佐賀県厳木町中島 ~歩いて歴史を考える
協力していただいた方々
相島 昭敏様 S3
市丸 通儀様 S5
堀江 普左男様 S4
<1日の流れ>
8:45 学校出発。
10:30 厳木町中島地区到着。指定された集会所へ向かう。今日はバレー
ボール大会があるらしく、3人の方で対応してくださるとのこ
と。お茶を出してもらう。
11:00 聞き取り開始。まず小字やしこ名を地図から教えていただく。し
かしあまり思うような情報が得られない。戦後の苦難や農作業の
風習、青年会のトラブルなどもなかったとのこと。昭和28年の
水害のときはひどかったそうだが。
12:00 昼食のため休憩。相手方で用意していただいた物を食べさせても
らう。農作業の仕事があるらしく、午後は早めに切り上げること
に。
12:15 聞き取り再開。お祭りのことや嫁入り時の風習を聞く。相手方
は町の教育委員会作成の資料を用意しているようだったので、
参考に見させてもらいながら、それ以外の内容について質問を進
めていく。
13:30 聞き取り終了。堀江さんにカメラを貸していただいて、若宮八幡
宮に連れて行ってもらう。神社のいわれや境内に生えていた大楠
の木の話を聞く。観音堂へも連れて行ってもらう。そこで仏像と
盗人の逸話を聞く。ここから中島地区の全体を撮影する。
14:20 道の駅『きょうらぎ』へ行き、堀江さんからさよ姫伝説について
話を伺う。佐用姫像を撮影する。この地点からも地区全体を撮影。
15:00 区長の鳥越さん宅へ。小字に分けられた地区ごとの細かい地図を
見せてもらう。水田の番地や耕作者の人の名前などが詳細にわか
るが、昔のしこ名などは記されていない。聞いてみても
知らないとのこと。もしかすると、存在していない(いなかっ
た)のかもしれない。
15:30 バスの降車地点から遠いので、調査を終了して帰途につく。
16:15 降車地点に到着。しかしバスがなかなか来ない。携帯電話もつな
がらず、心配になってくる。
17:05 やっとバスが来る。
19:00 六本松に到着。解散。
<小字>
中島、牟田、古屋敷、墨田、角石、篠原、峠、深町の8つ
<しこ名(あざな・通称)>
ヤンタン、楠谷、水あらい、役神森、船橋、
<大昔の地形>
墨田川のあたりは、昔舟橋といわれていて、そこまで海が広がっていたそう
です。舟橋という名前の由来は、そこが船着場となっていたためです。また、
地質学的にいえば、墨田川を挟んで墨田方面;火成岩、中島方面;堆積岩とい
えます。
<川にまつわる話>
昭和28年、大きな水害があった。古老達は、28水と呼んでいた。3人共す
ぐにこの水害について、思い出してくれたところからすると、よほど大きな水
害であったに違いない。井堰が崩れ、鉄砲町周辺が砂浜となってしまったそう
です。また、この水害によって、米屋さんの米がぬれてしまうという被害まで
も起こりました。
<水田・土地>
田植えにおいて、共同作業は行われていない。ただ、親戚同士で助け合いは
行っていた。中島の水田では、米8俵ぐらいの収穫がなされていた。しかし、
取れ高は、場所によって異なり、水位や日照によっても異なる。
鉄砲町、中島、牟田は湿田(1年中水が溜まった水田)が多かったため、裏作
ができず、案外等級は低かった。後になって、この湿田を干拓して住宅を建て
ることになったので、地価が高かった。中島地区は学校が近いこと、マーケッ
トが近いこともあって、人口が増えている。川に近い水田は、裏作(麦が一
般)もできるため等級が高い。
昔は、多久の農家の人々が中島地区の地主の田を買って、作りに来ていた。当
時、このような人々を小作人と呼び、年に小作料をいくらと決めそれを納めて
いた。現在、作り手もいないため、地主自ら“小作料はあまりいらないから”
ということを前提にお願いするような時代になっている。
<中島地区の生活>
食事:米、野菜は自給自足。魚は足で踏めば捕まえられるほどたくさん魚がい
たため、簡単に手に入った。(あゆ、じょうとく?津ガニ)その情景が
頭に浮かび上がったのだろうか?たのしそうに話してくださった。海の
