水曜一限    『歴史の認識』  

                         調査者 石橋秀基(1TE02694)

                             黒川雅俊(1AG02067)

調査日  平成15年6月29日 

調査場所  佐賀県厳木町本山

調査に協力してくださった方   笠原三代次(昭和五年十一月三日生まれ)

                松尾瑩彦  (昭和五年七月十七日生まれ)

厳木町の小字   椿の原(ツバキノハラ)

え         椋ノ木(ムクノキ)

         金福谷(キンプクダニ)

         明神山(ミョウジンヤマ)

         下田原(シモタバル)

字について

    井出の谷(イデノタニ)

 長部田村が田に水を入れるため川を造り、松浦川に井出を築いたので井出の谷と呼ぶようになった。

    代官下屋敷(ダイカンシモヤシキ)

 代官および役人が本山方面に巡視の際休んだり泊まったりするために造った屋敷があったらしいが現存しないのかわからないが笠原さん松尾さんは御存知なかった。

    一里塚(イチリヅカ)

 一里(4K)測量して印に石塚を立て、流れぬように桧の木を植えてある。長部田にもある。梁元の河岸にある。

    梁元(ヤナモト)

 梁が架けられていたので梁元と呼んだ。

    乃木さん岩(ノギサンイワ)

 元々は権現岩と言っていたが、遠くから見たら日露大戦で難攻不落の二百三高地を落とした乃木将軍に岩や岩の上の松が似ていたので呼ぶようになった。乃木さん岩の一部が落ちて岩のしたに住んでいた一家がなくなる事故があったらしい。

    井関(イセキ)

 水害防止に井関を造ってあった。

    劇場町(ゲキジョウマチ)

 大正十三年(1924年)杉元重利が建て谷脇初一氏が座主となった岩屋劇場周りに商店が多くできて繁栄したので呼ぶようになった。岩屋劇場は戦後まもなく火事になってなくなった。その後マーケットのなり、今は建設会社である。

    庚申塚(コウシンヅカ)

 庚申さんを祭ってあり春・秋にお祭りがある。町内の繁栄を祈り庚申町と言った。お祭りは今も続いている。

    住吉神社(スミヨシジンジャ)

 享保五年(1720年)苣木家先祖木佐木三右ヱ門氏が大阪住吉神社より分神を頂き現在地に祭った。厳木では一番新しい神社。

    岩屋駅(イワヤエキ)

 明治三十二年(1899年)六月開通し本山駅と言ったが山本駅と間違うので三十六、七年頃から岩屋駅と変更した。

    岩屋郵便局(イワヤユウビンキョク)

 明治三十五年(1902年)十一月開局。本山郵便局と言っていたが駅と同じ頃岩屋郵便局と変わった。

    停車場町(テイシャバマチ)

 駅があるので停車場町と言った。多くの乗降客があり、町も栄えた。

    松ん本(マツンモト)

 松の大木があり相知方面からの旅人が松の根本で休みようー本山に来たと言ったので松ん本と読んだ。

    浦田(ウラタ)          

 明治十一年ごろは本山村村中といっていたが貝島炭坑ができて後浦田となった。浦田川沿いに店があり、最も古い集落。炭坑時代、給料をもらって帰りに酒や豆腐を買って帰っていた。

    薩摩山(サツマヤマ)

 慶応元年(1865年)唐津炭田に目をつけた薩摩藩が藩士井上次郎太を本山舟木谷・岩屋に石炭採掘に出向かせ本山松本に詰所をおき多くの石炭を出した。

    岩屋炭坑(イワヤタンコウ)

 明治三十九年(1906年)筑豊の石炭王貝島が藤田平次ほか十三名の八十余万坪の抗区を買い岩屋炭坑を開抗し昭和二十三年高倉矢一氏に変り四十年閉山まで続いた。エンドロスという石炭を運ぶトロッコの道があった。

    職人町(ショクニンマチ)

 貝島炭坑が抗外に働く人の住宅を立てて住まわせたので職人町といった。

    病院・二坑町(ビョウインニコウマチ)

 炭坑病院があり病院町、岩屋炭坑の二坑があるところから二坑町といった。

    山ん神様(ヤマンカミサマ)

 岩屋不動や千手観音・石の仏様が多く祭ってあるので山ん神様といっている。炭坑の安全祈願である。

    舟木谷(フナキダニ)

 貝島炭坑ができてその鉱員相手に商店街が岩を削って家を立てた前を谷川が流れていたので舟が浮いているように見えたので舟木谷と言った。

聞き取り

  田んぼの水はどこから引いてますか?

‐田の水は井出の谷から。

・50年前も同じでしたか?

‐同じじゃったよ。

・水の量はどうですか?

