佐賀県東松浦郡 厳木町 岩屋

 

調査日:2003年6月29日(日曜 曇り)

お世話になった方々:百武友二さん 大正15年生まれ 

志氣武さん  大正11年生まれ 

池田哲也さん 昭和5年生まれ

松崎和人さん

池田求さん(区長) 昭和4年生まれ

総勢八名の方々にお世話になった。

調査者: 宗卓哉 

 

 ついに現地調査の日がやってきた。期待半分不安半分でバスに乗り込み、佐賀へと向かった。心配していた天気のほうもなんとか持ちそうである。バスを降りるとさっそくここがどこなのか分からなかったので、近くにいた人に聞いてみた。すると快く教えてくださり、岩屋へと向かった。岩屋に到着して、歩いていた人に岩屋公民館の位置をたずねるとこれもまたこころよく教えてくださった。早速教えてくださった方向へ向かおうとしたら、美容院の方が窓から顔をだして「岩屋公民館に行きたいの?」と聞いてきた。「はい。」と答えると、「じゃあ今教えてもらった道は違うわよ。今教えてもらったのは、新屋敷公民館よ。」と言い、岩屋公民館への道を教えてくださった。岩屋公民館も新屋敷公民館も近くにあるらしい。そして岩屋公民館に約束より20分ほど早い10時40分ごろに到着した。すると、もう何名か待っていてこころよく迎えてくれた。まず、岩屋について教えてくださったことを記す。厳木町岩屋は、もともとは炭鉱の街であった。良質の石炭が取れたことから街は発展したが、エネルギー政策の転換と共に衰退した。閉山後は失業者が多くでたが、解決策として、工場を誘致した。現在岩屋地域には293戸の住民が住んでいる。残念ながら語源までは分からなかったが、小字を教えていただいたので以下に記す。 

野口 木場 西木場     東木場     西   白山 祇園

14   15   10   14   25   21   13

岩元 上新沼     下新沼     恵奈木     東田    稲山

27   22   26   27   32   15   32

       (数字は戸数)

小字は、新屋敷という地域を囲むようにしてあるようだ。新屋敷というのは、昔炭鉱があったところである。(「屋敷」というのはここでは「集落・地域」というような意味合いを持つ。)新屋敷という行政区はなく、正式には大字岩屋である。炭鉱ができる以前は水田があったところで、水田を囲むようにして民家が存在していたという。現在は老人ホームがある。

 

 現地では、車に乗せていただいて、実際に岩屋地域をまわる機会を得た。以下、行った順に紹介していく。

 

〇桃の峠 七曲 十八曲り 又四郎落し

桃の峠は「猿の尾」とも言うらしい。新屋敷が炭鉱で栄えていた頃、隣の平山部落から野菜を売りに来ていた。その時に通る峠である。今は農免道路が出来ているが昔は無かったので、天秤棒を担ぎ、歩いて峠を越えたそうである。道は相当に細く、天秤棒を動かしながら進むこともままならないところもあったそうだ。当時の道は今でもわずかだが残っている。(入り口は、見ることができた。また、現在みかんを栽培している方がトラクターなどの機械が入れるようにして道が残っているところもある。ただ、みかん畑は、今では不況で荒れてしまっている。水槽の残骸を見ることが出来た。)     

また、峠を登るとき山を回りながら登ったほうが楽なのでこういう道は大きく曲がりくねっていた。曲がり道が七つあるものを七曲がり、十八あるものを十八曲がりというそうである。中腹にはお稲荷山があるそうだ。

平山から売りにきた人は、帰りには炭鉱社宅から下肥をとったり、商店で買い物をしていったりしたそうだ。岩屋側の道の入り口にはそういう商店があった。今では出て行ってしまって空き地だけがその名残をとどめていた。商店に限らず、新屋敷には多くの家が建っていたが、今はほとんど無い。「炭鉱が終わったあとに皆さん分譲して出て行ったとよ。」と池田哲也さんは言った。ただ、数少なく残っている六間長屋の炭鉱住宅は車窓からだが見ることが出来た。しかし、その長屋もあと数年後には取り壊されてしまってアパートが建つという。

桃の峠あたりでは、一休みして世間話をしたりしたそうである。古老の最年長の志氣武さん(80歳)は、「(妙法寺の)和尚とここで酒をどれだけ飲めるか飲み比べをした。」と語ってくれた。

峠からは又四郎落しも見えた。切り立った崖であり、名前の由来は「昔は平山から馬の背に米を積んで岩屋の藤田米屋へ運んでいた。又四郎さんが馬諸共落ちた所。」という。前述のとおり、現在は農免道路が出来ているので解消されている。また、古老の中には、「又四郎落し」をはじめて聞いたという方もいらっしゃった。

