佐賀県杵島郡福富町福富南区の調査(平成15628日)

 

 

話者 :田島清至(昭和3年生まれ)

 

調査者:藤井織乃

郷原杏子

 

 

<小字>

五間掘下搦 ゴケンボリシタガラミ   福田搦   フクタガラミ

西観音   ニシカンノン       新福田搦  シンフクダガラミ

東観音   ヒガシカンノン      南北多平搦 ナンボクタヘイガラミ

境観音搦  サカイカンノンガラミ   才次郎搦  サイジロウガラミ

外廿治搦  ソトハタチガラミ     嘉兵ェ搦  カヘイガラミ

北喜太夫搦 キタキダユウガラミ    盲搦    メクラガラミ

南喜太夫搦 ミナミキダユウガラミ   松十搦   マツジュウガラミ

家内搦   カナイガラミ       三番搦   サンバンガラミ

北小次郎搦 キタコジロウガラミ    市万搦   イチマンガラミ

南小次郎搦 ミナミコジロウガラミ   浅ェ門搦  アサエモンガラミ

外小次郎搦 ソトコジロウガラミ    昭和搦   ショウワガラミ

  

これらの小字のほとんどは、その土地を干拓した人の名前から来ているそうだ。

南北多平搦は田島さんの曽祖父の多平さんが干拓したためにこのような名前になっている。市万搦は万市さんが干拓したという。なぜ逆になったのかは分からない。

また福田搦は、福富町の隣の白石町福田の人が干拓したのだろうということだった。方言で「搦」を「ガラン」とおっしゃっていた。

 

<あだ名>

堤防:イッセンテイボウ(一線堤防)、ニセンテイボウ(二線堤防)

川:ゴケンボリ(五間掘) 現在の福富川のこと。

また、田島さんは樋門のことを「ヒカン(樋かん)」とおっしゃっていた。土手は「デー」と読み、白石町にある土手を「カネマツ(鐘松)デー」と呼んでいた。

また、土の樋のことをツットイ、トドロのことはドドロとおっしゃっていた。

福富町は新しく干拓された土地であるため、あだ名などがほとんどないらしい。しかし、上の方(海から離れた方向)には古くからの名前があるだろうと田島さんはおっしゃっていた。

 

<圃場整備>

はじめは昭和30年頃、次は58年頃に行われた。圃場整備が行われる前は水を引いてくることもなく、雨が降らなければ旱魃するような自然任せの農業を行っていたらしい。

 

<潮塞観音>

この字で「シオドメカンノン」と読む。観音堂が福富町にあるのだが、これは現在ある場所よりももっと海側にあった。大正3年に台風で水が海沿いの土手を越えて流れ込んだときに、木で作られたお堂が陸側に流されることがあり、潮が留まっていたところで観音堂もとまった。これが現在のお堂の位置であり、そのことから「潮塞」観音と名づけられたという。この潮塞観音堂は、祭りの際にそれを準備する場にもなっていた。

 

<農業>

〇水  田の水は五間掘(福富川)から引いていた。水源が遠いため水の量は少なかった。それで水を得るために他の村と競争していた。あらかじめ時間を決め、太鼓を合図に一斉に水をくんだらしい。夜になると水泥棒が現れるため、夜には水の見張りがいたが、それでもばれないようにうまく水を盗む人がいたという。水を盗むというのは初めて聞いたので、驚いた。現在は水に困ることはほとんどない。

また、昔は家庭排水などが流れていなかったので、水路の水を使って風呂を沸かしていた。風呂は露天風呂だったらしい。水そのものはあまりきれいではなかったという。

 

〇稲作など  米は一反当たり7俵、多い時は8俵とれたそうだ。悪い田は6俵ほどしかとれなかった。

稲の病気には、いもち病があった。害虫を駆除するのには、なたね油を使った。田に油を点々とまき、足で蹴って広げたそうだ。

共同作業はあまりなかった。しかし、病気で仕事ができなくなった人の代わりに手伝うことはあったそうだ。また、それとは別に早乙女を雇い手伝ってもらっていた。田植えは6月20日頃から7月13日頃だった。今は機械によって行うため、すぐに終わる。  

米作りの楽しみ、苦しみを聞いたところ、「苦しみは相当あったよ。稲刈りから何から全部手作業やけんね。田も鍬でおこさばなんじゃろう。そうして田植えん時はくたびれて。それでたなぼりちゅうてやりよったなあ。それが楽しみやたい。たなぼりすぞー(するぞ)ちゅうて、やりよった。」たなぼりという打ち上げ会のようなものがあった。朝早くからおきて夜遅くまで作業がありつらかったが、たなぼりを楽しみに頑張ったそうだ。農業は機械を使っても大変なのに、昔はすべて手作業だったのだから、昔の人は体が強かったのだなあと感心した。田島さんも「今の人たちよりもはるかに体力がある」とおっしゃっていた。