魚は唐津からの行商が売りに来ていたので、それを買っていた。戦時中
は強制出荷制であったため、麦が中心となり、芋類(サツマイモ、里
芋)も作っていた。全体的に食料で不自由はなく、子どもたちが腹をす
かせることもなかった。4食(5時、10時、2時、夕方)が一般的であ
った。夜明け前はお茶漬け、弁当を2個もって、仕事に出かけていた。
戦後、燃料革命によって多久炭坑(峠)に雇われていた50人ばかりの
人が食料に困った。山に近く水田も思うように作れないため、中島地区
まででてきて、麦などをもらいに来ていた。時には、サツマイモの葉さ
え、もらっていた。
冷暖房:冬は、どこの家でも、きりゴタツ(掘りごたつ)だった。コタツに用
いる炭は、自分の山から自分たちの生活に必要な分だけの木をきった。
しかし、その切った木を売って、生活の盾にしようとするものはいなか
った。夏は、これといった暑さ対策はない。家を開け放つと、風通しが
よく涼しかった。
風呂:共同風呂だった。都会から来たお嫁さんは、皆で入ることに抵抗を感じ
て、なかなか入らなかった。決まった時間というものはなく、好きな時
間に入る。ときには、7・8件ではいることもあった。またそういった
風呂は中島に10ヶ所近くあったのではないか。
その他:電気は、九州電力(水力発電)により、早く普及していた。上水は最
近普及した。また、ネズミが現われることもあって、ほぼどの家庭でも
猫を飼っていた。
<農家の主な所得>
昭和初期〜40年までの間、主にみかんが所得であった。特に、篠原・深町
が多かった。60戸/80戸のみかんを栽培していた。また中島地区は比較的
勤め(学校の先生、国鉄JR、公務員など)の方が多く、唐津のほうまで勤め
に行っていたのが特徴である。また、米は自分の家で消費する分として、所得
にはなっていない。最近はみかんの値段が下がったため、米作が中心となり、
栽培農家はほとんどないという。
<遊び>
木の上に罠を仕掛け、鳥がかかっているか登下校中に見に行くのが楽しかっ
たそうです。ほかには、河川敷での兵隊ごっこ、冬には凧あげなど。特にけん
かやいたずらもなかったが、隣の家のものは自分のものといった感覚はもって
いた。
<野生動物との関わり>
昔は野ウサギが多く、よく罠にかかったらしい。渡り猿も見られたという。
しかし平成になって、イノシシが急増し野ウサギはめったに見られなくなった
そうだ。イノシシの食害でみかん栽培をやめる農家も多いとのこと。
<関守>
藩と天領(昔この地域は幕府の直轄領だった)との関所の見張り番(多久と
の境)。ここで、出入りの監視をしていた足軽十人組が鉄砲を持っていたこと
から鉄砲町の由来となった。
<祭り>
大きな祭りとして山笠の祇園祭がある。ここでは、笛や太鼓といったものが
使われていた。山笠については、博多人形などよそからもってこず、氏子の人
たちが自分たちで全部作る。しかし、この祭りも28水という大水害や現役で
作っていた者たちが年をとり、いなくなったこともあって、なくなってしまっ
た。ごく最近になって、若い者たちが自分たちで何かしようということになっ
て、H10.10月10日10:10に復興しました。今年で復興して6度目となります。
また戦後間もないころは今の町役場を境にして、町を南北に分けて綱引きを行
っていたそうだ。この祭りは荒々しく、日本刀を振り回してけんかをしたりし
て死人も出たそうだ。この祭りは道路事情や警察の許可が下りない(本当だろ
うか?笑いながら話してくれたが…)ためにまだ復興していないそうだ。
<戦後の中島について>
厳木ダムが昭和54年〜61年にわたる8年の歳月を経て建設されました。
それにともない、以下に示す地域の環境整備が行われました。
ここで多くの人が雇われたとのこと。
・ダム建設にともなう残土処分
・圃場整備
この整備において水あらいは跡形もなく消え去りました。
・集会所建設
<結婚式>
『釜蓋かぶせ』と呼ばれる慣習が行われていました。昔は各家庭で行われてお
り、お嫁さんが家に入るときに、この儀礼が行われた。家に入るときは、玄関
