佐賀県厳木町平之の地名

 

文学部一年生   1LT03111 野島義敬 

         1LT03128 松迫知広

 

 

 

平成15628日(日)、地域の老人会の副会長をなさっている秀島富男さんからお話を伺った。突然の来訪にもかかわらず、秀島さんは私達をこころよく迎えてくださった。早速厳木町の平之地区の地名についてお話を聞くことにした。

 秀島さんの話によると、秀島さんのお宅の裏手の山(山自体の名前は不明、現在は山の一体を上納(上野)[ジョウノ]字と呼び、昔はトオシゴンゲン(表記不明)と呼んでいたそうだ)に中世(室町後期か?)の山城があり、それを中心に平之地区の地名は付けられているということだ。ちなみに秀島さんのお宅は本門[ホンカド]という所にあり、これは、城に登る門という意味でつけられたようだと秀島さんはおっしゃっていた。以下は私達と秀島さんの会話録である。

「この駄道というのはどこですか?」

 

―ここは駄道[ダミチ]と言って、平之神社の近くです。駄道は、ここが山城への食料・兵糧の補給路だったことに由来しています。

 

「ここは何ですか?」

 

―ここは、五穀神様[ゴコクジンサマ]といって、裏手の山の上のほうの名称です。ここでは、明治〜大正初期くらいまで神寄せというお祭りが行われていました。このお祭りは、いまでも平之神社で行われていて、本門の大字祭は毎年12月19日です。

 

「この明神山というのはどこですか?」

 

―明神山[ミョウジンヤマ]は平之神社の前身があった山です。ここには毛利様といわれる毛利五郎九郎兼重の墓があり、毛利一族の先祖として祀られています。そのため、ここでは年に二度先祖祭りが行われます。ちなみにこの平之地区には、秀島姓と毛利姓が多く、秀島氏の先祖は藤原貞廣といって、近くの養命寺に墓があります。もちろん秀島一族の先祖祭りもありますよ。

 

「岩詰というのはどこですか?」

 

―平之の下の、栗の木の下のあたりです。ここには岩詰六地蔵というのがあって、教育委員会のひとが結構古いものだといっていました。

「あんの山というのはどこですか?」

―平之神社の裏にあんというところがあって、ここは昔尼僧などがいた庵があったため、「あん」と呼ばれたらしいです。ここにある山なので「あんの山」と言います。ここにはたたりがあるとかで開発しようとしたひとが止めてしまったとか。

 

「詳しく聞かせて下さい」

 

―はい、あんに1000万円でビニールハウスを作ったひとがいたけれど、一晩で作物がだめになったそうです。

 

「それは何年前のことですか?」

 

―4,5年前だったと思います。

 

ここで少し休憩。お茶とお菓子をいただきながら、近代の厳木町のことを聞かせていただいた。厳木町は、もとは炭鉱の町として発展し、大正から昭和30年頃には人口は最大で2万3千人となり多いに栄えていた(現在5千8百人)そうで、日満工業の引き込み線路があったそうだ。炭鉱が閉山してからは、町の過疎化と高齢化が進み、現在町は福祉に力を注いでいるそうだ。今現在、地場企業は、日東工業とヨコオ(養鶏)などがあり、町の活性化を図るため、隣の唐津市との合併を協議しているらしい。また、町の若者は唐津・佐賀両市か、町内の役場・農協に就職するそうだ。ここでも、私たちは、厳木町を歩いて気付いたことを秀島さんに質問した。

「町内をバスが通っているようですが、どのくらい往復していますか?」

 

―バスは、朝は分校に向かう小中学生のために運行し、あとは午前11時などに運行し、夕方に下校する子供を乗せます。バスにも、近くからバスに乗るときと、遠くからバスに乗るときの運賃の格差が大きいという問題があります。私も町に強く訴えていますがなかなか変わらない。

 

「茶畑がありますね。」

 

―はい。ここらへんのお茶は、作礼茶として売り物にしますが、市場では嬉野茶として売られています。

ここらで閑話休題。

 

「作禮獄と何と読みますか?」

 

―作禮獄というのは[サライダケ]と読み、今は作礼山[サクレイザン]と呼ばれています。作礼山の上には作礼神社があります。作礼山は7月1日に山開きになります。

 

「保木乃川はどこにありますか?」

 

―保木乃川[ホキノカワ]は厳木川の支流で、うちの前の川です。

 

「大滝観音というのはどこですか?」

 

―あんの近くで、滝があります。いまそのあたりはもみじ造園になっています。

 

「太閤岩はどこにありますか?」

 

―作礼山の旧道(登山道)にあります。昔豊臣秀吉が腰掛けたといわれていますが、真偽の程は分かりません。また太閤岩のしたのほうには一の鳥居があります。

 

