<調査者> 田中 剛志
野辺 大悟
<語り手> 橋本 勇夫さん (昭和2年生まれ) 地区110年の家にお住まい
重富 一徳さん (昭和9年生まれ)
<一日の行動記録>
8:45 出発
11:00
12:00 電話で調査依頼
13:00 聞き取り調査開始
16:00 聞き取り調査終了
19:00 六本松到着
<はじめに>
今回の調査では、前々から連絡をとってお話をしてくださる方が急に都合が悪くなり、当日現地で聞き取り調査をすることとなった。調査日が土曜日ということもあり、
<農業について>
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水
田んぼへの水はダムから引いているそうで、むかしは堀(クリーク)に水車や石油発動機を使用して揚水ポンプを配置して水を田んぼにくみあげていたそうだ。山に近い地域の地盤沈下を防ぐため30本ほどあった井戸の水はぜったいに田んぼに使うことはなかった。また、このあたりは湿田で水の量は潤滑だったためか水を分ける上で特別なルールのようなものはなく、雨乞いの必要性もあまりないようだった。
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台風予防の神事
(今年は)7月21日に行われるお祭りがそれにあたるそうだが、特に台風予防を意識しておこなっているわけではないようだ。
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作物
昔は米や小麦はだか麦をつくっていたが、今は収益性が高いたまねぎの産地となっている。
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稲の病気
害虫としては以前は二化螟虫・夏ウンカ・秋ウンカが発生し、病害は白葉枯病も発生していた。二化螟虫は苗代での採卵や石油ランプを使用した誘蛾灯や移植期の繰り下げを実施してたが、今は化学農薬の普及で二化螟虫は見られない。また白葉枯病は細菌性で水稲が大雨で冠水したときや台風後発生していたが、土地改良事業で排水設備が完備したため発生は殆ど見られない。夏ウンカ・秋ウンカの昔の駆除法は、軽油やなたね油の入った筒状の注油器を使用して水面に油を落とし藁ほうきや笹で稲をたたき虫を水面に落として駆除した。
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家畜
馬ではなく牛を使っていたそうで、鋤を引かせるときの掛け声は、「右へ」はドードー、「左へ」はケシケシ。はけを使って洗ってあげることもあり、えさの違いで毛のつやつや感が変わるそうだ。主にはだか麦とわらをこまかくして混ぜ、煮たもの。たまにビールを飲ませたりも‥‥。ゴッテ牛をおとなしくするには?という質問に重富さんは「たたく。なめられたらいかんば!(笑)」と冗談まじりにおっしゃってくださった。
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肥料
昔は大豆の油かす。いまは化学肥料を使ったりもする。
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生物
堀の中にはフナ・ナマズ・ウナギ・ドンポツ・ドジョウ・タニシがいた。現在はフナや鯉くらいしかいない。タニシが非常においしかったそうだ。
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全般
昔は共同作業(ゆい)をよくしていたが現在はほとんどない。草切場というものはないが葦切場がクリークの側にある。さなぼりでの思い出は「酒!ぼたもち!」と強調しておっしゃった。
<衣・食・住>
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おかし
かりんとう・干し柿など。干し柿は「ひとさげ」「ふたさげ」と数える。土地改良によって柿の木がなくなってしまった。
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野草
よもぎやせりが食べることができる。
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食料の保存
昔は米はわらで編んだ米どうら(米俵)にいれて10表くらい高床の米倉で保存。断熱材にぬか・もみがらを使用。ねずみ対策にねずみ返しやねずみとり。ねこいらずという殺鼠剤も。また、正月に約米2表を使ってもちをつき、水の入ったかめにつけておくと6月くらいまで保存可能だった。
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暖房
木炭。いろりはなかった。
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道
車社会になる前の村道は泥道や砂利道ばかりだった。
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行商人
