福富町北区 2003628

 担当者

 中江貴志

 中山琢己

 

 

 十時五十分、バスから降りると厚い曇り空、小雨が降っていた。あたりは一面の水田だ。点々と農業に携わっているであろう趣の民家が立っている。見知らぬ土地に、ぽつんと取り残されたわれわれ二人は不安になった。訪問を約束してある吉丸平さんのお宅は果たして見つかるのだろうか。

 ちょうどすぐそばの水田に、腰をかがめ稲を植えている女性がいた。田舎では近所との付き合いも密接なものがあるという。従って、多少家々の間に距離はあっても、この地域のことなら知っているかもしれない。そう思い、その女性に尋ねてみる。

「すみません。吉丸平さんのお宅はどちらでしょうか」

ふと顔を上げた女性は、すっと指差し、

「そこ」

なんと道を挟んだ向こう側に吉丸さん宅はあった。ちょっぴり拍子抜けしてしまう。

このようなわけで、家を探すための時間もかからず、約束よりかなり早くにお宅を訪ねることになったのだった。

 

 雨に濡れたあぜ道を通り、近づいていくと、ひとりの老人が、トラックから重そうな砂利をスコップで、次々に下ろしてるところだった。長年鍛えられてきたと思われる、たくましい筋肉である。彼が吉丸平さんだった。後に聞いた話によると、その筋肉はむろん、長年の百姓としての仕事によるものもあるが、ほかに昔、炭鉱から六角川を下って石炭を運んでいた際、働いていたためでもあるという。

 時間もかまわないというので、家に上がらせてもらう。平さんは上半身裸に上着を羽織った姿だった。

 

 

 話者

 

 吉丸平さん   昭和四年生まれ 七十四歳

 吉丸トミ子さん 昭和九年生まれ 六十八歳

 

 以下、二人とのやりとりのうちに分かったことを、《農業》《干拓地》《地名》《生活》に分け、整理して述べる。

 

 《農業》 

 

「親、明治の人たちは苦労しとった」。農業の苦労を知る二人がしみじみと言うように、土地改良前は土地のいびつな形のため機械が入らず、大変だったらしい。しかし、やがて大正時代に行われた用排水路を主体とした水田整備、さらに昭和三十年代の土地改良、最近では平成三年の土地改良によって、そのような曖昧な形をした土地は、個人個人のものとしてきれいな四角になった。この土地改良によって機械が使えるようになり、収穫量も大幅に増えることになる。以下の《地名》に述べるような、土地の名前の変化もこの際に生じた。

 当時は肥料としては、油粕、だいずかすや魚粉を干したものや、人糞も「桶にいのうて、水に溶か」すことで用いていた。これはいい栄養になった。現在では化学肥料が導入されている。

 この土地改良と化学肥料の導入という二つの出来事の影響は非常に大きく、昔は一反あたり五俵程度の収穫だったのが、現在では八俵はとれるようになっている。昭和四十二年には福富町は米作で日本一になった。その時には、一反あたり十俵半もとれた。この北区では昭和五十九年に農林水産賞をもらっている。

 以前は、堤防が「やわく」、塩が入ったり、水の通りがいまひとつのときには駄目な田になったが、現在の田はみんな一等田だと平さんは言う。

 三度行われた土地改良や、化学肥料の導入、機械化に対しては、二人はとてもいい印象を持っていた。とにかく、農業の苦労をなくしてくれる進歩にたいしての現場の人間の反応としては当然ではある。自分たちの昔には、田植え歌を歌うこともなかったという。明治生まれの人々、父の代には太鼓を叩くことで行っていたという雨乞いも、それらの結果の降雨は夕立に過ぎない、と一蹴する。自分たちは朝の六時から暗くなるまで、とにかくもくもくと働き続けた。雨の日は蓑傘をつけていた。これは濡れるのは防げるが、水を吸って重たくなるので午後からは着ることができなくなるほどのものだった。

 淡々と語られる、これらの話からは、事前にビデオで見ていたような「文化的な雰囲気」はなく、極めて現実的な労働の苦労が感じられたのだった。

 

 当時の稲作に関して、事前に用意した質問に基づき、二人に思い出してもらったことをさらに記しておく。

 ウンカを始めとする害虫の駆除には菜種油を使っていた。

 田への水はたいてい井戸から来ていたが、地盤沈下するので、今は北山ダムや、朝日ダムから来ている。昔、水争いはあった。旱魃の際の記憶としては、各々の農家には自分専用のため池があり、そこから水車(みずぐるま)を用いて、水を入れたことがある。水車(みずぐるま)とは足で踏む水車のことだ。子どもの頃には「いなまくら」というのをしていた。これは、稲が実った際、あぜ道から四本程度稲を刈り、まだ実っていない穂にかけることで汚れを防いだ。

