【杵島郡福富町上区地区】
歩き、見、触れる歴史学 現地調査レポート
1ED03027田中奈津美
1ED03039 藤井悠子
福富町上区に関する聞き取り調査
調査日 2003年6月28日
田島義夫氏宅にて
<逐語記録>
○田島さんご本人について
・おいくつですか?
「年? 71。」
・今はどんなお仕事をなさっているのですか?
「老人クラブの連合会の上区支部っていうところの会長です。」
・お生まれは佐賀県ですか?
「ええ、そうです。」
・ずっとここ(福富町)にいらっしやるんですか?
「はい。」
・地域の他の住民の方々とは交流があって、どこに誰が住んでいるということは大体ご存じですか?
「う−ん、もう辞めてから10年ぐらいたちますが俺は役場に勤めてたので大体のことはわかると思います。」
・役場のお仕事はどのようなことをするのですか?
「役場はですね、まあいろいろ……。退職時は今で言う建設課長をやっていました。退職してからは10年ばかり建設会社に勤めて、去年ちょっと体調を崩して会社を辞めて、退職後に福富町の行政相談員を仰せつかって、県の仕事になるけれど福富町から相談員ということでやっておりました。それも体調を崩してから辞めて……もう辞めて1年ばかりになります。」
・今は会長というお仕事を……
「建設会社も辞めてから、まああの『お前は年だから何も職もないから、まあ会長をせろ』ということで、まあ順番的にですね、年の順番でさせられています。(笑)」
○水路・田畑について
・今日ここへ来るとき雨がすごくて、水路の水位がすごく上がっていたのですけど、先週の台風のとき(6月19日)は被害はなかったんですか?
「それは、あのくらいの雨なら問題ないです。」
・風の方も強かったでずけど、大丈夫だったんですか?
「風も強いのが吹きましたけど、それでもあれくらいの風なら大丈夫です。」
・水路の水位があがって道路が水浸しになるというようなことはないのですか?
「今はそんなことはないです。前はですね、もう何年ぐらい前かな……俺が辞めてから10年だけど……建設課長時代にこれ(地図、佐賀県立図書館所蔵)を見てもらうとわかりますけれども、ずっと以前の台風時はですね、昭和22,3年から28年にかけて私も役柄上、福富町はずっと干拓地ですよね。干拓をされて今このようになっておりますけれども、(地図を指しながら)ここに昭和ガラミ……これは今現在の干拓地ですよね?こっちの方がダイフクですか……こっちの方が昭和ガラミですね。まあ、この辺のこれができる前にですね、ここのダイフクガラミとか、昭和ガラミというのはしょっちゅう……しょっちゅうというか台風が来るたびに堤防が決壊して、そして潮が入ってきたわけです。有明海がありますからね。これが今現在の道路になっているわけです。そこが昔は堤防であったわけです。これで潮は止まっていたんです。だからその……この付近もずっと昔は海になっているわけです。だからその、この辺で土なんか掘って井戸なんか掘る場合にですね、30メートルとか40メートル掘りますと、地下からは貝殻が出てくるわけです。だからその、昔は海だったということがわかるわけです。」
・では、ここは全般的に海だったということですか?
「ええ、もう大体がそうだということになります。これ(福富町史の本)に書いてあるから見たらわかると思うんですが……。昔はもう、文明が発達してないというと大げさですが、昔の私たちが役場に出ているとき……昭和23年から28年に台風が来たときにはさっきも申し上げましたが潮が入ってきてですね。私が経験しだのはこの昭和ガラミという中で堤防が決壊して、民家が入っているわけですよ。その中に全部人間だけは引き上げて、そして家財道具なんかは全部くくって潮で流されない形にして、私たちも当時ちょうど建設課におりましたので、行ってそしてその住民の方の手助けをしながら、昔は自転車だから自転車で行って自転車を潮が入ってくる時点で、もう田ん中の方に埋めてそしてここ(首のあたり)までつかりながら、そしたらもう全部水浸しでしょ? だからその、電柱があるわけですね。電柱は大体ご存じのように道路ばたにあるわけです。だから電柱の横の方に道があるという考え方を持って、それを順においてその電柱を見ながら、ここまで浸かってこっちにあがってきた経験はあります。その中でも、潮の流れと同時に昔のつくりはわらぶき屋根が多かったもんでね、わらぶき屋根とか、稲わらこずみがあるわけです。昔は。だからそれが潮に浮いて、プカンプカン浮いてくるわけです。」
・その場合田んぼは全然ダメになってしまうのですか?
