佐賀県杵島郡福富町東六府方

現地調査・取材レポート

 

担当:生垣美羽

   浜本智美

 

●一日の行動

10:30 東六府方到着

12:00 先方、大串十郎さん宅到着

14:30 取材終了

 

 

●インタビュー記録

大串:この周辺の地名の名前、これはね干拓造成を新地ちゅうて小規模に土地を造成しよったわけだね。その造成した代表者がこの名前になっとる。

生垣:このあたりは昔は海だったと聞いたのですが

大串:ちょうどあそこのほら、ニシヤマで海やったとですたい。ほうして特に有明海の河川の水って言うのは泥土でしょうが。ごみどろ。それがずーっと堆積して沈殿して高うなっていく。そやけん高うなったあげんとみかけて、筑紫に小規模で新地を作り上げて堤防をつくってね。もうずーっと昔の人がえいえいと、尽力で少しずつ干拓を造成していった。ほとんど、このからん名ちゅうのは人の名前ついとるもんね。新地をついた代表者の名前をとって、からん名にしとる。

生垣:そうですね。そいういえば、人の名前が多いですね。

大串:ほとんど人の名前が多かよ。

生垣:地名の読み方を教えていただけますか?

 

(暫く地図を見ながら読み方を教えていただきました。)

 

大串:現在の干拓造成と違って、昔は鍬でねあのちょこっとくわって、なげ土って言うてね、ちょっと一鍬一鍬掘り上げて、そうして堤防をつくって、からんば作っていったとです。

浜本:凄い労力…というか、大変だったでしょうね。

大串:ああ、そりゃあね。もう今日の干拓造成ちゅうたら機械力でしょうが。そやけん人力ちゅうたら大した労力はいらんばってん、昔はねえ、朝から晩まで鍬いっとつで。

生垣:やっぱり相当な人数の人が?

大串:そりゃあもう相当な、こりゃあ人海戦術でね。ほんにこりゃあもう人の力そのものだけで造成したんじゃけん。何もほら、機械力とかなかったでしょうが。特に福富ちゅう町はね、こういう新地造成の町になっとるけんが。

大串:しかしまあ、幸いなことにこの辺は災害ちゅうのが、もういちっばん少なか地方ですよ。こりゃあもうなんちゅうても、有明海の高潮がない限りは、絶対どぎゃん豪雨があろうが何しようが災害は起こらんです。

生垣:このあたりは浜や堤防はありましたか?名前は?

浜本:来る前にこの辺はもともと海だったと聞いたんですけど…

大串:浜とかその、ずーっとこのろこく川の周辺はあらこちゅうてね、船の着き易かごとちょっと海の中に石垣を積んで、伝播船がけいるさるこたあ、あげんとあちこちあったよ。一番あらこ、二番あらこ、三番あらこ、四番あらこてこの辺にずーっと。ずーっと上から。昔はちょうど佐賀県で唐津と住江の二港が貿易港じゃったとです。そんでその本船もずーっと、オオマチに石炭が出よったでしょうが。オオマチちゅうところ。上のほうにオオマチ炭鉱ちてあった。あそこからウワンちゅうてね、ちょうど運搬船の船でここまで運んで。

生垣:船で運んでいたんですね。

大串:そう、そうしてここまで本船が来よったとです。二・三千トン級の鉄船の本船が、石炭運搬船の。そしてここで、積み替えて出て行きよったとです。

生垣:じゃあ名前というのは、番号…一番あらこ、とか二番あらこ、といったような名前しかなかったんですか?

大串:うん、ちょっと他にねそげんとはなかったよ。

 

(地図を見ながら)

 

大串:もう大分、河川改修で堤防がいくらかかわっとるね。そうで昔はもうずーっと高潮災害の予防で、大きな堤防がずーっとはいぼちまであった。それがちょうど土地改良で、向こうのほうに干拓造成が延長されて、ずっと手前から取り改良で全部撤去してしもうたもんね。そやけんがちょうど22年ごろ一回あって、32年か4年ころ一回あって、そいで最後がちょうど59年から平成2年頃まで土地改良があって、そいで最後の土地改良が、平成9年に完成した。

生垣:結構最近まであったんですね。

大串:そやけんが、福富の農作業ちゅうたらね、一番苦労しとるとですよ。もういっちょこっちにアシカイ側はね、もとから乾田化されて、牛馬あたりを、馬あたりを農耕用に使いよったばってん、こっち福富はもう人力じゃったもん。全部水田で。そうして、その今もなんちゅうても水稲栽培については水が第一条件じゃあばってんが、ここは水がなかったわけ。白石区は。

浜本:水がなかったんですか?川辺に近いのに?

