佐賀県福富町住之江

窪田麻弥 s

 

 その日は朝から雨が降っていた。無事に石隈さんのお宅まで辿り着けるのだろうか、そんな不安が胸のうちに広がりつつあった。まだ一度も行ったことがない土地で、初めて会う人に話しを聞いてくるということは可能か?そんなことは一度もやったことがない。やまない雨のせいもあったのか私はとても憂鬱だった。学校に着くと、バスがきていた。みんなもぼちぼち集まりつつあった。なんとなくみんなの気持ちがそわそわしているのがわかった。わざと調査の話を避けるかのように、私たちは他愛もないことを話し合った。8時40分。服部先生がスーツ姿で現れた。いよいよだと思った。前段階でアポをとるときから、私たちがとても良い方にめぐり会ったことを実感していた。友人の話から、思うようにアポがとれず、別の方も紹介の依頼をしても受け付けてもらえないグループがあることを知っていた私は、早くも石隈さんに感謝していた。みんなうまくいくといい・・・バスの中で私はそう願った。普段はすぐ乗り物酔いをしてしまう私が、その日は現地に着くまで薬もなしで平然としていられたのは、やはり少し興奮気味だったせいかもしれない。突然福富町と書かれた看板が見えたときは、本当にあっという間だったのでひどく驚いた。まもなく六角川の河口堰が見えてきた。それはとても重々しく、壮大で私は少しぞっとした。この堰が人々を守っているのだとしみじみ思った。そんな大きなものでせき止めなければならない程の地形の問題があり、そんな自然とこの町の人は戦ってきたのだと、福富町に流れる歴史を改めて思った。

 「住ノ江の人、準備して下さい。」という先生の声がした。突然ビニールハウスの前で降ろされて、私たち二人はあっけにとられた。とりあえずすぐ近くに見える郵便局まで行って石隈さんのお宅に電話することにした。教えられた通りに行ってみると、石隈さんは家の前に出てくださっていた。お家はとても広くて、外にものすごい量の玉ねぎがつるしてあるのが印象的だった。私も前に住んでいた所は農業をしている家が多かったが、こんな光景を目の当たりにするのは初めてだった。後で福富町の特産物は玉ねぎとレンコンだと聞いてなるほどと思った。

「お邪魔します。」

と言って家に入ると、昔住んでいた家とそっくりの玄関が広がっていた。

「はい、どうぞ。」

おばあちゃんが満面の笑みで迎えてくれた。その時とてもほっとしたのを覚えている。案内され、席につくと地図をテーブルいっぱいに広げて早速聞き取りを始めた。

「まずこの地図で言うと現在地はどこですか?」

「ええと、この辺りかな・・・ちょっと待って下さい。」

石隈さんは席を立ち福富町全図と書かれた小さな地図を持ってきて大体の位置を教えてくださった。私たちも最初に出したものより大きな別の地図を出して聞いてみた。

「じゃあ、この辺りですか?」

「あぁ、そうそう。この郵便局はこっちに移ったですもんね。それから今はここに河口堰ができとります。ここは建設中って書いてあるけど。昭和 年に完成しました。」

おばあちゃんもニコニコ笑いながら

「ここあんたたちがさっき見てきたっちゅう河口堰よ。」

と付け足した。その間に石隈さんはおもむろに別の紙をとりだしながら、

「あんたたちが送ってきた資料に の名前がいっぱい書いたと入っとったから私は昨日夜ちょっと地図を描いてみました。」

その地図には今の地図にも20年前の地図にもないような土地の区切りが描かれていた。その地図を正確に覚えておられることにも、私たちのためにちゃんと資料をよんで地図まで描いて準備してくださっていたことにもひどく感動した。こちらから一方的に突然お願いしたことだったのに、こんなに気を遣っていただけると思っていなかったので、本当にありがたいと思った。とてもうれしかった。

