歴史の認識(水曜1限・服部教官)調査レポート~佐賀県福富町下区

大岡慎弥

山本大佑

 

 僕たち二人は、事前に手紙を送らせて頂いた二人の方の都合が合わなかった為、アポ無しで福富町下区の住民の方を訪問することになった。1030分過ぎに福富町に到着し、それから一軒ずつお宅を訪ねていった。僕たちが調査をした日は雨が降っていた。福富町の第一印象は、僕(大岡)の故郷になんとなく似ているような感じがした。海の近くの町ではあるが、潮の香りはあまりなく、山に囲まれているが、坂のようなものはほとんど見受けられず、土地は起伏が少ないように感じられた。十数軒訪問した末に、幸いにもようやく、辻田清さんという方からお話を伺うことができた。辻田さんは大正12年生まれの80歳、以下辻田さんのお話をまとめる。

 まず、福富町の小集落の名前について質問した。辻田さんの話しによると、福富町下区には集落によって昔からいくつかの地名があるらしい。そのうちの二つをうかがうこと、一つ目が、福富小学校の前の小集落で、辻田さんのお宅もある「ヒノデマチ」。二つ目が、福富小学校の前の道路を西に進み、さらに突き当りを左に曲がったところに「大黒様」が飾られているらしく、そこから西の小集落を「ダイコクマチ」(大黒町)と呼ぶらしい。

また、話の展開の中で、国道444号線の話をしていただいた。その話によると、現在の国道444号線は堤防の上に作られたもので、その堤防も昔はもっと曲がっていて、水の流れを緩やかにする為に、よりまっすぐなものにしたらしい。さらに、福富小学校の前の道と国道444号線の突き当たり地点(つまり昔の堤防の上)のことを、辻田さんは「だるま坂」と呼んでいたそうだ。そこにはお茶屋さんがあり、お菓子なども売っていて、周辺には桜の木が立っていたという。現在ではその「だるま」という名前の由来のあるお店が近くにあった。

次に、辻田さんに農業のことについて尋ねたところ、辻田さんのお宅は農家ではないということで詳しい話は聞けなかったが、田んぼに使う水については聞くことができた。辻田さんの話によると、50年前は、山のふもとに堀をつくり、そこに水を貯めて年に1回か2回ほど田んぼに水を引いていたそうだ。

他にも昔のお話を色々聞かせていただいた。学校では下校途中にはお菓子などを食べてはいけないと言われていたらしいが、学校帰りに隠れて「回転焼き」や「やぶれまんじゅう」などの、その土地独特のお菓子を食べていたそうだ。回転焼なら僕たちも耳にしたことはある。いわゆる買い食いは、僕たちの小学生の頃もたしか禁止されてはいたが、やっぱり僕たちもおこづかいで隠れてアイスを食べたりしていたなぁ、子供の頃はそれがちょっとしたスリルで、おいしかったなぁ、などと自分たちの昔がふいに思い出された。こういうところは辻田さんの子供時代も僕たちの子供時代も変わらないのだなぁと、不思議に、また面白く感じられた。また、寒さをしのぐのには、火鉢や掘り炬燵を主に使っていたそうだ。他にも、湯たんぽも使ったりしたという。辻田さんは昔はほとんど病気にかかったことは無いそうだが、ただ、盲腸になったときは鹿島の病院に五日間入院をしたらしい。辻田さんは、「今は医療技術がだいぶ進んだなあ、しかも今の病院は至れり尽くせりだもんねえ」と語っておられた。

辻田さんの部落は、終戦後公民館を利用してお祭りをするようになった。下区を中心とした祭りで今でも続いている。

また、恋愛のことについてもお尋ねした。話によると辻田さんの年代は恋愛結婚がほとんどだったそうだ。女性と遊びに行くのも、例えば「映画を見に行こうか」などと言って隣町まで遊びに行っていたらしい。恋愛に関しては意外だった。僕たちの予想・イメージでは、昔はほとんどが選択の余地のないお見合い結婚だと思い込んでいた。また、今のように赤ちゃんを持っての結婚、いわゆるできちゃった結婚は無かったという。

そして、福富町では終戦後、靖国神社に類するような忠霊塔が福富小学校のところに建てられ、毎年戦争で亡くなった人の供養の意味を込めたお祭りのようなものをやっているらしい。僕たちは辻田さんのお宅に行く前に小学校を通ってきたので、その忠霊塔を見ていた。