大串:ああ、これは塩水じゃもん。

生垣・浜本:ああ、そうか。

大串:全然使われん。そやけんあごうちゅうてね、もっとずーっと上流のほうに、一時潮の満ち引きのあいなかに、あごうちゅうてな、水かなかもんじゃ。そいからその、あそこの周辺あたりの農家は多少は取り入れよった。全然水がなかった。そやけんが昔から『白石の田んぼは御天と任せの田んぼ』って言いよった。もうちょっと、水資源ちゅうのは個人個人で溜池をちょっと作っただけでね、あとは何も水が無かったわけたい。

浜本:じゃあ上のほうからとってきた水を、下のほうにまで?

大串:うん、そりゃあ今日のこと。昭和の初期まではね、全然なかったと。

生垣:雨が降らないと。

大串:そう、そやけん『白石の田んぼは御天とまかせの田んぼ』って。そやけん旱魃は全然米がとれん。

浜本:じゃあ、本当にお天気だけで、雨水だけですか?

大串:そやけん、雨だけが頼りの。水稲栽培のあげんとじゃったけん。

生垣:じゃあ確かな収穫というのは無いんですか?

大串:そりゃあもう、年年の天候関係に一番左右されてね、収穫ちゅうのは結果はみてみにゃ分からん。天候関係でよか年もあれば、旱魃で災害が起きる年もあるということで。

大串:ちょうど昭和五年にね、この福富の地区は深井戸ちゅうて水がなかもんじゃ。もう地下水を利用せなだけん。昭和五年にはじめてね。第二タウチちゅうところにね、初めて昭和五年に180mばかりの深井戸の付けたと。そやけんにゃ一応地区は、旱魃の解消されたばってん。それからずーっと深井戸ちゅうのが流行って、現在は全町全域に要所要所に深井戸が掘れたわけ。しかし、結果的に地下水の汲み上げで地盤沈下が、厳しゅうなったわけたい。

生垣:ああー、そうか。

大串:そんで一応地盤沈下対策で、深井戸の新規の掘削ちゅうのは止められたけんね。現在の段階では全然新規の深井戸ちゅうのは掘削されんようになったわけたい。

 

(再び地図を見ながらあらこの位置を確認して)

 

大串:ちょうどね、これは昭和二十九年にこの橋が完成したのね。それまでは渡し舟でね、こっちとの、隣町との交流は渡し舟で。これが橋じゃろ。そして、この辺にね、これが道路じゃろ。旧道。ここに渡し舟があった。もう全部、すべて隣町との交流は渡しン舟でちょっと、行き来をしよったと。

そやけんその通りは昭和初期頃までは、ずーっと本船がここまで出入りしよったけん、なかなかここも繁盛しよった、この町も。

大串:もうしかしやっぱり農家も敗退して、今ほら、もう農家も高齢化の時代でね、ちょっともう全然後継者がおらんでしょうが、専業農家が。そんでもう殆ど、ちょっともう、耕作もでけんというようなことで、ちょっと人さんに田んぼを委託してもらうことしようばってんが、受け入れて耕作してもろう人がおらんわけたい。もとはね、ちょっとね殆ど農家はね、八割九割が地主さんの田んぼを買って、耕作しよった。せいぜいほんによう取れて、八俵やったもんね。八俵。そして、三俵は地主さんにあげて、あとの残りで生活しよった。

生垣:出挙、みたいなものですか?土地を委託されて、耕作して、その取れたものの何割かを地主さんに。

大串:そうそう、小作料ちゅうてね、親方さんの田んぼを買って作れば、小作料として小作米をちょっと、三俵くらいは収めよった。だからその残りで生活しよった。やけんなかなか生活はもう、本当まあ最低の生活を強いられよった。