「もう、全部海水で……ここ(首の辺り)までくるわけですから。」
・では、その年は収穫がなくなるということですよね?
「その年は(収穫は)もう皆無ですよ。収穫ゼロです。もちろんその、家・田畑全部もう海水に浸かった状態だから。そしてその後堤防復旧をして。そして徐々に塩分を抜いて……塩分を抜かんと作物はできないですから。まあ、そういうふうな繰り返し繰り返しの苦労は福富町は特に遭っているわけですね。干拓地だから。」
・この頃の田んぼは自給自足のための田んぼであって出荷はしてなかったのですか?
「いや、それはしていますよ。」
・では、その年は収穫ゼロで困りましたよね?
「そういうようなことは何年か続きましたよ。堤防が弱いからですね。今の工法じゃないからね。昔の工法だから。なかなか堤防が強固じゃないから。台風に負けるわけです。」
・今はもう大丈夫なんですね?
「今はもう大丈夫。まあ、地盤沈下はしていますが。堤防の沈下はありますけれども……今はもう大丈夫。」
・昔は堤防を土で作っていたのですか?
「昔は土を盛ったり、据え石をしたりして、いろいろ強因にする方法を考えながらやってました。現在はもう技術が発達していますから、そういうことはしないですが。」
・水害には悩まされていたということですが、旱魅には遭わなかったのですか?
「旱魅も、だいぶあったですね。それで早魅対策として井戸を掘っているわけですね。地下水を。それで地下水を利用して、その灌漑に使ったわけです。この近所ではちょうどそこの何軒か先の方に水路がありますけれども、そこに深井戸があります。そういうようなところが町に何本ですかね……? だいぶありますよ。(本を読む)そうやって地下水利用の井戸を掘って、それを灌漑用水として旱魅対策にしていたわけです。それでそういうようなものが最終的にはその、地盤沈下につながってくるわけです。で、現在は水道……地下水はなるだけ汲み上げなくて、水道を利用しているわけです。だからその、現在は沈下度がだいぶ減ったと思います。」
・この水路はどこから引いているのですか? 海ですか? 六角川ですか?
「いや、この水路はですね……。これが福富川でしょ?これは河川水路ですから。それから福富町には水路が六角(ロクゴウ)川と遠江(スグエ)川と三本あります。河川が。いわゆるその福富町でいう大きな水路ですね。(窓の外を指差して)そこのですね、向こうが白石町ですけれども、そこのちょうどここから100メートルぐらい行ったところに水路があります。その水路が福富川の水路です。とにかくその福富町の中っていうのは水路が大きな河川っちゅうものが三本ある。福富川っていうのと、遠江川っていうのと、それから六角川っていうの……三本。で、それに支線がずっときて、こういうふうな態形をしています。
それでその中に福富町は平坦地だから山のように水が上から下へ流れないんです。排水がなかなかきかないということです。そういうようなことで、大体さっきみた三路線には一番末端の方に排水機場があるんです。強制排水するわけですね。機械排水で。」
・機械排水できるようになったのはいつ頃ですか?
「それはもう、何年かな……? ちょっとそこまではわかりませんけども、福富川の排水機場っていうのが一番早くて、それから遠江川っていうのが……ずっと向こうのほうにスミノイ橋っていうのがあって、その付近の方にありますけれども、その付近にあるやつがもう一個か……。福富川にあるのが一番早くて、六角川が二番目かな。そして遠江川が。これはあの、管轄がいろいろありましてね。大体管轄っちゆうのは、管轄が佐賀県の土木事務所の管轄になるわけです。それからもう一つその、排水機場の中にですね、河川っちゅうのがありますので、河川の管轄が工事事務所……建設省の武雄工事事務所の管轄になる。それからもう一つ、農林省の管轄もあるわけですね。それもあの、だいぶ干拓の中のほうの排水をするために、まあ若干規模の小さいやつがいくらかあります。それであの、相対的に言いますのは、さっきも申し上げましたが福富町は平坦地域でありまして、排水というのがなかなかスムーズにいかない。というようなことで、機械排水が主のような形で、大雨とかなんとかという場合はそういうふうな形でするわけです。だから福富町には排水機場というものが大小かなりあります。で、管轄もさっき言ったように建設省とか県の土木事務所とか、それから福富町のもののやつもある。いわゆるその管理体形がですね。福富町、それから白石町も平坦地域はそういうような自然排水っていうのがなかなかできないっていうのがありますね。」
・機械ができるまえは大変だったでしょうね?
