「歴史の認識」レポート
担当教官 服部
水曜 1限目
調査年月日:2003年6月29日
調査地:佐賀県東松浦郡厳木町大字星領
話者:平形唯利さん(昭和6年生まれ)
平形ますえさん
藤木さん(昭和2年生まれ)
大塚としえさん(昭和5年生まれ)
を中心に話を伺った。
調査者: 1LT03129 松田亜由美
1LT03163 割鞘優子
<一日の行動記録>
11:30 星領に到着。川・橋を調査。
12:00 藤原神社を発見し、調査する。
12:45 公民館に到着。平形唯利さんと大塚としえさんに会う。調査開始。
14:00 藤木さん、大塚としえさんが公民館に到着。片原・広川の調査班と合流し、
一緒に話を伺う。
15:30 調査終了。
<星領について>
星領は、大字星領本村と大字星領片原に分けられる。私たちが調査に行った「星領」は大字星領本村にあたるが、片原とは昔から密接な関係があった。
星領の語源についてはよく分かっていない。慶長年間には「星路」と記載されている書類もあるようだが、文化年間には今の「星領」になっている。お話を伺った方々も「星路」という呼び方は聞いたことがないとおっしゃっていた。
厳木町の最北部に位置し、標高は600bである。しかし、季節風の影響で6月の末でも、かなり涼しく過ごすことができた。厳木町に含まれてはいたが、昔は厳木町の中心部へ通じる道が整備されていなかったため、生活面では片道15`の道のりを3時間かけて、さらに北の浜玉町に行っていた。
昔は本村には8世帯あったが、今は7世帯になっている。何軒か屋敷あとが残っているため、明治時代には10世帯以上あったのではないかとおっしゃっていた。
<星領という地名>
「星領」(ホシリョウ)は昔、「星路」(ホシロ)と呼ばれていたらしい。しかし、現地の人々にホシロという呼び名について尋ねてみても、知らないという返答が返ってきた。どうやらホシロと呼ばれていたのは、随分昔の話のようである。文久の頃は、既にホシリョウだったらしい。
また、星領は昔、天領(=直轄地)であった。
昭和43年に田の公開事業が行われ、田の整理・改良が行われた。公開事業が行われたのは、山間部の中では早い方だったそうだ。
<字一覧>
・ 本村
・ 前田
<しこな一覧>
・ イッポンツバキ
・ シシヤキ
・ ヘボノキ
・ キクロ
・ ウランジャラ(浦平)
・ クロンモト
・ ウランタニドン
・ アセビドン
<しこなの説明>
・ イッポンツバキ:昭和43年の田の公開事業により、田が9畝から1畝に縮小された土地。
・ シシヤキ:現在は田になっているが、昔はイノシシを狩ってきて焼いたとされる土地。イノシシ避けのため、田には電牧(=電気牧柵)がめぐらされている。しかし、ここ10年くらいは、イノシシは出現していないらしい。
・ ウランジャラ:これは、星領弁である。この他にも、「片原」(カタハラ)のことを「カタバル」と言ったり、「原田」(ハラダ)のことを「ハルダ」と言ったりすることもある。
・ ウランタニドン:「ドン」という言葉は、神様を意味し、この地域に神様が祀ってあるらしい。また、「ウランタニ温泉」と呼ばれる地域がある。ここは、温泉というわけではなく、雪が早く溶けることから温泉と呼ばれているそうだ。
<屋号一覧>
・ 本屋(本家のこと)
・ 隠居屋(分家のこと)
・ 役場
・ 中どおり
・ 下(シモ)
・ ヤクロウ
<屋号について>
星領には平形さんという姓のお宅が3軒あるが、平形厳美さん宅は「旧役場」、平形唯利さん宅は本村の真ん中にあるため「中通り」、岩宗さん宅は一番下にあるため「しも」、田中さん宅は「やくろう」と呼ばれている。
また、片原には藤木さんという姓のお宅が5軒あり、藤木為郎さん宅は「本家」、藤木隆次さん宅は「インキョ家」(分家のこと)と呼ばれている。
<田圃の名称>
星領は道を挟んで北側に住宅が集まっている。道の南側には田圃が連なっており、前田と呼ばれている。これは本村(居住地域)の前にある為だと思われる。