麦は少し作っていた。普通の田に畦を作って栽培していた。これも大変な作業だった。一反当たり3俵ほどとれた。

〇米の保存  十表入りや五表入りという大きなトタンの缶のなかに俵で保存。害虫対策に、俵をもみ殻に入れていた。また、こうすることで米がもみの水分を吸ってふくれたという。節約のひとつだったらしい。ネズミ対策は特になかった。

〇牛  力のある雄牛に荷物を運ばせ、雌牛に田をすかせた。荷車のことをシャリキといっていた。雄牛はコッテ牛と呼んでいたが、雌牛は特別な呼び名はなかった。コッテ牛をおとなしくするためにどのようなことをしたのかとたずねたところ、「なかなかいろいろしよったよ。目の中に指をつっこんでみたりね。それくらいせにゃいう事聞かんけんが。鼻輪をつけとったけんね。それをつってみたりしよったよ。言うこと聞くもんかのう。」と田島さんがおっしゃると、奥さんが「よう残酷なことを」と苦笑いしておられた。コッテ牛は凶暴で恐ろしかったので、あまり寄りつかなかったという。鋤を引かせるとき、左へ行くときは「トー」と言っていた。また、「ケシ」という掛け声もあったが、何をさせる時の掛け声かは覚えていないとおっしゃっていた。掛け声はあるものの、ほとんど手綱で動かしていたらしい。手綱は一本で、ツナデと言っていた。草切場は特になく、周辺の土手に行き草を食べさせていた。

〇その他の農作物  そら豆、なたねなどを作っていた。また福富町は昔からのレンコンの産地である。現在はタマネギの栽培に力を入れている。タマネギ栽培は40年前くらいに淡路島からとりいれた。現在の佐賀県のタマネギの収穫量は全国2位である。また、今年からはとうもろこしも作り始め、とうもろこし祭りというイベントもあるらしい。

〇肥料  なたねかすや、中国産の大豆かすを使っていた。肥料は輸送に便利なように丸く固められていたので、機械を使って砕いてから使っていた。

 

<行事>

〇台風予防の神事  特になかった。台風が避けられないことが分かりきっていたためである。昔の家は耐久性に欠けていたため、現在の家のようにそのままで台風に耐えることができなかった。そのため補強のために木を立ててムシロをつくり、風を防いでいた。

〇浮立  雨乞いのために浮立(フリュウ)という祭りをおこなった。太鼓を叩き、獅子の面をつけて踊りはねるというものだったそうだ。

しかし、そのような祭りはあったものの、井戸が各家庭にあったために平成6年の時などの旱魃の影響はほとんど受けなかった。田では旱魃があったとき、土をほって水を出していたという。「昔の人はなかなか根気のいる仕事しよったばい。全部がクワでやろが、機械も何もなか時代やけん。それで昔の人は強かったわけたい。」と田島さんがおっしゃると、奥さんが「肉も食べんで、野菜とか潟からとってきた魚とかね、鯛とかね(そういったものしか食べていなかったのに強かった。)」とおっしゃった。また田島さんは「相当昔の人は苦労しとるさよ。」としみじみとおっしゃっていた。

〇祭  8月25日に行われるお祭りがあるということ。

神社の祭りの運営などはやはり金持ちの家などが行っていた。現在は平等に行っている。

 

<燃料>  

山が遠く、薪が手に入らなかった為、わらを使っていた。わらで足りるのか疑問に思ったが、足りたそうだ。山積みにして大量に保存していたらしい。薪はわざわざ買わなければならなかった。また、ガスが来たのは3040年ほど前、電気は70年ほど前に通ったらしい。

 

<動物>

〇犬  犬を食べたことがありますかと質問したところ、「食べたことあるよ」とはっきりとおっしゃったのでびっくりしていると、笑っておられた。奥さんが「私食べたことなか。若っか青年衆がね、面白がってしよっちゃったよ。」とおっしゃっていた。「昔は肉があんまなかったけんの、犬がそこにおったけん(食べた)」とおっしゃっていた。主にすき焼きにしたそうだ。一赤二黒といって、おいしいのは赤い犬だと言われていたという。おねしょの薬になると聞いたことはないかという質問をしたところ、「そりゃ知らんったい。みんなぬくもるっていいよったけんの。そいで、そういうことでおねしょの薬になるということだ。」とおっしゃっていた。犬はどのように捕まえるのかと聞いたところ、「犬がおったけん、もう、捕まえて。『とってこうか』ていうて。」とおっしゃるので、そんなに簡単に捕まえられるものですか、と聞いたところ、「そうそう。とれるよ。逃げやしばい。そやったら追っかける。そんで水ん中つけて。」とおっしゃっていた。奥さんは「容量のよか人がおったんよ。まあ、野蛮人のすることでね。とてもとても女では。」と苦笑いしておられた。

