現地調査レポート

〜佐賀県東松浦郡厳木町牧瀬部落を訪ねて〜

 

 

 

 

 

 

 

 

厳木町現地調査レポート

                     1NC03009 清水朋美

                     1NC03015  藤原友基

                     1NC03016 向江彩乃

 

1.調査地:佐賀県東松浦郡厳木町牧瀬

 

2.話者:三塩正人さん(84

       大正8年生まれ

 

3.日時:2003629

 

4.タイムスケジュール

8:30  九大集合

8:45  出発

10:00  厳木町到着→町役場へ

11:00  三塩さんの自宅到着、聞き取り調査開始

15:30  調査終了

    〜その後聞き取り調査に基づく厳木町の現地調査

17:00  厳木町出発

19:00  九大到着

 

5.聞き取り内容

 (注:以下に、質問内容を「」、その下に三塩さんの答えを記す。)

 

「この辺りの地名の呼び方、何か特別なものはないですか?」

 生まれた時から今までずっと同じ呼び方で呼んできた。地名の呼び方の起こりがまとめてある本もあるのだが、それを読んで理解するのは地元の人でも辛いものがある。本というのも、昭和46年に町史が発行、そこから60年にかけて地名表を調査・製作し、発行に至った。まず、牧瀬という地域は、東の小学校から西の中学校までの一帯を言う。その中の俗名を、小学校側の地域を石原(いしわら)、中学校側の地域を下組み(しもぐみ)、両者の中間地域を中組(なかぐみ)といい、三塩さんのお宅はそのなかの石原にあった。石原の由来は、小学校の裏側にある作礼山(さくれいざん)の噴火により、溶岩とともに流れてきた石が土地を作っており、それで石原と呼ばれている。ちなみにここは沈没することはほとんどない。中学校の前の通り辺りに、昔、風の吹く(寒い)ときは、ただでは通れない、貧しく飢え死にしそうな人々が物乞いに集まっては倒れ、のたれ死んで行くところがあった。そこを、前門殺し(ぜんもんごろし)という。小学校は昔、厳木尋常高等小学校であった。この学校は佐賀県のこの辺りで唯一3年生の課程まである学校で、よそからわざわざ3年生の課程を受けるために生徒の集まるところだった。三塩さんは、お兄さんたちがお金を出してくれて、8人兄弟の仲で1人だけ3年生まで通わせてもらったという。ここは佐賀の教育の元祖の地で、この町の自慢でもある。

 

「村の田んぼ、谷、川の瀬、淵、滝、井手、用水、池、橋の名称は何がありましたか?」

 小学校の上辺りの田んぼの名前を、一踊り(ひとおどり)といい、下組辺りの田んぼを下牧瀬という。由来は明白でない。また、関係があるかはわからないが、昭和28年にこのあたりでは大きな水害があった。三塩さんは「二十八水」といい、すごさを物語っていた。台風が来て、その玄界灘からの風が丁度笹原峠の下に当たって、跳ね返されてくる。その結果、すごい被害で、亡くなった方は全て部落のみんなで学校の裏の作礼山で葬式をしたという(ムエンブツ)。また、川の名前だが、作礼山がわの一本をうらがわち川、もうひとつを天山の流れであり本流(厳木川→松浦川)という。

←うらがわち川 ←本流

井手は、井手のはた、と呼ぶ。用水はうらがわち川を用いている。名称については言及しなかった。また、井戸水についてだが、ここら辺ではいまだに井戸を使っている。飲み水、洗顔などには水道水を使うより、出してちょっとしたらあったかくなる井戸水の方を好んで使う。ため池は、新だめ・古だめの二つがあり、いづれも人工で、牧瀬部落に使用権がある。橋は、最近できた牧瀬橋しかない、というのも、ほんの何十年か前までは飛び石を使用していた。飛び石とは、その名のとおり川の水面から浮き出ている石を跳んでわたっていくのだが、牛などが通るときには板を張り、流されないよう両岸に結びつけ、渡っていた。また、ほんの昔、昭和32年ごろまでは、たいていの家庭が田んぼや畑を耕すために牛を飼っており、厳木川は牛の体の洗い場だった。馬を飼っている家庭は23件しかなかった。馬は馬車引きの人が用い、主に荷物の運搬に用いられた。脱線するが、中学校の近くに、昔は住友炭鉱という炭鉱があった。これは昭和3年までここにあったのだが、このときは本当に人がたくさんいた。酒饅頭やたんきりを作っては売りに行っていた。子供も小遣い稼ぎにわれこそはと売りに行った。坑員の住宅地であった旭ヵ丘住宅団地は、現在は選炭場、貯炭場、その他炭坑施設の跡地である。

