佐賀県
橋口 宜明
中野 達成
横尾 亮佑
話しをしてくださった方
土井四郎(大正12年生まれ) 池上(大正10年生まれ)
6月28日土曜日、この日は雨で道路が混み、バスによ
る現地到達が遅れてしまった。バス
の中での服部教授の一言、「遅れたので先方には各自謝っておいて下さ
い」には多少驚いた。現地に到着したのは午前11時であった。
昼の12時頃訪問の約束を交わしていたのだが、実際、調査協力者の家
の正確な位置がつかめな
いまま当日に到ってしまい、バスをおりてから結構、右往左往した。土曜
日だったので、町の役場
は閉まっていてピンチだった。図書館でコピーした住宅地図を頼りに行動
していたが結局、近くの
ガソリンスタンドの親切な人たちに土井四郎さんの正確な家の場所を教え
てもらった。歩く道の途
中ではたまねぎを収穫した倉庫がたくさんあった。30分ぐらい歩いて、
やっと家に着くことがで
きた。私たちが到着したときには、すでに別のグループが土井さんを訪ね
ていた。というのは、私
たちは六府方区の担当で、
らったのだが、見つから
なかったので、仕方なく
ことにしたからである。
<
・ ・・室町幕府が倒れて織田信長・豊臣秀吉が政権を取ったころ。
川の上流の方面に干潟ができ、干潟に泥を盛り、潮を防いで綿などを
作り始めた。
その後、遠いところから仕事に通うよりもその場を生活の拠点とした
方がよいということで
人々が住み着き始めたの
福富萬平について
当時、殿様から依頼を受けて干拓を始めた。
島原の乱により主従がちりじりになったので家来であった福富萬平さ
んが長となり、村を作っ
たと思われるが、詳細は不明。
周辺から人々が住み着き始めた。各人の努力のおかげで驚くべき発展
をとげた。
特に農業については他の町にもおとらない程、発展をとげた。
福富の特徴は農業と漁業の2つがある。
農業の中では米、園芸作物(イチゴ・メロン・レンコン・野菜)
漁業の中では、のりが一番大きな生産。
他にも貝、赤貝、かきなどを試したが現在はあまり行なわれていな
い。
購買力は60%は外から40%は内から。
逆に商工力は弱く、商工をしたい者の約60%は他の地域に出て行
く。
<小字とその読み方>
弁財(ベンザイ)
源助(ゲンスケ)
内住吉(ウチスミヨシ)
庄兵衛(ショウベエ)
清兵衛(セイベエ)
北百人(キタヒャクニン)
〜ガラミ
代表となって干拓をした人の名前をとっているものがほとんど(例外
もある)
股鞍ガラミ(マタグラ)
十六人ガラミ(ジュウロクニン)
脇ガラミ(ワキ)
忠助ガラミ(チュウスケ)
又兵衛ガラミ(マタベエ)
和助ガラミ(ワスケ)
貞八ガラミ(サダハチ)
和平ガラミ(ワヘイ)
御経ガラミ(オキョウ)
私たちは、質問に取りかかった。
─田んぼの水はどこから引いてるんですか?
田んぼの水は川から引かずに地下水を使っていて、地下水をポンプで汲み出し
て使うとのことだった。飲み水については、昔は雨水をかめに溜めて、それを
飲んでいたらしい。
め、しばらくの間は雨水を飲んでいるということも聞けた。
─水は十分に足りていましたか?
地下水というのは、場所によって塩水から真水に変わる深さが違うのだが、こ
の辺りはちょっと掘るとすぐに真水が出よったね。
─水争いはありませんでしたか?水を分ける上での特別なルールなどはあった
んですか?