「天狗岩というのはどこにありますか?」

 

―裏手の山の700m付近にあります。ここは大藤[オオトウ]字と今は呼ばれています。

 

「郷士頭というのはなんですか?」

 

―郷士頭[ゴウシガシラ]というのは、岩詰のほうにあり、部落の名士がいたところでしょう。

 

「屋敷というのはどこですか?」

 

―屋敷[ヤシキ]は平之分校のあたりにある集落のことです。

 

「大台羅は何と読むのですか?」

 

―大台羅はオオダアラと読みます。あんの近くの地名で、山城の食糧基地があったと伝えられています。

 

「ここで、地方誌に記載されている地名は聞き終わりましたが、他にも地名はありますか?」

 

―ええと、岩詰の入り口付近にはコダと言う地名がありますが漢字は分かりません。また、岩詰の西側を赤松と言います。栗の木にはワラホシバという地名や、坂口という地名があります。

 

「ありがとうございました。」

 

ここからは、平之地区の歴史について尋ねた。

「田んぼの水はどこから引いていますか?」

 

―本門では、近くの谷川から引いています。ここら辺は水が豊富で、谷川の水が灌漑用水になっています。栗の木や屋敷は水不足になったりするので、作礼山上に三つの溜池があります。

 

「その溜池に名前はありますか?」

 

―いいえ、作礼山の溜池と呼んでいます。ちなみに、このため池は平之にあるので平之の所有になっています。昭和7,8年頃に平之の人たちで用水(溜池)の補修がありました。

 

「水争いはありましたか?」

 

―かなり前のことですが(江戸時代)、分水嶺の問題がありました。溜池の水は相知町のイクサ川から来ていたので。そこでイクサ川に止め池の水を流したところ、向こうで悪病が流行ったので、またこちらに水が流れることになったらしいです。

 

「悪病とは稲の病ですか?」

 

―いいえ、人間の病気です。

 

「旱魃の時の思い出は?」

 

―いいえ、さっきも言ったように、ここらは水が豊富なので、旱魃の思い出はありません。

 

「雨乞いをしたことは?」

 

―あります。私が幼いころにしました。作礼山の頂上で千束[センバ]焚きといって、藁などを燃やしました。

 

「台風予防の神事などはありましたか?」

 

―いいえ、ありません。ところで、昭和二十八年の水害はどこもだと思いますが大変でした。あの時は、山潮(山崩れのこと)で、栗の木は坂口の下くらいまで田畑が全滅しました。

 

「用水路にはどんな生き物がいましたか?今も昔も変わりませんか?」

 

―用水路にはウナギ、ハヤ、アブラメ(メダカを大きくした感じの魚)がいましたが、最近は農薬の影響か、少しの魚とツガン(カニ)しかいません。

 

「麦を作れる田と作れない田はありますか?村の一等田はどこで、昔米は一反当たり何俵とれましたか?悪い田はどのくらいとれましたか?そばを作ったことはありますか?」

 

―昔はつくりましたが、今麦はつくりません。昔は家用の田んぼに少量の麦を植えました。昔は皆、はだか麦や小麦を作りました。一等田のことですが、いま茶工場があるあたりがもとは私の一等田でした。一反あたり9俵から10俵とれていました。

「すいません、普通の田んぼって何俵くらいとれるもんなんですか?」

 

―たぶん平均7.5から8俵くらいでしょう。悪い田は(一反当たり)3,4俵でした。いまはもう減反が進んで作っていませんが。いま、平之は、種籾生産地になっているんですよ。

 

「詳しく教えてください。」

 

―20年くらい前から、佐賀県と契約をして、県産米のユメシズクの種籾を作り、出荷しているんです。

 

「何斗蒔きとか、何升蒔きとかいった田はありましたか?」

 

―五升蒔きとかはあったようですが、私が仕事(農業)を始めたころには言わなくなっていきました。

 

「直蒔きはしますか?」

 

―いやあ(苦笑)、直播はしませんよ。

 

「昔はどんな肥料を使いましたか?今はどうですか?」

 

―昔肥料はありませんでした。せいぜい草を刈って田んぼに入れるくらいでした。また、硫安を少し入れたり、牛糞などの堆肥を使ったりしました。

 

「稲の病気にはどんなものがありますか?害虫はどうやって駆除しましたか?」

 

―一番恐い病気はやはりいもち病でしょう。いもち病は長雨で気温が下がる(22℃くらい)と、稲に黒点が出て枯れていく病気です。またほくびいもち病というのもあります。昔は害虫が出ると、廃油を田に流して駆除していました。戦時中は廃油を手に入れるのが大変で、遠くまで廃油をもらいに行きました。今では、猪に悩まされています。話は変わりますが、このあたりでは去年くらいからウンカ(害虫)が発生していないので、皆不思議がっています。私達の中では、中国でも農薬を使い始めたのか、などと考えています。