大串:ここにあらこがあったろうが。このへんに、二番あらこが。そして、現在は排水ポンプが、毎秒12トンの大型排水ポンプがここにすわった。大雨の時のスイタイ防止の為にここに、動力の排水路を。ここがほら、干満の差が特にひどかもんね。6メーターくらいの干満の差があるでしょうが。そいで、その大雨の降った時点で、なかなか排水ちゅうのが干満差を利用して、引いた時じゃなからんば水が出んわけたい。排水ポンプのすわる前までは。今のは、現在は24時間体制でどぎゃん満潮時期でも排水される。そいで、この辺のジョウシュウ地帯は年中スイタイして、一週間・十日でも水のはけよらんかった。上からずーっと流れてくるけんね。一週間くらい浸かりよったよ、田は。田が腐れたりなんやらしよった。

生垣:逆に水が多すぎて大変だったのですね。

大串:貞八がらんちゅうて、この辺にね三番あらこの位置があった。船着場。そして本船このあたりまで来よったと。ここに停留されて、そして大町の方から石炭運搬船がここまできて、本船に積み込んで、ほんで本船は出て行きよったと。

奥さん:今の者はねえ、本船なんて見たこともなかろうねえ。

生垣:そうですねえ、炭鉱がもう。

大串:もうずっと本船がね、昭和15・6年まできたじゃろうね。そして、ちょうど支那戦が昭和13年に勃発したでしょうが。その後はもう、石炭なかつさんが、若者が相当もう福富からも、やっぱり、えー百四・五十人がおんさったろうね。石炭なかつさん、この運搬船から、本船さ積み込む任夫さんが。その人たちが、ちょうど支那事変が勃発して、もう全部軍隊に召集されて、もうさらになったわけ。そげんとは、もうどうしても任夫が必要じゃけん、そやけんある会社の人が朝鮮のほうに行って、任夫さんを五十人連れてきよんしゃった。それが昭和15年。シマ炭鉱っちゅうね、炭鉱の職員さんが直接韓国さ行って任夫さん五十人連れてきた。そして、ちょうど貞八っていうとこがな。ここを、そういう風にて朝鮮から連れて来んさあもんじゃ、突貫作業で宅地造成をして納屋を、住まいを作ったわけよ。あそこに四拓くらい用地を全部土地造成して、そしてハンバ作ったわけ。そして、その石炭なかつさんを就役させよった状況やったですたい。

生垣:そうですね。あの頃は色々…戦争があったから。

生垣:橋は名前は変わってないですか?

大串:うん、住ノ江橋。

生垣:今も昔もこの名前なんですね。

大串:新渡し橋って、これがだいたい平成の6年くらいにこれが建った。そやけんがもう、川ひとえで、もう風習それから言葉づかい、ほんに川ひとえでだいぶ違う。

生垣:こちら側からこちら側(川をはさんだ町を指して)に移動するようなことは?

大串:そりゃあやっぱり、縁組とか何とかだいぶありようですよ。この辺の交流は多分にありです。

生垣:ああ、なるほど。

大串:しかし、やっぱりその風習とかね。そりゃあ色々、言葉づかい。もうころっと違う。

大串・生垣:(笑)

生垣:それはすぐに分かるくらい?

大串:はいはい、もう未だに、まだその辺はなかなか。(笑)

生垣:池はありましたか?

大串:池ですか?池っちゅうのはもう全然なかった。そやけん個人個人でね、ちょこちょこその…溜池をもっとった。水がなかもんでね。やっぱ稲作をするてっちゃ、なんちゅうてもこりゃ水が一番生命線じゃけんが。ちょこちょこ掘れちゃおったばってん、ちょっと一回くぬぎんとは後がないじゃろうが、もう空なんやけん。

奥さん:ほーい(堀)ほーいって言いよったったいね。

大串:溜池っちゅうことを、方言で堀って言いよっちゃ。

奥さん:泳ぎ方の稽古は、そのほいの中でしとらすと。

生垣:用水はありますか?

大串:現在はダムがちょうどタケオ地区の方に2つ出来てるですよ。朝日ダムと長池ダムちゅうのがでけて、それから年に三回くらいはダムの水を福富町まで出してもろちょる。それでなんとか間に合う状態。

生垣:それは最近ですか?

大串:最近ちゅうかその、ダムの取り入れはもうちょっと、何年になるかな…相当、二十年近くになるじゃろう。長池が早かった、朝日ダムが何年ごろできたかな…大分遅かったから三十、四十年ちょっと前くらいからじゃなかろかな、朝日ダムが完成したのは。ばってん、なかなか小さかダムじゃもんね。

生垣:古賀っていうのはありましたか?小さな集落みたいなものは。

大串:古賀ちゅう部落はなかよ、福富には。あ、芦刈には古賀ちゅう部落はあるばってん、福富町には古賀ちゅう部落はなかよ。芦刈には下古賀、上古賀ってあるばってん。

生垣:家に屋号はついていましたか?