峠の道路脇には記念碑があった。農免道路の開通記念のものであり、元衆議院議長の保利茂氏の文字が書かれていた。日付は昭和44年10月である。また、炭鉱での事故死者への慰霊碑も隣にあった。

 

○乙女ヶ池

 乙女ヶ池は、現在では使われていないが、昔は農業用水池として使われていた。つまり、昔は周辺が田んぼであったということを意味している。

「昔よく魚釣りに来よったったい。」

と池田哲也さん。名前の由来は詳しくは不明だが、何代か前の区長さんが名付けたということだ。

 

〇獅子ヶ城跡 五間岩 屏風岩 落人の墓

獅子ヶ城は、松浦党の祖源久の孫である峯五郎披が治承から文治年間(11771189年)頃に築城したと伝えられる標高約200mの山城で、県の史跡にも指定されている。[厳木町町勢要覧1998年より] 過去に廃城・再建を経験したが、最終的には1599年、朝鮮出兵の後、城主鶴田賢(かしこ)が離郷した時に廃城になった。現在では土台(自然の小高い丘)だけしか残っていない。

獅子ヶ城跡は、屏風岩を見に行く時に遠方から見ることが出来た。険しい山の上にあり、自然の要塞であったことがうかがえた。安土桃山時代(秀吉の時代と言っていた)龍造寺氏(龍造寺隆信)が攻めてきたときに、城から姫が身を投げた・・という話を聞いた。余談だが、先日福岡のキャナルシティーに博多祇園山笠の飾り山が展示してあった。内容の1つは近松門左衛門の国性爺合戦であり、説明を読んでいると「獅子ヶ城」という言葉がでていた。同じ城かは分からないが縁を感じたので記しておく。           

  古老たちの話によると、山に入ると、落ち武者の墓が結構見つかるらしい。たたりを防ぐために墓を一ヶ所に集めて供養しているという。たたりとはどんなものかと聞くと、病気になったり、体が痛くなったりすることらしい。百武さんは哲也さんと一緒に山に入って墓石を探したこともあるといっていた。

獅子ヶ城のふもとにあった谷をひら口谷といい、通称マムシ谷というほどマムシが今でもたくさん棲んでいる。 

屏風岩は妙法寺の裏山にある。ただ、付近は現在工事中で、屏風岩は少し削られてしまっていたが移動して現存していた。屏風岩の近くに昔は道があり、三軒茶屋があったらしい。屏風岩を見に行く途中、妙法寺の和尚さん(牛尾さん)に会った。和尚さんは若かったが、先代の和尚と関わりの深かった池田さんたちは親しげに話をしていた。昔の思い出話しも聞けた。先代と池田さんは青年団で、同じだったらしく、一緒に(芝居)踊りを舞った仲らしい。和尚さんは自ら作業服を着て工事現場で作業していた。一帯を整備し、温泉を掘るという。妙法寺は温泉でも有名な寺のようだ。和尚さんからはこんな話も聞けた。岩屋地域でとくに多い苗字の池田、峯、藤田は獅子ヶ城の末裔である。家紋は全く同じだという。裏山の入り口は大手口と言ったらしく、大手門があったのではといわれている。獅子ヶ城のふもとの屋敷があった場所は、現在新屋敷と、呼ばれている。五間岩には残念ながら行けなかった。ちなみに、五間岩というのは、名の通り五間(約9m)もある岩の所在地である。炭鉱盛んな時代は人が住んでいたという。

    

○笹ノ谷、碗ノ瀬、権現渕

笹ノ谷には現在有料道路が通っており、見ることはできなかったが、帰りにバスで笹の谷の上のトンネルを通った。

碗ノ瀬とは、昔の泳ぎ場であり、志氣さんなどはよく遊んだという。厳木の名物であった鮎や沢蟹もたくさんおり、志氣さんは鮎を手づかみでとったこともあるという。鮎の姿は見ることができた。現在は、工場ができたため、泳ぎ場としてはつかっておらず、雑草が生い茂っているため、泳ぐのは無理だろう。しかも、昔は岩から飛び込んだりして遊んだと言っていたが、今は水深が浅くなっており危険だ。現在、付近に水路と水車6台ほどがあり、村の観光名所になっている。碗の瀬の隣には細い水路があった。蛍が今年も見られたと言うことだった。昔は橋がかかっていたという話も聞けた。