 ネズミに関しては、その言葉を聞いた瞬間、待ってましたとばかりに、二人の口から次々に、その悪行が語られた。

 ネズミは本当に何でも食べた。米はともかく、押入れにも入ってきて食い散らす悪さをした。これを防ぐためには、米を収納するのにブリキの箱を用い、土間に置いておいた。これにはさすがのネズミは入ってこれなかった。他に米の収納には「まきどおらあ」というのがあった。耳慣れない発音が面白く、外国語ですか? と問うと、首をかしげながらも「日本語じゃろうねえ」。この「まきどおらあ」するとはわらを長くして編み、中にもみを殻付きのまま入れていたものだという。精米には碾き臼を使っていた。

 現在では冷凍庫の保存箱がある。農協が貯蔵している。

 減反があってからは、花やメロン、イチゴなどをハウスで作ることが増えた。

 いらない水を流す仕切りを戸立という。サルシガランの戸立というのがある。今は樋門(ひもん)という。

 

 

 

 《地名》

 

 テーブルの上に福富町北区の五千分の一の地図を広げ、「佐賀県干拓史」資料を基に、対応する地域を教えてもらった。まずは、現在地の確認を行ったが手持ちの資料がやや古かったせいもあり、目印の橋が見あたらなかったので時間を要した。

 吉丸さん夫妻から「ガラン(搦)つき」の地名がいろいろ出てきたが、その多くは、具体的な場所までははっきり定まらなかった。以下は話をまとめたものである。北区の大まかな四つの区分および、サンネンガラン、ニシャンベエガランの位置は地図に記入してある。

 北区はムラガラン(村搦)、キタンガラン(北搦)、ジュウサン(ジュウサン)、オトナガラン(老搦)に分かれる。さらにキタンガランには、平さんの記憶によると、資料中にある名前としては、ホッキョクガラン(北極搦)、スエキチガラン(清吉搦)、ロクベエガラン(六兵衛搦)、サルシガラン(佐留志搦)、ニシャンベエガラン(西半兵衛搦)、ムラガラン(村搦)があったという。これらの場所までは覚えていない。また、トミ子さんによると、子どものころ「サンネンガラン」と聞いた(おそらく、明治大正時代そうであった)場所は今では「ジュウサン(十三)」と呼ばれている。

 年齢としては昭和初期生まれぐらいでないと「搦」は分からないという。「搦」が何なのかははっきりしないが、例えば「ガランさんおりよう」などという表現を用いるように、「田」のことを表していた。

 昭和三十年代の土地改良の際に、「搦」のつくような旧来の地名は変わってしまった。それらの旧名は干拓した人の名前であったが、現在では地区の名前になっている。かつての区分は小さかった。

 田の中に点在する住宅は昔からの農家が多く、密集したあたりは他から来た「よそもん」が多い。

 そこで毎日の生活を送っている地元の人は昔の地名にはあまりこだわっていないようだった。聞き取りとしても生気を欠いたものに思われ、早々と切り上げてしまった。

 

 

 

 

《干拓地》

 

 干拓の名前もガランという。

 干拓をつくるときには、ソダといって山の雑草や枝を敷くことから始める。そして、「くいのごたあとうって、ふとか石捨てて、ずっと重ねて」いく。平さんもこれは「したことあるばい」という。

 海にはムツゴロウやワラスボ、アゲマキがいた。川にはカニがいた。

 現在では電気式のポンプによって満潮でもかまわず水位を調節できる。整備が行われてから、六号ひもんができた。

 

 

 《生活》

 

 現在は小学校はわらぶきから、きれいな三階建てになっている。福富マイランドという娯楽場もできた。ここでは町民一斉の催しが行われている。しかし、農業をせず、都会に出て行く若者も多く、少子化の影響もあり、人口は減っている。現在では七千人程度である。トミ子さんが娘の頃には小学校は四クラスであったが、現在では二クラスしかない。

 家畜は鶏とヤギだけだった。豚とか牛を飼っている家はあった。牛には鋤をはめて使っていた。掛け声は「トオトオ」。「行け」という時には「ケッシ」「トオ」。手綱で右左を打ち、動かした。

 水は井戸水があった。子どもくらいまでは井戸があり、汲んでいた。これは終戦あたりまでそうだった。水を汲むのを「きっちょんきっちょん」する、という。親に風呂の水を汲んでおけといわれ、大変だった記憶がある。

「たきもん」は「ふうふうするやつ」だった。石炭は米と交換していたくらい高いので、川から流れてくる材木などを乾かし、燃料としていた。やがてガスになり灯油になっていった。

