1LT03069 瀬戸正吾
1LT03071 相馬晃
1LT03089 遠山宗典
歴史の認識 現地調査(6/29)レポート
レポートを書くにあたって・・・私たちは当初広川の調査を割り当てられていて、厳木町老人会会長の三塩正人さんに広川に詳しい方をご紹介してもらう予定でしたが、広川町では球技大会が催されていて話をしてくださる方がいらっしゃらず、急遽星領の老人会会長藤木為郎さんを紹介していただきました。広川の調査は従ってできませんでしたが、藤木さんや星領のご老人の方々から当時の話を聞かせていただきました。地図の提出はできませんが、今日聞かせていただいた話を中心にドキュメント形式でレポートを作成したいと思います。
10:30、厳木老人会会長三塩さんとの待ち合わせの場所の牧瀬の「佐用姫(さよひめ)温泉」でバスを降りる。本来の待ち合わせ時間は11:00だったので私たちの到着は早すぎ、三塩さんもまだいらっしゃらなかった。時間をつぶすため、私たちはバスの中から見えたセブンイレブンへ行って朝食を買いに行った。高速を降りて厳木町に入ってからの町の印象は、「本当に何もないな」だった。だからコンビニ一つがとても珍しく見えてしまった。また、JRの線路が単線だったのにも少し驚いた。ちょうど電車が通ったけれど、思ったとおり車両は一両だった。とても速く通り過ぎて行った事を覚えている。
11:00になりそうなので佐用姫温泉に戻る。すると温泉の前のバス停に一人のご老人が座っていた。近づいていっても気づいてくれないので
「九大の現地調査に来たものですが・・・」
「あぁ、相馬さんね。」
やっと気づいてくれた。挨拶も早々に、三塩さんは封筒からおもむろに一冊の分厚い本を取り出して私たちに渡してくれた。その本は「厳木町の地名」だった。この本の作成には三塩さんの息子・三塩政広さんも加わっているとおっしゃっていた。しばらく談話していると、道の向こうから一人の、三塩さんよりは若く見える男性が歩いてきた。その男性は三塩さんと話をした後、僕たちについてくるように言った。温泉の駐車場には真っ赤なホンダのトゥデイが停まっていた。この男性が、星領の老人会長、藤木為郎さんだった。藤木さんの車に乗り、お世話していただいた三塩さんとの別れを惜しみつつ車は走り出した。三塩さんは、町の事業等で忙しく私たちの面倒をみてくれるのはここまでだった。
車内で藤木さんと話をしていた時、私たちは驚くべき事実を知ることとなった。私たちはこの方に広川に連れて行ってもらえると思っていたし、事前の連絡でそう言う話を三塩さんにつけてもらっているはずだった。しかしご両人の会話をはたで聞いていた時から私たちは何か違和感、そして軽い不安感を感じていた。それを拭い去るため私たちは恐る恐る尋ねてみた。
「僕たちは広川のお話をきけるんですよね?」
「わしゃ知らんぞ。わしは星領の老人会の会長で、広川のことには全然くわしくないんじゃ。」
本当に驚いた。話を聞いてみると、どうやら今日は広川の町で球技大会があっていて、動ける老人は大会に行ってらっしゃり、動けない方は痴呆等の人で、広川では話しが聞ける見込みがないらしい。そこで三塩さんはわざわざ代打に藤木さんのほうへ連絡をしてくれたらしい。三塩さんのご好意はとてもありがたかったが、私たちは広川の予定だったので星領の地図など持つはずもなく、地名の話はあまり聞けそうにない、と早くも軽く滅入ってしまった。しかし藤木さんからもいいお話を聞けそうなので、できるだけ沢山お話しようと思った。
「さっきの温泉は一泊いくらなんですか?」
「いや宿泊はでけんよ。ここは温泉と休憩だけ。」
「観光客とかはいないんですか?」
「おらんねぇ。前は旅館の1つあったけんど今はもうなか。」
温泉の話は結局ここで終わった。あの温泉の利用料金はいまだ判明していない。
「昔は旅館があったんですか?」
「昔はな。昔は炭鉱があってっさ、人も20000人もおったんじゃけど閉山してからは人の減った。今は6000人ぐらいじゃなか。いや、6100か?まあその辺じゃ。」
