歴史の認識〜厳木町鳥越の調査          1LT03112 波多江俊介

                                      1LT03126 堀之内良太

                                      1LT03140 森崎大地

 

調査に協力していただいた方            荒久田 T11(82歳)◎しこ名とその由来

 ○東〜村の中心部から見て東に位置している部分を指しているから。

 ○南〜村の中心部から見て南に位置している部分を指しているから。

 ○共塚〜共同の墓地だから。

 ○せと〜荒久田宝氏の自宅の辺りを指す。由来は不明。

 ○高う〜村の中心部から見て高い位置にある部分を指しているから。

  ○滝のえ〜滝があるから。

  ○大上〜不明。

 

◎鳥越にある名所

 ○鬼の手形石〜峠の上にあり大人の足でもかなり遠いところにあるらしく実物

    は見ることができなかった。石に手の形の跡がついているらしい。

  ○べん天神〜鬼の手形石の更に奥にある。

  ○祇園神〜これもやはり山の上。

 ○稲荷神社〜通称「おいなりさん」。

付近であったので行くことが出来た

ここには力石があり今でも残っているとのことだったが。それらしきものは見つけることが出来なかった。

お堂の横に小さな膝の高さぐらいの小屋がありそこに般若の彫り物があった。

  ○あみだにょらい〜通称「あみださま」。壕のようなものが掘ってあり、その中に安置されているらしい。

  ○百万様〜付近にあったのだがそれらしきものは見つけられなかった。

  ○弘法大師〜これもやはり見つけられなかった。

 ○桁山、山中、九反谷、うつぼ(うつほ)谷〜猪よけの柵が張り巡らされ許可無く入る事は出来なかった

 ○ヲヲクエ〜ヲヲぐえと呼ばれ、やまの奥の方にある。

 

  ◎鳥越地区の民家がある所全体を「うそ」と呼び隣を「峠」と呼ぶ。

 

  以上の位置は地図に記載(佐賀県立図書館所蔵)

 

 

 聞き取り調査

まず実際に質問した事とは順序が違うのだが、荒久田宝氏はここ鳥越の権利を得るために尽力なさった方である。昭和三十七年に戸川組に会社員として勤めを始められる。そこでは測量の仕事をなさっていた。現区長の荒久田茂孝は大学を出ておられ、宝氏とはよく口論になるらしい。つまり鳥越地区としての歴史は浅いのである。宝氏ご本人も昔からここに住んでいらっしゃるわけではないそうで、隣の地区の「平之」から引っ越してこられたとのこと。だから鳥越地区に現在すんでいらっしゃる方達をみても、荒久田、毛利、木下という名字の方達しか住んでいらっしゃらない。

 

◎農業のこと

○田んぼの水はどこから引いてありますか?

 ●山から流れてくる水が近くでは滝になり、そこから水を引っ張ってきている

    道沿いには用水路がありそれを張り巡らせて田んぼに水をやっている。僕ら

    が町で見かけるものよりも底が深くきれいな水が流れていた。過去福岡で水

    不足が起きていた頃でも水涸れすることはまず無かった。ゆえに、雨乞いを

    することがなかった。

○田んぼの中にはどんな生き物がいましたか?

  ●アメンボ、蛙、おたまじゃくし、たがめ、これは今も昔も変わらないらしく

    確かに私達が実際今の田んぼを見たときも上記の生物がいた。余談だがアメ

    ンボはきれいな水のあるところにしか生育することが出来ないためこの地区

    の水は汚染されていないことが伺える。

○村の一等田はどこにありますか?

  ●公民館の裏辺りが一等田。

○昔はどんな肥料を使いましたか?

  ●山の草を刈りだしてきて使ったり(私達はこれを歴史用語で「刈敷」と教わ

    った。)、牛の糞を使ったりしていた。ただこれらは化学肥料が普及すること

  どんどん使われることが無くなっていった。

○稲の病気にはどんなものがありましたか?

  ●稲熱病というものがあり、対策は一言「薬で何とかなる」。

○害虫はどうやって駆除しましたか?

  ●ウンカが出た出た。油を引いて稲を揺さぶってウンカを払い落として駆除す

    るのが一般的であった。この鳥越地区を調査する前に基山という地区を調査

    したがそこでもこのような手法で駆除を行っていた。ただ基山では鯨油を使

    用していたがここでは特別な油は使わなかったとのこと。現在では薬(ひが

  みつくい)で駆除を行う。

○共同作業はありましたか?