‐水には困っとらんねー、水害のほうが心配・・・、昔28水と37水てのがあってねー国土が首まで浸かって電柱とかが流れよった。ダムができてから大分よくなったけど、できてすぐは調整に苦労しとるようじゃった。

・じゃあ水争いとかはなかったですよね?

‐そげなとはなかねー。水源が豊富やけん。

・ところで28水っていうのは?

‐昭和28年に起こったけんそげんいうとよ。

・旱魃とかは?

‐もちろんそげなつもなかねー。

・じゃあ思い出とかも?

‐思い出ちゅうか幕末に百姓一揆があったとはきいとるけどなぁ。

・話は変りますけど用水路の中にはどんな生き物がいましたか?

‐小溝にナマズ・アカハラ・カニ・ベッチン・ウナギ・サワガニ、堤防にジョウトフがおってようっとってきて食べよったねー。

・それは今も変ってませんか?

‐最近はほとんどおらんくなったねー。

・えっと、麦とかは作ってました?

‐昭和40年までは麦もつくっとった。自給用の麦ば。最近は作らんよ、雨の被害で品質が落ちるけんねー。

・米はいい田で1反当り何俵とれました?

‐・・・9俵ぐらいやったかねー

・悪い田は?

‐うーん悪い田でも8・・・、7、8俵取れよったね。棚田は米の質はいいんやけど、手が入り、収穫がすくなか。

・何斗蒔きとか、何升蒔きとかいうのはありましたか?

‐そげなんとはなかねー。

・じゃあ田植えはどんな風に?

‐田植えは他人からコンバインを使ってやってもらっとった。

・昔はどんな肥料を使ってましたか?

‐牛のたい肥とかばつかっとった。

・稲の病気にはどんなものが?

‐病気っちゅうのはなかったねー。

・じゃあ害虫駆除とかは?

‐農薬をつかっとった。ホリドールとかパウチオンとか。そのせいでへびとかが少なくなった。

・共同作業はありましたか?

‐ゆいは内ではやっとらんかった。農薬は共同散布じゃったけど。

・ゆいという言葉はあったんですね?

‐あったところをみると昔はしよったんじゃろうねー。

・早乙女は来ましたか?

‐早乙女っちゅうのは?

・お手伝いさんみたいな。

‐あー、ここらでそんなんはなかった。土地が少ないけんね。

・さなぶりはありました?

‐さなぶりは今もあるね、年輩の方が年一回は必ず会費を払ってやっとる。昔は神社や個人宅でおこもりばしよった。

・田植えうたはありました?

‐そげなんもなかった。うちは小さなとこじゃけん。

・牛か馬を飼っていましたか?

‐爺さんたちの代は馬をかっとった。

・えさは?

‐牛のえさはきぬかやおから、わらじゃった。

・どうやって手綱は操作しました?一本?二本?

‐二本手綱。

・ごって牛をおとなしくするためにはどうしましたか?

‐キョセイしておとなしくさせとった。

・薪はありました?

‐杉の木や葉をつかっとったねー。

・どこで取ってました?

‐裏山から。屋根とかにも大きな杉の木の皮を使ったよ。

・炭は焼きましたか?

‐自家製でやきよったよ。

・山焼きとかはありました?

‐焼畑はやっとらんよ。田は代えてつかっとったけんね。

・ソバは作ってました?

‐祖母がつくっとった。白い花がさいて、作りやすい作物じゃった。

・山の幸にはどんなものがありましたか?

‐山葡萄とか木いちご、野いちごばとってきては食べよったね。炭坑の煙で木が枯れたりすることもあったが。

・お菓子はどんなのが?

‐生菓子じゃねー。わかるかね?生菓子

・和菓子とかですか?

‐そうそう和菓子。いもとかあめとか生菓子をならんで買ったよ。六年生になると結構入ってきたグリコのボンタン飴があった。さつまいもから水あめを作ったりもしとった。大東和戦争後はほとんどなくなったんじゃが。

・米はどんな風に保存してましたか?

‐米は6俵入りのかめに密封して入れとった。生前は米騒動も起こったよ。幕末には厳木川の中島で百姓一揆がおきて唐津藩侍が何千人も来た。三人の首謀者が獄門で死んでその墓が松尾さんの家の裏にあるらしか。

・裏にですか?

・話は変りますがよばいは盛んでしたか?

‐うちは炭坑の町やけんあまりそういうのはきかんかったねー。田舎のほうでは男性も女性も夜這いがあったらしいがね。

・犬を食べたことってありますか?

‐犬?犬がうまいという話は聞いたことがなかね。

・そうですか。もやい風呂、共同の風呂はありましたか?