辻田さんは昔は剣道をやっていたそうで、会社の代表になるほどの腕だったという。現在は80歳になられる辻田さんだが、少々耳が不自由なくらいで元気な方だった。今の福富について尋ねると、「このままではだめだ」などと言っておられた。その真剣な目から発せられたこの言葉は、一見諦めのようにも取ることができるかもしれないが、僕たちには何だか、「変えていかにゃならんのだ」という気概が込められた力強いものに響いてきた。

突然お邪魔した見ず知らずの僕らを心よく迎えてくれ、約2時間も親切にお話をしてくださった。帰りには玄関の外まで出てきて見送ってくださった。

時間は14時前で、少し時間が余った。しかも辻田さんのお宅は農家ではなかったので、農業のことをもっと知りたくて福富町の公民館を訪ねることにした。そして、公民館の方に福富町役場企画課の林田さんを紹介していただき、さらに林田さんからは、福富土地改良理事や福富町水利組合組合長などをしておられる久原勇さんを紹介していただいて、久原さんのお宅でお話を伺うことになった。久原さんのお宅には知り合いの方が二人ほどいらしていて、一度に複数の方のお話を伺うことができた。以下、久原さんのお宅でのお話をまとめる。

久原さんに、まず最初に辻田さんにも伺った、現在は国道444号線のある所にあった堤防について質問した。堤防の名前は「サクラ道」という。何故サクラ道なのかと尋ねたところ、久原さんいわく、堤防を強化するためにサクラの木を植えて、少しでも時間ができた時はサクラの木を眺めたりして、楽しく愉快に過ごしていたからだそうだ。堤防だった頃は楽しくその道を通っていた。堤防も昭和12年当初は今の火葬場のある辺りで曲がって(ひねって)いたのを、それでは不便だということで、地主の人と相談して、真っ直ぐにした。久原さんは地図を指差しながら、「あれは昭和何年だったろうか…」と回顧しつつ教えてくれた。少し驚かされたのは、僕たちからしたら何十年も昔の事柄なのに、久原さんは(凡そではあるが)昭和何年頃というふうに年代も記憶しているのだった。堤防一つに関しても、久原さん自身の歴史に組み込まれているのだろう。現在も堤防は存在しており、久原さんいわく、国道自体が堤防なのだという。また火葬場の問題から4箇所の地蔵さんが置かれているそうだ。

次に久原さんの家の周りについて伺った。しこ名は「シンゾウガラミ」と「キタシンチカタ」。この名は、かつてこの土地を干拓(灌漑を作るなど?)した人の名前に由来する。

久原さん:「やっぱりこれはよかことですよ。三百幾らのカラミの中には、やっぱりそげなりの特徴やらイメージやらあるんですもんね。六升五反のシンゾウサン。」

久原さんの知り合いの方:「この辺の土地の名前は半分くらいは作った人の名前。ツルベエガラミやタロウガラミ、中にはオキョウガラミというのもあるらしい。お経のガラミ。潮が入っとったけんね、それ(お経か)をそこに置いたら潮が止まったとかね。」

