佐賀県東松浦郡厳木町大字広川字杉宇土
(調査者) 1EC01225 寺崎 大介
1LT03106 西江 幸子
1.はじめに
今回、私たちはしこ名の収集、および地域の歴史、昔の生活などについての調査を行うため、佐賀県東松浦郡厳木町大字広川字杉宇土を訪れた。
まず、土地柄を説明します。この集落は天山と作礼山を分ける厳木川上流、森ノ木川流域の山間の小平地に位置し、鳥越を通って星領を経て平原へ抜ける通路がある。現在では完全に舗装されたバス路線となり、自動車などが容易に通行できるようになっている。山を切り開いてできた土地ということもあり、田んぼは全て棚田で、集落もなだらかな坂の上にある。実に閑静なこの集落の中を小川が流れ、辺りは山に囲まれている。9世帯しかない小さな集落であるが、みんな仲がとても良い。
今回お話ししてくださった方々は、昭和の生まれということもあり、集落の地名(しこ名)についての話をあまり聞くことはできなかった。しかし、それ以外の村の歴史や生活については、表情豊かにそして熱心にお話しして下さった。
これより、現地での聞取調査の会話内容を元に、杉宇土に残るしこ名や歴史、昔の人々の様子について書き記していく。
2.しこ名と屋号
今回の主たる目的は、杉宇土におけるしこ名調査である。現在では圃場整備や区画整理などで昔の地形を留めてない地域もあるが、杉宇土の地形は昔のままであり今日でも残存するしこ名は多多有った。しかし、そうしたしこ名の位置や由来を聞くと、「名前は残っとるばってん、言われや何をしよらしたかは分からんもんね。」と苦笑混じりに仰った。聞くところによれば、昔は村の歴史に詳しい人がいたそうだが、今ではめっきり減ってしまったそうだ。やはり、由来は時間と共に忘れ去られてしまうものだろうか。とにかく、『厳木町の地名』という本から抜粋してきていた資料を元に話を進め、以下の様な調査結果を得た。
まず田についてである。田のしこ名は、その集落に住む人にとって分かり易い名で呼んでいたもののことである。この集落で分かった田のしこ名は6つある。
シタガタ(下片)・・・家原正光さん宅から厳木川までの範囲の田のこと。
ムカイタ・・・・・・・厳木川を渡り、集落と反対側の範囲の田のこと。
オムカエ・・・・・・・家の向かいにあった田のこと。
マエダ・・・・・・・・川の前に有った田のこと。
ヤマダ(山田)・・・・山中の田んぼのこと。今日では殆んど減反してなくなっている。
カゴグラ・・・・・・・由来は不明。
以上6つのうち4つは、はっきりとした場所が分からなかった。
次に山についてである。しこ名は特に無く、高い山のことを総称してタカヤマ(高山)、裏に有る山はウラヤマ(裏山)、前に有る山はマエヤマ(前山)と呼びやすい名で呼んでいる。残念ながらはっきりした位置は分からなかった。唯一分かったしこ名は、サラシヤマ(険山)である。歩くことができず、嗚呼っと言って落ちそうになるほど急な山であることからこう呼んだそうだ。
次に、井手についてである。井手のしこ名は、その井手を使う田んぼに応じた名前がついていた。例えば、ミョウガセならばミョウガセ井手などといった具合いに名前は付けられている。また、杉宇土の田の中にはホンタンという名の田んぼもあり、この場合は、ホンタ水路と呼んでいた。
次に、峠についてである。鳥越地区に行くときに通る峠を、鳥越峠と呼んだくらいで他には特にないそうだ。地域的に、山の中にあるということもあり、もう少しありそうにも思えたのだが、日常的に使う峠というものは、どうやら決まっていたらしいということが、この調査によりわかった。
最後に、石についてである。コキノモト内の星領辺りに大きな石があり、それを大石と呼んでいたそうだ。由来は、字の通り大きな石だからだ。今では危険箇所に指定されたため取り除かれてしまったが、何十年とそこにあったものだと、熱く語ってくださった。
その他として、普通なら川や池にもしこ名がついてるものだが、川については特