  ●ゆい、かせいともにあった。田植えはもちろんのこと、草取り(山の手入れ

    や田んぼの)や、共同水路を上からずっと掃除したりしていた。

○早乙女は来ましたか?

  ●そんなものは知らないとのこと。

○田植えの時期は?

  ●だいたい五月頃。

○さなぶりはありましたか?

  ●この地域ではさなぼりと言うそうで、飲んで飲ませての大変にぎやかなもの

    だとのこと。

○田植え歌はありましたか?

 ●田植え歌はなかった。ただ主に女性達が村総出で田植えを行った。

○飼っていたのは牛ですか馬ですか?

 ●馬を飼っている人はこの地区にはいなかった。でも牛は飼っていた。後鶏も

  飼っていた。

○牛を歩かせるときのかけ声は?

 ●右はキショキショ!左はトウトウ!

○牛の手綱はは何本でしたか?

 ●一本。鼻に穴をあけその穴に紐を通していた。

○雄牛を大人しくさせるためにどうしましたか?

  ●まず牛の睾丸を紐で縛り、血液が通わないようにする。そうした後で縛って

    おいた睾丸を切断する。これを荒久田氏は笑いながら語ってくれた。私達は

    これを聞いていて背筋が寒くなった。

○入り会いの山はありましたか?

  ●あった。およそ三十町(=約3、2キロメートル)程の広さがあった。鳥越

    地区の下の方にあるとのこと。位置は別途地図に記載。

○そこでどんな作業をしましたか?

 ●肥料用の草はこの場所以外からも入手していたが、薪や木炭のための木はこ

  こから入手していた。また木を切り出した後には、杉の木を植えたのだそう

  だ。私達もそこらじゅうにやたら杉の木があるのを見たがそれもやはり植林

  したのであろう。

○切り出した木はどうしましたか?

 ●マニュアルには川流しという手法があったが、この地区の入会地は民家より

  も下の方にあったためこのやり方は用いられなかった。ではどうしたのかと

  いえば、当時には既に木炭で動く車がありそれに乗せて持ち帰ったというこ

  とである。それ以前は牛に背負わせた運び出したのだろう。基山の調査では

  牛を用いたと教わったからである。また竹林も入会地として使用されていた

  らしく、そこから切り出した茅で作るカゴ(25きんじょうと呼ぶ)を町ま

  で売りに行っていたらしい。ただたいした収入にはならなかったそうな。

○山を焼くことはありましたか?

 ●この鳥越地区は元々は草山であって、山を焼くために弁当を持ってずっと一

  日中山を焼いていたぐらい大がかりな作業だった。勿論焼いてはいけないと

  ころはしっかり区別させていた。

○楮はとれましたか?

 ●うんにゃ、あんまとれんかった。

○山栗や、かんねはとれましたか?

  ●葛はほとんど採れなかった。山栗は採れた。山栗は多めに採って町まで売り

  に行っていた。

    現在のように道が舗装されていたわけではなかったので自宅から町までの往

  復は大変きついものであった。葛をたたき出して水にさらして灰汁抜きした

  ものを「かずらね」と呼ぶ。

○山で採れるものには他にどんなものがありますか?

 ●シイ、マテ(シイのちょっと大きいやつ)、アケビ、ヤマブドウ

  「シイは食用なのですか?」と訪ねると、皮むいて日ざらしににしたやつを

  食べるそうな。荒久田氏は上げられなかったが、道端には今時珍しく野苺が

  綯っていた。むろん試食してみた。ちょっと酸っぱかったが、まさしくイチ

  ゴであった。参考までに聞いた野苺と蛇イチゴの見分け方を紹介しておく。

    普段見慣れているイチゴをそのまま小さくしたようなのが紛らわしいが、蛇

  イチゴで、つぶつぶがくっついているようなのが野苺。桑のみによく似てい

  る。加えて、蛇イチゴを食べるとお腹をこわすらしい。

○川では何が採れましたか?

 ●あぶらめが採れた。

○川の毒流しはありましたか?