圃場整備の前も、各田に名前は付いておらず、「○○さんの前田」という言い方をしていた。本村の近くに原田とよばれている田があるが、この田はほかに比べて広いらしい。
また、焼畑もありシシヤキという地名になっている。
<農業全般について>
収穫は大体1.5俵が普通で、3俵とれれば良田である。湿田が多い。
米作りが主流である。二毛作も可能だが、田植えの時期と重なってしまうため、どの家でも麦を作っていない。昔はごく少数だが、作っている家もあった。
<米の種類>
昔は「ヒコサンボーズ」、「アサヒ」、「ノウリン22号」、「ニホンバレ」といった品種が作られていた。「ヒコサンボーズ」は味は悪いが冷害には強く、「アサヒ」は首が弱かったという。
今は「コシヒカリ」を作っている。「コシヒカリ」の長所は味が良く、時期が早いため、冷害にかかる可能性が低いところである。しかし、風に弱く、倒れやすい。
<肥料>
主にマンザイガス(大豆を搾ったカス)や硫安や二合肥料(窒素、リン酸、カリを混ぜたもの)を、牛を使って作業していた頃(圃場整備の前)まで使っていた。
また、害虫駆除には鯨油がよく効いた。鯨油は浜玉町で買った。
<圃場整備>
星領ではS43〜S44年にかけて、片原では1年遅れてS44〜S45年にかけて実施された。この圃場整備で、もとは9面あった田が1面になったり、谷間にあった湿田が埋められたりした。用水については特に手を加えていない。
<水について>
米作りに使う水は前田の横を流れる川からとっているが、圃場整備のあと、水位が下がったらしい。この川の水はS40年頃までは飲料水にできた。今は簡易水道も通っているが、主に井戸水を使っている。
<機械の導入>
星領はほかの地域に比べ、機械の導入が早く、S40年代前半だった。始めは耕運機を2〜3軒で1台、共同で買って使っていた。少し遅れて田植え機が入った。
初期の田植え機は手動で、1度に2列ずつしか植えられなかった。エンジンのついた機械になってからは、2列が5列になった。
今は、耕す→田植え→脱穀と1軒で3台。「今はもう機械がなくては農家はできない」とおしゃっていた。
機械の登場で、農作業はずいぶん楽になったという。星領では機械の操作は男性がしているが、もっと下の地域では女性が機械を使ったりしているらしい。「革靴を履いていても、すべてできる」と笑いながらおしゃっていたのが印象的だった。
<田植え>
昔は田植えの前に、鋤でおこす(春田おこし)→鍬でおこす→鋤でおこす→シタギ(栄養分として短く刈った草をひく)→鋤でおこす→踏み込む→シロカキ、という一連の流れが必要だった。シタギに使う草は奥の山から採った。
今は機械の導入で、春田おこしのあと、すぐにシロカキができるようになった。
一本一本手作業で植えていたころは、慣れた人でも1日4畝が限界だった。「1日3畝で一人前」と言われていたという。
お話を伺った平形さんのおばあさんは、明け方から始めて、1日5畝も植えることができたらしい。平形さん自身もそんなおばあさんに驚いていたようすが話し振りに表れていた。
また、昔は田植えは6月だったが、今は米の品種が変わったため5月に行われている。
<冷害>
ひどい冷害がS30年前後にあった。「冷害はありましたか?」と尋ねると、すぐにこの時の冷害の話が出たので、とてもひどい冷害だったのではないかと思う。冷害に加え、台風が長い間とどまったことで、稲が花をつけられなかった。この年は1俵弱しか収穫できず、厳木町から米や芋をもらってきた。
また、戦時中も芋をよく食べたらしい。
<炭焼き>
昔はどこの家でも炭焼きをしていて、黒炭を焼いていた。窯は各家にあり、自分たちで作っていた。べたべたした土は炭焼きに適しており、砂っぽい土は窯を作るのに適していた。
それぞれの持ち山から木を切り出した。木の切り出しをドビキと言い、牛を使っていた。
使う木は主に樫(白樫、クマガシ)、クヌギ(ナラ)で、椎は少なかった。炭焼きに向いている木は樫。
材木や炭、すだれなどを牛で浜玉町に売りに行った。帰りは醤油や塩を買って帰った。「浜玉に行ったら手ぶらで帰れない」と、色々なお話の中で何度も繰り返しおっしゃっていた。