権現渕は川のカーブのところに位置しているため、川底がえぐられて、かなり深くなっている。池田さんの話では、釣竿を縦にして入れても川底までとどかないらしい。鯉の姿を確認することができた。また、権現渕の下には、水路のようなものがある。これは昔炭鉱から流れ出てくる汚水を川に流さないようにと作られたものらしいが、今でも水路は黄色く濁っている。鉱山跡から汚水は半永久的に流れてくるという。権現渕の周りには、ボタ山が点在しており、昔は雨のたびに流れ出て苦労したらしい。権現淵のほとりには白山水天宮があった。

 

○白山神社、白山水天宮、薬師様

薬師様は、眼病の神様として有名であるが、現在は、高速道路の梁の横にぽつんと建っており、少し寂しげであった。立ち退きの交渉が成立しないまま梁が建ってしまったらしい。

白山水天宮は、昔の部落の入り口に位置していたと言う。水天宮以外にも、薬師や六地蔵などが、部落の入り口に立っており、今でも数は少ないが、残されている。私たちが訪れた六地蔵の建立日付は、明和元年七月であった。

白山神社に着いた頃には、セミも鳴くほどかなり暑くなっていた。白山神社とは、加賀の白山神社の分神として260年前に当地に祀られたと伝えられる神社である。(詳述は後)神社の入り口には比較的新しい狛犬や戦没者の慰霊碑が建っていた。狛犬の「あうん」の「あ」の方には、丸い玉が入っており、どうやって入れたのか不思議であった。

戦没者の慰霊碑には岩屋地区で戦争に出兵した人と亡くなってしまった人の名前が刻んであった。池田さんと藤田さんで5割くらいを占めており、和尚さんが言っていた通りだと思った。慰霊碑をきっかけに、それから少しの間、戦時中の話になった。池田哲也さんは、15歳の時に、横須賀の海軍基地に志願兵として行ったと言う。当時のことはあまり良くおぼえていないらしいが、当事の先生に、「お前らが行かんで誰がいくんか!」と言われたことがきっかけとなったことは覚えていらっしゃった。

池田さん 「今では中学生ぐらいの年頃なのに、よく一人であそこまで行ったよ。」

志氣さんは飛行機でなんと、2回も墜落したことがあるらしい。一度目は日本で。「プロペラが止まって、そら静かなこつ。」とは志氣さん。二度目はフィリピンでだったらしい。ゲリラに襲われないよう

に、味方がすぐに助けに来てくれたそうだ。ゲリラの話が出ると、古老一同「寝ているときでも襲われるのでゲリラは怖いもんな。」と口々に言っていた。ちなみに、厳木町の町勢要覧によると、厳木町の戦死者は、昭和19年には467人に達している。

話がひと段落すると、神社の階段を登った。お堂には賽銭箱が置いてあった。かなり頑丈そうに、作ってあった。何故かと言うと、悲しいことに過去に何度かお賽銭を盗まれたことがあるらしいのだ。現在のものは金属製で鍵がついていて、持ち運びは簡単には出来ないようになっていた。ちなみに賽銭箱を寄付していたのは、百武さんであった。天井には絵がぎっしりと書いてあった。建物は二つあり、もう一つの方の建物へと行った。かなり歴史のありそうな狛犬が祀られていた。町の重要文化財であるという。

降りるときに木苺を見つけたので、採って食べようとしたが、甘そうなイチゴには、アリがぎっしりだった。「アリがおるっちことは甘いっちことやな」と池田哲也さん。階段を下りるとき、何かが壊れた跡のような物があった。聞いてみると、神社の工事の時に、業者が誤って鳥居を倒してしまった、その跡らしい。今でもそのまま放置されている。

ここまでで、外回りを終えて、待ち合わせ場所でもあった、岩屋公民館へと戻った。

 

○公民館に戻って、昼ごはんを食べた。公民館には私たちが持っていった「厳木町の地名」を編集した方の息子さんがいらっしゃった。しかし、父親が関わっていたことを初めて知ったらしい。以下、公民館での会話の記録である。

「まず、岩屋地域の小字を教えてください。」

地図を見ながら教えてくださった。

区長  「東田町は町営住宅であり、32軒ある。木場組とか村っちゅう部落は岩屋の中でも一番古か部落ですたい。岩元には、純粋に岩屋で生まれた人たちが住んでいます。岩本組には27軒ある。野口組が今14軒ある。木場組が15軒、村組が15軒、西木場が10軒、東木場が14軒、西組が25軒、白山っち言う神社の近くに21軒、上新沼という商店街に22軒、下新沼に26軒、お寺の近くにある祇園組に13軒、恵奈木に27軒ある。」