に呼び名は無いそうだ。池については、その存在自体がないという。地域や土地柄により、しこ名も付けら方が違うのだとしみじみ感じた。
屋号としては、シンヤ、ホンヤ、タコ、ホンケの四つがある。このうちシンヤとホンヤについては由来が分かった。元々杉宇土は、親戚や兄弟筋で集落を形成している。そして、昔は家別れで家庭を持っていたということもあったため、新家と本家を区別する意味で、‘シンヤ’や‘ホンヤ’という呼び名が付いたそうだ。これらの屋号も、残念ながら位置は分からなかった。
その他に、何故この集落を杉宇土と呼ぶのか聞いてみた。「それがさ、聞きよるばってん中々杉宇土さって分からん」と苦笑混じりに言われつつも、「やっぱ、杉の木が多かっちゃなんちゃら、知らんばってん」と仰られていた。
上記の調査結果を通して、しこ名や屋号の名前の由来が分かった。しかし、位置が分からないものがほとんどだったため残念である。けれど、このしこ名や屋号の調査を通して、杉宇土のしこ名や屋号は、その土地柄を見て思った言葉をそのまま引用して呼んでいることに気づき、人の温もりと自然との共存を尊重した生活をこの集落の人は大事にしていたのだと思った。
3.杉宇土と信仰
杉宇土の集落には6つの神様がいらっしゃるそうだ。また、作礼山や通石権現に通うという習慣も存在していた。
まず、杉宇土の集落内にある5つの神について記そう。
1つは目は、ワタヅミ(綿津)神社である。この神社では、今でも年に二回、春と秋に祭りが催されているそうで、集落より広川の方に近い所に建てられている。
2つ目は、祇園様である。祇園様は、綿津神社の何軒か上にあり、「はやり」や「みさま」といった色々な病気の治癒や、魔除けを願ったりされる神様がいらっしゃる所である。
3つ目は、片原の前山にある熊山という所に祭られている神様である。この神様は、牛神様など細かい神様がたくさんいらっしゃるそうだ。また、地蔵様もトウカイシとブヘイモクと言われる2体がいらっしゃるそうだ。昔は、お祭りをしていたそうだが、今ではしていないそうだ。家原正光さんは、「熊山様はおそらく落ち人を祭った神様ではないか。」と仰ていた。というのも杉宇土という集落には、昔からよく落ち人がたどり着いていた集落だそうで、ちょうど熊山様のあたりにはそうした人のお墓がたくさんあるからだそうだ。今となっては、はっきりとしたことはわからないが、どうやらこの集落は古くからあったみたいだ。
4つ目は、前山、向かい側マルオ、道下3間でお祭りをしていた、タブの木の石上神で、ミョウケイ(明神)様と呼ばれていた。祭りの日には、お酒やどぶ酒を造って飲んでいたそうだ。
5つ目は、杉宇土集落にあるオオヒラという山の中の氏神様である。
1つの集落にこれほど神様がいらっしゃるのは、大変珍しいことだと思う。この集落は、信仰心の厚い集落なのではないかと思わずに入られなかった。
次に作礼山と通石権現に通う習慣について記す。この2つの神様は、どちらも水神様だ。作礼山には、頂上に池が3つある。その3つの内2つにはヒラノ池、ヤマセ池といった名前がついており、主にヒラノ池から水が川に流れ込んでいる。そして一番上にある池からは常に水が湧き出ており、そこの水は使わないようにしていた。お宮はヒラノ池のところにある。人々は、「春は、水ばもらう神様と秋は稲のできたけんて風ば避けてもらう神様。」と言って、作礼山に一年に二回参拝しに行ってる。これは何も、杉宇土集落の人々だけに限られたことでなく、天川、鳥巣、片原など、ほぼ厳木町内全ての集落の人々が参拝しに行っている。つまり、作礼山は、厳木町にとって水上様としての信仰が厚い場所であり、そうしてみんなで参拝に行くほど、当時は水が大事だったことが伺える。
一方、通石権現は、七山と厳木の境にある通石山の上にある。山の上にとても大きな神社があり、中に畳二枚くらいの石があった。今では、権現様のごしんなはもうすでに抜いてしまっている。権現様までの上り通は、カタバル(片原)とムゾウバル(武蔵原)の横道を通って行くものだった。権現様はアアマガワ(天川)村の人により祭られて、天気がいい時には、頂上から佐賀平野が見ることができた。この通石権現も水の神様として祭られていた。しかし、家原さんが笑いながら語ってくれたことには、通石権現は、作礼山ほどご利益はなかったようだ。