 

「古賀(小集落)の名前は?」

 古賀はなかった。隣の廣瀬にはある。

 

「家に屋号はついていましたか?」

 牧瀬のはずれであり、昔の屋号は『綿屋』とついていた。ここらで多い苗字は、「小松」「三塩」「田久保」「白水」である。

「大木や岩についた名前、ふるい道や峠に名前はついていましたか?」

 特にない。岩は、力石というものがあり、成人した男性がそれを持ち上げられるかといって力比べをした。また、ごんげんさま、という神様をまつっており、台風が来るときなど、皆でお参りにいった。もちろん二十八水のときもいった。

 

「水争いなどはありましたか?」

 なかった。この地域は水はたくさんあり、雪もすごいので、水については何の心配もなかった。

 

「旱魃のときの思い出は?平成6年の旱魃は?雨乞いとかの経験はありますか?どんなことをしましたか?」

干ばつの影響は今までにはまったくなかった。平成6年も特に何の影響もなかった。雨乞いもしなかった。

「台風予防の神事などはありましたか?」

先ほどもいったように、ごんげんさまにお参りに行くこと。昔は小作人だったため、自分の田んぼでの収穫は半分以上が地主、残りが自分もちだった。その中から更に自分で売り、食いつないでいかなければいけなかった。農協に勤めてからその制度も改善され、後15年老人会会長をすることとなった。また、自分は徴兵検査でひっかかり、兄弟で一人だけ戦争に行った。向かったのは海軍として、バリ島へ。なんと、その責務は「警備隊員」。バリ島は食料保管用の基地となっており、とても安全だった。周りの人にも「お前は生きろ、お前は生きてかえしちゃる」といわれ、命を守ってもらったという。

「用水路の中にはどんな生き物がいましたか?今も昔と変わりませんか?」
 昔たくさんいた。一時的に急激に減り、また次第に元に戻った。今はドジョウの小さいような虫などが生息している。昔一時的に虫が減ったのは、昔、この地域で盛んだったのがみかん栽培なのだが、そのみかんに農薬を撒いたところ、雨が降り、川に流れてしまったのが原因であった。みかんの市場価格の急激な下落により、30件以上あったみかん農家は、昔のスタイルで尚育てている家を5件のみ残し、この地域でみかんを栽培する家はほとんどハウスみかんになった。とかく、川は次第にきれいになり、今年も来たる720日には「風のふるさと あゆまつり」が開催される。また、田んぼについてもだが、今はほとんど農薬をかけていない。去年もかけなかった。

「田んぼにはどんな虫がいましたか?川には?
 特に印象の強い、「これ」というものはない。昔はヒルがいたとか・・・

「麦を作れる田と作れない田はありますか?むらの一等田はどこで、むかし(化学肥料導入以前で)米は反当何俵でしたか?悪い田は反当何俵?そばは?」
 麦は今はないが、昔は全ての家で作っていた。麦は全部小作人の収入となるのでこれを楽しみによく麦を作った。一等田は、先ほど述べた一踊りと下牧瀬。米は6俵→9俵。悪いところ=湿田でもそのくらい。(ここらのはなしが食い違っておられてわからなかった。)そばは作ってない。

「何斗蒔きとか、何升蒔きとかいった田はありましたか?」
 三斗蒔き、一升田は使ってない。


「昔はどんな肥料を使いましたか?今は?」
 昔は、牛や人などのたい肥を使用していた。化学肥料ができ、作物の取れ高は一段とアップした。最近はもう直まきはせず、消毒した苗を植えている。

「稲の病気にはどんなものがありましたか?害虫はどうやって駆除しましたか?」
 普通の害虫がいた(このあたりも曖昧な記憶であられようだ)。消毒した苗を植えるようになっていなくなった。害虫は、草を焼いてできた灰を田植えのあとに撒くか、油を撒いて上で竹を走らせて、苗から落とし、殺すかだ。

