厳木町新屋敷の現地調査レポート
調査地:佐賀県東松浦郡厳木町新屋敷
調査者:景山貴昭(1LT03029)
川上雅史(1LT03033)
お話を伺った方:野田憲治さん
中尾安政さん
当日は厳木町でバレーボール大会が行われており、実地調査にあたって私たちはかなりの不安を覚えていた。それでも前日野田さんが「着いたら電話しんしゃい。」とおっしゃったのを思い出しそこにすがることにした。バレーボールは敗れてしまわれたらしくお話を聞かせていただけることができた。(ついほっとした我々は失礼だったか)
最初に述べておこう。我々はすごく困った。本当にすごく困ったのだ。ごく控えめに表現して、だ。前日の服部先生の言葉が気になってはいた。新屋敷は「炭鉱」の町であった。我々の手元には「炭坑用」のマニュアルは・・・無い。
いつも何かしらのマニュアルなり手引きなりに沿って、物事(受験戦争だろうと)を把握し突破してきた我々には少々痛々しい現実であった。息子さんと一緒に車まで出して下さり、意気揚々と案内してくれる野田さん。我々も気を取り直しそれに続いた。
歩きながらまたしても重大な事実に気づく。我々は当初「新屋敷」=「岩屋」だと考えていた。本にも「岩屋(新屋敷)」と書いてあった。多分どちらかが旧地名なのだろうと。見事に違った。新屋敷は岩屋に含まれていたのだ。正直最初よく理解できなかった。1つの疑問が浮かぶ。
「じゃあ新屋敷は岩屋の部落のひとつなのですね。でも岩屋には新屋敷以外の部落はないような・・・?」
「いや、新屋敷のまわりは岩屋とさ。」
「・・・?」
おいおい話を聞いているうちに分かってきたのだが、正確にいえば岩屋と新屋敷の関係はローマとバチカン市国(少し大げさな比喩だが)の関係のようなものであったのだ。後で説明するがこれは新屋敷という地区の性格に起因する。
『新屋敷は岩屋の中にあるごく限定された炭鉱の地区である』
これがとりあえず我々の実地調査の出発点となったテーゼだ。
ここで野田さんに歩いて案内して頂いた幾つかの場所を紹介しよう。
厳木の地名
乙女が池 炭鉱ができる以前の新屋敷(当時は岩屋)には田んぼが広がっており、その農業用水として使われた。しかし炭鉱ができたのは戦前のことであり、当時の様子を聞くことはできなかった。
五間岩 五間の大きさの岩があることからつけられた地名。がけに放っていたが、それらしき岩は見つけられなかった。
椀ノ瀬 厳木川が曲折していて、湾のように入り組んでいる場所。椀は湾の当て字ではないだろうか。
新屋敷 炭鉱が開かれた際、その労働者のための寮などが作られた場所に新しくつけられた地名。それ以前は岩屋と読んでいた。炭鉱の労働者の多くは別の場所から引っ越してきた人で、新屋敷にもともと住んでいた人はよそに移ったそうだ。その後、炭鉱の閉山により炭鉱で働いた人の多くも新屋敷から去ったため、現在では炭鉱時代を知る人さえ少ない。また、数年後には建物の老朽化から新たな町営住宅の建設が開始されることが決まっており、 より一層炭鉱時代の面影がなくなることになる。
権現山・権現淵 権現とは白山神社のことで、権現山と権現淵は白山神社の背後の山と前の淵のこと。
どんどん淵 椀の瀬と権現淵の間にある淵。名前の由来はわからなかった。
屏風岩 屏風のような岩があるらしいが、五間岩と同じようにそれらしい岩はわからなかった。
平山峠 平山部落の人たちが、新屋敷に野菜の行商に来る際通った峠
そもそも、だ。「新屋敷」という地名は旧地名の存在を連想させるだろうか。答えはノオだ。旧地名というからには「小栗街道」とか「五郎丸(注:筆者の実家)」といったものである気がする。これも話を聞いているうちにピンときた。
新屋敷は戦後に炭鉱へ仕事を求め、外から集まってきた人々が暮らす新しい地区であった。その人々は岩屋の中の一部の地域を借り(新屋敷でなく岩屋に住んでいたおばちゃんの表現を借りれば・・・筆者はかなりこの表現が後々まで気になった)そこに長屋を建て住み始めた。だから「新屋敷」なのである。ではいったいその前は何だったのか。聞くところだとそこは乙女が池から用水を引いた水田地帯だったそうだ。戦前からそこに住み続けていらっしゃる方は「もうおんさらんだろう」ということで非常に残念であった。
我々が次にご紹介していただいたのは中尾さんご夫婦である。中尾さんは新屋敷に菓子屋さんであったお父さんと移ってこられ、ご自身は炭鉱の機械の修理をなさっていたということだった。我々はここでも驚くこととなる。我々は炭鉱についてほとんど知識は無かったが、イメージとして炭鉱はきつく、危険で、辛い作業場、というものを持っていた。確かにそのとおりではあったのだろう。中尾さんも炭鉱の爆発事故でお兄さんを亡くされ辛い思いをなさっている。それでも中尾さんははっきりおっしゃった。
「そりゃ借金抱えとんさる方もおんさったかもしれん。でも炭鉱に勤めとった者で生活に困っとったのは少なかとじゃないかな。」