上記の調査結果から分かることは、杉宇土集落の人々は大変信仰心があったということだ。先に記したように、実際この集落には、昔落ち武者や落ち人が沢山生き倒れた場所であり、御墓がとても多くある。こうした土地柄も、この集落の人々の信仰心の厚さや集落にいらっしゃる神様の多さに影響を与えているのではないかと私は思う。
4.杉宇土の田
杉宇土の農業は、主に米作りだった。「田の大きさはどれくらいですか?」と尋ねると、苦笑されながらも、山を切り開いて作った田んぼということもあり、段々の細かい棚田ばかりだよと教えてくださった。杉宇土の集落は山を切り開いた場所にあるということもあり、当然といえば当然のことに、我ながら愚問であったと質問した後に気づき、やや恥ずかしい思いをした。気を取り直し、田んぼに入れる水だどうしていたのか尋ねてみた。田んぼに入れる水は厳木川やアセビ方面の上流や山水を使っていたが、主に山水を使っていたそうだ。田植えは、直播ではなく水苗で、この田には何斗と決めて手で植えていた。この集落の田には、一斗蒔きや五弁蒔きの田というものがあり、ほとんどが五弁蒔きの田だった。そのため、棚田を余分に作ったりもしていたそうだ。1つの田にどれくらいの苗を植えていたかというと、五弁蒔きの田には苗を44.5ぐらい植えていたそうだ。
田植えは、「朝3時から起きて、松明をともしている中、苗を何十と取り、一人百は苗を植えなければいけん」また、「朝起きてから百の苗を植えなければ一人前じゃなか。」と言われていて、慣れるまでは大変だったそうだ。家原みつこさんも「私も百取ろにきゃ、困った困ったと言っていた。」と仰ていた。農家の仕事は、慣れが左右すると真に思った。
田植えとくれば、田植え歌のことが気になる。そこで田植え歌を歌っていたかどうかを尋ねたが、「田植え歌は無かった。」と言われた。山の中だから田植え歌を歌っていると誰が何処にいるか分からなくなるため、歌わなかったそうだ。どうやら、田植え歌と土地条件には何か関係がありそうである。
田植えは重労働であり、とても少ない人数で出きるものではない。そこで、お手伝いさんを頼んでいたのではないかと思い、尋ねた。案の定、お手伝いさんはいた。普通は、早く田植えが終った人から、まだ終ってない人の田植えを手伝ったり、又お手伝いさんを頼むにしても、親戚筋の人に頼んでいたそうだ。それらが無理な時は、男女問わず杉宇土や他の集落の中から雇ったそうだ。今では、日当てが高くなっておりお手伝いさんを頼む余裕がないため、「加勢ができない。」といって、みんなで手助けをしているそうだ。本当に、田植えとは重労働であると思った。
集落では、牛を飼っていたのかそれとも馬を飼っていたのか尋ねると、牛を飼っていたと仰った。昔、田んぼを耕すのに牛が使われていたどうだ。というのも、杉宇土の田は小さいため、馬では様を足せなかったからである。その影響で杉宇土には馬が一頭もおらず、牛が一家に一頭は必ずいたのだそうだ。牛の扱いは慣れるまで大変で、「はいはい、どうどう」と声をかけたり、歌を歌いながら綱一本で操っていたそうだ。牛の扱いについては、1本の綱でする場合と2本の綱を用いてする場合との2つの場合がある。家原さんは、1本綱で牛を操っていたと仰られていたので、かなりの牛の使い手であったのではないかと思った。牛の手入れは簡単で、汗をかいたら拭いておく程度でよかったそうだ。牛ついて語る家原さんの顔は、終始生き生きしていて、とても印象的だった。
農業と言えば、農薬である。昔の農薬はどのようなものであったか尋ねると、なんと重油だった!農薬代わりに、重油を田んぼに入れ、箒で掃いて、田一面に広げることで害虫を駆除していたらしい。今でこそ、さまざまなものを製造するための原料の一つとして使われているが、米作りに間接的とはいえ使われていたことには、驚きを隠せなかった。おそらく、田に入れる油は、水と分離するものなら何でも良かったのだとは思うが、燃料となる重油を使っていたとは、事前に昔の農業について少しは知識をもっていたとはいえ、考えも及ばなかった。