「共同作業はありましたか?麦は作っていましたか?田植えはいつでしたか?お手伝いの早乙女は来ましたか?あるいはいきましたか?」
 共同作業はあった。収穫がまちまちにならないよう、そろえていた。田植えはみんなの仕事だった。他地域の田植えの手伝いは、普通の働きの倍ほどの賃金があったのでよく出かけた。田植え時期は5月末。早乙女は昔は呼んでいたが、今は機械化が進み、それもなくなった。ゆいがえしはした。


「さなぼりはありましたか?」
 去年まではしていた。

「田植え歌、もみすり歌、ありますか?」
なかった。

「飼ってたのは牛ですか?馬ですか?」
 牛だった。馬を飼っている家はほとんどなかった。

「えさはどこから運んだのですか?」
 えさは、山草を刈り取って、切って、米ぬかをかけて食べさせていた。

「牛を歩かせたり、鋤を引かせるときの掛け声は?」
 手綱をグイッっと引っ張り、「えいっ!」という。

「ごって牛をおとなしくするにはどうしましたか?」
 手綱をひくしかない。

「牛洗いがないのはなぜ?」
 川で洗っていたから。

「草きり山(草きり場)はありましたか?」
 あった。神野元というところに朝ごはん前に行く。

「薪はどうやって入手しましたか?」
 自分の家の山から取ってきた。

「入り会い山はありましたか?」
 あった。神野元。ここの部落には原荒がまだたくさんある。

「そこでどんなことをしましたか?」
 野焼きをした。部落の人みんなのための山。

「木の切り出しは?」
 牛を連れて行った。

「炭は焼きましたか?収入は良かったですか?焼いたとすればじか生産ですか?ヤキコですか?」
 炭は自宅で焼いていた。俵に詰めて売ると収入はなかなか良かった。ヤキコはなかった。

「山を焼くことはありましたか?」
 なかった。

「何を作りましたか?何年間荒らしましたか?」

 米と麦を昔は作っていたが、今は米のみを作ることになった。半分しかない分、米の量はかなり少なかったが、種籾の分だけはどんだけ苦しくても手をつけなかった。田を荒らすことはなかった。

「山栗、カンネは?木の実はどんなものがある?」
  山栗はあった。とっていた。カンネは自分の山のものだけ取った。たたいて出して売って収入とする。木の実はぐみ、あけびなど。きのこはあまりなかった。

「川にはどんな魚が?川の毒流しはありましたか?」
 今は養殖のアユが放流される。昔は、唐津から上がってきた魚がいた。他には、ハヤ、エビ、ドジョウのちいさいようなのがいる。養殖アユの取締りのため、年で\2500徴収している。漁は71日解禁。

 

「昔のお菓子はどのようなものでしたか」

昔のお菓子は、飴玉、たんきり、干し柿、勝ち栗などがあった。たんきりとは、小麦粉等の白い粉でかためたお菓子だ。三塩さんの家では厳木町一帯で炭鉱が盛んだった頃、売っていた。干し柿の数え方は「連」で、勝ち栗は「升」、最近では「キロ」で数えている。

 

「食べれられる野草はどのようなものがありますか」

セリ、タラの芽、ふきなどがある。フキノトウのてんぷら、他にはウド(昔は‘しか’と言った)を酢の物にしたり、ワラビやぜんまいがある。ワラビやぜんまいは干して乾燥させて保存し、山菜御飯などにして食べている。七草がゆは食べなかった。戦時中の食糧難の時には野草を、おひたしや味噌の和え物にして食べていた。

 

「米はどのように保存しましたか。また、ひょうろ米は?」

米は家の2階に俵で積んでいた。1階で米を俵に詰め、60キロの重さのある俵を、階段をかけて2階に担ぎ上げていた。その影響で改築した今でも1階の天井は低くなっている。2階に米を保存するのは、1階においておくと湿気がたまるため湿るという乾燥の問題からである。その後、滑車の登場により、簡単に2階に米を担ぎ上げることができるようになり、今は米びつの登場により1階に米を保存している。ひょうろ米(はん米)も同様に保存している。

 

「ネズミ対策は?」

カゴを置いたり、猫を飼ったりしていた。猫はネズミ対策には非常に有効であったそうだ。ネズミに貴重な米をやられることもあった。今は囲いを作って団子をおく、というネズミ捕り対策をとっている。

 

「米作りの楽しみ、苦しみを教えてください」

楽しみ:自分の作った米を自分で食べられること。

苦しみ:お金にならないこと。小作人で手取りが少なかったため、売る分もすくなかった。米の収穫の半分は地主に取られていた。お金がたりなかったら日雇い(山きりさん等)に行ってお金をもらっていた。泊り込みに出かせぎに出る人は少なかった。佐賀平野に出稼ぎに行く人はいた。