‐もやい風呂はあった、あった。炭坑の人に頼んで風呂を作ってもらった。風呂の蒸気を病院とか学校に送って暖房にしたり、弁当温めたりしよった。風呂沸かすための木炭作りをよう裏山でしよったもんな。

・じゃあお風呂の蒸気が暖房ってわけですか?他に暖房になるようなものはなかったですか?

‐蒸気もやけど、七輪に豆炭ばいれて、こたつの中に入れてそれを暖房にしよったたい。ただ二酸化炭素が多く出る換気ばせんといけんやったがね。・農地改革前の小作制度はどんなものでしたか?

‐うちは大きかとことじゃなかけん小作制度なんてもんはなかったたい。せんたろうさんっちゅう大地主さんはおったがね。

・車社会になる前の道はどの道でした?

‐昔の国道は川の堤防沿いにあったな。

・必要な物資とかはどうしてました?

‐基本的に自給自足じゃよ。

・じゃあどこかから人が来ていたということは?

‐昔は高白橋まで船が来とって、米なんかを唐津藩に納めとったらしか。

松尾さんの戦争話

 松尾さんは14歳のときから海軍に入っていたそうだ。というのも、特別に赤紙が来たわけでもなく、学校で志願者を募り、手を上げないものは残されて水にぬらしたロープを凍らせたものでたたかれるという半強制的に徴兵されたことが理由であったらしい。海軍ではいつ死ぬかわからないことから、支給品のタバコを吸い始めた。そして、丁度兵として横浜に行っていたときに東京大空襲に遭い、焼け跡の処理・整理に当たった。空襲のときはB−29が海面すれすれを低空飛行で飛んでくるためレーダーにかからず気づいたときには遅かったという大空襲。防空壕に隠れるも、衝撃が防空壕に伝わって睡眠不足になっていたとのこと。防空壕の爆撃を逃れるため白煙筒を焚いていたがこれがまた苦しいものであったということである。松尾さんも厳しい戦争の時代を生き抜いてきた人の一人なのだ。

松尾さんのおじいさんの話

 聞くところによると松尾さんのおじいさんはかなりの偉人だったようだ。いくつかのエピソードを聞かせていただいたので紹介したい。まず、日清戦争で馬が凍え死ぬといけないと言って、満州人部落から満州人を追い出し馬を入れたのだそうだ。そのため満州人は皆凍え死に、松尾さんのおじいさんは捕らえられ長期間獄中での生活を送ったのだという。次にようやく日本に帰ってきたが、お姉さんが財産をすべて売り払い一人で新しい土地を買ってそこに住んでいたらしい。しかし、おじいさんはたいして動じることもなく、むしろせいせいしたといって、とがめることもなかったそうだ。次に、松尾さんのおじいさんはかなり野性的な人で、四六時中ナタを持って山を歩き回っていたらしい。松尾さんが悪いことをしたりすると、おじいいさんはナタを片手に走って追いかけてきたそうだ。その足の速いこと速いこと、当時七十近かったにもかかわらずとにかく速かったそうだ。松尾さんは本当に殺されると思って、死に物狂いで逃げたそうだ。炭鉱の人たちが勝手に畑の芋を取っていったりしたときも事務所までナタを持って出かけていき、所長をナタで切りつけようとしたそうだ。そのとき、所長が日本刀を持ち出してくると、今度は素手で日本刀をつかみ、所長を参らせたのだそうだ。さらに、一回も病院に行ったことがなく、一度ナタで骨が見えるほどざっくり切ったにもかかわらず、自然治癒力で完治させたのだという。どの話を聞いても、ため息が出るほど恐ろしい人だと私たちは思った。だから松尾さんはおじいさんは殺しても死なないだろうと思っていたという。そんなおじいさんも小屋の屋根を修理しているときに誤って足を滑らせ転落しお亡くなりになったらしいが、松尾さんは、「もし今も生きていたら130歳ほどだろうがもし事故がなかったらまだ生きていたじゃろう。」といってあった。それほどすごいおじいさんだったのだ。

これからの村の問題

これから先唯一の松尾さん一家もいなくなり後継者に苦しむことが懸念される。松尾さんの息子さんは東芝で気象庁のコンピュータソフト開発やH2ロケットに関わる仕事をしており村からは出てしまっている。山を売ろうにも買い手がいない。いずれ農家が必要となるときが来るであろうが本山に住んでいた人々に生活の基盤がないので人の数は減ってしまい、笠原さん・松尾さんの息子さんの世代が少なくなってしまった今、急激に過疎化が進みつつあるなか、半ばあきらめを感じつつも頭を悩ませているお二人であった。