昔から農業用水とかについての争いはあんまりなかったね。ため池を使って雨
水を溜め取ったから、ちゃんと自分たちの分がはっきりしとって川ん水の分量
争いとかは昔からあんまりなかったよ。
ただし、ため池の水が盗まれないよう、当番で見張りをしたりするというよう
なことは、昔はよくしていたらしい。
─旱魃のときの思い出について聞かせてください。
旱魃の思い出といえば、昭和14年。堀の外で子供たちが遊べるくらいに干あ
がった。そいから、地下水ば使うために、井戸を掘り始めたよ。
土井さんたちの話によると、昭和9年にも旱魃があったらしいが、昭和14年の
旱魃に比べるとたいしたことはなく、やはり、昭和14年の旱魃が最もひどか
ったらしい。現在、
起こったとしても、被害はほとんどないといってよい程度のものらしい。
─雨乞いとかの経験はありますか?
雨乞いは戦前は何度かしたことがあるよ。
「(雨乞いのために三社参りをした後には、)大雨が降りよったよ。」と土井
さんたちは昔のことを懐かしむかのように、笑って答えてくださった。
─台風予防のために、神事など何かやられていたことはありますか?
あまりやっていないとのことだった。ただ、戦前にはあったらしい。
─用水路の中にはどんな生き物がいましたか?
ふな、どじょう、なまず、うなぎがいたそうだ。
─今も昔も変わりませんか?
現在はなまずが増え、ふなは見なくなったね。この頃は鯉も少し見るようにな
ったよ。
─田んぼの中にはどんな生き物がすんでいますか?
オタマジャクシ。
─麦を作れる田と、作れない田はありますか?
麦を作れる田はもうない。昔は水をうんと溜めていたから作れよったよ。
─村の一等田はどこですか?
水の量が多いところが一等田。楠篭、松角あたりいったいが水の量が多くて一
等田やったよ。
─昔はどんな肥料を使いましたか?
ほしか、まめか、ば使いよった。
─今は何を使われているんですか?
今はほとんど化学肥料。
─稲の病気にはどのようなものがありましたか?
あまりなかった。でも、稲熱病(いもち)があったよ。
─害虫はどうやって駆除していたんですか?
害虫ば退治するのには、気化油入剤(漢字が間違っているかも)を使いよった
よ。
─共同作業はありましたか?ゆいといいましたか?かせいといいましたか?
ゆいもかせいもあった。
─田植えはいつでしたか?
田植えは6月中旬。昔は6月15日くらいから始めて、遅くて7月中旬くらいまで
かかっていたらしい。昔は機械がなかったから、今と比べると、ものすごく時
間がかかっていたようだ。
─お手伝いの早乙女は来ましたか?
早乙女も手伝いに行ったりきたりしよったよ。
─さなぶり、つまり田植えの後の打ち上げはありましたか?
さなぼいのこと?あったよ。
─何か、思い出はありますか?
さなぼいでは、餅とか饅頭が出よって、体を休めに行きよった。楽しみやっ
た。
─田植え歌とか、もみすり歌なんかはあったんですか?もしあったら歌ってい
ただけませんか?
田植え歌とかはなかったよ。田植えん時に歌など歌って田植えばしよったら、
怒られよった。残念ながら、
ことはできなかった。
─飼っていたのは牛ですか、馬ですか?
湿田やけん、馬や牛を使うことはあんまりなかったよ。昭和15年くらいか
ら、半乾湿的な仕組みにしてから、牛を使い始めた。馬は柔らかい土地は歩け
んけんが、一切、飼(こ)うとらんよ。
─えさはどこから運んでいたのですか?
牛のえさは自分の家にあるものば食べさせよった。
─牛を歩かせたり、鋤を引かせるときのかけ声はありましたか?
あったよ。
─右へ行かせる時は?また、左に行かせる時はなんと言うんですか?
確か、左が「とう」で、右が「けし」やった。
─どうやって、手綱は操作しましたか?
牛の鼻から繋がっとって、縄を引っ張ったり、尻を叩いたりしよった。
─ごって牛をおとなしくするためにはどうしましたか?
ごって牛をおとなしくする時は厳しく手綱を操作しよった。その代わり、そう
した日にはごちそうを与えたりしよったね。
─牛は毎日洗いましたか?どこで洗っていましたか?