干拓地ならではのエピソードが垣間見えた。すると久原さんが話を補足するように

「そういうふうな簡単というか、あんまり意味もなかばってんですよ。カラミをついた人の名前を取ってカラミというんですよ。」

「カラミ(ガラミ)」というのは「○○が作った」という意味を表す。

4~5丁ぐらいの自分の金と労力に見合った干潟を干拓していって、子孫に土地を譲ったと言われる。昔の人は、新しく土地を作っていくために、どんどん堤防を作っていった。堤防より内に水がたまり、そして水の中に含まれる泥土が沈むことによって、周囲の土地よりも堤防の内が高くなっていく。高くなった土地、それによって、また新たに高い堤防を作らなくてはならない。それを長年繰り返してきたため、この辺りは、「のこぎり型」とよばれる地形になっているそうだ。また今でもこの辺りは、潮が満潮の時には海面よりも7ミリ~9ミリも低いそうだ。海面が通常の時でも、その差は0ミリ、つまり海抜0ミリの土地らしい。だから堤防を作り自分達の土地をまもっていたそうだ。また、土地を干拓するための賢い智恵も教えていただいた。なんでも、堤防の一箇所に穴を開け、満潮の時だけ海水がある程度入ってくるようにする。潮が引くと同時に、堤防の内にわずかに泥土がつもり、それを何年も何年もくりかえして海面よりも高い土地を作っていったそうだ。そうやって干拓をおこなっていったらしい。有明では、一ヶ月のうちに一週間「カラマ」という潮の小さい時期がある。その間の日照りによって土地が乾燥する。そしてまた、その土地に泥土が流れ込む。それが繰り返されて土地は高くなっていったそうだ。福富の隣町の、山のふもとにある小学校の地面を掘ると貝殻が出て来るそうだ。ということは、昔はこの辺りまで海だったことを教えてくれとるよね、ということも言われた。

 話は変わり、次に、田んぼの水はどこから引いていたか?ということを尋ねた。久原さんはこう言われた。「やはり、以前は水資源なんてものはほとんどなかったらしいね。田んぼを一丁もっていたら、それに見合う水量がいる。それを確保するためにはどうしたかというと、堀(クリーク)をつくったんだよ。どの農家も必要な分の堀を田にこしらえて、それを利用して農業をしよったとよ。そして、大正年代になると、4~5のカラミが協力して井戸を近くにこしらえて、その水で農業をやるようになったと。」

 さらに、その井戸を掘るのにも、機械を使うようになる前は、泥を少しずつ出して掘っていったらしい。「時間のかかいよったよ。」と言っておられた。そして、井戸の深さごとの泥や土、そして砂のサンプルを二種類も見せていただいた。お話を聞くだけでなく、実際に目で見ることでさらに理解が深まった。

 また、旱魃などの時期に田んぼから水を引く際に、水争いは無かったかを尋ねた。同時に、水を分けるうえでの特別なルールは無かったかということも尋ねた。久原さんのお話では、戦前は「権力」で決まっていたらしい。やはりそれぞれの田んぼで収穫の差があり、その差によって水の配当量が決まっていたという。また、収穫の少ない田んぼの人は収穫の多い地主についていて、とにかく差が激しかったらしい。旱魃の時の思い出として、「雨乞いの経験はありますよ。稲が枯れそうになったときにさ、雨が降るでしょうが。そんときは感無量の喜びがあったよ。」と語っておられた。平成6年の旱魃のときは、それぞれの田んぼの水の余裕によって助け合いをしたという。そして、その雨乞いの内容についてもお尋ねした。そのお話によると、有明の沖の島で潮の引いたとき(満潮のときは沈んでしまうらしい)7月19日(旧暦の6月19日)に雨乞いの願掛けをして帰ってくるらしい。台風予防の神事としては、年に一度みんなで集まって神社で風まつり(風というのは台風のこと)ということをやっていたらしい。さらに、太陽に感謝の念を込めた、「お日まち」という行事もあるという。これは、柿やおはぎを太陽に捧げ、太陽を休ませるという意味をこめたものらしい。そして、この「お日まち」の行われる1115日は干し物禁止だったという。そしてその後は懇親を深める娯楽となっていったという。

 その他の娯楽のひとつとして、同年代の人が集まる「3ヤマチ」「6ヤマチ」といったものが順番で各人の家であったらしい。「3ヤマチ」は3のつく日で女性のほうらしい。また「6ヤマチ」は6のつく日で男性のほうらしい。

 久原さんがおっしゃるには、農家の最大の憩いの祝いとして「早苗祝(さなぶり・さなぼりとも言う)」というものがあったらしい。これは、田植えが終わった後にやる祝いで、各家でやっていたらしい。しかし、当時は貧困の差があったので、すべての家でやっていたわけではないが、例えば地主さんのような大きな家だったら10人や20人招待して祝いをやったという。

 次に用水路のことをお尋ねした。お話によると、用水路の中にはフナがいて、くいで刺して、さらにそれを干して、そして乾燥させていりこにして食べていたらしい。フナやナマズは田んぼにもいたという。また、タニシも食べていたらしい。

久原さん:「タニシは美味かったもんねぇ。」

久原さんの知り合いの方:「でも農薬がはやったらぱっと全部死んでしまったもんねぇ。」

「とにかく、昔は調味料以外のものを買うということは無かった。海で魚を採れば2.3日は十分食べていけた。」と言っておられた。用水路には今も魚はいるらしいが、家庭排水など