田などに入れる肥料は、草切り場や集落のすぐ近くにある山や大平やナガサコ(長厘)の辺りから秋口に硬い草を切ってきて、冬に田に入れていたそうだ。まさに、山里の自然循環を如実に表した方法である。思わず昔の人の賢さに脱帽した。
稲の害虫としては、イシク病、ゴンガレなどがあったが、重油を田に入れていた頃は、虫も少なかったため、そうした病気にかかることは少なかったそうだ。こうした話を聞くと、今の農業は、生産量こそ多いが、実は農産物にとっては、悪影響となりかねない行為をしているのではないかと疑わずにわいられない。そのため、今の人より昔の人の方が賢いのではと思わずにはいられなかった。
出来上がった稲は、60キロで1俵とし、稲のわらで編んだカマスに入れて保管していたそうだ。しかし、保管の袋も時代が進むにつれカスマ→麻袋→紙袋へと変化していった。私的にはカスマが一番良い保管袋だと思うが、やはり編むのが大変だからか今では無くなってしまったそうで、少し寂しい想いがした。
米の保管場所は、自宅の2階で60俵を上げていたそうだ。昔の家の2階は、かまどや囲炉裏から立ち上ってくる煙により米を乾燥させることができ、また屋根はかやぶき屋根だったので風とうしが良く、米を保管するにはうってつけの場所だった。
田に関わるものとして、田植えの後と収穫の後に打ち上げがある。田植え後の打ち上げでは、杉宇土では‘ウエサナボリ‘といい、親戚だけで集まって魚を買い団子饅頭を作ったりなど後馳走を腹いっぱい食べていたそうだ。収穫後の打ち上げは、集落全体のお祭りとして行っているそうだ。米一俵を各家から出し合い、ウエサナボリの時のように多いに飲食をする。こうした祭りは長い重労働の果ての最高の楽しみではなかろうかと思った。
一般的に、田植えは大変な作業である。私的には、苦しさばかりが先立つものではないだろうかと思っていた。そこで、米作りの楽しさ・苦しさについてもお話を伺うことにした。家原さんは、「米の値段がどれくらいになるか楽しみだった。」と言葉通り楽しそうに仰ていた。昔は田の手入れ次第で稲の出来が違うらしく、集落内で競い合っていた。「今日はあそことがよくできちょんさい、見て来られ。」と言われたりしながら、毎日集落内で互いに競っていたとも仰ていた。田植えには、私のように全くといっていいほど田植えをしたことのない者にはわからず、それを行う者にしか分からない楽しみが、どうやらあるようだということが、この質問を通し感じられた。
5.炭作り
昔、火を起こす物として炭が必要であった。杉宇土は、山を切り開いてできた集落ということもあり、炭作りをしていたのではないかと思われた。そこで、炭作りについて尋ねてみた。現在でも杉宇土では、周辺の山からのこを使って木を切り倒し、祇園様の入り口付近の炭小屋で炭を作っているそうだ。この炭小屋 は共同のものであり、この事実から前述した通り杉宇土の人々はとても仲が良く、結束が強いことが伺える。
6.杉宇土と広川
広川と杉宇土は、昔から2つで1つの地区として厳木町の中に存在していたそうだが、広川は広川だけで、杉宇土は杉宇土だけで集落を構成していた。広川と杉宇土の違いと言えば、集落の構成の仕方だろう。広川は親戚や兄弟筋で別れてないのに対して、杉宇土は親戚や兄弟筋で別れている。実際、家原さんまでも一軒除いて他の家は全て親戚筋なんだそうだ。氏神様を祭っていることいい、杉宇土は血筋の強い集落だと思われる。
7.杉宇土の集落
何度も繰り述べる通り、杉宇土の集落はほぼ親戚筋の人々で構成されているため、皆仲が良い。年中‘村びょう’とって、みんなで何かをするときは四軒や五軒が集まってやっていたそうだ。また、昔は公民館が無かったため、四、五軒が年交代で宿を提供し、酒を飲んだりしていたそうだ。この集落は、予想以上に仲が良いようだ。