当日の流れ

 曇り空の中、朝八時半ごろ九大に集合してバスに乗り込んだ。九時にバスは出発して最初のパーキングエリアまで二人ともバスの中で爆睡であった。パーキングエリアを過ぎてからはすぐに目的地の厳木町までは着いた。十時半ごろ厳木町に着いた私達は住宅地図を用意し忘れていることに気づき焦りながらも近くにあった掲示板のようなものを頼りに本山派出所を目指した。国道沿いを歩くとしばらくすると派出所が見えてきて、本来の目的地である笠原さん宅を尋ねると親切に笠原さん宅までの行き方をゼンリン地図で丁寧に教えてくださった。後でわかったことだが本山は犯罪がほとんどないところなので派出所は現在機能していないということだ。派出所の方のおかげで十一時前には笠原さん宅に着くことができた。笠原さん宅の前にはコンクリートで三面張りされた小川が流れていて、小道は車がようやく一台通れるかというぐらいであった。笠原さん宅に着くと笠原さんと笠原さんより本山に詳しいという隣の松尾さんに出迎えられながら、お宅にお邪魔した。中に入ると、掘りごたつに少し戸惑いながらお二人を待った。そして、お二人がこられて一通りの自己紹介を終えると早速聞き取りに入っていった。聞き取りの最中はお二人とも「そうじゃった。」とか「ちがうじゃろう。」とか意見をいい、時々奥さんも「あれはもっとまえじゃったろう。」と口を挟みながら聞き取りは進んだ。聞き取りは順調に進んで時計は一時を回った。笠原さんが「ご飯食べに行こう。おごりやけん。ジョイフルに。」と言われたので私達はお言葉に甘えて連れて行ってもらうことにした。細い小道を車で落ちないか冷や冷やしながらしばらくすると国道に出てすぐ緑の中にジョイフルを始め、見覚えのあるお店が立ち並んでいた。ジョイフルを出るとまた来た道を通って笠原さん宅へと戻り聞き取りの続きを始めた。昼からの聞き取りは一時間程度で終わり、まだ時間が余ったので二人で村の探索に出かけようと考えていたら今度は松尾さんが案内してくださるということだったので車で連れて行っていただくことにした。始めに、唐津から舟が来ていたであろう場所につれていってもらった。今はそんな面影もなく舟が往来できそうなほどの水量ではなかった。次にその川沿いをしばらくいくと松ん本の場所であるだろうところに松の木がいくつも立っていた。松ん本らしき大木は見当たらなかったが、おそらくその場所で昔の旅人は旅の疲れを癒していたのだろう。松尾さんの話では松ん本には住吉神社ができる以前松尾さんのご先祖を祭った松尾神社があったという。以前は本山一帯には松尾という姓の方が多く住んでおられたが、現在では今回取材に応じてくださった松尾さんただ一人だという。ここでも過疎化の波というものを感じた。そのまま川を登っていくとダムというか、小さな堰があり川に流れる水量を調節していた。車の中から見ると左手には川、右手には木に覆われてはっきりとは確認できなかったが、直角よりも急なほどにそそり立った断崖がそびえていた。山を下って別の角度から山を見てみると切り立った岩盤のうえに乃木さん岩と思われる巨大な岩があった。少し強い風でも吹けば転がり落ちてしまいそうな場所にその岩はあったので、松尾さんになぜ持ちこたえられるのかと伺ったところ、頂上付近は逆方向に傾いているためちょうどバランスが保たれていて、こちら側に落ちてくることはないのだという。麓には家が立ち並んでいて昔の事故を思い浮かべて岩に恐怖を感じた。次に一度国道へと出て、本山小学校の脇の道から細い道を登っていくと、水はほとんどたまっていなかったが、ダムがあった。ダムの上の方まであがって来ると、二、三台の使われていない車が放置してあった。そこで車をとめ、周囲を見渡すと、舟木谷が見えた。そこで、そろそろ時間が来たので山を見ながら舟木谷を通って下った。船木谷は名前のとおり、溝の上に家が並んで建っており、あたかも舟がいくつも並んでいるかのような眺めだった。そしてそのまま集合場所へと向かい、松尾さんとお別れした。最後は手を振って別れを惜しんでくださった。しかし、集合時間を四時二十分と勘違いして十分に集合していた私たちは遅れたバスを一時間も待つことになった。通り過ぎていく車はまるで珍しいものを見るかのように待ち呆けしている私たちを見ていた。五時過ぎにバスが到着すると、乗り込んですぐにまた爆睡モードに入ってしまった。二人とも起きたときは七時過ぎ、丁度九大についてそのまま解散した。

最後に

 私たちは厳木町で現地調査をすることによって、笠原さん松尾さんお二方の貴重な意見を聞くことができ、現地の貴重な過去を記録することができた。このような経験は私たちにとっても今後大いに役立つだろうと思う。最後になりましたが今回ご協力いただいた笠原さん、松尾さん、快く協力していただき本当にありがとうございました。