影響で体の曲がった魚などがでてきて、昔のように食べることは無いという。

 近くに川があるのに、わざわざ堀を作って水を引いていたことをふしぎに思い、「田んぼの水はすぐ近くの川からはどうしてひかなかったんですか?」と尋ねたら、久原さんたちはこう言われた。「当時?ああ、これは土地改良によって作られた川だもんねえ、戦後のことですよ。(昭和)30年以降だったかにゃ。それまではやっぱり、さっき言ったように小さな池や堀から水をひいていたんですよ。だから、常に旱魃が近くに備わっていたんですよ。ひどい旱魃の時は、食べ物が全然かえん(とれん)ということがあったんですよ。」それに対し、「そんな時はどうするんですか?」と尋ねると「そん時は干上がってしまう。それか雨乞いして神頼みするしかなかとですよ。天気まかせやったけんね、昔は。どうしようもないけん、やっぱ取れたところからさ遠慮していただくくらいしか。その取れたところというのが、何度もおっしゃったように権力、知力、財力、能力のあるところなんですよ。その人たちは自分のところに十分水が補給されるように整えよったけんが、やっぱ水をもっとって力があったんですよ。そういう理由で、貧困の差ってのがものすごいあった時代なんですよ。」と言われた。

 次に、どんな肥料をつかっていたかを尋ねた。「肥料はね~、昭和の初期の頃はシメカスとかなんとかのワ、つまり牛糞のことよね。他には大豆のカスや、魚ばギュッと固めたものとかをきざんで使いよったとですよ。戦後になって化学肥料が出てきてけど、その前まではほとんど自分で使う分は自分で作りよったよ。自給自足ってことね。」と、いる人みんな同じように答えられた。自給自足するなら畑などで野菜を作らなければいけない。しかし、周囲にはほとんど田んぼしかなく、畑がみつからなかった。そこで、畑はどこにあるんですか?と尋ねた。「畑は、ああ、掘って土をもっとったろ。その土にね。何か植えたらそこがもう畑ですよ。(各)家には必ず畑があったもんねえ。生活に必要な野菜、自分が消費する野菜は、各々の家がそれぞれ3種、5種くらい作りよったとですよ。買うってことはなかとですよね。」といわれた。「その後、あんたん所は確か今家で作りよったよね?(買えばいいでしょう)」「いいんよ、うちんとこのは無農薬やけ。虫に食べられるばっかやけどね。(笑。やけん買ったほうが安かとよ。)という会話がされたりで、その話が盛り上がった。

 また、田んぼに関する質問で、麦を作れる田んぼと作れない田んぼの違い、について尋ねたら「そういうのもあったねえ。昔はね水があんまり乾燥せんもんやけ、「タカウネ」っていうのをやりよったんよ。これはね、鍬で土を掘ってその盛り土の上にね、麦を作りよったわけなんですよ。ちょっとわかりにくいでしょう。んで、できたところとできんかったとこの違いはね、まあどこで作っても全くできんということはなかとけど、やっぱ「のこぎり型」になっとるけんね、一番下の方ではほとんどできんかったね。地図で言うと、堤防を境にしたところくらいやね。高いところと低いところに堤防でわかれとるんですよ。今は土地改良によってだいぶ豊かになったけんが、だいたいのところで作れるようになったとですよね。昔は自然水やったけん、雨が100ミリ降ったら三日くらいかかって流れよったね。今はもうさっと流すんですよ。そういうのも考えると、昔は条件的にもだいぶ悪かったわけね。」と言われた。

 次に稲の病気とかはどんなものがありましたか?と尋ねた。「そのころは、病気はほとんどなかったじゃなかやろうか。虫は取りよったけどね。今と違って農薬とかがなかったけんが、油とかを使ってとりよったとですよ。稲に油をかけながら、稲を蹴っていくとですよ。そしたら虫が油に落ちるでしょう。そうやって虫を殺しよったとですよ。半分以上は死によったじゃなかかねえ。」と久原さんは、実際に虫を落とす動きや、油をまく動きをしながらおしえてくれた。鳥とかに対してはどうするんですか?とも尋ねた。それについては、案山子をたてるなり、缶かなんかをぶらさげる、などと言われた。今とあまりかわらないようだった。