8.杉宇土の川
杉宇土の川は昔とあまり変わってないそうだ。しいて変化があったといえるのは、砂防ができたことにより小川が全てコンクリートになって、川の幅が大きくなったことぐらいだそうだ。そして、その影響により川に住んでいたアブラメという小さな魚はいなくなってしまったそうだ。人の生活が豊かになっていく反面、自然と共存した生活が失われていくということが、この事実を基に感じられた。
9.杉宇土と水
杉宇土は、昔から周囲の山が深かったため、水はある程度あり、水争いはなかったそうだ。しかし、水を貯める池が無かったため、早魃のときは少し苦労するそうだ。けれど、苦労するといっても、田んぼの水を少なくするぐらいで間に合うらしく、特に問題は生じ
ないそうだ。そのため、雨乞いをすることも特になく、何か神頼みをするといっても作礼山や祇園様に参詣し祈ることぐらいだった。私は、こうした事実から、杉宇土は信仰が生活に密接に結び付いてる集落だと思うと同時に、厳木町の人々にとって、作礼山とは、水の神様として信頼にたる神様であり、だから、水不足の時には雨乞いをしに参拝に行くのだなと思った。
集落の中を流れる小川には、昔水車が上流と下流に一台ずつ備えられていた。そ
して、それぞれ上流にある水車を上組、下流にある水車を下組と呼び、水車の力を利用して米のもみを取ったり、そば粉をひいたりしていたそうだ。しかし、約35年前に子供が水車に挟まって怪我をしたことから、水車は取り外された。それにしても、昔の人の生活の知恵には感心させられる。
10.戦争
この話を伺う間、家原さんの声のトーンは低かったように感じられた。無理もないことだと思う。なにせ、戦争というものは勝利者にも敗者にもただむなしさだけが残るものなのだから。戦争当時、家原さん達はまだ子供だったそうで、戦地に赴いたりはしなかったそうだ。だから、ここで戦争について記す話は、戦争期における杉宇土においてのものである。杉宇土は、山間部にあるということもあり、人々は閑静な生活を戦時中も送れたそうだ。学生は空襲警報が鳴ると、早く家に帰れるといってむしろ喜んで、玄海湾にある軍の管制塔に行ったようだ。その管制塔からは双眼鏡を使えば海を見渡せ、空襲の様子を伺えたそうだ。「空襲の様子を見て、日本がやられていることが分かっていた。」と言った家原正光さんの顔には、悲しさがにじみ出ていた。おそらく子供でも分かるくらい日本が負けている戦争を何故続けているのかというやるかさのない思いの表れではにかと私には感じられた。
戦時中は、山村といえど一般的に食糧難である。当時、犬の肉を食べていたところもあると聞いていたため、杉宇土ではどうだったのか尋ねてみたが、戦時中の食糧として犬を食べたことはないと言われた。しかし、他の集落では犬を食べたことがあったそうだ。現代では、むしろ犬を家族の一人として扱っていることもあり、こうした事実には、驚きを隠せずにはいられない。犬を食べなければならないほど、当時は食糧が切羽詰まっていたのだという現状が如実に現れている行為だと改めて思った。
11.旧制中学校
中学は、厳木町まで三里の道を降りなければならず、一限から出席するには朝4時に家をでなければならなかったそうだ。朝4時といえば、まだ辺りは暗いのでロウソクを二本、草履を二足持って、じいちゃんに平之のホンカドというところまで付いて来て貰ってたそうだ。遅刻すれば、先生から罰として豚小屋に入れられたり、男子に至っては算盤の上に正座してバケツを膝の上に乗せられたそうだ。遠距離通学者のために、一応中学校に下宿は有ったが、部落の違いで衝突が起こるので、その下宿に住んで中学校に通う人は、なかなかいなかったみたいだ。また、戦争の影響で昭和7、8年生まれの人はあまり学校で勉強ができなかったそうだ。旧制中学は義務教育ではないため、遠方から通学する生徒は、その通学の厳しさ、また学校の先生の厳しさから、かなりの人が中退したそうだ。家原さんも通学のあまりの辛さと、「そがん先生に習わんと、算盤くらい教えるったい。」という祖父の言葉で中退を決心したそうだ。昔は、学校1つ通うにしても本当に大変だったのだとしみじみと思った。この話を伺っていて最も印象的だったのは、「足もてんも、あれだけ歩いて」といって、通学の苦しさを語る家原みつこさんの顔だった。当時を思い出したのか、本当にきつそうな顔をしていたのだ。今日では、スクールバスが通り、通学もかなり楽になっているそうだ。