 水道整備は昭和五十年くらいに行われた。それまではモーターで汲む井戸だった。「昔と違ってよおなった」しみじみとトミ子さんは言う。「電気は生まれたときからきとった」。昭和三十二、三からテレビはあった。ない家の人はある家の人の家に行き、見せてもらっていた。プロレスなどを見た。

 水道とガスはどちらが早く整備されたか、二人が話し合うがはっきりしなかった。

 よばいはあまり聞かなかった。他所の村から青年は来ていたが、排除はなかった。「おきまいり」、沖ノ島参りに、夜の十二時くらいから行っていた。そこは女の入る場所ではないといわれていた。恋愛も今とそんなに変わりはないと思う。

 戦争で食糧難の時期には、かぼちゃやだいずをご飯に混ぜ、またいもを食べていた。国が米を出せ、不作であっても全部だせと要求し非常に苦しかった。

 今は米と玉ねぎを作っている。施設園芸のハウスで、いちご、メロンなどを作るが増えている。変わってきている。

 買い物は車で行く。食材は農協から取り寄せている。昔は行商してきていた。その人が来ないときは何も手に入らなかった。魚だけでなく、山のものなどいろいろあった。かわくじらを買って、貯蔵していた。たまねぎ、ジャガイモなどと一緒に食べていた。

 

 食事後、一時ごろからトミ子さんとのんびりと話をした。

 田舎のいいところは近所づきあいだ。隣近所で仲がいいのでみんなすぐに分かる。不便なところはたくさんあるにせよ、「都会には住みきらん。」

 

 最後に、今の自分たちは、そんなに昔のことは知らないというので、厚く内容も充実した『福富町誌 続編』から、小学校でも習うという「福富ふるさと音頭」を教えてくれた。

 

 福富ふるさと音頭

 

  江口春雄 作詞

  福富町民謡クラブ 補作詞

  甲斐 博光 作曲

 

 

 

 

(アヨイショ)

 

一、ハァー 波がどんとくりゃ どこまでゆれる

  命がけだよ 村づくり ソレ

  がんが めしたく 稲穂にゃ 夕日

  伸びる干拓 海のはて ヨイショ 海のはて

 

二、ハァー 山は遠山 潮風 うけて

  やれさ福富 米どころ ソレ

  蓮のまろ葉に つゆ玉 のせて

  ゆれてかたむく この心 ヨイショ この心

 

(アヨイショ)

 

三、ハァー 蓮根玉ねぎ 里の幸

  むつごろう あげまき 海の幸 ソレ

  故郷しあわせ しのばせて

  遠い異国もいとやせぬ ヨイショ いとやせぬ

 

四、ハァー 福富萬平さん 忘れて なろうか

  村を拓いた 親じゃ者 ソレ

  功績たたえて 里心

  今じゃわが町福の町 ヨイショ 富の町

 

 ここに出てくる福富萬平という人物については、同じく福富町誌に記述がある。

 

 一五六〇年 福富萬平、当地に来り、須古城偵察を兼ね、開拓。

 一五七三年 福富村城主福富萬平の名現われる。(鎮西誌 北肥戦記)

 一五八四年 佐賀にひきあげる

 

 

 昼には食事をいただいた。自分の畑でとれたという、生姜の酢漬けや、うりの粕漬け、アスパラガスは、素朴で、しかし深い味わいがあった。

 

「自分が若いほうについていかなどがんしょうもなか(平さん)」。町で暮らしている自分の祖父母と比べてもこの若々しさは意外なほどだった。自分で毎日百姓の仕事をし、動いているところから、その若さは生まれるという。現役の農家で働いている二人には、どこか、広い意味で同世代的な感覚を持っているように思われた。事前に古い世代の人に対し予期していたものは、もう一世代前の人々にあってそうだったのかもしれない。

 年をとって言えるのは、健康で、体を動かすことの大切さ。人付き合いの大切さ、だという。生きがいを持つために「なんでん参加しよう」。学生が来たのは初めてで、今の学生を見ると時代が変わったことを感じる。昔の若者は働きさえすればよかった。「学校に何するんに行くんじゃい。そがん時代じゃった」。しかし、二人は否定的にこの時代に距離を感じているのではなく、受け入れようという姿勢があった。子どもの学校での部活にしても、以前は夜の「九時でも十時でもなんもいわん」かったのに、「今は恐ろしか」。自分の家庭の問題として捉えているのである。

 

 写真を撮りたいと申し出ると、少し照れくさそうに、しかし、新しくできた橋をバックに承知してくれた。

 五時間にわたって、我々の聞き取りに協力してくれた二人は、また遊びに来いと、何度も繰り返しながら、温かく送り出してくれた。

 周辺を歩いてみた。とにかく広々としていた。建物はそこに見えるというのに、それに対しては、歩いてもなかなか近づけない。普段は感じることのない距離感がそこにあった。