナゴは取って歩いた。作付面積に応じて、お金を払い、自分の畑の取った分だけお金を戻してもらう。それをサボった人はお金も戻ってこないし、よいものができない。

お互いの共同作業はありましたか?

加勢はした。水が上の方からたまっていくので協力して順々にやっていく。

7、 さなぶりはありましたか?

早苗饗。田植えがすんで慰労をかねたお祝い。小さな部落単位でやる。今はやっているところは少ない。

8、 飼っていたのは牛ですか、馬ですか?

牛。山坂がたくさんあるので牛の方が適している。馬では棚田とかは行けない。

餌は何ですか?

田んぼの周囲にある草。また共同の草刈場がある。草刈場は早い者勝ちだからみんな競っていた。0時からとってよくて、入り口近くから取っていく。遅くなったら奥のほうになってしまってたいへん。

牛を歩かせるときの掛け声は?

右→キショキショ

左→トートー

止まれ→クークー

ひも一本で操作する。

 言う事を聞かないときはどうしてましたか?

家に帰って鼻ぐいを引っ張ってせっかん。

9、 牛はどうやって洗いましたか?

牛は寝ている時にしゃがみこむから糞や泥がつくので、カナグシで糞や泥を落としてあげたり、毛並みを整えたりした。

10、薪はどうやって手に入れましたか?

一つ一つの家に薪置き場の小屋があって、そこにためておく。冬は薪が取れなくなるので冬の分の薪も取っておく。

どこで取っていたんですか?

原則として自分の山の雑木から。

11、入り会い山はありましたか?

入り会い山はあった。共有林を育てて、材木として売る。稼ぎはみんなでわける。

12、木の切り出しはどのようにしていましたか?

業者に立ち木で売っていた。牛か馬に引かせる。道引き(どびき)

13、薪は焼きましたか?

ほとんどの家で焼いていた。農閑期に自分の山の木を自家用で。売る人は広い土地を持っていて人手が足りているところ。人の山を買ってもした。冬の収入源。ほとんどの家が自家用だった。

14、山を焼くことはありましたか?

植林するときぐらい。焼畑などはやっていない。

15、物を作るとき何年間か荒らしたりしましたか?

米と麦の二毛作。休めることはない。米は年貢で持って行かれるので麦が主食となる。

土地が痩せることはないんですか?

痩せないように草をすきこむ。努力したほど収穫は多い。

16、山の木のみはどんなものがありましたか?

果実はほとんどない。自家用程度に柿があるくらい。山菜も自家消費だけ。

17、川にはどんな魚がいましたか?

もずくがに、うなぎ、あぶらめ、はや。

川の毒流しはありましたか?

石灰、青酸カリ、青酸ソーダ。みかん畑の農薬の残り。

戦時中は戦争で死ぬよりもそれで死んだ魚を食べて死んだほうがましだという考えもあったのではないか。

18、子供の頃のお菓子は何ですか?

駄菓子屋。各部落に一つはあった。

19、米はどういうふうに保存しましたか?

陶製のカメに入れる。

20、ネズミ対策は何ですか?

カメに入れることがネズミ対策にもなる。

21、米づくりの楽しみと苦しみは?

 苦しみは夏の暑い日の草取り。楽しみはない。戦後農村としては楽しかった。みかんが 

 高く売れたので。戦後は食料難だったので。

 農家は厳しい。死んだら楽になる。農家の親は子どもに教育をうけさせない。勉強をす

 ると農家の跡取にならないから。

22、昔の暖房は?

 掘りごたつ。いろりはほとんどなかった。掘りごたつは下に炭火、木炭がある。

23、いつごろから車がきましたか? 

 昭和31年ごろ。車といってもオート三輪。角ハンドル。自転車のようなハンドル。

24、村にはどのような行商が来ましたか?

 乾物、塩魚、衣服、薬。乾物、塩魚、衣服は十日に一回ぐらい。薬は年に一回。

25、昔は病気になったときはどこで診てもらいましたか?

 病院まで歩いて。雨戸を担架にして運んだりもした。病院は一つだけしかなかった。

26、米と麦は何対何ぐらいで混ぜてましたか?

 米よりも麦の方が多かった。こうりゃん、大根、里芋を混ぜていた。里芋はネチョネチ

 ョして嫌い。白ご飯は銀飯と呼ばれていた。あまりたくさん食べれないようにおいしい

 ご飯にはしなかった。ある家では新米は使わずに古米ばかり使うところもあった。今の

 ように健康の為に麦をご飯に入れるようなものではなく、麦の中に米があるようだった。

27、自給できるおかずと自給できないおかずは?

 自給できないものは塩魚や海藻。

28、結婚前の若者たちの集まる宿はありましたか?

 青年宿。男だけで一緒に寝泊り。昼は家族で仕事。夜はみんなで寝泊り。

 規律は厳しかったですか?

 ちょうちん持ちとかがあった。先輩が彼女に会いに行くときについていく役。下駄持ち

 もいた。夜這いをするときは相手の親に見つからないように下駄持ちが下駄を持って待

 っていた。けれど、相手の親も暗黙の了解で見つけても見て見ぬふりをしていただろう。

 よその村にも行っていた。よその村の青年たちと喧嘩もあった。性病の話はなかった。

 結婚したら青年宿は出ていく。だいたい20から25歳くらいまでには結婚する。家柄

 など格差があったので実らぬ恋には世間の目は厳しかった。(旧憲法)無理して駆け落ち

 などしてもうまくいった話を聞いたことがない。筋の通らない恋は成り立たなかった。

 昼間は仕事なので夜しか会うときがなかった。会うとすれば祭りだけだったので祭りは

 楽しみだった。仕事も早く終わるし。旧制中学まで男女別学で途中から一緒になった。

 免疫がなかったので緊張して困った。横を見ることができなくて勉強するしかなかった。

 英語の発表がみんなに見られるので一番嫌だった。別学のときは電車も両によって男女

 別だった。女学校の前を通っただけで停学。こっそり女学校の体育祭を見に行ってみん

 なに自慢しているやつもいた。

 田舎は青年宿で情報をし入れる。テレビもラジオもなかったので楽しみは話だけだった。

 日の出とともに起きて日没で仕事が終わる。

 都会では見合い結婚が普通で、いなかでは恋愛結婚が多かった。

29、戦争はこの村にどのような影響を与えましたか?

 日清、日露戦争では一人も死ななかった。大東亜では17人亡くなった。ほとんどが20

 歳代。戦後は次男や奥さんが頑張っていた。食料には困らなかったが、人手がなくて困

 った。都会では食べ物がなくきつかった。疎開してきた人たちは元の地に戻っていった。

 頭のいいだけでは旧制中学には行けない。家柄も関係してくる。頭のいい人は商業学校

 に行っていた。