 ●やってたやってた!「ゲラン」と呼ばれる木の実をすり潰した汁を川に流し

  て魚を捕るのだが、上流から毒を流すと下流迄その毒が行ってしまい下流の

  魚がプカーッと浮いてくるらしい。で、それが元で川に毒を流したのがばれ

  てしまい警察の方に大目玉を食らったそうな。でも今では笑い話になってる

  みたい。仕掛け釣りはしてないそうだ。他にも山では自然薯、山芋、山桃、

  ゼンマイ、ワラビ等が採れたとのこと。ただ山芋は天然ではないので、野生

  のものに比べると粘り気が足りないらしい。

○米はどういう風に保存しましたか?

 ●ドラム缶やトタン製のものに入れて保存した。現在はそれに加えて大きな木

  箱のようなものに入れて保存してあった。形は大きな樽のようなもので、

  ビールサーバーみたいに下の口から米が出てくる仕組みになっていた。また

  玄米のまま保存させていた。飼っている牛の冬場の餌となる藁や草は乾燥さ

  せて納屋の上に保存していた。しかも驚いたことに宝氏のお宅には歴史の教

  科書に載っている「唐箕」がまだ残っていた。私達も実物は初めて見た。絵

  に描かれているものより若干小さめであった。写真は暗がりで上手く撮れな

  かったが携帯電話のカメラの画像は今残っている。その他に「箕」もあった

○ネズミ対策は?

 ●ドラム缶やトタン製のものに入れておくことでネズミにかじられる心配もな

  かった。

○米作りの楽しみや苦しみは?

 ●台風や雨とかの天候かな。一晩で米が台無しになるときもあったし。楽しみ

  さなぼりかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

◎文化のこと

○車社会になる前の道はどんな道でしたか。

 ●舗装されていない道路を歩くのはきつかった。

○行商人は来ましたか?

 ●潮鯨売りが来ていた。また自ら麓まで競りに足を運ぶこともあった。品は先

  程述べたカゴや栗や薪。

○「ざとう」さんは来ましたか

  ●「ざとう」は来なかった

○薬売りは?

 ●「入れ薬」と呼ばれあちこちにいた。

○昔は病気になったときどうしてましたか?

  ●町まで診察してもらいに行った。

○結婚前の若者達が集まる宿・青年クラブはありましたか?

 ●あった。そこに集まってみんなで話し合いをやったり、雪の日は草履を作る

  のに必要な藁を編んでた。

○力石はありました?

 ●あるある。今でもお宮に残ってる。

○干し柿を盗んだり、スイカを盗んだりしましたか?

 ●やらかしたやらかした。そこらの畑から盗ってきてな、クラブに持って帰っ

  てきてみんなで食べた。これを宝氏はとても楽しそうに語っていた。

○犬とか食べました?

 ●そんなもの食わん食わん。

○「よばい」はさかんでしたか?

 ●あった。男みんなで夜ばい掛けに行った。宝氏はこの当時十六歳。このとき

  宝氏は隣の地区の「平之」まで夜ばいを掛けに行ったそうな。んで、その相

  手とご結婚なさった。

○よその地区の若者とけんかはしましたか?

 ●けんかはしなかった。

○お祭りにはどんなものがありましたか?その時期は?

 ●・初盆の時期に家で盆踊り。

  ・春祭り〜四月中旬。豊作のお祈りのためのお祭り。

  ・夏きと〜神主を呼んで祈祷して貰う。七月七日。

  ・おお祭り〜収穫祭。収穫が終わり一段落した十二月に行う。

    エピソード〜盆踊りはどの家でやるかの順番があって、各家にその順番が回

               りくるのだが、その家に盆踊りに行く人は別段苦労はしないの

        だが、来られる家の人にとってはたまらない迷惑だった。

○もやい風呂(共同風呂)はありましたか?

 ●だいぶ前まではあった。でも今はない。

○祭りの参加・運営は平等でしたか?

 ●全ての祭りが平等だった。

○格差などはありましたか?

 ●なし。

 

◎戦争のこと

○戦争未亡人や靖国の母は?

 ●宝氏の妻も戦争未亡人でいらっしゃる。妻が未亡人になった後で「平之」か

  この鳥越地区に来た。当時宝氏は財産も権力もなく、養うのに苦労なさった

  とのこと。

○戦時中の体験について詳しくお聞きしたいのですが?