<牛について>
昔は1軒につき1頭いた。ほとんどが雄牛で、雄牛をコッテ牛といった。子牛は他の所から買ってきた。
性格の荒い牛は去勢をした。こうした牛はキントリと呼ばれた。
「牛は人をみるよ」とおっしゃっていた。優しい牛は女性でも扱えたが、たいてい女性の言うことは聞かなかった。また、1度バカにされてしまうと、なかなか言うことを聞くようにはならなかった。特に牝牛はこの傾向が強く、「牝牛は死ぬまでつく」という言い回しがあったと教えてくださった。
エピソード1:新しい牛を買ってきたとき、前の牛がおとなしい牛だったので今回もおとなしい牛だろうと思って、綱を引くのをやめて角に巻いた。するとその瞬間、牛が暴れだし、角を突き立ててきた。
エピソード2:自分が使おうとしても、牛は目に涙を溜めて一歩も動かなかったのに、父親が綱をとるとさっさと歩いた
牛を使うのは農作業ばかりではない。材木や炭を売りに浜玉に行くときは、牛に荷物を積んだ。荷物を積んだ牛をシャリキと呼んだ。
山を上るときは牛に積ませていればいいが、下りはブレーキをかけねばならなかったので、下るときの方がきつかった。このため牛1頭につき2人が組みになっていった。
このようにシャリキで荷物を運んだのは、平形さんが30歳の頃のことである。しかし、60歳くらいの人のほうが牛の扱いにも慣れていたので、時間が短くて済んだり、多く運ぶことができたという。
<青年団について>
星領〜鳥越までが同じ学校の校区で、同じ青年団に属していた。人数は10人以上だった。他地域の青年団と交流はなかったが、仲は悪かったらしい。よそへ行ったりもしたし、女の人のことで喧嘩したりもした。
七山村、浜玉町平原と芝居のときに大きな喧嘩をした。そうとう大きな喧嘩だったそうで、怪我人が多数出て、警察にひっぱっていかれた人も何人かいたらしい。
人がたくさん集まる行事は、小学校であった体育会や芝居、盆踊り、浮立などがあった。
<藤原神社について>
星領には、藤原神社という神社があった。藤原鎌足を祀っている。鳥居は、昭和9年12月吉日建立と書いてあったが、神社の本殿は、江戸時代にはもう既にあったと推定される。
毎年9月15日には、「浮立」(フリュウ)と呼ばれる行事が行われる。これは、天衝舞(テンツクマイ)という、頭に三日月状のテンツキを被って舞うものである。このとき用いられる楽器に、大太鼓・鉦・むらし・笛などがある。片原と合同で行われる行事である。また、道行の時に先導する「傘鉾」というものもあった。浮立は、文化3年の銘があり、遅くともこの頃から伝承されていると考えられている。
神社には、「平成七年五月吉日奉納 花柳久之衛 鶴田白扇」と書いてある布があった。この名前が芸名のようであったので、現地の方に尋ねたところ、これは星領の人ではなく、藤原神社に参拝に来た、踊り子の人たちだと教えてもらった。何年かに1回来るらしい。というのも、「東山二十三札所」という大めぐりが行われているらしく、星領の藤原神社もそのうちの1ヶ所であるという。3月と9月の彼岸の時期になると、参拝者がやって来る。多くは50〜70代の人々だそうだ。昔は、参拝者を星領の人々が家に泊めたり、接待をしたりしていたそうだが、現在では行っていない。
また、星領は5ヶ山の一つであるらしい。5ヶ山とは、平野・鳥越・広川・星領・鳥巣のことを指している。
藤原神社の氏子は、山瀬・星領・片原の人々だそうだ。
そして、藤原神社には、推定310年のカシの大木も存在していた。
また、藤原神社という神社は周辺にいくつもあるらしいが、星領の藤原神社が大元である。
<金剛寺について>
星領の方から、金剛寺にまつわる歌を聞くことができた。
「仏の水はいつも星領」
「ちょっと出てなんかの金剛寺」
このような歌が昔からあるらしい。因みに、現在星領の水は、水道と井戸の両方があるというが、ほとんどは井戸だそうだ。
<星領の祭事について>
■ 川祭り
毎年12月1日に催される。ご馳走と甘酒が出される。子供が旗を持って行う。その旗とは、竹のささに白紙をつけたものである。