 

「昔の暖房は?」

いろり(掘りごたつ)を部屋のまんなかに置いていた。山の上の家に行くと今でも存在している。いろりはストーブよりも暖かいそうだ。湯たんぽは今でも使っている。

 

「車社会になる前の道は?」

ガタガタだった。昭和30年代に道が舗装された。三塩さんの自宅の家の前の道は昔の国道だったそうだ。バイパスが40年ごろにでき、厳木町には今3つの国道が通っている。

 

「村にはどのような物資が入り、外からはどのような人が来ましたか?行商人は?」

車社会になる前、行商人は来ていた。作業服を売る人、魚売り、薬売り、などがあった。やんぶしは来なかった。作業服を売りに来ていた人は三塩さんの家に一時期住んでおり、その後厳木町で呉服屋を始めたと言う。薬屋は今でも月に一回来ていて三塩さんの家では置き薬が3つあるそうだ。お寺はこの部落に一軒昔からある。

 

「昔は病気になった時はどこで診てもらいましてか」

昔は病気になったら‘お尋ねさん’と言ってよそへ行って、お坊さんや神主さんにおまじないをしてもらっていた。成田神社では今でもしている。

 

 

「蓑を売りに来る人はいましたか」

蓑を売りに来る人はいた。昭和25年頃まで実際に使用していたが、カッパの登場により使われなくなってしまった。蓑作りは副業としてやっている家が多く、佐賀のモロド ミから売りに来ていた。蓑はススキやカヤを編んで作っていた。

 

「米は麦と混ぜたりしましたか。また、その比率を教えてください。」

米は麦と混ぜて食べていた。その比率は麦のほうが米よりも少し多い程度で、大部分の家庭では米4、麦6の割合だった。しかも麦はひらがし麦で今日の食生活とは似ても似つかぬ粗食であり、麦飯のほか、粟飯、大根飯、芋飯を炊く家庭もあり、団子汁、手持ちうどんの献立もあった。米はお金になるので売って、安価な麦を自分たちで食べていた。

 

「自給できるおかずと自給できないおかずは?」

基本的に魚以外のおかずはすべて自給していた。野菜を買うことはなかった。おかずは山から山菜や木の実をとってきて調理して食べていた。魚よりも鯨肉を食べることのほうが多かった。鯨肉は魚よりも値段が安かったそうだ。

厳木町に限らず当時の農家の食生活は大同小異で一日四度飯であった。朝は朝星、夜は夜星まで働き、長い労働時間と粗食のため必然的に4食が習慣となったようである。

以下に当時の一般的な食事の様式を示す。

 

   区分     食事の内容

  チャノコ    茶漬けともいう。朝起きてすぐ食べる。前日の残りの冷御飯

  起床直後    に漬物か梅干、らっきょう等で済ませて暗いうちに仕事にでる

  アサメシ    ごはんを炊いて味噌汁を作る。汁の実は大根、水芋、茄子など

  午前10時頃  使われた。漬物は沢庵漬、高菜漬、味噌漬もあった

  ヒルメシ    ヒルメシは朝飯の残りもので漬物かモロミをおかずにして簡単

  午後2時頃   に済ます。3時のおやつのようなもの

  夕飯      暗くなってからの食事。おかずは里芋や大根煮、だしはイリコ

  午後7〜8時  塩鰯、鯨肉などが蛋白源として2、3日毎に添えられた。

 

 蛋白源として川魚を獲ったり子供たちは雑木山にワナをかけて小鳥をとったりしていた。

 

「結婚前の若者たちがあつまる宿・青年クラブはありましたか?」

厳木町では「青年宿」と呼ばれた結婚前の若者が集まる場所があった。小学校を卒業すると、(16才)青年として入会することになっていた。青年というのは、小学校を卒業すると入会してそれから妻を取るまでが、青年ということである。学校を卒業すると酒一升を持参し、青年会によろしくお願いしますということで、その仲間にはいるのが通例であった。男だけの集まりで毎晩どぶ酒を飲み会話に花を咲かせていたそうだ。年上の人が特にうるさいことはなく、特別規則もなかった。みんなで干し柿やスイカを夜に盗ってきたりすることもあったが、様々な人とレクリエーションをしたりすることで教養も積まれた。青年宿に行くということは一人前として認められることを意味し、そこで始めて仕事ができるお金がもらえるといった、一種の社会通念上一人前の男として認めれるものの尺度の一つであった。独立精神、社会的知識の向上、横に連なる共同精神の涵養など現代の若者も見習うべきことが多かったようだ。