「炭鉱が閉山したのはいつなんですか?」
「昭和4年じゃったと思う。最近は村から出て行く若いもんが多なったけん町にゃ一人暮らしの老人が多かね。今から行く星領はそげんことはなかけどね。」
「やっぱり過疎化してきてるんですか?」
「うん、核家族が増えて田舎には年寄りの残って農業ばしよる。若い人は休みに帰ってきて手伝うばってん。」
「やっぱり手伝いはするんですか。今、サラリーマンを辞めて農業を始める人が増えてきてるらしいですけど。」
「ああ、聞くねぇ。でも佐賀にはおらんよ。」
「農業人口を増やしていかなくてはいけませんね。」
すると話しているうちに車は林道にさしかかっていた。
「ここの森は全部誰かが所有してるんですか?」
「そうですよ。それぞれ境界線あるんよ。」
「その境界線は木とか石とかで目印をつけてるんいるんですか?」
「いやぁ、尾根と尾根ごとに区別ばつけちょるんよ。」
僕たちはその境界線とやらをよく理解できなかった。村のお年寄りはそれを感覚で身に付けているようだった。
「それを最近の若いモンは知らんからねぇ、でも国土調査で今ははっきり分かれとるけどね。」
まわりは杉だらけだった。
「ここの杉の木は戦後に植えて30〜35年の周期で切られて材木として使われる。もうそろそろ切り出さないけんけど、今、国産材よりも外国材のほうが安価で需要が多いけん、なかなか切り出せないんよ。ばってん切り出しても、切るのにかかるお金や、その切った木を運ぶお金が売り上げば上回るからねぇ。」
「それだったら損するだけですもんねぇ」
途中で傾いて倒れている木々を見て
「ほら、手入れがおろそかにされとうけんこげんな風になるったい。森林はもっと大切にせないかん。この前新聞で読んだばってん、もし木が少なくなったら、地盤が悪くなって土壌に水を保てんくなる。そげんなると水が川にすぐに流れていって、洪水、土砂災害が起きやすくなる。それに森林のもっとる、浄化作用が減って、空気が悪くなる。悪かことが多いとよ。」
この話を聞いて、森林の大切さを改めて知る。
「それを食い止めるのはあなたたち若い人だよ。特にあんたたち九大生で、これからの社会、経済を担う中心になるけんね。重点を置くのは貿易やね。国産材の価値、需要を上げていかないけん。いろんな物の輸入の自由化は日本をダメにするんだよ。」
藤木さんのこの言葉に、九大生という自分たちの将来に対して重くのしかかる責任を感じる。
「ずいぶん山奥に入ってきましたね。ここら辺には小学校とかはあるんですか?」
「ああ、一応あるけどね。分校があるんだけど全校で生徒が10人しかおりません。なのに今年は新入生は一人もいなかったよ。村の戸数は40だからそれを考えてもかなり少子化が進んでます。」
少子化の現状を聞き、私たちは唖然とした。
「へぇ。じゃ中学とかは。」
「山を下って通わなならんね。」
「山を下るって・・・」
「歩いて通うんです。」
「歩いてですか!?どのくらいかかるんですか?」
「片道で二時間くらいかな。」
「へぇ、大変ですね。」
「私が中学生になった時は、牛を売ってそのお金で自転車ば買って通学してました。」
藤木さんの若いころの話を楽しく聞いているうちに、車は藤木さん宅へ到着した。
車から降りると、そこにはとても大きな純日本風の家があった。この家はなんでも5年前に新築した家だそうだ。私たち3人が玄関へ入ると、そこは都会の喧騒を忘れさせてくれるような空間だった。広い玄関に高い天井、とても落ち着く良いヒノキの匂いのする家。まさにそこは自然そのままだった。
「こんにちは。おじゃまします。」
と、私たちが挨拶すると、藤木さんの奥さんが笑顔で迎えてくれた。奥さんは私たちを居間へ通してくれ、おいしい緑茶と和菓子を出してくれた。すると藤木さんがやってき、さらに話を伺うことに。