「どうもすみません。地図まで描いていただいて。あの・・この地図いただいてもいいですか?もしそちらでも必要でしたらレポートを書いてから郵送しますけど・・・」

「いやいや、いいです。持って行って下さい。私は頭のなかにちゃあんと入っとります。」

「すみません。」

「この地図にアラコ(荒子)ってあります。ここを昔は小さい船で渡しよったですもんね。」

地図におとす。

「昔はね、小さい船で渡しよったと。考えられんでしょう?」

おばあちゃんが言う。

「へぇ、そうなんですか。すごい。」

私たちはうなずきあった。

「それから『みなさんが使っていた地名(通称)』ってありますけどメモとりますか?」

「はい、お願いします。」

「1ブンカドオリ(文化通り)2フドウチョウ(不動町)3テラマチ(寺町)4ホンマチ(本町)5コンピラチョウ(金毘羅町)6テンジン(天神)7アラコドオリ(荒子通り)8カイガンドオリ(海岸通り)9ザイモクチョウ(材木町)10キョウマチ(経町)以上です。」

「ありがとうございました。次は聞き取りの展開って書いてある所から聞いていきたいですが。ええと、まず、田んぼの水はどこから

引いていますか?」

「福富町は地下水とダムです。長池ダムと朝日ダムちゅうとがあります。長池ダムは明治前にできました。朝日ダムは昭和34年完了、排水開始。年4,5回排水します。」

「雨乞いの経験とかありますか?」

「それは・・あまりしてない。地下水を頼りにしてました。」

「平成6年の旱魃の時の思い出は何かありますか?」

このときしばらく沈黙が続いた。

「私たちは地下水頼りにしてましたけど、このときは回りきらん枯渇しました。米も少ししかとれん苦労しました。」

とても静かに語ってくださった。ほんの少し重たい空気が流れた。石隈さんの詳しく語らない様子に私は何だか心が痛むような、そんな気がした。私みたいな何の苦労もしていない小娘にはわからない大変なことがあったのだと感じた。

「台風予防の神事(風切り)などはありましたか?」

「福富には3つの神社があります。福富神社、竜神社、金毘羅神社ていいますけど、そこで風祭りが9月の1日か2日かんくらいにあります。大体立春から210日頃に、台風がこないように(祭りを)します。」

「用水路の中にはどんな生き物がいましたか?昔も今も変わりませんか?」

「アメンボ、それからウナギ、ナマズ、コイ、フナ。」

「ウナギが普通に泳ぎよったんやね。」「すごいよね!」

「でももう今はおりません。洗剤やらの汚染でから。」

「田んぼの中にはどんな生き物がいましたか?」

「ドジョウが泳ぎよったです。除草剤のせいでいなくなりました。」

昔はウナギやナマズやコイやフナが当たり前に水の中を泳いでいたと聞いてやはり自然は破壊されつつあるだなあと実感した。私は田んぼや用水路の中にそんな生き物たちが泳いでいるのを見たことがない。ちょっと石隈さんがうらやましくなった。

「麦を作れる田と作れない田はありますか?」

「大体全部作ってました。ただ1俵半から2俵しかとれませんでした。昭和59年に土地改良事業が始まって平成11年に完了。そのおかげで今は麦も米もとれるようになりました。麦は今6俵から7俵(350kg~400kg)とれます。」

「昔はどんな肥料を使いましたか?」

「昔は大豆の油をとった粕を使ってました。それじゃ魚で作った干鰯と堆肥を使ってました。」

「今はどんなものを使っていますか?」

「今はもう化成肥料です。」

「昔はね、全部家で作りよったと。買うもんは少なかった。だからこの辺みんな大きい家建てられたと。」

おばあちゃんの言うことにはっとさせられた。そういえば農業を営んでいる人の家は大きいことが多い。そういうわけだったのか。

「稲の病気にはどんなものがありましたか?」

「稲に斑点ができるセンチュウシンガレ(腺虫心枯)がありました。これは60℃の高温に種子をつけて防ぎます。それからニカメイチュウ(二化螟虫)。これは菜種油を落として足で蹴って歩きます。」