■ 藤原神社の祭り
5月と10月に催される。10月の祭りには、夏の暑い間、守ってもらったお礼、という意味がある。
■ コウシン様祭り
正月・5月・9月に催される。コウシン様とは、石神様のことであり、道を教える神様だそうだ。
■ ダイニチ様祭り
ダイニチ様とは、牛の神様のことである。どこの地域でも行われている祭りらしい。それほど農家にとって牛は大事だったということだ。
■ オダイシ祭り
お寺にお参りに行く。
■ 先祖様祭り
■ サンヤマチ
盆・正月に催される。昔の娯楽であった。
■ 氏神様の大祭り
12月に催される。地域一帯の大祭りである。餅をふかしたり、ついたりする。しかし、餅をふかすときは女性も参加するが、餅をついたり丸めたりするときは、女性は参加できないことになっている。
■ 霜月祭り
12月17日に催される。この日は朝5時から祭りの準備をする。
■ オヒマチ(お日待ち)
2〜3年前から、12月に催される霜月祭りにくっつけて行われる。
■ 牛祭り
12月の第一丑の日に片原で催される。そのお祭りに星領の人が招待されて行く。百姓の道具を全部お供えする。これは、昔から百姓が行ってきたお祭りである。牛は大切なものとして崇められていた。
■ イノコ様祭り
11月のイの日に星領で催される。牛祭りとは逆に、星領の人々が片原の人々を招待する。男の子のことを一番イノコ、女の子のことを二番イノコと言った。百姓にとって息子は大切なものとされていた。
■ オイセ様祭り
正月・5月・9月に催される。本来は、男性だけが参加するお祭りであったが、星領では近年、女性も参加するようになった。
<その他の興味深い言葉>
・ カマオロシ:共有地である山を区切ること。鎌下ろし。
・ ウーバンブー:天気があれるという意味。七山の方で言うらしい。
・ ドッソクデ:働く者皆でという意味。泥足出、または、同足出。道の管理や野焼きが行われた。春・秋の彼岸に行われることが多い。
<感想>
現地に行くまでは、昔も今とそんなに違いのない生活だったのではないかと思っていたし、圃場整備という言葉自体、講義で聞くまで耳にしたことがありませんでした。しかし、実際お話を伺って、圃場整備前と後の作業がずいぶん変わったのだということがよく分かりました。
始めは方言が分からず困ったけれど、お話が進んでいくうちにだんだんと慣れていきました。しかし、もしかするとうまく聞き取れていない部分もあるかもしれません。
私は今の米作りについてもほとんど何も知らなかったので、お話は面白いものばかりでした。また、炭焼きは特別な技術を持った一部の人だけができるものだと思っていたので、昔はどの家でも炭を焼いていたということにはとても驚きました。
一番興味深かったお話は牛についてです。牛が日常生活とそんなに密着していたとは思わなかったし、牛というと牧場でのんびり草を食べているイメージしかなかったからです。
昔の生活を知ったことが今後どう役立っていくかは分かりませんが、この現地調査を通して知ることができて本当に良かったと思っています。
松田亜由美
調査に協力してくださった星領の方々には、本当に親切にして頂き、とても感謝しています。初めて行った土地であるうえ、初めて耳にする言葉ばかりで驚きました。耳慣れない言葉だったので、聞き取るのに苦労しました。地図に載っていない地名や呼び名が意外と多かったので、新しい発見をした気持ちになりました。その土地特有の呼び名は、とても面白いものでした。その語源や謂われを聞いて納得するものもありました。
また、地域のお祭りの多さには驚きました。最近では、若い人が村に入ってきて、行わなくなったお祭りもあるそうですが、今でも古い伝統は受け継がれているのだなぁ、と思いました。お祭りの一つひとつにきちんとした意味があるので、とても大切なお祭りなのだと思いました。
しこ名以外にもさまざまなお話を伺えてよかったです。星領の人々の生活に少し触れることができ、現地調査の面白さを実感しました。
割鞘 優子