まずはこの土地についていろいろと尋ねてみた。藤木さんの家は海抜550メートルのところに建っており、夏は扇風機や冷房が必要ないくらいとても涼しく快適だそうだ。しかし冬はまったく正反対でとてつもなく寒く、なんとひどい時には氷点下15℃まで下がるみたいで、水道が寒さで凍るのを防ぐために、水をずっと出しっぱなしにしているそうだ。同じ九州に住んでいるのに、住んでいるところが山の上かそうじゃないかでこんなに気温の差があるとは知らず、私たちはみんなびっくりした。
自然と方言の話になり佐賀の方言について聞いた。
「こっちでは孫のことを、うまごっちいわっしゃるよ。」
「うまごですか。」
「同じ佐賀でも場所によって使う方言は違うからね。」
「どこらへんで分かれるんですか?」
「笹原峠っちいうとこばい。」
「へぇ。どんな方言がありますか?」
「こっちでは来なさいのことを来んしゃいや来んかいと言うばいね。」
「博多でも来んしゃいっち言いますよ。」
「ぎゃあけっちわかる?」
「ぎゃあけ??全然わからないですよぉ。」
「風邪をひくっちいう意味なんよ。どういうふうにできたかはわからんけどね。」
「へ〜。」
「あとは、のすかのすか。これは、きついきついっちいう意味。のさんっちいうのが、我慢できないっちいう意味やけんね。」
「なるほど〜。」
「他にはどんなのがありますか?」
「自分で、これは方言っち意識して使わんばってんわからんねぇ。」
「それよくわかりますよ!」
「がっすうっちいうのは、ありますよっちいう意味やね。」
「がっすうの反対の意味の方言は?」
「その方言はないけん、そのまま、ないやね。」
「じゃあ、語尾や語末につける言葉っちありますか?例えば北九州やったら、『〜ちゃ』とか博多やったら『〜ばい』っちいうのがあるんですけど。」
「こっちも『〜ばい』は使うよ。あとは『〜げな』やね。」
「ああ博多も、げなっち使いますよ。」
「あとは『もらって』を『もらっち』のようにね。」
「あっそれ大分と同じですよ!」
「へ〜大分と佐賀っち離れとる似とるんやね〜。」
「地名を後に伝えていくのっち難しいですか?」
「言い伝えていくのは難しいねぇ。星領の近くに『ししやきだ』っちいう地名があるばってん、昔そこで猪を焼いて料理しよったらしかよ。この前まで猪がおること知らんかったけんね。」
「そうなんですか〜」
「あとは『楮原』っちいうところがあって、そこは、えっと昔、大名?」
「大名行列?」
「いや、役人の籠据え場があったらしかですよ。」
「猪の被害ってあるんですか?」
「植えたばっかしの木を掘り返すし水田を掘るし自然薯も食べるね。」
「前テレビで見たんですけど、猪が突進してきたら傘で自分の身を隠したら、目標物が見えなくなるから引き返すみたいですよ。」
「そうだろうね。大分で多く見られるけど家の周りを60cmぐらいのトタンで囲んどるもんね。そしたら猪は中が見えないからね。前、たまたま猪に会ったけどやっぱ怖かったね。ばってん猪のほうが先逃げたね。」
「それは怖いですね。猪牙あるし大きいし。」
「鶏舎のとこに猪除けで犬つないどるけど、鎖があることば分かっとるんやろうね。猪は近づいて挑発しよるけんね。」
「猪って頭いいんですね。」
「前猪飼っとったけんね。」
「え、それは何のために?食べるんですか?」
「そうそう。臭みがなくておいしいですよ。」
「それは自分で屠殺するんですか。」
「そうだね。でもうりぼうの時から育ててたら情が移ってね。」
「そうですよねー。」
「大分でも猪食べますよ。」
「前、久留米の友達の家で「ご飯食べていかんね。」って言われて食べたら美味しい肉があって「これ何の肉ですか?」って聞いたら「ししだよ。」って言われてビックリしましたよ。本当に全然臭みが無くて美味しかったです。」
「俺はしし肉食ったことないなぁ。」
「ウサギも美味しいよ。」
「ウサギは何かかわいそうで食べれないなー。」
「それはあるばってん、猟で取ったやつはなんとも思わんよ。猟解禁になったら銃声が聞こえるよ。」
「大分も聞こえますよ。」
「猟で使う銃ってどうやって手に入れるんですか?」
「やっぱり許可とかいるんですか。」
「法律が厳しいばってん大変かね。」
「技術的には何かいるんですか。命中率とか。」