〇羊・ヤギ  「そいから、やぎも食べた、羊も食べたばい」とおっしゃったので、羊がいるのかきいたところ、奥さんが「個人で飼ってたの。羊毛をとってね、加工して。それからヤギばたいがい飼うてね、それで自分の家で乳搾ってね。牛乳だなんて買いきらんけんが。ヤギの乳でね。だいぶうちもあれ搾ってね。そいでよそからおっぱいの出ん人とかがね、もらいに来よっちゃった。」と教えてくださった。

〇ウサギ  「ウサギも飼って食べよったですよ。皮を取ったりしてね。食糧難やったろが。ね。今はさんこと(そんなこと)なんも考えんばって。」とおっしゃっていた。

〇キツネ  土手にはキツネがいた。そのときの土手は33年の台風で崩れた昭和搦の土手を作るのに使われてなくなってしまったそうだ。また、野ギツネのことは「ヤコ(野狐)」と呼んでいた。山のほうにはタヌキがいた。

 

<田や川の生き物>

フナ・ナマズが主。その他コイ・ジャンボタニシなど。田の中にはドジョウがいた。ドジョウを取り売ることもあった。田島さんは「ドジョウはおいしかったばい」とおっしゃっていた。

毒流しはしていなかった。しかし、田島さんは「上のほうはあったと聞いている」とおっしゃっていた。

 

<食べ物>

〇ご飯  供出で米が足りなかったので、米に麦を3~4割まぜて食べていた。ソラマメ飯なども食べていた。イデボシめしというものも食べていた。これは、くず米を燃して乾燥させ、精米して普通の米と混ぜたもの。

〇おかず  ほとんどが自給だった。野菜が主で、漬物にしていた。その他、しおさばやしおくじらなど、保存がきくようなものを食べていた。しかし、しおさばやしおくじらなどは贅沢なもので、そうは食べられなかった。

〇お菓子  干し柿などを食べていた。また、田島さんがお米を粉にして食べていたとおっしゃったので、粉を食べるのですかときいたところ、奥さんが「浅金って言う、今はフライパンだけどね、そいで、お米を炒って粉にして、それに砂糖と塩を入れておやつに食べとったよ。」と説明してくださった。小麦粉も同様にして食べたらしい。小麦粉も作るのか聞くと、「小麦粉は作うやろ、そいで粉に加工して、家でうどんもするし、だご汁(だごじゅう)っちゅってね、煮込みうどんも作りよったよ。まあ、お菓子の代わりちゅうても大豆とかソラマメとか炒ってね、すぐお菓子にして食べよったと。」とおっしゃっていた。

〇食卓  「バンコ」という四角い板で作ったテーブルのようなものがあった。夏の晩にバンコを外に持っていき、そこで晩御飯を食べた。奥さんが「夕日の沈む前に外に全部、歯釜でもなんでも持っていって、外で食べよったと。で、だご汁も鍋に炊いて。バンコの『バン』は夜っちゅう意味のバン()やろうね。『コ』っちゅうのは香香のコやろか。」と教えて下さった。田島さんは「扇風機はないしね、家の中が暑かろう。外のほうが涼しかもんじゃけん。そこに寝そべっておった。」と笑っておっしゃった。使った後は壁に立てかけておいたらしい。 

〇食べられる野草  フツ(ヨモギのこと)やイソギナなどがあった。奥さんが「5月の節句頃、フツば摘んで来いっていいよった。」とおっしゃっていた。今は全部コンクリートで舗装されているが、昔は土手だったのでどこでもたくさんとれたという。

 

 

<暖房> 

 火鉢を使っていた。また、木炭のことをカラスミという。田島さんの話では、軽いからまずカルスミという名前がつき、それがなまってカラスミとなったのではないか、ということだった。

 

<行商>

 魚売りや薬などが来ていた。魚は保存が利くように塩で加工されていた。鯨を売りに来ていた。このようなものは貴重なタンパク源だった。また、わかめやいりこなどの軽いものは、おばあちゃんが担いで売りに来ていた。

〇薬売り  富山から来て、何ヶ月も泊まりこんでいたという。「ハンゴンタン」という薬があったらしい。タンとついているので、錠剤だったらしい。何に効くのかは分からないという。また、ぬべ膏薬というよく効く薬があった。障子紙のようなものに伸ばしてあって、真っ黒だったらしい。火にあぶって使っていた。今のシップのようなもの。白膏薬という薬もあり、これはアサリの貝殻にいれていたという。このような薬に頼り、医者には滅多にいかなかったらしい。田島さんは「忙しくて病気になっているひまがなかった。」とおっしゃっていた。