牛はそんなに洗わなかった。洗うときは川の中。牛は年に2回くらい爪切りを
しよったね。鎌でザックリ切っとったよ。
─草きり場はありましたか?
草きり場は堤防だった。
─薪はどうやって入手していましたか?
薪はなかったよ。山のほうにはあったけど、山に住んどる人のものやけん、取
ってこれんかった。だから、薪は使わずに、稲わらと麦わらを使っていたよ。
さらに話を聞いていると、台風が来たあとの日は、海岸に流れ着いた流木を拾
ってきて、乾かして使ったりすることもあったらしい。
─お菓子は何を食べていたんですか?
にぎり飯。
あとは、正月のときにたくさんついて残った餅を食べたり、粉を炒って粉にし
て食べたりホシイイを食べたりしていたらしい。ホシイイとは、保存が悪く、
悪くなった米を、水で洗い干したもののことらしい。
─干し柿の作り方を教えてください。
干し柿はあんまりせんやったよ。
─食べられる野草は?
セリ、蓬、カヤなどの新芽。
─食べられない野草は?
食べられない野草はあんまり覚えてない。
土井さんたちの話によると、匂いの強いものや、見た目が危なそうなものには
手をつけていなかったから、実際、どれが食べられない野草かはっきりとは分
からないらしい。
─米はどういう風に保存しましたか?
昔はもみ、ぬかと一緒にカマス(?)にいれて保存していたらしい。
現在は、とたんで作った缶々に保存しているらしい。
─ねずみ対策はどのようにしていたのですか?
ねずみ対策にはネズミ捕りを仕掛けたり、猫を飼ったりしていたよ。
─米作りの楽しみ、苦しみはなんですか?
楽しみはやっぱり米が取れるとき。すべてに通じることだね。苦しみは夏の暑
い日の草取りと、稲刈りのときの雨やろうね。
ここで、土井さんたちは苦笑いをされていた。
─昔の暖房は?
木炭ば使いよったよ。火鉢。掘りごたつはなかったよ。山んほうにはあったご
たあね。
─車社会になる前の道はどんな道でしたか?
砂利道。
─村にはどのような物資が入り、外からはどんな人が来ましたか?
昔は薬の行商人が来よったよ。
─魚売りはどこから?
近くの魚屋さんが有明などから魚を売りに来よったよ。
─カマドのお経を上げる目の見えないお坊さん(ザトウさん)は?
ザトウさんは、昔、そういう話はあっておったが、見たことはなかね。
─昔は病気になった時はどこで見てもらいましたか?
病気になったらお医者さんにかかりよったよ。個人でやってあるお医者さん。
─川原やお宮の境内に野宿しながら箕をなおしたり、箕を売りに来る人を見た
ことはありますか?
箕屋さんは見たことあるよ。
─その人たちはどこから来たと考えられていましたか?
た。
─米と麦を混ぜたりしましたか?
しましたよ。麦飯は当たり前だった。
─何対何ぐらいの割合で混ぜていたんですか?
4対6か、3対7で、米が多かったよ。
─自給できるおかずと、自給できないおかずは?
出来ないのは肉。
─結婚前の若者たちの集まる宿・青年クラブはありましたか?
あった。男だけ。
─力石は?
石を担いで、力をつける稽古をしていたことのことかな。
─干し柿を盗んだり、スイカを取ったりは?
あっていたよ。
─戦後の食糧難、若者や消防団が犬を捕まえてすき焼きや鍋にしたことは?
犬はおねしょの薬だと聞いたことがありますか?
犬を食べたらお腹がぬくもるとは聞いたことあるが、食べたことはない。
─「よばい」はさかんでしたか?
よばいは全然なかったわけじゃないが、あまりしておらんね。
─よその村から来る青年と喧嘩をしたりはしましたか?
町内では仲良かったが、町外とは喧嘩ばかりしていた。
─もやい風呂(共通風呂)はありましたか?
共同風呂はあまりなかった。
─盆踊りや祭りは楽しみでしたか?