 

「力石はありましたか?」

力石は実際に存在し、それを持ち上げてかかえないと一人前ではないと言われた。

  ←力石

 

「戦後の食糧難。若者や消防団が犬を捕まえてすき焼きや鍋にしたことはありますか?」

犬(野良犬)を獲ったことはないが実際にすき焼きにして食べたことはある。味はおいしかった。捕獲方法は主にだましエサだった。犬は〜の薬(例えばオネショ)だといって食べさせることもあった。

 

「よばいは盛んでしたか?またよその村から来る青年とけんかすることはありましたか」

よばいは隣の部落の人との交流の一つであり、「ちょっと今夜遊びに行くから」と断りを言った上で盛んだった。よその村から来る青年とは連絡を取っており、特に目立ってけんかをすることはなかった。

 

 

「もやい風呂はありましたか?」

もやい風呂(共同風呂)は牧瀬に5つあり、三塩さんの使っていたところは12軒もの家が一つのお風呂を共同で使っていた。基本的に男の人が先に入り、その後女の人が入る順番だったそうだが、急な事情により混浴になることもあった。しかし、男と女が素肌で接触しても風呂場だけは不自然な感じはしなかった。ラジオやテレビもあまり普及していない時代においては風呂場は最も優れた情報の提供場でありコミニケーションの場であった。ごえもん風呂もあり、個人風呂にはない情緒のあるお風呂だった。

 

「盆踊りや祭りは楽しみでしたか、また祭りはいつですか?」

祭りは非常に楽しみな行事の一つであり、隣の町の祭りに行ったりもしていた。

12月8日:ゴンゲンさん祭り

ここで厳木の伝統行事をいくつか紹介することにする。

@    大祭り

12月15日は昔から室園神社の祭典がある室園神社は明治6年村社に列っせられ、

格式があり村長が祭主となり神官に続き烏帽子姿で参列して壮厳な祭典を執行された。大祭りは区民の楽しみの日でもあり、祭りの賄は上座と下座を設け、上座は神官、村長、区長、宮総代や区の役員。下座は男座、女座に分かれて飲み放題、食べ放題だった。料理は大根や里芋などの煮物に鰯が一尾宛載せてあり、白飯は腹一杯、老人子供も全員が楽しみに大祭りを待った。戦後の農地改革で不在地主として強制開放されて今日の静かな大祭りとなった。
<室園神社>

     

 

A    盆綱曳き

起源は豊臣秀吉は朝鮮出兵の際、戦意高揚のため各藩対抗でやらせたのが始まりで各地の行事として引き継がれたものだという。裸に鉢巻の若者が50人100人と一団となり、上下夫夫の陣内で「ヨッソーニャソッソーニャ」の掛け声で綱を曳く。いろいろな情勢の変化で昭和13年を最後に途絶えてしまったが記録だけでも永久に残したい祭りである。

B    盆踊り

C    戌の子さん

昔は旧暦の10月の一番戌の日は男の子、二番戌の日は女の子が各戸を廻り大きな石にロープをつけ多数の子供たちが石突きのように四方から調子をとりながら石をドスンドスン落とす。数回繰り返すが「ガンガンさんが揃うたらそろそろやろうじゃないかいな繁昌せーい、繁昌せーい」の音頭で数回庭先を付くと各家からお祝儀や果物、菓子など準備したものを渡す。

D    もぐら打ち

昔は旧正月14日にモグラ打ちをした。竹の先端の小枝の部分に藁束硬く締め付けたんもので地面をたたく。子供たちは各家庭をまわり、庭先でポコポコとモグラ打ちをする。

「14日のもぐらー打ち、なあーれなあーれ、柿の木千なれ万なれ、虫喰うな、太うして長うしてぶらさがれ」と繰り返し歌いながらもぐらを打つ。またもぐら打ちが済むと子供たちは竹の先端を折り柿の木に引っ掛けて柿の豊作を願ったものである。

E    村芝居

年に一回や二回、狂言や浪花節など興業を楽しんだ。室園神社の拝殿が舞台となり部落全員が広場に集まり、酒肴、寿司などを持ち寄って楽しんだ。

 