ではなく、裏の戸口からだそうで、このとき次のような言葉をいいます。(あ
まり正確ではないですけど…)
“一度家に入ると、もう出るとこはなか。一生懸命、婿さん方の両親に仕えな
さい。何があっても辛抱してがんばりなさい”。といって、重い釜蓋を二人に
のせられるそうです。
<行商の人々>
魚売りの行商は主に唐津方面から来ていたそうだ。たまに多久からも来てい
たらしい。彼らに川魚を売ったり、多久の炭鉱の人々が米や野菜を買いに来た
りすることもあったという。野菜や果物は自給自足していたので行商は来なか
った。薬売りは基山(!!)から来ていたそうだ。昔から多久とは経済的結びつ
きが強く、そのため今でも町の統合問題で多久と唐津で意見が分かれるのだそ
うだ。
<病気にかかったとき>
昔は町役場の周辺に二つしか病院がなく、リアカーに乗せて連れて行ったと
いう。最近は中島地区だけで三つも病院があるそうだが。
<若宮八幡宮>
御祭神 応神天皇
鳥居 奉献 中島氏子中 S37.11吉日再建
献燈 建立柿本氏 T15.4 吉日
若宮八幡宮には、祇園様・若松様・若松様の本殿が納められている。大楠の
大木が立っていたが、昭和38年に老衰のため倒れ、そのときに共に崩れた石
の鳥居の残骸が今も残っている。今、町の文化財にしようと計画がなされてい
る。境内には小さな石の御堂がたくさん並べられていて、これらは昔付近の
山々にあったものを集めたものだという。
<佐用姫の伝説>
佐用姫は厳木町笹原地区の篠原の長者の娘で、たぐいまれな美人であったと
伝えられているそうです。夫大伴狭手彦が朝鮮戦争に出発する際に、狭手彦を
心から愛するようになった佐用姫は、別れが悲しくて港まで後を追いました。
そして、港を離れる狭手彦を乗せた軍船に、背中から左右の肩にかけ長く垂ら
した(写真にあるように)「領布ひれ」を一心不乱に振り続けました。
その情景を万葉の歌人が次のように歌っています。
海原の沖行く船を帰れとか
領布振らしけむ松浦佐用姫
と、愛とロマンを伝えています。
【感想】
今回の‘歩いて歴史を考える’において中島地区の調査に携わるにあたり、非
常に多くのことを学ぶことができました。中島について、厳木町について、の
昔の暮らし、生活の様子、祭り、そして今復興して6年目の中島山笠の話など
すごく興味深い話ばかりでした。これも、この急な調査を引き受けてくださ
り、また親切に協力してくださった3人のおかげです。本当に感謝していま
す。また、昼食を準備してくださった婦人会の方々、どうもありがとうござい
ました。
今、こちら福岡市では、山笠がかつがれています。山笠のかついでいる男たち
の姿を見ていると、威勢のよい山笠をかつぐ中島地区の方々の姿が目に映るよ
うです。中島地区のすばらしい文化財を大切になさってください。
久保 慶朗
独特の慣習や祭りなど、伝統ある山里ならではの行事について、とても楽しく
聞くことができました。僕は幼い頃に住んでいた地区には、そういった行事や
慣習がなかったので、とてもうらやましく思いました。「なじみやすい、この
場所だから、この地区(辺り)の人口は増えているのだと思う。」という言葉
からも閉鎖性を思わせない温かさを感じました。僕も、住みよく、心の温かい
人につつまれた、この地区だからこそ、人口が増えているのだと共感します。
今度はゆっくり訪問したいですね。
江頭 寿洋
今回、中島地区をたずねると聞いたとき、いったいどういうところなのだろう
かと、不安な気持ちが心の片隅にありました。しかし、実際に訪ねてみると、
自然が豊かでとても気持ちのよい場所でした。我々の調査を協力してくださっ
た方々には資料を集めていただいたり、中島地区を案内していただいたり、本
当に親切にしてくださって、ありがとうございました。皆さんから中島地区に
ついていろいろと聞くことができ、中島地区の昔の話などは、とても新鮮なも
のでした。私は、中島地区を訪ね、いろいろな方々に出会い、また話を聞くこ
とができ、本当によい経験になりました。
西村 旦