「共同作業はありましたか?」

「ありました。ゆいって言いよったです。お互いに協力して、今日はあんたん方手伝うけん明後日はうちに来てっちゅう感じでしておりました。」

「田植えはいつ頃でしたか?」

「6月22日以降でした。まあお手伝いに自分も行ったり来てもらったり。」

なぶりはありましたか?」

「あぁ、ありました。お餅をついて祝ってました。お手伝いさんにもおすわけして。」

「早乙女さんやらも呼んでよったと。親睦を深める意味でね。」

「田植え歌とかは歌ってましたか?」

「それは歌ってなかったですね。あまりないです。」

「飼っていたのは牛ですか、馬ですか?」

「福富は牛です。粘土地帯だから。馬は骨折してしまいます。川のむこうの地域は馬を使ってました。」

「えさはどこから運んだのですか?」

「えさは麦、それから藁に青草。自分のうちで蓄えたものだから特別どっかから持ってくることはありません。」

「どうやって手綱は操作しましたか?」

「手綱は1本でした。『とう』と言ったら右回り、『けし』と言ったら左回りで、それを覚えさせます。」

「すぐに覚えるですか?」

「すぐ覚えますよ。」

「すごい!」「頭いいね。」

ごって牛をおとなしくするためにどうしましたか?」

「鞭打っておとなしくさせてました。」

「おかしは、干し柿とか勝ちぐりとか、作ってましたか?」

「いやおかしは全然作ってませんでした。」

「食べられる野草はどんなものがありましたか?」

「ハギナ、ヨモギ。」

「ヨモギ昔はフツって言いよったと。フツ餅とかね。ヨモギ餅のことよ。あの葉っぱでくるだ・・見たことあるでしょ?」

「あります!」「フツって言うだ!」

「米はどういう風に保存しましたか?」

「米かの中につけてました。3m四方の大きな部屋に米ぬかを敷いて、その中につけて虫がつかないようにしてました。」

「ネズミ対策は?」

「それはネズミ罠ですね。金網のかごで餌入れて、ネズミが入ったらガシャンとしまるようになった罠を使ってました。」

「米作りの楽しみ、苦しみは何かありますか?」

「苦しみは夏の草取りです。炎天下の中ずうっと取って。麦わらで編んだ日蓑を日よけにからって。」

「あと、こう先のとがった笠をかぶってね。」

わたしはメモをとっていたノートに絵を描いてみた。するとおばあちゃんは笑って、

「そうそう、そんなと。思い出した?」

と楽しそうに言った。

「それから楽しみは、今年は何俵とれたかなあっそれが楽しみでした。でも6俵のうち5俵は地主さんにあげんといかんやった。」

「えー!おかしいですよね。」

「それはもう、そうなっとったからどうしようもないですもんね。土地を借りて小作人は作業しよったからその土地を借りた分できた米をもっていかんといかん。終戦後はもうみんな平等になってそんなことはなくまりました。」

きっぱりと言い切られる石隈さんの様子に、私は日本史で習ったようには簡単に小作制度を批判できないような気がした。石隈さんの話によると昔はスイカなんかも取ったり取られたりで、10個は取られてもわからなかったそうだ。今では全く考えられない。共同作業や小作制度はそうした付近の人々との温かいつながりをもたらすものでもあったように思えてきた。今のものさしで計れば地主さんに大量に米をやらなければならないのはおかしいが、当時の人はそれを受け止めて納得していたのではないだろうか。今の時代も後になれば不景気で税金はあがって人々は不満をもっていたと言われるかもしれない。しかし街角のインタビューでは国が困っているなら仕方ないとこたえるひとが多いのだ。そんなものだろうと思う。石隈さんは別段地主さんを責めたりはしなかった。日本史の知識だけでは真実はわからないと思った。ちょっと恥ずかしかった。