炭鉱には実に様々な人々が集まってきた。それこそ旧帝大の医学部卒ぞろいの超エリート家族から背中に刺青をいれたやくざな人までいた。皆が共用の長屋に住み、共用の風呂に入り、給料として金券をもらう。戦後行き場の無い人たちが大勢いた中で、炭鉱での仕事は身一つあれば食うには事欠かなかったのだ。おまけに新屋敷の人たちは「いつ死ぬかもしれんから」とお金を右から左へと使う傾向があったらしく、野菜や魚、酒などが飛ぶように売れたため、山を越えて新屋敷まで売りに来る人も少なくなかった。もちろん女郎屋みたいなものもあった。炭鉱というのは経済の活性化の中心的役割を担っていたのだ。人々の楽しみといえば西鉄バスを貸しきって映画鑑賞や野球観戦、唐津への海水浴。「今ほど何も無かったけどねぇ」と言いつつも、楽しそうにお話なさる中尾さんを幾分うらやましく思った。
「でもね、岩屋と新屋敷は別と考えたがいいかもしれん」
ふとこういう話題が持ち上がる。新屋敷というのは外から流れてきた人々が集まってできた地区である。田や畑で仕事をしてきた岩屋の人々にとっては「よそもの」なのである。それに加えて炭鉱の人々の荒っぽい気質が拍車をかけていた。「炭鉱モンは柄の悪か」これが岩屋の人々の評価だった。祭りなども別々に行っていたらしく岩屋と新屋敷の関係はあまり良好ではなかったようだ。
中尾さんの奥さんからも興味深いエピソードが聞けた。修学旅行。当時修学旅行に行くための費用が1500円かかった。お金が無かったため、奥さんはボタ山と呼ばれる石炭処理場から「しゃがんボタ」といわれる割と質の良い、まだ使える石炭を集めてきて、それを売って費用のたしにしたそうだ。1表が400円。なるほどそういうことが炭鉱の町ではできるのかと、当たり前のことだったのかもしれないが我々は感心させられた。ちなみに「すいせんボタ」といわれるのが質の悪いボタ。これは商品にはならないので豆炭として地元の人々が活用していた。また企業の経営する大きな炭鉱だけでなく、「狸掘り」といわれる個人の小さい炭鉱もたくさんあった。下の川はボタと石炭をより分ける「せんたん」といわれる作業のため真っ黒だったそうだ。野田さんにいくつか炭鉱の跡地を案内してもらったが、ほとんどがなくなっていたり、草におおわれていたりしていて唯一炭鉱につながるものはもう長屋だけであるようだった。長屋ももうすぐ建て替えてしまわれるらしく、見納めになりそうであった。
炭鉱の町について調査するにあたって、もうひとつのヤマは「閉山の時」であろう(筆者が社会の時間に習った炭鉱のイメージはここばかりが強い)中尾さんは1冊の本を持ってきて、わたしたちに下さった。タイトルは『炭労』。それは60年〜70年の時代を象徴したような本だった。人々が腕を組み、赤い旗やプラカードを持った姿が表紙にある。どういう時代であったのだろう?
中尾さんの奥さんは労働組合の事務員であったそうで赤いポスター作りや看板、垂れ幕などをつくっていたそうだ。
「その頃は、周りの町からオルグ(応援)にかせしてもらったり、かせしに行ったりで、あちこちでデモがあってたさねぇ。」
当時は社会党が力を持っていたこともあり、新屋敷出身の町会議員も多く、団体交渉に行ったり、各地に解雇通知書の印を拒否するよう呼びかけたりとさかんに活動しておられたそうだ。
新屋敷炭鉱は1965年に閉鎖された。ある程度分かってはいたことでもあり、みんなしゅんとしてあきらめていた様子で失対(失業対策)に通ったそうだ。この時から新屋敷に住む人の数が減り、外に別の仕事を見つけていく人もいたし、炭鉱で働くと通常より厚生年金が高くなるため、別の炭鉱で55歳まで働く人もいた。
その後新屋敷の人たちが集まり慰霊碑が建てられた。現在でも8月1日に新屋敷会として集まり炭鉱内の事故でなくなられた方をしのんでいるそうだ。
初めての調査で戸惑っていた私たちに積極的に道を案内し、人を紹介し、お話を聞かせて下さり、最後には行きつけのお好み焼き屋まで紹介して下さった地元の方々のお気持ちはとても嬉しかった。このことは記録に残らないだろうが、私たちの心の中には大切に刻まれたまぎれもない事実であることは是非とも付記しておく。
中尾さんへのお礼の手紙
拝啓
先日は貴重なお時間を私たちのために割いていただきありがとうございました。突然の訪問で迷惑されたことと思います。実際に炭鉱で働いていらっしゃった中尾さんご夫妻の炭鉱や当時の生活についてのお話は、炭鉱のことなど何も知らない私たちにも当時の様子が目に浮かぶようで大変勉強になりました。いままで漠然としか炭鉱についてのイメージがない私たちには、そこでの本当の生活を感じることのできる絶好の機会となりました。今回の実地調査を無駄にしないためにレポートを製作しましたので送らせていただきます。本当にありがとうございました。
敬具
九州大学 文学部 一年 川上 雅史
景山 貴昭
野田さんへのお礼の手紙
拝啓
先日は貴重なお時間を私たちのために割いていただきありがとうございました。炭鉱、地名などのお話を聞かせていただいただけでなく、一日中私たちに付き合って現地を回ってくださったおかげで今回の実地調査が大変有意義なものとなりました。実際に現地を見て回ることで、地図の上からはわからない地名が付けられた由来を感じることができました。また、当時炭鉱で働いていらっしゃった中尾さんご夫妻にも紹介していただき炭鉱の話を聞くことは、炭鉱のことなど何も知らない私たちにも当時の様子が目に浮かぶようで大変勉強になりました。今回の実地調査を無駄にしないためにレポートを製作しましたので送らせていただきます。本当にありがとうございました。
敬具
九州大学 文学部 一年 川上 雅史
景山 貴昭