 ●当時宝氏は衛生兵として鹿児島の予科練にいた。鹿児島に住んでいた人は沖

  縄などの戦地へ兵隊として行かされたが、宝氏は衛生兵でも兵隊を教育する

  側だったので戦地に行かずにすんだ。戦局が悪くなると、特攻隊や人間魚雷

  を兵隊に指導していた。しかし今そのことを思うと悲しいそうだ。戦争の愚

  かしさや命の重さのことを思ってのことだろう。中には自分が教育した兵が

  玉砕のために向かわねばならないという事をも経験なさっていた。ご自身も

  射撃訓練を経験したとのこと。宝氏曰く自分は成績がいい方ではなかったの

  で成績をあげるために一週間寝ずの勉強をして成績上位にまで上がったそう

  な。やはり食糧難であって、食事はたくあん二切れに、米飯がちょっとだっ

  た。大学出で軍に来た人間は普通の人より出世が早かった。そのため自分よ

  りも年下の何も知らないような連中がどんどん階級を上げていった。自分よ

  りも位が上のため例え相手が年下であっても敬語を使わなければならず、と

  ても悔しい思いをした。年下が少尉になったときの悔しさを語ってくれた。

  宝氏にも特攻隊に行かねばならないと言う話もあったのだが、たまたま病院

  に入院することになり行かずにすんだらしい。特攻隊には行きたくないと見

  舞いに来た家族に泣きながら訴えたそうだ。軍医におまえ達は(戦地には)

  いかせんとも言われたそうな。

  衛生兵としての主な仕事は軍医の手伝いで、軍医の言う言葉をカルテに書き

  込まねばならなかった。まさか軍医にゆっくりしゃべってなどとは言えるは

  ずもなく、大事なところだけを書き殴り、後で清書して提出したそうだ。

  宝氏ご本人の顔にも傷跡が今でも残っている。

  また衛生兵としての他の仕事も語ってくれた。衛生兵であるから必然的に手

  術を行わねばならなかった。二つ話を聞いた。一つ目は盲腸の手術の話。切

  り取った盲腸をそのまま「はい」と看護婦に渡すと気絶する看護婦もいたそ

  うだ。二つ目は足の切断の話脊髄に太い注射針をブスッと差し込んで手術開

  始。宝氏はふざけ半分で語っていたが、私達は再度背筋が寒くなった。

 

◎その他のこと

○子供の頃の遊びは何ですか?

 ●竹を曲げて弓を作って遊んでいた。

○テレビが来たのはいつ頃ですか?

 ●昭和四十年頃。みんな公民館のに集まって、テレビ鑑賞していたそうだ。や

  り見ていたのはプロレス中継だった。力道山に酔いしれた。

 

  

 

 

◎町のこと

 ●ある日課長が呼び出された。田んぼに付近の道路工事で出てきた土を捨てる

  ための場所が欲しいとの要望が出たのだ。でどうなったかというと、鳥越地

  区の畑をその土の置き場にしようとしたのだ。そのせいで畑はだめになった

  が、その分ちゃんとお金が入ってきたのだ。いっそのこと畑全てをそういっ

  た用地にするため埋めてしまおうという意見も出たが、町の反対で整備され

  ることはなかった。この入ってきたお金が相当な額だったらしい。また厳木

  ダム建設の時も畑がいくつもつぶれたらしい。

 

◎荒久田宝氏の自宅について

  ●宝氏の家には普通の鶏に加え烏骨鶏も飼ってある。庭先にはその鶏をつぶし

  たとみられる場所があり、羽が何枚か残っているのがそれを物語る。宝氏の

  自宅では飲料水は山から直接引っ張ってきてあった。その水を利用して庭で

  鯉を飼っていた。しかし観賞用であった…。仏間には戦死した従兄弟の写真

  があった。驚くべきはここからである。宝氏の部屋には戦争に関する資料が

  たくさんあった。まずは図書館にしかないような戦争か平成までに至る分厚

  い資料集。次に予科練時代のアルバム。極めつけは、開戦前後の当時の新聞

  のコピー(日中戦争辺りから戦時中や戦局報道、具体的には五・一五事件の

  時に発行された新聞や真珠湾攻撃の際に発行された新聞等、コピーではある

  が教科書でしか見かけないような代物ばかりであった)。残念ながら付近にコ

  ピー機がなかったので見せて貰うだけにとどまった。

 

○最後に長寿の秘訣は何ですか?

 ●働くこと!だそうです。