「命中率はその人の腕やけんね(笑)ウサギは同じところをぐるぐる回るから撃ちやすいばってん猪は直進するから難しかー。猪突猛進やけん。」
「ははは(笑)。」
そして私たちの興味のある戦争について話を聞いた。
「こちらの方に疎開してした人はいたんですか?」
「いたねぇ。福岡の人やったかな?2,3人来たよ。」
「爆撃とかはあったんですか?」
「上空をB-29がいっぱい飛びよったねぇ。でもここに焼夷弾が落とされることはなかったよ。壊すものがなんもないけんね(笑)佐賀の中心部は焼夷弾を落とされたよ。」
「久留米も空襲ありましたよ。」
「北九州もですね。」
「大分もほんとは原爆を落とされるはずだったんですけど」
「船の工場があるからね。」
「はい。んでも天気が悪かったみたいで代わりに広島に落とされたんですよ。」
「北九州もほんとは原爆が落とされる予定やったんですけど、天気が悪くてそれで代わりに長崎に落とされたんですよ。」
「製鉄所があるもんな。」
「そうそう、八幡製鉄所。鉄は武器を作る素やけね。でも大分の代わりに広島に落とされたっちいうのは知らんかった。」
「ここから福岡のほうが赤く燃えとるのが見えたのを覚えとるねぇ。戦争が終わってから米兵が5,6人来たんよ。そんときは鬼畜米兵っち言われとったけん、そりゃあ怖かったよ。」
「そうですよねー。」
「あとは太宰府天満宮、愛宕神社、箱崎八幡宮の三社も被害にあっとったよ。ほんと何もなくなっとった。ただ残っとったのは土台のコンクリートだけやったね。」
「やっぱ戦争は怖いね。」
「もし、北九州に原爆が落ちとったら、俺は今ここにおらんかもしれん
し。ばあちゃんが北九州におったけ。そう考えたらめちゃくちゃ不思議。」
「そうよねー。」
「戦争はだめよ。再軍備もね。今、自衛隊が軍隊化しちょる。自衛、自分の国を守るっちことは、相手の国よりも強い武器を持っとかないけんやろ?」
「そうですよね、攻めるより守る方が大変ですもんね。」
「だから、戦って外国と向き合うんじゃなく、話し合いで仲良くするべきよ。トップに立つ人がしっかりしなくちゃね。」
「イラクもアメリカに攻撃されたしねー。」
「国連無視して。」
「戦争は駄目よね。」
「これから戦争っち起こるんかなぁ。」
「北朝鮮怖いよね。今までも日本海とかにミサイル打ってきたし。」
「テポドンやろ?」
「いやよねー。やっぱ平和が一番。」
「LOVE and PEACEよ(笑)。」
こうしてお話を聞いているうちに時間があっという間に経ち、お昼になったので藤木さんの薦めで昼食をご馳走になった。
切干大根の中に、近くで採れるという筍が煮て入っていてとてもおいしかった。またこの中には川鯨の肉も入っていて、不思議な食感だった。私たちは何杯もお替りさせてもらってしまった。
午後になって星領の老人の方々から話しが聞けるというので連れて行っていただいた。
私たちはご老人方の話に出ていた「浮立」の奉納されている神社を見に行くことにした。神社は、車道を降りて小川を渡ったところにあった。木々の合間からもれる日光に照らされ、目に入った瞬間神秘的な雰囲気を感じずにはいられなかった。
神社の鳥居をくぐったその脇に看板が立っていて、この神社について書かれていた。内容は以下のようなものだった。
『この藤原神社は藤原鎌足を祀った神社で、古くから星領や片原の人々による信仰の場として大切にされてきました。(省略)毎年九月十五日には現在でも星領浮立が奉納されています。頭に三日月状のテンツキを被って舞う天衝(てんつく)舞役をはじめ、大太鼓、鉦、むらし、笛、鬼等で構成されます。進行のときに先導する傘鉾には文化三年の銘があり、遅くともこのころから伝承されているようです。』
こうしているうちに時間がやってきて、私たちはお世話になった藤木さんをはじめご老人の方々に挨拶をして、バスへと向かった。バスが既に来ていたようで私たちは走って行くことになった。結局バスにも間に合い、帰りの車内では爆睡していた。当初の予定は狂ったが、結果としてとても中身の濃い調査になったと私たちは思っている。