12.杉宇土の青年クラブ
杉宇土に青年クラブがあったかどうか尋ねると、陽気に「あった。」と仰って語り始めて下さった。青年会には中学校を卒業すると、入団でき嫁御をもらうまでいたそうだ。予想通り上下関係は厳しく、年下の者は雑用をしなければならなかったそうだ。例えば、早く来て掃除したり食事の用意をしたりしなければいけなかったそうだ。青年会は、80畳もある公民館を使っているが、以前は持ち回りで家に集まっていた。寝るときは雑魚寝だったが、布団は各自が家から持参してきていた。
他の集落から若者が来ることはあったかどうか尋ねると、少し気まずそうであったが、「来よった」と仰って話してくれた。他の集落から来る若者は、夜這いが目的だった。だからといって、恋愛や結婚が、自由であるというわけではなかった。親や親戚により、見合いの結婚を組まされていたそうだ。恋愛といっても、近くの人とちょっと話をするぐらいだったそうだ。だからこそ、他に集落から若者が着たりしていたのではないかと思われる。私は、当初よそ者は敵視して追い払っていたのではと推測していたが、その推測は見事に破られた。この集落では、なんとよそ者を取り合えず歓迎していたそうなのだ。お酒を飲み回し、げたもちをして、夜這い相手を目的の家まで連れていかなければいけなかったそうだ。この事実にも大変驚かされた。どうやら、杉宇土集落の人々は、みな気の良い人ばかりのようだ。
13.草切場について
杉宇土の草切場は、特に範囲はなく集落のすぐ近くの山であったり、また、大平やナガサコ(長厘)、広平・浦平・武蔵原・竹の谷のあたりからもとってきていた。つまり、山という山から、草切場として草などをとってくることができだそうだ。だからといって、自分の所有する山を草切場としてつかうことはなかったそうだ。また、それぞれ草切場としてつかう範囲は決まっており、たいて山の陰で隠れそうなそんな環境にある山を草切場としてつかっていたそうだ。山の環境を破壊し尽くさないようにと、昔の人々は配慮をしていたことが伺える。
14.共有地について
村の共有地は、区画整理によりみんなに分けてしまったため、山の共有地に関して以外は、今ではもう残っていない。しかし、昔共有地をどのように利用していたかについては、話を伺うことができた。昔は、水田にあった共有地は、お祭りの時神様に供える米を作るための田んぼとして耕作されていたそうだ。この方法は、上手い方法だと思う。なぜなら、神様に供える米を作る田を事前に準備しておくことにより、集落のみんなが丹精こめて作った米を神様に備えることができるということになり、公平なものだと思われるからだ。
15.昔の食生活について
昔の子供のお菓子は?、焼いも、芋だんき(芋を練って雨湯につけたもの)だったそうだ。芋だんきというお菓子は、広川村にこれを造る人がおられたそうで、いもをもっていき、11円を払えば作ってくれていたそうだ。「とてもおいしかった。」と昔を懐かしむように仰っていたのが印象的でした。
ご飯には、麦を混ぜていた。麦1号に対し米1号で食べたこともあったそうだ。そうした食生活の中では、麦ご飯にサトイモ入れたものはご馳走で、「いつもこのご馳走をだべれる日は、楽しみにしていた。」と当時を振り返りながら話してくださった。戦時中は、米は大事なものだったので、麦をしょっちゅう食べていたそうだ。
おかずに関しては、野菜や米は自給していたそうだ。肉は、他の集落に行って買ってきたり、あるいは集落にいる牛をみんなで殺して、食べていたこともあったそうだ。