「恋愛はどのような感じでしたか」

知らず知らずのうちから付き合いがででくる自然な流れだった。家のつながりがなくなるからといって特定の家の人と結婚を決められることもあった。

 

「農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか?格差のようなものはありましたか?」

農地改革前でも農協がある程度線引きをしていたため、個人的な摩擦はあまりなかった。ただ、地主と小作人の間の格差は大きかった。農地改革後は、田の質に差があったが、農協の指導もあり、収入の一定化が実現した。


ここで厳木部落の農業について簡単に紹介しておく。

昭和10年当時 農家戸数 65戸

          内訳 自作農  24戸

             自小作農 18戸

             小作農  12戸 

             地主   11戸

  農業センサス

 年度(年)  戸数(戸)  農業人口(人)   耕地面積(hr

                        田   普通田   樹園地

1960      67       334     22.7   6.1    4.9

 1970      56       285     21.7   3.9    8.2

 1980      48       214     15.3   1.3    18.1

 

1970年から田面積が激減したのは公共用地転換とみかん造成に伴う作付け転換であるが、最近のみかん価格の低迷から農地は一部水田に転換されつつある。

 

「むかし神社の祭りの参加・運営は平等でしたか?」

当番制で部落中の人が公民館に行って参加していた。昔は‘家主’と‘それ以外の人’という二つの座があったが、今は皆が一緒に参加している。

 

「戦争はこの村にどのような影響を与えましたか?戦争未亡人や靖国の母は?」

男は軍隊に入るため村から出て行き、農作業等の肉体労働をすべて女性がしなければならず田を保つだけでも大変だった。戦争未亡人や靖国の母、戦死した方もこの部落にいた。男四人兄弟の中で唯一、三塩さんだけが戦場に行った。

 

「村は変わってきましたか、また村の今後の展望についてお聞かせください」

人間が変わった、つまり人間関係の希薄化が顕著なことを今最も危惧している。今この部落の人間の構成は半分は昔から厳木に住んでいるお百姓さんで、残りの半分は他の土地から移住してきた人である。よその土地から来た人は農地改革など同じ苦労を知らないので統制がしにくい。これからはますます昔のような人間関係はなくなっていくだろう。戦争中、軍隊ではその班、組の誰か一人が規則を破ると皆で責任をとった。現代ではそういった、共同生活や連帯責任が学校教育という場においても欠けている気がする。お互いが同じものを目標とし、それに向き合って仕事をしたり勉強をする心構えを今の若者には伝えたい。昔は食事の際、祖父母が箸をとるまで自分も取ってはいけなかった。そのような年配者を敬う心(家を大事にする精神)を大事にしてほしい。三塩さんは小学校等の教育機関を通じて、今の若者へのメッセージを伝えようとしておられる。

 

◎考察 ―生きた歴史に触れてみて―

私たち若い世代は、私たち自身から年配者の話を聞く姿勢を作り、積極的に話を聞く義務がある。戦争体験はもちろんのこと、自分の住んでいる町や村の歴史について知ることは非常に意味のあることである。学校で勉強する日本史や世界史ももちろん大切ではあるが、まずは自分の見えている世界の歴史を知ってこそ過去を知る重みは実感できるのではないかと思う。これを「郷土愛」と一言で終わらせるつもりはない。伝統文化や地域の特色の保存が叫ばれているが、その地域についての知識が不足していては、その議論は水泡に帰し、一炊の夢となる。まずは知ること。地域におけるプログラムやその将来を考えるためには、知ることが大前提である。そして、今を生き、これからの社会を担う私たち若者は過去を終わった遺物と考えるのではなく、未来の扉を開くカギだと考えて行動するべきである。そのためには教科書や机の上の勉強ではなく年配者の話を「生で聞く」ということがいかに大切であるかが再認識でき、非常に有意義な時間が過ごせた。突然自宅にお邪魔したにも関わらず4時間強もの間お話をしてくださった三塩さんには大変お世話になった。この場を借りてお礼を申し上げたい。

 

風の吹くときはただでは通れないとは。「ぜんもん」は乞食の意味ですが。

…作礼山から冷たい風が吹いてくるので貧しい人は生きるか死ぬかの境をさまようような状況に陥った、と三潮さんはおっしゃっていました。確かに「ぜんもん」とは乞食の意味です。乞食を殺すような道、それを「ぜんもん殺し」と言ったそうです。