「そうですね。機械ができる前はいわゆるその水害常習地帯とかがいろいろ出てくるわけです。自然排水がなかなかできないもんですから。それでその、自然排水の中に(小字の資料を見ながら)ヒカンとかマネキドとかいろいろありますけれども、そういうふうなやつで排水をしていたわけです。それで排水をする時点で有明海の海との関係が出てくるわけです。だから大雨でも降った場合に潮が高い場合には排水できないわけです。だからその、潮の関係を見なくちやならない。というようなことで、干潮のときに排水をするということがありまして、ヒカンも今だいぶありますもんね。それでヒカン管理者というのがいるわけです。で、ちょっと極端に言ったら一番下の管理者、中の管理者、上のほうの管理者っていうのがあるわけです。今はちょっとないですけど、そこの白石町との境の方にヒカンがありました。そういうようなヒカンの管理者っていうのがいるわけです。上の方の管理者の方と中の方の管理者と一番下の方の管理者の方、全部が潮見表を持っているわけですね。一番下の方で今干潮だから今流しなさいというような連絡があるわけですよ。だから、一番下の方が上の方にもういいですよって時間的に考えて、まあ流れがさっといかんもんですから、一番下の方の人が言って、中の方の人が言って、上の方の人にとずっと伝えていく。自然に言っていくわけです。そして潮が入ってくる時点になるともう止めなさいと、今度は下の方じゃなくして上の方の人から。流れが上の方から流れるから。下の方から止めると今度は中のほうに淀むわけです。だから逆にいくんです。上の方がもう止めなさいよって。それでこっちの方止めなさいよって(下に)言っていくわけです。そういうような連携も必要になってくるわけです。それは現在でもやっているものと思います。自然排水の常識というか……理屈的にはそういうようなことになるわけですね。」
・水をわけるときに水路の使い方とかいったルールはありますか?
「ルールというものは……まあ大体水路を開けるときにはヒカンをまわして手で上げるものや機械で上げるもの、動力であげるやつなどいろいろあって場所によって違うわけです。
それはさっき言ったような連携をとりながら上げます。」
・水争いはなかったのですか?
「昔はあったでしょうね。逆に今度は旱魅の時点では水がないから堤の水……山の方にダムが……まあダムといってもそう大げさなものではないですけど……ダムの小さなやつが白石町とか山の方にあるわけです。そのなかで土地改良組合というのが結成されてその中に組合があって加入して水をもらう権利というのがあるわけです。それを土地改良区の中で今は旱魅時だから水が必要だからということで会議があるんです。そしてその会議の中で福富町は何月何日の何時から何時までの予定でダムからの排水をしようかというようなことで水を流すわけです。それでその地区で今日は○○地区でやろうか、今日は××地区でやろうかというようなことで水の管理をしている。そして植え付けなんかに間に合わせる。」
・平成6年に水不足になりましたよね?
「こっちはおかげさまで水がどうしても足らんやったという記憶はないですね。」
・こちらは断水にはならなかったのですか?
「水道水になると福富町は、田んぼの用水は地下水に頼ってましたけど、その地下水そのものは飲料水なんかにあんまりいい水はでないわけです。福富町も私が役場にお世話になっていたときも簡易水道っていうものがあって、福富町は福富町独白で地下水を掘ってそれを利用しようやないかというようなことでありましたけれども、なかなか良い水が出なくてですね、何年かその水を飲んでおりましたけれどもおいしくなくて評判があんまりよくなくて、それでその後水道企業団というのができて……。ご存じですか? 福富町・芦刈町・久保田・牛津など6町でつくっています。そしてこっちの方……白石町とか有明町っていうのは地下水で補っておりますけれども、福富町の方は水道水は6町で、久保田の方にニシザカ水道企業団という企業団がありまして、嘉瀬川の水をもらっているわけです。今現在は。」
・台風とか旱魅の予防のための神事はありましたか?
「雨乞いとかですか? それはなかったですね。ただ雨乞いっちゅうことじゃなくて、さっきも言ったように昔は地下水で灌漑用水とかなんとかしておりましたので、今公民館の横の方に記念碑がありますけれども、ミズマツイシっていうのが……感謝祭ですかね。ありがとうございましたっていうようなのがありますね。雨乞いとはちょっと違いますけど。お供え物をしたりとかいうようなものです。」
・今もそれはやっているのですか?