 

「共同作業はありましたか?結いといいましたか?田植えはいつでしたか?ゆいでしたか?早乙女は来ましたか?」

 

―結がありました。田植えは協力してやりました。田植えは、昔は六月でしたがいまは5月20日くらいです。皆の田植えが済んだらお祭りがありました。田植えのお礼と豊作を祈ってのものでした。早乙女は…、来なかったですね。

 

「さなぶりはありましたか?」

 

近ごろはしなくなりましたが、さなぶりはありました。6月のツクリアガリヨイ、4月のオイタチヨリアイというのがそうで、主に体休めと体作りのためでした。

 

「飼っていたのは牛ですか、馬ですか?」

 

―牛です。

 

「餌はどこから運んだのですか?」

 

―近くの野山からとってきました。

 

「牛を歩かせたり、鋤を引かせたりする時の掛け声はありましたか?」

 

―私は昭和44年に耕運機をかってからは牛を飼っていません。それまでは、ハイハイ、トウトウなどと掛け声を掛けました。また、手綱は右頬に一本で、左に行くときはケシケシ、右に行くときは綱を引いていました。止まるときはクアクアと声を掛けました。

 

「ごって牛をおとなしくするためにはどうしましたか?」

 

―ごって牛はおとなしくなりませんから、山仕事に使っていました。路引きに使いました。また、村にはバクリュウという、牛の売り買いを生業とする人がいて、牛のやりとりをしていました。

「馬洗いはあるが、牛洗いがないのはなぜだと思いますか?」

 

分かりません。でも、時々牛も洗ってましたよ。

 

「草切場はありましたか?」

 

―はい、皆持っていました。広い人になると一町歩くらい持っていました。

 

「入り会いの山はありましたか?」

 

―ううん、山がちなところだから、どこも入り会いのようなものだったので、強いて言うなら、山全部というところですかね。昔ですから。

 

「炭は焼きましたか?」

 

―はい、副業として終戦後

くらいまで焼いていました。戦時中は炭で動く車があったくらいですから。炭は炭窯というものがあって、自家生産していました。また、炭を売るにしても、呉服屋は着物に燃え移らないように、火鉢用に硬い炭を売るなど、工夫していました。

 

「山を焼くことはありましたか?」

 

―え、いや、うちはなかったですけど、阿蘇とかでは野焼きをしますよね。

 

「そばは一反当たり何俵くらいですか?」

 

―そばを作っている人はいますけど、知りませんね。

 

「かごは採りましたか?」

 

―楮を採っているひとはいました。楮を煮て繊維を取り出して売っていました。楮を煮るところを見たことがあります。

 

「山の幸はどんなものがありますか?」

 

―挙げれば、きりがないでが、代表的なものとしては、ワラビ、ゼンマイ、フキ、セリ、ワサビなどですかね。

 

「食べられる野草は?」

 

―たくさんあり過ぎます。

 

「食べられない野草は?」

 

―もっとたくさんあります。

 

「米はどういう風に保存しましたか?またねずみ対策はどうしていましたか?」

 

―五俵くらい米が入る入れ物に入れていました。この入れ物は中がトタン張りになっていて、これがねずみ対策ですかね。また、お金のある人は冷蔵庫などに保存しました。

 

「米作りの楽しみは何ですか?では、苦しみはなんですか?教えてください。」

 

―楽しみといえば、自分の作ったものが、余計に多くできたときなどはうれしいですね。でも、やはり米作りは重労働なので、体力的には苦しいですね。

 

「村にはどのような物資が入り、外からはどのような人が来ましたか?魚売りはどこから来ていましたか?かまどのお経を上げる目の見えないお坊さんは来たことがありますか?山伏、薬売りは来ましたか?」

 

―終戦くらいまでは西唐津の橋本さんという魚売りが厳木に来て、魚を売っていました。といっても魚と米の物々交換でしたが。橋本さんは、魚と交換した米を高く売ったお金で息子の大学の学費を出したと聞きました。衣類はおばさんが来て、もんぺなどを売っていましたが、それも物々交換でした。薬売りは、ほら(秀島さんは部屋の上のほうにあるたくさんの薬箱を指しながら)、よく来ましたよ。うちはいらないって言っているのに、お願いしますからといって薬を置いていきました。山伏も見たことがあります。

「昔は病気になったらどこで診てもらいましたか?」

 

―牧瀬にある病院に行っていました。

 

「ここからその病院までどのくらいの距離がありましたか?」

 

―5,6kmだと思います。またたまに往診にも来てもらいました。もちろん車ではなく、歩いてですけどね。

 

「川原やお宮の境内に野宿をしながら蓑を直したり、蓑を売りに来たりする人を見たことがありますか?またその人たちはどこから来たと考えられますか?」

 