 その後、共同作業について尋ねた。「昔、共同作業はありましたか?」という質問に対し「戦前は労力不足やったけん、大いにありよったとですよ。すべて個人個人が競争やったけんね、それで労力の差の増強を行いよったんよね。昔はいろいろ共同作業しよって、上手にやりよったんよね。今は全部機械がやるけんが、なんもなかとですよ。他にも、昔だったら、人によって気力、体力が違うけんが差もありよったとですよ。やけん、能力によって差があったばってん、今はもうあんまなかねえ。」と言われた。また、共同作業のことについて、「『ゆい』と言いましたか?それとも『かせい』と言いましたか?」と尋ねると、久原さんは「『ゆい』ちゅうとは、今日は私んとこ明日はあなたんとこ、と言うふうにお互いに労力を交換することたいね。」と言われた。ちなみに、能力的に男性一人に対して女性二人が同等の関係になっていたらしい。

 次に、「麦は作っていましたか?」とお尋ねした。それに対して、「麦は作りよったですよ。今はね、麦ば作って食べるってことはあんませんでしょうが、昔は粉にして食べよったわけよ。それから、裸麦は米の中に入れてさ、カルシウムを摂りよったわけたいね。」と言われた。また、「麦はどれくらいの割合でお米と混ぜていましたか?」という質問に対しては、久原さんの知人の方が「あんまり入れるとおいしくなかもんねえ。そうねえ、三割くらいかなあ。小麦だけなら加工してね、うどんを作ったり、それからまんじゅうを作ったり、いろいろそういうふうなことをしよったよ。」と答えられた。そして久原さんも、「まあ、いわゆる農家の休日にね「寄り合い」というか、農家の人が4.5人寄ってまんじゅうを作ったりおはぎを作ったりしてさ、隣接の付き合いがそれによって強化されよったわけたいね。」と付け加えられた。また、「鶏を飼うてさ、卵を食べはせんかったばってん売りよったもんねえ。卵は高かったもん。一学級50人か60人かおったけど卵を持ってくるもんは一人か二人くらいしかおらんかったもんねえ。今はだいぶ安いけど、そん頃は宝やったもん。」さらに、「卵ば産まんようになると、食べよったよ。ほとんど野放し状態で飼った鶏だったけん脂ものって肉もおいしかったもんね。今は脂はあんまりなかばってん、そん頃はほんとに脂がのってよかったよ。」「卵は病気のときの栄養源だったよ。」などと、卵の話でも大いに盛り上がった。

 さらに話は変わり、馬か牛は飼っていましたか?という質問に対し、「牛を飼っとったよ。今は機械力になっとるけど、昔は人力から畜力に変わったもんね。で、畜力になったのがそうねえ、昭和の初め頃じゃなかったかなあ。」と答えられた。さらに、餌はどうしていましたか?どうして馬じゃなかったんですか?という質問に対しては、「餌はこの辺の草とかだったよ。もうどこにでも草はあったからね。あと、この辺は地面が柔らかいから、馬の寝方だと、一度寝たら起き上がれなくなるとですよ。そやけん牛をかったんですよ。馬洗(もうらい)っていう地方が山のあたりにあったよね。名前の通り馬を洗っている町、やけんその辺りでは馬を飼っていたらしいですよ」と答えられた。次に「牛を歩かせたりする時のかけ声はどんなものがありましたか?」と尋ねると、「牛は『トウケシ』って言いよった。『とう』は左で『けし』は右(たとえば左に行かせるときは『とうとう』と言っていたらしい)。昔から『とうけし』だったよ。」と答えられた。さらに、手綱の数のついても伺った。すると、「手綱は一本だったよ。二本使うのはよっぽど安い牛よ。高い牛は小指で左さん右さんさっささっさ動きよったよ。」と冗談も交えて話してくださった。とにかく値段の高い牛はおとなしく、安い牛は暴れていたらしい。また、農作業のときのように牛を使うときは、かわいがって水路などで体を洗ってやっていたらしい。