「今も一年に―回してるでしょ。それはいわゆる地下水を汲み上げてありがとうございましたっていう感謝の気持ちと思いますけれどもね。それは関係者の中でやっていますよ。」
・田んぼの中にはどんな生き物がいるのですか?
「今はイトミミズなんかは多いですね。」
・昔とはかわりましたか?
「今は農薬なんかをできるだけ使わないようにしているからだいぶ出てきましたね。オタマジャクシなんかが。それから川にはメダカもいると思いますよ。」
・一時期よりは農薬を使わないようにしているということですか?
「努めて使わないようにしております。それから家庭排水が流れないような形で……いくらかはありますけれども。昔の水になりました。ただその、これは平坦地域の田んぼの百姓さんは誰でも困っていることと思いますけれども、福富町それから福岡の方でも多少あるかと思いますが、ジャンボタニシの被害がある程度あるわけですよ。水稲に被害というのが。今から先ということになりますけれども、赤い卵がちょこちょこついてるっていうのがあるわけですね。それがジャンボタニシの子供ですもんね。ジャンボタニシの対策として、水路にスッポンを流すんです。スッポンがジャンボタニシの子供を食うてくれるということで、今この辺でもスッポンがおります。白石町の方は前からでしたからもうだいぶ大きくなってます。福富町もスッポンの放し飼いを今年からして、ジャンボタニシを退治してくれるのを待ってるんです。」
・ジャンボタニシというのは最近に限られた問題なのですか?
「もうだいぶ前からですね。」
・農薬を一番使っていたのはいつごろですか?
「さあ、俺は百姓じやないから。」
(奥さん)前は家に油断してたら夏なんかね、ああ大変大変! って言って窓閉めよったね。今はヘリコプターとかなんとかそういうのがありますけど、もとは機械で粉を撒いていてね。虫の駆除のために。」
「最盛期って言ったらここ何年ぐらい前ってとこですね。とにかく、その水稲にしても玉ネギにしても園芸作物にしても、ちょっと駆除をせんと商品にならんからですね。」
(奥さん)「そして、一軒しただけでもダメでしょ。全部の家がしないと何にもならないから。それで大変やったんだと思う。」
「だからその、昔はですね、私は産業課にもおりましたけれども、その時点では一斉防除といってね、ヘリコプターの防除があるわけですね。ヘリコプターで一斉に防除するわけですよ。地区地区をずっと。その時代にヘリコプターでずっと一斉駆除は何年かしましたよ。それはもちろんJA(農協)も一緒になって。」
・農薬をやめようという方針はどこから出てきたのですか?
「それはやっぱり世論じやないですかね。世論、それからそのこいじや人間の体に害をするっていうことで全国的なアレじゃないですかね。」
・田んぼは共同作業でやっていたのですか?
「防除なんかは共同作業が多いですよ。今、共同作業っちゆうたら田植えぐらいなもんじやないですかね。その、田植えも機械を共同で購入して、それで今はほとんどもうこの付近は手植えっていうのは全然ないですから。機械は機械でも、まだ山付近は田植えにしても歩行で植えてますけれども、こっちはもう全部乗用ですから。極端に言うたらその、カーブを描いて田植えもできますから。そして田植え始まってもすぐ済む。」
・昔は田植えにどのくらいの時間をかけていたんですか?
「昔の田植えっちゅうたら一週間二週間はかかったですね。」
・田植え歌なんかはあったのですか?
「そりやあせん。だからその、昔の農業のあり方と比べたら、その労力的にはちょっと比較にならんでしょうね。」
・米以外に麦などは植えたりするのですか?
「麦も植えます。」
・同じ田んぼでやるのですか?
「ええ。」
(奥さん)「玉ネギは盛んですよ。」
「玉ネギ作るか麦作るかですけどね。裏作になります。表作は全部水稲だから。」
・さっき田んぼを見たときに一角だけ背の商い稲がありましたが……。
「それは一番早いタナコシ……七タコシヒカリっちゅうのを植えてる。」
・やっぱりこの辺の人は農家の方が多いのですか?
「(家が)点々としたところの人はほとんど農業ですけども、ただ私たちの……普通山野町仲間といいますけれども、山野町仲間の中でも後継者がいわゆる後継者として農業に専門にやっているっつうところはあんまりないですね。」
・他に仕事を持ちながらということですか?