 

<戦争>

 戦場になることはほとんどなかった。時折、敵の飛行機が飛んできて空襲警報があったらしい。川のほうに小規模な銃撃があったが、福富のあたりは特に被害などはなかったという。しかし、福富にも戦争未亡人の方はいらっしゃるそうだ。

 戦争の食糧難もひどくはなく、それどころか汽車に乗って長崎などに瓜、スイカ、かぼちゃ、魚、米を売りに行ってお金を稼いでいたという。

 

<農地改革以前の小作制度>

田島さんは一番に「厳しかった」とおしゃった。7俵の田から3~4俵も取っていたという。盆や正月にはブリなどの品を納めなければいけなかった。大きな格差があった。「農地解放でずいぶん楽になった」とおっしゃっていた。

 

<その他>

〇青年クラブ  小さな宿に若者(男の人のみ)が時折泊まっていたらしい。特に何もせず、23人でただ泊まるだけだった。「そういう習慣があった。」規律は厳しくなかったそうだ。

〇やんぼしさん  昔は「やんぼしさん」という正式ではないお坊さんがいた。そのような人々が、かまどにお経を上げたりしていた。奥さんは、「やんぼし」というのが闇のお坊さんという意味ではないかとおっしゃっていた。ちなみにかまどの神様のことを「こうじんさん」と言っていたらしい。「こうじん」というのは荒れる神という意味ではないかとおっしゃていた。こうじんさん祭り  というお祭りもあったらしい。一月二十日に棚を作って、そこにおもちをあげたりしていたという。

〇トントコマス  潮塞観音堂に泊まり、夫婦でものをもらう人がいたそうだ。みぼしをなおしたり、売ったりしていた。

〇カックンチャン  もらった握り飯を泥で丸めて食べていたという。これは理解に苦しんだ。それで土にBHC(農薬)が含まれていたため、亡くなったそうだ。終戦後のころにいたそうである。一本三味線がうまい、気さくな人だったという。

〇マスの数え方  干し柿の数え方を聞いていたときに、奥さんがマスの数え方についてこうおっしゃっていた。「5ひとつマスちゅうたら2合半やもんね。1升マス­1.8リットルで5合はその半分やけん。それで5ひとつマスていうとがさ、1升から言うけん4ひとつのはずやろが。5ひとつにならんわけやろが。2合ならば5ひとつやばってん。そこが私、不思議でたまらんばってんが、誰も聞いたって何も知りやらんけんが。」なぜこのような呼び方になっているのかは分からなかった。

〇はかり  さおばかりのことを「チッキ」といっていたらしい。これもなぜか分からなかった。

 

<福富の将来>

 以前の役場は小さかったが、大きくなり、町の運営もしっかり行っている。昔は寿命が60歳程度で70歳まで生きる人はほとんどいなかったが、最近は長生きする人が増えた。それによって老人ホームが出来るなど、町も変わってきた。また、福富は昔からのレンコンの産地だが、40年ほど前に淡路島からたまねぎをとりよせ、栽培をはじめた。これからたまねぎを軸として農業を発展させて行きたいと田島さんはおっしゃっていた。また大きな道路も通り、福富の町自体の発展を期待しているそうだ。

 

<調査を終えての感想>

 最初は突然知らない土地へ行き調査をするということで、とても不安だった。しかし、田島さんに会い話を伺っていると、すぐにとても親切な方だと分かった。わざわざお茶を出していただいたりと、調査に行ったのに、ずいぶんとお世話になってしまった。

今回の調査では昔の暮らしがとてもよくわかり、勉強になった。それだけではなく、とてもいい思い出になったと思う。

 また、田島さんに佐賀干拓史のコピーを見てもらったところ、「よく調べたなぁ」と感心しておられ、福富の昔の暮らしを後世に残せることをよろこんでいらっしゃった。「歩いて歴史を考える」の授業で福富の調査をすることができて本当によかったと思う。

 

628日の調査の御礼

 

今回は福富町の貴重なお話を聞かせていただいて、ありがとうございました。約束の時間に遅れたり準備が足らなかったりと、色々ご迷惑をおかけしてしまったにも関わらず歓迎してくださり、本当に感謝しております。なれない地での調査ということで要領も悪く、また方言が聞き取れずに何度も聞き返してしまいましたが、そのたびに丁寧に教えていただいたことにも大変助かりました。

今回の調査で、昔の暮らしや農業などについて様々なことを学ぶことができました。調査で分かったことをレポートにまとめましたので、ぜひ見てやってください。この度は本当にお世話になりました。

 

  

  九州大学教育学部一年

  藤井 織乃

  郷原 杏子