 また話は変わり、少し野草について質問した。「食べられる野草はありましたか?」と尋ねると、「よもぎとか、品不足だった戦時中はくわの実を食べよったよ。他にはかや、の芯あたりかなあ。あれは、甘味があっておいしかとよ。それから、そらまめあたりが唯一のおやつだったもんね。干し柿は、このあたり山がないけんなかったね。あと、麦の芽の砂糖を炊いてあめを作ったりもしたよ。」と答えられた。よもぎはよく今でもお持ちや蒸しパンに使われていて僕たちにもなじみが深いが、最近では、生えているよもぎと言えば、アスファルトのひび割れやコンクリートで舗装された土手である。食べるにしても汚いからやめろということになるだろう。合成着色料や保存料の入ったお菓子を食べている現代っ子と、昔の子供と、どちらが本当に幸せだろうか、などと、幸せを比べるなどと少々不謹慎なことだが、考えてしまった。

 このあと、決まった遊び場はどこでしたか?とたずねた。「決まった遊び場はもうほとんど、今はクラブとは呼ばんばってんが、昔はクラブってとこに集まりよったとよ。集落には一箇所ずつ会合するところがありよったわけたいね。今となってはもうクラブはあんまりはやってなかばってんが、そう、今は公民館やもんね。んで、そのクラブで、集落の人たちがお互いの休日を利用して、あつまりよったとよ。そして、こっちはどこでも太鼓とかの道具を一式持っとったとよね。それで青年がね、さなぼりのように、農繁期がすんで農閑期になった頃にね、全部集まって、太鼓たたいたりして遊びよったわけたいね。これが娯楽だったね。太鼓をたたいて歩いて周りよるときに、踊りに達者な人たちは横で踊りよったよ。その太鼓や踊りの芸とかを見て、評価をしよったね、今度の村の大会にだそうか、とかね。今はもうそういう人がおらんけんが、小学生たちに伝承させよる。どこでもさあ、そういう風な太鼓とかは残っとるもんね、青年たちが使いよったのが。それで、そのまま置いておくわけいかんけんが、子供たちが利用しようとしている。夏休みにみんなで集まって練習しよるんよね。」近年では学校が完全週休2日制になったり、総合的学習の時間に地域学習をやったりする傾向にあり、ここ福富でもそうした傾向が実際に形にされていってるのかもしれない。

「今は就職して(忙しかったりするけん、)青年たちが集まることはなかもんね、全然職業も違うようやし。そして今は娯楽がたくさんあるけん、そういう風に、若者が寄って遊ぶなんてことはやる必要もないみたいよ。」職業の多様化が若者を都会へ引き寄せ、休日もあまり合わなくなり、集まるのもなかなか難しいだろう。かくいう自分たちもそういった若者の一人なのだが。

「ほんと、時代はかわったよ。昔だったら、4,5人集まれば『ヨワサキ』というか『チョッチョッパ』て言うてさ、輪を書いて、その輪のなかをぴょんぴょん飛んで渡っていってさ、体力つくるぞ、って感じで遊びよったもんね、子供から大人に至るまで。その遊びなんか、ほんの庭先でできたけんども、今となっては庭に車があったりしてもうできんもんね。他にも、ビー玉を当てあいこしたり、竹馬を作ったり、竹とんぼであそんだり、釘をさしてずっと樹にあがっていったりしたよね。」

「今は危険だ、とかいわれとるけん子供たちは行かんが、潟に行くってこともあったね。そこで釣りをしたり、ムツゴロウとか虫をとったり、カキやアラコをとったりしてしよったとよ。カキ取る時、腰まで潟に入ったりしてとりよったとよ。小学校の頃から、そういうことをやりよって、取れた魚売ったりしよったけん、もう小学校の頃から稼ぎよったとよ。」なんと!うらやましい!昔の子供はある意味今よりもいっちょまえのオトナとして扱われていたのかも!?僕たちの子供時代は既に過保護気味だった。

「やっぱり潟って危険やけん怪我するってこともありよったとよ。そんな時でも、何にもせんで治りよったとよ。塩水やけん化膿せんし、なにより昔のほうが再生力があったけんね。今なんかちょっと血がでただけで医者に言ったりするけんど、昔は全然いかんかったもんね。今は過保護になったよね。」自然治癒力、というよりもここは『自然の治療力』のすごさだ。確かに塩水は消毒作用がある。しかしそういったことを知っていてそうしたのではなく、あくまで自然に、遊ぶうちに傷の治療もしていたのだろう。