「仕事を持ちながら土曜日曜だけということ。果たしてその人が後継者として農業を継いで行くかというのはちょっと今のところクエスチョンじゃないでしょうかね。なかなか私の仲間が現役の頃もその後継者問題で頭を悩ませたことがありますけれども。だからその、今後の農業がどのような形になるかはなかなか……。米も安いわけでしょ。だからその、水稲だけで百姓をやっていけるかっていうのが、これはもちろん問題です。(窓の外を指差して)あのハウスもイチゴですもんね。だからその、園芸で表作の水稲と、それから水稲だけでは食っていけないということで、イチゴとかそれからアスパラガス、それから花卉栽培ですね。花でもいろいろあるわけです。菊とかスイートピーも。トルコキキョウとかヒマワリとか……小さなやつね。そういうふうなものをハウスでして、農業をつないでいくっていうようなことはあるみたいですね。なかなか今からの農業っていうのは難しい。」
・この近くに米作り名人というような人はいるのですか?
「福富町には何人か特農家というのがいますけれども……。」
・その方々の家は昔から米作りが上手だったのですか?
「まあ、農業の専門知識を入れながらしてきたというような方は何人かいますけれども。ちょっと分かんないかな。どこでも今は似たり寄ったりじゃないですかね。昔は技術的なもので優れていたので、たとえば米であったら特農家やったら10俵とるのにふつうの人やったら8俵ぐらいしかとりきらんとかなんとか、そういうような少し技術的に抜き出た人がちょっと人より余計収穫を得たということは、前はありましたけど。今はもうそんなことはないでしょうね。」
(奥さん)「先祖の田を守っていかんばっていう使命感だけでしよんしゃあけんね。この人の年代の人たちは。あとの人たちは知りませんけどね。」
「経験上申し上げますけれども、建設課長をしている時分に、道路開発とかで土地の回収をする時点でその土地を購入しなくちゃならないわけですね。つまり田んぼを購入する時点で説明会をする中でですよ、今の人の考え方と昔の人の考え方との相違ですけれども、
『あなたはなんてことを言ってるのか』って……こっちの言葉で『お前なんちゅうことを言いよるか。この田んぼは昔の先祖代々から受け継いだ田ん中だと。簡単に先祖の田ん中を買収するとか何とか俺はそげなことは考えられん。だから買収には応じきれない』っていうことがあるわけですよ。そういうようなことを言われた場合に私たちは当事者として何とも言えないわけです。だからその、考え方の相違っていうのもいろいろあるわけです。『昔の先祖代々からの田んを粗末にでくっか。』ということでしょ。私たちは立場上、この道路を広くしてよりよく通行のできるような便利な道路にしたいと思っていうわけですけど、向こうはそういうようなことじゃない。そういうようなこともいろいろ経験してきたんです。そやけん、今道路が良くなり水路が良くなり交通の便っていうのはだいぶ良くなってきてるわけです。でもその影にはそういうような苦労っちゅうのがあってるわけです。泣いてる人っていうのもだいぶいるわけです。逆に儲かった人もおりますけれども。だからその、町がよくなるためには『おお、ようなったのう。』っていうのとその逆に泣いてる人もおるし、いろいろあるわけですね。立場に立った人はいろいろな苦労があったと思います。で、最初に申し上げましたように、私が行政相談委員っていうのをしたのも、そういう経験を踏まえた形で町長がそこ(お宅の近所)におりますけれども、町長とも懇意にしてますので、『あんたしてくれんか』と言われてしましたけれどもね。だからいろいろあるわけですよ。農業にしても何にしても、そういうようなことはあると思います。あなたたちも今後社会に出て……まあ女性の方はそがんことはないと思いますけれども、いろいろ裏の苦労はあると思いますよ。ましてこんな世知辛い世の中では特にあるでしょうね。今から先は手に職を持って自立するような形でいかんとなかなか……われわれの時代とは違うからですね。」
○昔の生活について
・小さい頃の遊びを教えてください。
「遊びね……われわれの小さいころって言ったら、今は何て言うのかな……昔はペチャペチャって言ってた。丸いやつの上のほうに漫画かなんかが書いてあって、それをこっちからたたいて裏返しにする……メンコ、メンコ。メンコとかコマとか。それからラムネのビー球の当てっことかですね。水路で魚釣りとか。」
(奥さん)「私は地域が違うから……やっぱり地域によっても遊び方がだいぶ違うから。男の子なんかは木登りをしよんしやったごたるよ。」
・水路での魚釣りはどんな魚が釣れたのですか?