哲さん 「今の新屋敷は昔は田んぼだった。昭和15年頃に、戦争がはじまってから、お百姓さんもいなくなり、いまは買い上げられて町営住宅になっている。」

地図には昔、炭鉱があったころの名残である線路の跡もある。線路が開通したのは昭和18年である。

区長  「昔は全部岩屋だったが、炭鉱ができてから新屋敷ができったたい。」

哲さん 「新屋敷を囲むようにして、岩屋があるったい。」

昔は山のふもとに家を建て、平地で農業をするのが一般的だったらしい。よく考えてみると、聞き取り者(宗卓哉)の祖父母が住んでいるところ(大分県大野郡緒方町)も、裏に山があり、表に田んぼと、川がはしっている。

それから、しばらく厳木の文化財の話になった。厳木町、特に岩屋は、狛犬がたくさんある。そういえば白山神社だけでも4体の狛犬が祀られていた。

百武さん「今日は教育長も呼ぼうとしたんだが、早くから予定をくんどって、来られんったい。」

区長  「偉い人は今、町村合併の話で走り回りよるったい。」

ちなみに、実は、池田哲也さんは前厳木町教育委員長、百武さんは岩屋地区老人会長である。

志氣さん「将軍綱吉の時代に作られた鳥居が白山神社にあったのよ。工事で崩されたけんど。」

狛犬の話になり、先程の口に玉の入った狛犬の話になった。

「玉をどうやって中に入れたと思うか?」百武さんは、先に中で作ったのでは?と言った。たぶんそうだろうと皆言っていたが、かなり細かい作業だったことは間違いない。

区長  「よく、取ろうとしたばってんなぁ(笑)」

  しばらく白山神社のことについて話をうかがった。白山神社の本山は、石川県、福井県、岐阜県の県境にあること。白山は2102mであること。山のふもとに、大きく立派なお宮があるということ。志氣さんは、山には登らなかったがお参りに行ったことがあるということ。また、白山宮にある木の板に書いてある文章を写したものを頂いた。「白山宮之記事」という題名で、白山宮の由来を記したものと思われる。文政年間に石垣・石段・石灯籠を作ったと書いてある。板の日付は天保六年。

 

ひと段落してこちらから質問をした。

      「炭鉱では公害とか事故はありましたか?」 

志氣さん  「公害はねえ、ここら辺ずーっと傾いていくさ。」

 地盤沈下があるらしい。

区長    「野口、岩元、白山の部落とかが。(地盤沈下が特にひどい)」

志氣さん  「家が傾いて障子がちゃんと閉まらんのよ。猫が(間から)出入

りするんだよ。」 

 落盤事故もあったらしい。事故死者の慰霊碑はあちこちにあるようだ。一つは、桃の峠で見ることが出来た。

区長    「ガスの事故もあったですもんね。」

 

 一つ、気になることがあった。炭鉱があったはずのこの地域に森林が広がっているからである。人工林であることは、はっきりと見て取れたし、林の中に何度も「森林組合」の看板を目にした。あちこちにあるはずのボタ山はどうなったのか。林業は盛んなのか。聞いてみた。話によると、炭鉱時代、ボタ山はあちこちに出来た。藁を上に重ねるのだが、何度重ねても、大雨のときは流れ出して、相当苦労したらしい。

志氣さん  「川が全部ボタで埋まってしまって、川底が道と同じ高さになる。川の水が溢れるんだよ。どんなに川底をさらっても雨が降ればまた同じことをせなんかった。」

現在はやっとその上に草が生えて、木が生えて外見では分からなくなっている。

池田さん  「昔は、今んごて木ば植えとらんやったけんが、農作業をするために、私たちが小学くらいの時は阿蘇じゃなかバッテン草焼き(野焼き)をしよったわけ。今は森林公団との契約で、木ばずっと植えとるけど、あれは、確か昔は野原だったんよね。」 

(と、百武さんに同意を求める。)