「昔の暖房はどんなものでしたか?」

「火鉢かな。あと掘りたつ。こう下に穴があいた。」

「うちも昔あった。」「じいちゃんちにあった。」

「冷房はうちわですね。」

「あんまり暑いから外に出てね、外は涼しいから机を外に出してご飯をたべると楽しみやったと。蚊やらくるけん急がなよって言ってからね・・・」

すごく楽しそうだ。昔はうらやましいことがたくさんあっただなあと思った。

「車社会になる前の道はどの道でしたか?」

「1mから1.5mくらいの幅で、運搬用の木作った車力やリヤカーが通る道でした。雨の日は車輪に泥がついて大変でした。」

「昔は学校にもその道通ってはだしで行きよったと。」

「村にはどんな物資が入っていましたか?」

「物資って・・あまりないですね。」

「行商人とか魚売りはきてましたか?」

「あぁ、それは来てました。魚売りやら衣類売りやら。」

「やんぶし、薬売りの人はきてましたか?」

「毎日来てました。今も来ます。ヤンボシさんって言ってから。家のお祓いにね。薬は入れ薬でした。基山やら鳥栖の方から来よったです。いつも来るけんなじみになってから。」

「昔は病気になった時はどこでみてもらいましたか?」

「かかりつけのお医者さんがおって、その人にみてもらってました。」

「箕を売りに来る人を見たことはありますか?」

「あります。」

「その人たちはどこから来たと考えられていましたか?」

「大川、熊本の方ですね。い草の産地だから。」

「米は麦と混ぜたりしましたか?何対何ぐらいで混ぜてましたか?」

「大体4対6ですね。麦が4、米が6。」

「自給できるおかずとできないおかずは?」

「自給できるのは、野菜。できないのは・・・魚ぐらいですかね。大体自給できました。」

「結婚前の若者の集まる宿・青年クラブはありましたか?」

「ありました。」

「男の方だけですか?」

「そうですね。」

「そこで何をしていましたか?」

「将棋とか、雑談ですね。10人ぐらいで。そういう所はたくさんあって、最初に自分はここに行くちゅう感じで申し込みをしてから行ってました。」

「上級生からの制裁とかはありましたか?」

「それは、なかったですね。」

「力石はされてましたか?」

「してないです。」

「すいかを盗ったりは?」

してました。すいかはたくさんあったでもんね。10個くらい盗ってもわからんやった。」

「えー?!ほんとに!すごい。」

「今と昔は違いますもんね。今はそんなことしたらいかんけど、昔は盗ったり盗られたりです。」

「戦後の食糧難。若者や消防団が犬を捕まえてすき焼きやなべにしたことはありますか?」

「時々はありました。」

「おいしいですか?」

「おいしいですよ。」

「犬はおねしょの薬だと聞いたことがありますか?」

「それは・・・ないですね。」

「犬はどうしたら捕まりますか?」

「餌でつって、首輪をかけてきゅっとしめてました。」

よばいはさかんでしたか?」

「なかったですね。」

「よその村から来る青年とけんかをしたりすることはありましたか?」

「ありました。」

「それってどうういことが原因で、けんかするものなんですか?やっぱり縄張り争いみたいな、『入ってくるな!』みたいな感じですか?」

「そうですね。荻郡と杵島郡がけんかしよったです。」

「もやい風呂はありましたか?」

「なかったですね。風呂屋は2軒ありました。」

「盆踊りや祭りは楽しみでしたか?」

「楽しみでしたね。」

「いつ頃あってたんですか?」

「夏ですね。8月。沖ノ島参りっちゅうとがありよったです。潮が引いたら有明海に出てくる島があって、そこにお参りに行ってました。」

「花火大会とかってあったですか?」

「花火はしてませんでした。踊りとか狂言とかですね。」