「このあたりじゃフナですね。」
・釣った魚はどうしていたのですか?
「食べましたよ。釣りの中でウナギ釣りなんかは、干拓の方でため池に夜釣りに行きよった。それは大きくなってばってん。」
・お菓子はどんなものがあったのですか?
「干し柿とか食べてますよ。食べ物はかわらんのやないかな。」
・昔の暖房器具は?
(奥さん)「私が来たとき火鉢だったじゃない。」
「火鉢とかコタツとかですね。それから着るものとしては丹前っていうんですかね。綿入れ半纏。」
・夏の暑さ対策は?
(奥さん)「団扇じゃないの?」
・福富町のお祭りはあるのですか?
「そこに福富神社というのがあって、7月22日にあるかな。それからこの干拓に関係ありますけれども、(地図を見ながら)この付近に潮止観音さんっていうのがあって、8月かな? 潮止観音っていうのはいわゆる、潮が止まったときの記念碑ですよ。潮止観音さんっていうのはいろいろある。大体このお祭りが大きなお祭りです。」
・福富神社のお祭りが7月22目にあるというのは何か由来があるのですか?
「いわれっていうのはなんだろうなあ……?それはわからんですね。とにかく(潮止観音の)ずっと記念碑がついとうですね。記念碑っちゅうのは潮が止まったときのもので。」
・昔は病気になったときはどこで見てもらっていたのですか?
「病院でしょうね。病院はすぐそこに……今はもうないですけど……。あったんですよ。」
・薬売りは来ていましたか?
「あったかな。今も配置薬はあったごたるね。今度7月に農協からですけれども農協の生活改善の相談員さんが見えて、75歳以上の方を対象に健康教室を開きたいからということで、配置薬を置く人が来てそしてその方々が健康教室を開くということなので、押し売りはいけないよって念を押したんですけど。そういうことじゃなくして薬屋さんが今現在も配置薬というのをしてるんじゃないでしょうかね。」
・魚売りとか行商は来ていましたか?
「こっちからは行ってなかったですけれども、私が知ってる範囲では終戦後に長崎方面から魚屋さんが行商に来て、長崎の市場から魚を受けて汽車で来て、このくらいのトタンの金の箱をかついで来よったですね。それはもう新鮮そのものですね。行商はこの付近にも来よったですね。」
・ネズミの被害はありましたか?
「ネズミはしょっちゅういたんやないですかね。対策はしようもない。今でもおるなあ。」
(奥さん)「昔の家が作りがそがんやったけん……」
「家自体がわらぶきでひょろひょろひょろんでしょうが。風もさっさ通るし、どっからでも入ってこれるし。床の下も全部壊しとったですね。昔はどこでもおったんやないですか。ネズミもおるし、ネコもおるし、ヘビもおるし。」
・家で牛や馬を飼っていましたか?
「いえ、家では何も飼っていないです。この付近では農業に使ってますね。ほとんどの家は百姓さんは牛は飼っていたですね。今はないですけど。今は機械ですけど、昔は全部農耕場で牛ですからね。うちも百姓を2反ぐらい持っていましたから、雇って牛でしたことはあります。それは戦後何年かしてからかな。」
・牛の餌はどちらから持ってきたのですか?
「昔は歩道なんかないから、草がどこにもあったからですね。今現在からはちょっと想像つかないですね。」
・家で鶏なんかも飼っていましたか?
「鶏は家に一羽か二羽はいましたけれども。趣味でね。食べるためとかそんなので。盆正月に食うためのとかいうのはどこにでもあったんじゃないですかね。」
(奥さん)「何羽か飼ってね、お正月になったらつぶしよったね。」
「まあ、正月のごちそうのためにとかいうのはありますね。それはどこでもあったと思い
ますよ。」
・こちらにはお正月の時などに食べる特別な食事とかはありますか?
「特別の食事っちゅうのはないですね。普通どこの家庭でも同じじゃないですかね。盆正月っていうのは。」
(奥さん)「この辺は違うかもしれんけど、昔は正月には学校に年が明けてから行きよったですね。」
「昔は正月は役場も同じですけど、1月1目は寄って新年の挨拶をして、そして一杯飲んで帰っとったですね。」
○戦争時について
・戦時中はおいくつだったんですか?
「俺は戦争は兵隊としては行ってない。ちょうど終戦の年ぐらいに高校に入るか入らんかの時。長崎の原爆は家におったから。」
・原爆の被害がここまであったのですか?