はい。
─祭りはいつあってましたか?
祭りは神社によって7月から8月や10月にありよったよ。ほとんど夏休みの期
間中にありよって、祇園祭もあっていたよ。
さらに話を進めていくと、盆踊りはここ10年くらいからやり始めたが、昔は
あっていなかったことがきけた。
─恋愛は普通でしたか?
なにも変わったことはやっとらんね。
─農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか?
小作は正式におって、小作制度はちゃんとありよったよ。
─格差のようなものはありましたか?
昔は土地の条件によって決まっておった。
─昔、神社の祭りの参加・運営は平等でしたか?
神社のお祭りの負担は平等やったよ。
ただし、場合によっては、違う場合もあったようだった。
─戦争はこの村にどのような影響を与えましたか?
ないようだが漁船などが攻撃を受けたらしい
一般の人はあまり、被害を受けていないらしい。
この質問の後、土井さんたちの顔は真剣そのものになって、「戦争はやらんほ
うがいい」とおっしゃっていた。
─戦争未亡人は?
戦争未亡人はみんなから大切にされよったよ。
─この地区にガスが来たのはいつ頃ですか?
昭和29〜30年くらい。
電気が来たのはいつ頃ですか?
昭和26年くらい。
─村は変わってきましたか?これからどうなっていくのでしょうか?
村を起こしていくために、若い人たちもがんばっています。
<感想>
今回、この歴史の認識という授業を通して佐賀県の
る機会を得ました。
福岡から少し離れたところということで、普段見慣れない風景と土地観を感じ
ることが出来たと思います。
また、お年寄りの方々とお話などをして触れ合うという、日常では出来ない
ような貴重な体験をすることができました。
自分達で計画を立て、お話をしてもらう協力者に手紙を送り、実際に現地ま
で行って調査するという本格的な作業はとても大変でした。
しかも、全く知らない場所を訪れたので、不安でいっぱいでしたが、協力者
の方々と班のメンバーの努力のおかげで、何とかすべての作業を時間どおりに
終わらせることができました。
私たちが訪れた
目のあたりにしました。
この日は生憎の雨できれいな景色を見ることができなかったのは残念に思い
ます。
協力者の家に行くとき、家の場所を近くのガソリンスタンドの人たちに教えて
もらったのですが、その時、たまねぎの倉庫をいくつか目印にするように言わ
れました。
そして、私たちは言われたとおり、たまねぎの倉庫を目印にしてその場所に
向かったのですが、歩く途中にはたまねぎの倉庫がいっぱいありすぎて混乱
し、かなり戸惑いました。
この町はこんなにもたまねぎの生産が盛んなのかと思わせるほどでした。
協力者の土井さんのところに無事たどり着き、
話を聞くことが出来たと思います。
土井さんの中学のときの先輩だという池上さんにもきてもらい、より詳しく質
問に答えてくれました。お話を聞いているうちに土井さんと池上さんは古くか
ら
私たちの質問にはとても親切に答えてもらい、また昔のことをなつかしく思
い出すように「ああ、あの時は、こうだったなあ」と笑いながら話していたと
きの顔が印象的でした。
また、昼すぎには、とうもろこしやお菓子など昼食までいただきました。み
んなで笑いながら食べ、とてもおいしかったです。
こうして、
も苦労し、またたくさんの努力をしたということが、一番、心に残りました。
歴史はとても古く、様々な人たちが干拓をしては土地を築き上げ、そして人
がそこに住みつき町は発展していったと聞きました。
この努力がなければ、今の
の人たちに感謝しなければならないと思います。
そのなかで、昔の様々な出来事を知ることは重要であり、理解することによ
って、生活していくうえでいろいろな方向から物事を見ることができると思い
ます。
そして今回、私たちがこのことに少し触れることができ、いろいろなことを
思い、考え、理解していくことが、少なからず出来ました。
本当に貴重な体験をすることができました。
班一同
最後に
協力してくれたみなさん、どうもありがとうございました。