平戸から魚やこんぶ。柳川からござ。天草からイモ。鹿島からいりこ。いずれも歩いてきていた。
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やんぼし
富山から来ていた。
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病気の時
人力車に乗って町医者がやってきた。
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米と麦の割合
10対1ぐらい。おし麦を使っていた。
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自給できる食べ物
白菜、大根、ほうれん草、にんじん、野菜はほとんど自給自足できていた。
<その他>
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青年クラブ
昔は青年クラブはあり、みんなでスポーツやボランティアをしていた。ボランティアは主に、自然災害で被害があった場所の復旧作業などをしていた。
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戦後の食糧難
農家でさえも満足に飯を食べることはできなかった。おなかがすいたら大根をかじっていたりした。犬を食べたことはないという。昔は家で鶏を飼っていて、時々その鶏を殺して食べていた。
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戦争の影響
上空に戦闘機が飛び交い、怯えながら生活していた。また、県の干拓技師が戦闘機に撃たれて殉職した。
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祭り
毎年10月19日に「おくんち」という祭りがある。感謝祭のようなもので、豊作に感謝し、踊りやたいこをたたいたりする。みんなで、甘酒を飲んだり、赤飯・おこわを炊く。また、8月25日には潮塞観音祭りもある。
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村の変化
砂利道だった道がアスファルトになったり、国道がとおったり様々な変化が見られた。これからは、もっと近代化が進むだろう。
<「搦」の読み方一覧表>
(話し手の呼び方のとおりに書いています。)
北極搦 |
キタノガラン |
朝日搦 |
アサヒガラン |
清吉搦 |
セイキチカラン |
東龍神搦 |
ヒガシリュウジン |
藤福搦 |
トウフクカラン |
押出搦 |
オシダシガラン |
勝右衛門搦 |
カチエモンカラン |
菊之助搦 |
キクノスケガラン |
久右衛門搦 |
キュウエモンカラン |
福吉搦 |
フクヨシガラン |
兵左衛門搦 |
ヒョウエモンカラン |
大正搦 |
タイショウガラン |
幸兵衛門搦 |
コウベモンカラン |
善右衛門搦 |
ゲンエモンガラン |
六兵衛搦 |
ロクベイカラン |
林源搦 |
リンゲンカラン |
安兵衛門搦 |
ヤスベイモンカラン |
林太郎搦 |
シンタロウガラン |
天神搦 |
テイジンガラン |
亀之助搦 |
カメノスケガラン |
外安右衛門搦 |
ソトヤスエモンカラン |
北龍神搦 |
キタリュウシン |
松右衛門搦 |
マツエモンカラン |
重箱搦 |
ジュウバコガラン |
甚兵衛搦 |
ジンベイガラン |
忠助搦 |
タダスケガラン |
佐留志搦 |
サルシカラン |
久兵衛門搦 |
キュウベイモン |
次兵衛門搦 |
ジベイモンカラン |
和助搦 |
ワスケガラン |
三左衛門搦 |
サンエモンカラン |
貞八搦 |
サダハチガラン |
西分堀下搦 |
ニシホンタガラン |
和平搦 |
ワヘイガラン |
八郎左衛門搦 |
ハチロウザエモン |
御経搦 |
オキョウガラン |
三右衛門搦 |
サンエモンガラン |
杢兵衛搦 |
モクベイガラン |
拾四本柳 |
ジュウヨンホンヤナギ |
その他 |
120個 |
「搦」は「カラン」ではなく、本当は「カラミ」と呼ぶそうだ。訛りで「ミ」が「ン」になっていた。また、「カラン」が「ガラン」になったりもした。
それぞれの「搦」には由来があり、たとえば、「松右衛門搦」は松右衛門という人が開拓した搦であり、また、「御経搦」はお寺の近くだったのでそのような名前がついたという。搦には人の名前が多くさまざまな人々が開拓に携わったことが伺える。
話によると搦とは、湿田地帯であったそれぞれの場所を防波堤のようなもので周りを囲みながら干拓をしていき、防波堤のようなもので仕切りができた一つ一つの場所を、それぞれ搦といって、干拓者の名前などがついている。
<感想>
今回このような調査に参加することになり、はじめはちょっと不安だった。いきなりの現地調査だったので、もう駄目かと思ったけれど、橋本さん夫妻と重富さんのご協力もあり、とてもスムーズで和やかな雰囲気で調査ができてよかった。このような過去のことを記録として残す作業はとても重要だと思う。その作業に参加できてよかったと思う。