「いや、うちはないです。」
・工場に動員されたりもしていないのですか?
「いや、それはないです。私は戦争経験は全然ないです。」
・町に戦争の影響はありましたか?
「それはないです。爆弾が落とされたりしたこともないです。ただ防空壕には空襲警報がありましたので入ったことはありますけれども。ただ私の経験っちゆうのは、遊んどって昔はこっちの川で泳ぎよったからですね、そのときにB29が来て、橋の下にかごんで機銃掃射っていって空玉を飛ばすわけですね。そういうようなことはありました。ただ福富町で空襲警報で怪我したとかなんとかっていうのは聞いたことがない。」
・疎開の受け入れはしていたのですか?
「疎開まではなかった。」
(奥さん)「私の出身のところ(白石町)は来ていらっしゃいましたよ。学年が多くなりましたもん。」
・その疎開してきた人たちの出身はどこですか?
(奥さん)「いろいろおんしゃったよ。親戚なんか頼ってね、子供づれで来よんしやった。人口が増えました。学年のクラスがまだ私たちは低学年やったから。」
「ただ、戦後物資がなか時には佐世保に行ったんかな。買出しにというよりかは干拓のなかでウリとかコショウとかヤミ米なんかを持ってヤミ市に行ったことはありますね。親と一緒に。それから干拓の方でサツマイモを作っていたのでサツマイモもあったですよ。」
・戦後の食糧難は天変だったのですか?
「うん。まあまあね。」
・でも、こちらでは売りに行けるほど食料があったということですよね?
「うん。ここは米どころだから。まあ、食糧難っていっても普通の食糧難と追ってテレビなんかで言うようなのではなかったですね。だからタバコなんかは未成年の頃はトウモロコシの毛を干して作ったり、マンジュウの木の葉っぱっていってそれを乾燥させて葉巻にして吸ったことはあります。それからヤミ酒。酒も密造したりして。自分で飲むだけってんね。そんなことはやっぱどこでもありよったですね。」
・食糧難で犬をつかまえて食べたりしたことは?
「一回だけあったね。役場に勤める前に土方に行きよって、昔は赤犬っていって赤い犬がうまかばいということで、評判のあったんですよ。それで食べよっかっつって一回だけ食うたことあったですけど。うまかっていうような味はせんやった。昔はやっぱりそんなこともやりよったですね。」
・犬はすぐ捕まえられるものなのですか?
「そのときはどういうような形で捕まえたかわからんですけどね。」
○子どもについて
・学校までの距離はどのくらいでしたか?
「(地図を見て)この福富中学校はずっとあります。小学校はここですね。」
・遠いところから来る子供はどうしていたのですか?
「昔は遠いところっていっても、干拓がないからせいぜい昭和ガラミ付近からだから。福富町は割りと近いですね。小中学校までは。
(奥さん)「高校になったらね、またあんまり自転車もないから歩いて行ったりしよったとやろうね。」
「ただ、福富町はそういうふうですけれども、白石町の方は干拓っていうのがまたありますから、干拓から小中学校に行くっていうのはなかなか遠いものですから。今現在もヘルメットかぶって自転車通学ですね。小学生が。」
・その子途のために干拓の近くに小学校を作ることはしないのですか?
「町が違いますからね……。もとは干拓の分校とかあったかもしれんね。ただそういうようなことは今からの考え方では、今は合併合併って言ってるでしょ。ま、福富町も6町合併の話があるわけですね。だからそういうような合併の話がある中で、学校なんかも統合なんかいろいろ話があります。今後はそういうようなことはないと思いますよ。」
○現在の福富町について
・このあたりには合併されてなくなってしまった町の名前はありますか?
「福富町は福富村から福富町になって、白石町が何村か合併しとるんですよね。須古(スコ)村・錦江(ニシキエ)村なんか。福富町は福富萬平さんが設立しとる。」
・6町合併がもし現実のものとなったら名前はどうなるのですか?
「それはまだアンケート調査中でまだまだ。ただ、佐賀県キシマ郡白石町・福富町というのがずっとありますので、キシマ市にするかどうかというアンケート調査が今ありようですね。キシマ市っちゅうのが一番多かったと書いてありますので、それが今後どういうふうになるもんかですね。それはまだわかりません。」
・福富小、中学校も少子化ですか?