その牛は、集落を流れる川で洗っていたそうだ。しかし、肉を食べることはめったになく主に、お魚ばかりを食べていたそうだ。それもそのはず、牛は大事な労働力である。そう簡単に殺せはしないものだ。
16.村の生活
昔は、米作りだけでなく、そばもつくっていた。一時期コバヤマという今では田んぼの所につくっていたが、お金にはならなかったため止めたそうだ。麦もよくつくっていた。
また、田んぼのあぜに生えていたかごの木からかごを採ってきて、おけに浸し、それを蒸し、その後皮をはいで紙を作る繊維を作り、平之など他の集落に売りに行ったりしていた。今では、かごの木は見当たらなくなった。この集落の中には蚕を飼い、絹の糸を使って布を織って売りにいっている人もいた。その他に、山からわらびやぜんまいを採ってきて生活に使ったりもしていたそうだ。農業一つとっても、十人十色である。山の暮らしといっても、さまざまな仕事があるのだということがわかった。
昔の暖房は、囲炉裏や火鉢だったそうだ。炭は、木炭箱の中にあって、墨を売って、ケイキばもってきて、それを火鉢に入れていたそうだ。次第に、墨から木炭にかわっていった。ここ杉宇土は、雪の深い土地であるため、今では、よく降っても20センチから30センチぐらいのものであるが、昔は、スコップで雪を掘っていかなければならなかった。雪で、1週間から10日ほど出られない時もあったそうで、あなぐらにはいったみたいだったと、当時を振り返り語ってくださった。そのような時の食料は、米と水と味噌があれば何とかなっていたそうで、付けもんと味噌は昔から家でつくっていたそうだ。冬にはちょっとばかり、家から出られないことは良くあり、ひどい時には1週間ほど家の中に閉じこもっていなければならないこともあったそうだ。私にとってそうした生活はつらいものに思われたが、実際この土地に暮らす家原さんにとっては、そこまで辛いものではなさそうだった。これも郷に入れば郷に従えというものなのかもしれない。
17.杉宇土に出入りした人々
昔、集落というものは、一般的に閉鎖的な性格をしたものが多いい。しかし、杉宇土は、比較的社交的な集落であることが調査を通しわかった。杉宇土に出入りした人々には、主に3種類の人がいる。
1つは、ものもらいであった。このものもらいは、尺八を吹いていたそうだ。この集落では、そうした尺八弾きそ唐津の前門さんっといっていて、杉宇土にある大きなお宮さんの所に祭りの日に来ていたそうだ。そしてそこで、前門さんは、おにぎりなどをもらい、「ありがとうごぜえます」といって帰っていたそうだ。「ぜんもんさんてんきゅうさんてん」とこの集落ではいっていたりもした。
1つは、お祭りの日に来るよその集落の若者だった。彼らは、8月の地蔵様祭りの日に来て、遅くまでいたそうだ。
1つは、魚屋さんとか乾物屋さん、薬売りといった行商人である。魚屋さんは唐津からほとんど毎日きていた。魚と米とを交換していた。お金で交換することはほとんどなかったそうだ。また、杉宇土には病院がないということもあり、常備薬を売りに薬売りが来ていたそうだ。
18.集落の近代化
電気は60年ぐらい前にきたそうだ。広川まではもっと早くからきていたが、杉宇土にくるまでに時間がかかったらしい。ガスは、30年ぐらい前にきたそうだ。しかし、水道っていう水道は通っていないらしく、今でも家の前に、小川っぽいものが流れているのでそれを使ったり、山からの水を引いてきたりしているもので代用しているそうだ。だから、水道はあまり使っていない。水道って言う水道は、1年前ぐらいにとおり始めたばかりだそうだ。生まれてこの方、街中でしか生活をしたことのない私にとって、この事実は大変驚かされるものだった。
19.謝辞
今回の調査は、歴史を考えるという方法のなかで、今まで経験したことこのないものだったので、私たちにとってとても貴重な体験となりました。今回の調査で、ご多忙の中、私たちの聞き取りにご協力くださった家原光子様(昭和7年生まれ)、そして家原正光様(昭和13年生まれ)に、この場を借りてお礼を申し上げます。