百武さん  「うん。それで、木を植えたのは植えたバッテン、手入れとか管理とかは公団にしてもらって、最終的に木を売ったときは(利益を)半分わけにする。」

志氣さんがさらに詳しく教えてくださった。

「『里山』という言葉は知ってる?里山の機能は大きく分けて二つ。田んぼの肥料や家畜の餌、それに屋根にするために草を刈ること。もう一つは、燃料にするために薪をとること。その里山は共有林だったわけ。でも、昔は、所有権をはっきりさせるために、共有ていうても、代表者の名前では登記は出来なかったわけ。それで、部落の中の、主だった、この人なら間違いが無いという人を4,5人ばかり選んでその人たちの共有という名前で登記をしてあった。亡くなったらその人の子供・・という風にね。すると・・終いにはね、共有者の名前は死んでしもうて、もう分からんようなってしまったわけ。それで、その後法律が改正になって、森林組合とか、生産組合とか、そういう名前で代表者を選んで登記が出来るようになった。そういう風になったんだけど、(里山の)二つの利用はどちらも必要なくなっていたから木を植えるようになったわけだ。それで、木を植えるには皆で植えて、手入れせねばいかんけれども、人間が足らんから、森林公団というのが出来たわけだな。国有の。それに委託したわけ。森林公団と契約して、植林と手入れを委託し、30〜40年後に切った場合には、利益を5:5とか、4:6とか決めてやってるわけ。現在は。また、手入れをしたりする時には、労働力が要るから、地元の岩屋の人たちが賃金を貰って働くわけだ。・・ただ、この岩屋という部落は、何度もいうように、昔は炭鉱があったわけ。炭鉱で働くほうが賃金は多いんだよ。よっぽどね。だから皆炭鉱で働いていた。それで山のほうにはあんまり行けなかったわけ。炭鉱がつぶれたから、その後はそういうことも出来るようになった。そういう歴史がある。だから、今日行った山なんかは、全部共有林の山です。個人林はなかったよ。」 

 木を植える前、原野が広がっていた時代は、山火事を防ぐための野焼きが相当大変だったらしい。

百武さん   「それで一人亡くなられた。煙にまかれて・・。下から火をつけたときに上におらしたとたい。もう三十年ぐらい前になるかなあ。」

 

志氣さんは、昭和13年、大学在学中に、岩屋地域のこと(当時は岩屋村)をあらゆる角度から調べた。その記録は冊子となって志氣さんの手で大切に保存されている。今回、特別に見せてもらうことが出来た。内容は、人口や、農産物など多岐にわたっていた。「交通」という分野は特に興味深いものだった。昭和13年、当時の厳木町にある自動車の総数は8台のみ。自動三輪車というものもあった。馬車も使われており、石炭の運搬に使われたと思われる。志氣さんの青春の思い出であるという声もあがった。

分析の結果による、志氣さんの結論は驚くべきものだった。曰く、「現状のままでは岩屋はだめである。石炭ばかりに頼ってはいけない。工場を誘致することが必要だ。」と。これはその後の岩屋の歴史とピタリと一致する。エネルギー政策転換後、農業で身を立てようとしても、炭鉱住宅のせいで多くの田んぼが潰されてしまっていて、できなかったのである。しかも、志氣さんは佐賀県庁職員時代に、岩屋に工場を誘致したという。 

さらに、志氣さんからは、この地方の古い歴史も聞かせていただいた。江戸時代、佐賀は鍋島藩と唐津藩に分けられていたが、朝鮮に近かったために、ここの辺り(唐津藩)は天領であった。それで、他の藩と比べて、検地はかなり厳しいものであったらしく、農民の生活も苦しかった。おまけに、天領であるゆえに、領主はコロコロとよく変わっていたらしい。(志氣さんによると7回)そうすると、               「転勤するたびにくさ、幕府の要人に貢物をしなくてはならない。そのために、苛斂誅求を受けとるわけですよ。ここの百姓は。だから、『幕領一揆』といってね、とうとう一揆が起きてるんだよ。何回も。」唐傘連判状の話も少し聞けた。

最後の一揆のとき、志氣さんの先祖は首謀者の一人であったという。志氣さんは代官所があった日田のマメヅ町(歴史資料館がある)を訪れることを盛んに勧めてくださった。九州の大名を治めている代官所だが、7人いれば十分だったという。機会があるならば、いつかは行ってみたいものである。

太平洋戦争の時、また戦後復興の時も、資源が必要なため、政府は鉄と石炭の生産を重点的に奨励した。それで鉄と石炭の生産で働いていたものには、食べ物や酒、タバコが多く配られた。(当時は配給制)その当時、岩屋あたりはものすごく人口が多くて、(厳木町の行政区のなかで一番多かった。)小学校だけでも1200人以上はいたという。昭和36年ごろから閉山して以来、「がらーんと駄目になってしまった。残ったのは公害(地盤沈下、ボタ山だけ。」という。耕地面積が少なく、農業で生計をたてるのは無理なため、農業もできなくなっていた。それで、工業を誘致したという。

 

バスの時間になり、お礼を行って別れた。

以上でレポートを終えるが、見ず知らずの若者からの、いきなりの申し出を快く引き受けて下さったうえ、温かく迎えて下さった。志氣さんはわざわざ佐賀市内から出て来て下さった。この場を借りて再度お礼を述べたい。また、自分たちの祖父母とちょうど歳が同じくらいの方々だったので、甘えがあったと思う。数々の無礼、ありましたら御許しください。