「少子化ですね。昔よりも'少ない。」
(奥さん)「今中学校に校区がないでしょ。中学からよその学校に行ったりなんかするからね。このあたりにも中学校から行っている人が何人かいますよ。中高一貢教育でしょ。」
○通称の地名について
・地名に関して、地元の人だけが使う呼び名はありますか?
「そこの福富川から南の方がコウヤクっちゆうんですよ。向こうのコウヤクの人のことはこっちでいうたらアゲって言ってましたね。なんでアゲっていうのかはわからんですけど。それで向こうの人はこっちの付近をマチっていうわけですね。昔はだいぶにぎやかだったですからね。うちも前は県道端の停留所の方に家がありましたけれども。わたしたちが小さいころには福富川のあたりを五件堀って呼んでました。」
・小さい集落ごとに名前があったのですか?
(奥さん)「区でもね、ここは上区っていうでしょ。そのうちでシュウジがずっと……何シュウジあるかな? 6シュウジ。」
「今、いろいろ言葉遣いで集落とかなんとか言ったらさしさわりが出てきたりすっけん、
なかなかその付近は言われんけれども、この辺の上区の中で集落っちゅうのは、この家の付近がニシシュウジ(コウジ)、それからそっち福富神社っていうのが俗に言う明神さんちゅうわけだからそこの付近が明神部落っていいます。それからもうちょっと北のほうがサラムラっていうわけです。それからもうちょっとこっちの方がヒガシシュウジ(コウジ)ですね。それから向こうの方が……さっき言ったアゲアゲっていうのが……福富川から南の方が香焼、もうちょっと先の方が南香焼っていう。
・香焼、という名前の由来はなんですか?
「さあ……、でも大体こうやって本を見よったら、人の名前が多かですもんね。集落の代表者とかなんとかですね。たとえばですよ、これを見よっても人の名前が多かでしょ。」
○お寺・神社について
・こちらにはお寺や神社が多いですね。
「お寺さんはですね、大きなお寺が四つあります。萬福寺やろ、大興寺に大福寺にホウカ
イ寺。」
・お寺はずっとあったのですか?
「大体昔からあったですよ。」
(奥さん)「宗派の違うったいね。禅宗とか真宗とかあるでしょ。」
「それから神社も三つある。福富神社やろ、竜神社……竜神社っつうのは私も見たことがありますけど、ニシキヘビの大きなやつの抜け殼がありますよ。5メートルぐらいあらっしゃあかな。それが二つあるかな。それは宮司さんの親類の方が持ってきんしやったようですよ。それから金毘羅さん。」
・福富神社は何を祭ってあるのですか?
「福富神社はね、スサノオノミコトとかなんとかが祭ってあると思いますよ。」
(奥さん)「そういえば何百年祭かなんかがあったね。踊ったりなんかしたもん。」
・こちらの家には屋号がついているのですか?
「商売しよらんけん、屋号はない。」
<福富町について>
(ちらはインタビューからではなく、自分たちで福富町をまわって集めた事柄です。)
○福富神社
永禄3年(1560年)に上野讃岐中福富萬平が干潟を開拓して新地を開き、干拓事業が盛んになって新地が美田化し、住民も増えてきた。しかし、新地は常に自然の猛威に脅かされ、人の力のみにてはどうにもできず、神化のお加護がなければ安心して生活できなかった。
元禄10年(1697年)9月に村頭の東馬源助氏が村民とともに造化の神と崇められる伊邪那岐・伊邪那美二柱の大神を主催神とする、明神社を創建し新地の安全五穀豊穣を祈請した。その後、中区海神宮・下区天神社を合わせて社号も福富神社と改めた。平成九年に300年大祭が行われた。
○大弘寺
元禄11年(1699年)に高伝寺九世天国泰薫大和尚を勧請し、甘露庵と称して開創した。日露戦争・太平洋戦争で命を落とした軍人の墓も多くある。
○福富村の特産品
米・福富れんこん・玉ネギ・イチゴ・アスパラガス・佐賀牛・海苔・ワラスボ
<感想>
以前は役場で働かれていたということで、そういったお仕事ならではのお話しが聞けたことがとてもためになりました。やはり現在の便利な暮らしが成立する裏には、たくさんの苦労があったようです。自分たちの住んでいる地域でもきっとそのような背景があったのだろうと考えると、背筋の伸びる思いがします。
最後になりましたが、お忙しい時間を割いてお話くださった田島義夫さん・奥さん、本当にどうもありがとうございました。