「まあ男はそんな風にして遊びよったけど、女の子あたりなると、おはじきとかしよったね。まあこんなんでもわかるように、昔だったらその変にあるもの何でも利用してやりよったんよね。木が二本あるだけの場所なんかでも、どっちのチームが先に木にタッチするか、とかして陣取りごっこのようなものをしよったとよ。ゲームはいろいろしよったよ、金のかからんゲームばね。もうそんなんが当たり前だったよ。あ~、あと過保護ってのは今すごいよね。昔は家族でご飯食べる時、ちょっと集まるのが遅れただけで、もう一番よかおかずとかがなくなりよって食べ損ないよったもんね。そのように家庭内に於いても競争があってもんね。それから、長男の言うことは聞きよったね、逆らうことなかったもん。競争は家庭内の中だけでなくて友達の間でもあってとよ。順序が決まっとったとですよ。それやけ、体力か頭か、(頭がよかったら少し遠慮してくるけんね、)ないといかんかったとよ。もう体力も頭もなかったら、一番下に行かんといけんわけたい。そういうことで、対人関係でのお互いの評価力っていうのは物凄い強かったわけたいね。この人はできる人やけん尊敬できるなって思ったら、その人の言うこと聞きよったよ。世間でも、長男次男三男て順番があるのが当たり前やったけん、四男五男あたりになるとぺこぺこ頭さげとかんといかんかったとよ。」

どんどん話がもりあがり、こんな話も出てきた。「今の子供はちょっとわるくなると耳鼻科とかにもすぐ行くけんど、昔は耳鼻科なんてあんまりなかったけん、鼻水たらした子が多かったですよ。それを服とかの袖で拭くでしょう。長男、次男、と袖で鼻拭いてくけん袖がボロボロになっていって、三男四男にその服が長男から下がってくる時はもう、その服は半そでになっとるとですよ。やけん昔は半そでを着とる子供が多かったですよ。冬でも半そでだったですよ。やけん昔の子供は強かですよ。裸足ばっかでしたしね。ほら、足裏に体のツボがすべてあるでしょう、それであるいてばっかやったけんが(昔の子供は強かったわけですよ。)学校ではね、学校の洗い場が斜めになっとって、水がたまるようになっとたけんが、そこで足を洗って、廊下をぺたぺた走ったりもしたよ。それで洗ってない子もおったりするけんが、ぬれとるけん砂がひっついていって廊下が真っ白!泥だらけになっとたちですよ。」

「話は変わるけんど、昔はさむかったですよ。雪がこの辺でもふりよったですし、それから十月にはもう霜が降りよった。今は地球温暖化でそんなこともなくなったよね。カミナリさんもすごかったですよ、カヤん中逃げるばってんが、カヤん中ブーンって振動しよったもんね。」と言う話もされた。

久原さんたちは、久原さんたちの子供時代の話になると大いに盛り上がって、僕たちが質問をしなくても、どんどん情報(久原さんにとっては貴重な思い出話)を話してくださった。僕たちも、自分たちの子供時代を思い出しつつ、時には驚かされ、また時には自分たちの記憶にある情景と重なりながら、どんどんどんどん引き込まれていった。

 そのあと、僕たちの出身、何県から来たか、九州大学の何年生か、これを調べてどうするのか、といろいろ質問された。この調査に関しては、僕たちは専門家のように歴史に関する詳細な前知識を持ち合わせているわけではなかったけれど、一つの調査を通じて、生の、非常に貴重でリアルな資料・情報・人々の生活に触れ、全くひとごとではないような、不思議な感じになった。

 僕たちが急に訪れて、いろいろ質問をして、教えていただいて感謝する立場にも関わらず、久原さんたちは逆に僕たちに「これはよかことですよ、私たちも昔の暮らしを思い出すことができて楽しいですし、このあたり独特の暮らし、カラミの名前に作ったひとの名前をつけること、馬ではなく、牛を飼っていたこと、干拓の歴史、など後世にに残したかったとですよ。どうもありがとうございます。」といってくださった。

 時間が四時半になり、バスが来るので僕たちは行かなくてはならなくなった。僕たちは何度も何度も久原さんたちにお礼を言い、久原さん宅をあとにした。

                        調査日:2003年6月28日(土)