―蓑を売る人は見たことがあります。観音堂に2,3日泊まったりしていました。ですが、その人たちがどこから来たのか考えたことはありません。

 

「米は麦と混ぜたりしましたか?何対何くらい混ぜましたか?」

 

―戦中・戦後はしました。昭和32、33年くらいまでだと思います。(米と麦の)割合は家によって違います。

 

「秀島さんのお宅はどのくらいでしたか?」

 

―うちはお金持ちだったから…、いやいや冗談ですよ。うちはだいたい米7麦3くらいだったと思います。また、麦にもいろいろあって、しゃぎ麦やひだかし麦はよく膨らむので食べてもすぐおなかが空きました。

 

「自給できるおかずとできないおかずはなんでしたか?」

 

―野菜はすべて自給でした。反対に魚介類や肉類はすべて買いました。

 

「結婚まえの若者達の集まる宿はありましたか?男だけですか?そこでは何をしていましたか?規律は厳しかったですか?」

―青年宿がありました。主な役割としては、火事やその他の災害対策など、地区の防衛です。

青年宿には男しかいませんでした。そして青年宿はもうありません。青年宿は、社会教育の場で、礼儀作法など、規律は厳しかったです。

 

「力石はありましたか?干し柿を盗んだり、すいかをとったりしたことはありますか?」

 

―力石は、お宮(平之神社)にありました。私も昔は干し柿などをおもしろがってとったりしていました。

 

「戦後の食糧難の時期、若者や消防団が犬を捕まえてすき焼きやなべにしたことはありましたか?犬はおねしょの薬だと聞いたことがありますか?」

 

―犬は食べませんよ(笑)。戦後の食糧難の時期は山うさぎや各家庭の鶏を食べました。

 

「もやい風呂(共同風呂)はありましたか?」

 

―はい、ありました。4,5軒で共有していて、混浴でした。昭和37、8年頃まであったと思います。

 

「盆踊りや祭りは楽しみでしたか?祭りはいつありましたか?」

 

―初盆は平之だけで納涼祭をしました。盆の15日は納骨堂で盆踊りをしました。あと、七夕を旧暦でしたりもしました。

 

「恋愛は普通でしたか?」

 

―恋愛より見合いが多かったです。あとは近所の付き合いで結婚したりしました。

 

「農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか?」

 

―確かに昔小作制度というのがありました。このへんにも庄屋さんがいて、庄屋さんとそこの分家は自作していて、15〜20軒がこさくでした。しかし、地主さんが相場(株のようなものらしい)で失敗してしまい、負債を少しでも埋めようと、分家や小作が土地を買ったので小作はいなくなりました。

 

「昔、神社の祭りの運営は平等でしたか?」

 

神社の祭りの参加に関しては、全員出席で、平等でした。

 

「戦争はこの村にどのような影響を与えましたか?戦争未亡人や靖国の母はいましたか?」

 

―鳥越のほうからは戦死者が出ました。戦死者が出た家は国から扶助をもらっていました。戦争未亡人はたくさんいて、国から扶助がもらえなくても家を守るために戦死者の弟と結婚するひともいました。

 

「村は変わってきましたか?これから厳木町はどうなっていくと思いますか?」

 

―炭鉱が閉山してから、厳木は少子高齢化・過疎化が進んでいます。戸数も以前の半分なってしまいました。やはり若いひとは佐賀や唐津に勤めているので、都市部に定住してしまいますから。今、町では、教育を中心にした町おこしをめざしています。分校にいる子供は少ないですが、他の地域に負けていない学力を持っています。町に残っている若い人たちも、分校で育ってきたからこそ、自分の子供にも分校の質の高い教育を受けさせたいと言って厳木に残っているんです。平之分校には子供ひとりにつき一台のパソコンがあって、秋田の子供やブラジルの子供と交流していて、インターネット全国一位になり、東京で表彰されたんですよ。

また、もみじの里としての町おこしも行っています。もみじ造園に老人会でもみじを植えたりしています。

また教育の話に戻りますが、分校の先生とも地域ぐるみでお付き合いしています。先生にもお祭りに参加してもらったり、秋の収穫の時期には先生の宿舎にできたものを持って行ったりしていますね。厳木は僻地手当てが支給されたりもするので、先生にとっては暮らしやすいとおもいます。

 

「ありがとうございました。お生まれはいつですか?」

 

―大正15年です。

 

以上が私達と秀島さんの会話録である。

最後にもう一度だけ、お話を聞かせてくださった秀島さんにお礼を述べたい。お忙しいところ、私達のために四時間近い時間を割いて下さり、また私達の質問に対しても、終始丁寧に、私達が期待していた以上のお答えをしてくださり、重ね重ね、ほんとうにありがとうございました。