「恋愛は普通でしたか?」

「ふつうでした。」

「昔神社の祭りの参加、運営は平等でしたか?」

「平等でした。」

「戦争はこの村にどのような影響を与えましたか?戦争未亡人や靖国の母は?」

「やっぱり戦争未亡人はだいぶ苦労しました。でももう、だいぶそんな人も少なくなりました。歳がかなり高齢やから。」

「空襲とかってありましたか?」

「1度だけありました。終戦前に。」

「兵隊には行かれたのですか?」

「最後の方ですね、1年くらい行ってました。私は21歳でした。久留米に3ヶ月、その後は東京に行きました。大空襲の後の防衛に。」

「村は変わってきましたか?これからどうなっていくのでしょうか?」

「土地改良があって、それから道路行政もあってだんだん車社会になりました。これからのことはちょっとからんですね。」

そう言って石隈さんは朗らかに笑った。長い歴史、特に変化の激しい時代を生きてこられた方の、その言葉には真実があると思った。この後お歳を伺ったところ、79才(大正13年3月4日生まれ)だそうだ。何を聞いても丁寧にわかりやすく答えて下さった石隈さんはこのときも、私の「あ!私3月5日生まれなんですよ。」という突拍子もないコメントに「1日違いですね。」と笑って答えて下さった。本当にすばらしい方々出会えたと思った。お二人ともとても優しく、とても聡明な方だった。この聞き取りを終えてから、用意してきたお昼をその場で食べさせていただき、テレビも「武蔵」と「ウィンブルドンテニス」を見させてもらった。お茶やコーヒーも何度もいただき、お菓子までいただいた。ウィンブルドンを見終わった後、時間は大丈夫かと聞かれたので、大丈夫ですと答えると、車で住ノ江をぐるっと回ってみようかと言って下さったのでお言葉に甘えて回ってもらった。六角川にとまっているたくさんの船。ここを昔は小さな船が渡していたのだと聞いた。そして海苔をとる網が広げて準備してあった。赤、紫、桃色、緑・・様々な色の網はとても綺麗だった。ここはちょっと前問題になった有明海の海苔の問題はあまり影響もなく、関係なかったそうだ。それから、どこまでも広がる干拓地を見た。干拓地は二段階にわかれていた。手前の六角川から遠い方は、古い干拓地で既に米も作れるようになっているそうだ。奥の六角川に近いほうの干拓地は新しい方で、まだ塩分が多いため米は作れないそうだ。あと20年くらいしたらここも米がつくれるかなといっておられた。本当に広くて圧倒された。これは日本の各地から来た人が開拓していったのだときいて、ますますびっくりした。有明海の干潟にも行った。かにやフジツボなど普段見ない生き物がいて、おもしろかった。昔はムツゴロウなんかがいたそうだ。そこから遠くに雲仙岳が見えた。陽の光がいく筋も雲仙岳に降り注ぎ、とても美しかった。展望台にも連れて行ってもらった。それからどこの家もやっぱり玉ねぎがつるしてあって、レンコン畑もたくさんあった。小・中学校、コンビニ、郵便局、農協など、たくさんの施設もあった。1時間ほどかけて回ってくださった後、また石隈さんのお宅にお邪魔した。のんびりと時間になるまでお話をして過ごした。帰りの時間が近づきつつあった。お別れしなければならないのが残念だった。4時40分。家をでた。お二人が見送ってくださった。またおいでね、と言って下さった。その言葉が本当にうれしかった。お土産にいただいたとうもろこしは、帰ってからすぐに食べた。お二人の思い出の味も加わって、とうもろこしはすごくおいしかった。私たちはお二人から昔の様子についてたくさんのことを学んだ。そして、それと同時に人の優しさも学んだ。お二人ともとても温かい人柄で、私は人生で大切なものを学んだような気がする。私も歳をとって、あんな風に人に接したり、昔のことを伝えられる人になりたいと心から思った。