大串:屋号ちゅうのは、ちょっとそぎゃああんたなかよ。もとはねえ、庄屋どんとか何とかおんさったけんが、明治時代は。

生垣:今は田んぼへの水はダムから?

大串:ちょっと今の深井戸の水と併用して、今使って、なんとか間にはあいようよ。特に今ごろは水田のテンサク安定でちょっと全面的に水稲作らんけんが、幸いのことにはなんとか間に合いようと。

生垣:ここで全部作るとしたら水は足りないですか?

大串:ちょっと、全部作るちゅげなちょっと苦しかね。ちょっと現在の状況では。

生垣:全く天気任せだったというのは、五十年位前くらい?

大串:御天と任せっちゅうのは、ちょっと明治・大正時代やね。昭和の時代になってから、昭和五年に深井戸がつけて、それからずーっと深井戸が普及して。今の福富町で、100本ななかろう。

生垣:地盤沈下しそうです…(笑)

大串:もう要所要所に深井戸、もう水があったら、たらんもんじゃね。

生垣:水争いっていうのはありましたか?

大串:そりゃあ、ままありよったよ。(笑)おお、そりゃ命がけでやりよったよ。

浜本:お天気任せのときは、水争いというとやっぱり貯まった水をどうするかで?

大串:そうそう。そして長池っちゅうのはね。ちょっと昭和の初期頃かね、長池ダムのきよったのは。ちょうど、そのころは生水ちゅうて大騒動して、ポンプ据えてね。もとはミズグンマチだいた。用水のなか以前は。福岡の、水車があるでしょうが朝倉郡。ああいうこまかとが、ミズグンマチたい。あれで汲み上げよった。

生垣:水を分ける上で特別なルールとかはありましたか?

大串:六十年近くまでは、ほんに水の配分がなかなか大変じゃったよ。じゃけんが、ここの組合もちょうど4組合で井戸を所有しとったけんね。それぞれの時間割で、その時間で部落部落で配分せんまねんわ。そやけんあんた三日に一回ずつはば達がずっと、やけんと上流にしよったって。いったんに二分と二十四秒やったかいな…。そのあいで、三日の時間でわいだして、あげんしてた、倍あてよった。そやけんあんた、夜の一時二時でもきりかえしまには、大分苦労したよあんた。

生垣:じゃあ、その時間の間に水を。

大串:井戸汲み上げが、あんたよっつあんじゃあ、その中に井戸が共同もんじゃもんじゃけんね。水が配分せんばねんでしょうが。そやけんいったんに二分と二十何秒の割りで、三日間の時間を割り出して配分しよった。

生垣:じゃあ、旱魃の時の思い出とかはありますか?

大串:ううん、ちょっと旱魃のときの思い出ちゅうのがね、ちょうど昭和26年に大旱魃やった。昭和26年、このへんが。そのへんが、まだ昭和26年までこの地区は全然ねえ、井戸がなかったよ。ね、そんでちょっと一応そこの町の、南の部落に井戸もっとったもんじゃあ、そのくげんすいしてもろた。其の年はもうちょっと水不足でね、だいぶ騒ぎじゃったよ。平年、他のところは八俵くらいとれとったけど、このへんな、やっぱり三俵から四俵しかとれんかった。

生垣:はあ…半分以下ですね。

大串:水がなくてあんた、もうちょっと8月いっぱいもう全然、水不足で枯れてしもうてほんとでんじゃった。そういうこともあったです。

   とにかく福富の農家は水のために苦労しとうですよ。なんちゅうてもこれは第一の貴重品じゃった(笑)

   そいからもう最近は、ちょうどあの平成6年の50年ぶりの大旱魃いいよった年やね。あの年は、幸いなことには福富町はそれだけの深井戸を保有しとったけんね。ちょっと旱魃あってん、上の高校のあった周辺がもうじんじ不足でかえむしゃった。それから遠くのハッチョウちゅう部落でね、二箇所が水不足でとうとうとれんやった。そういう年もあった。

生垣:雨乞いなんかも?

大串:元はね、毎年雨乞いしよったよ。三社参りちゅうてね。福富の村社がみっつある。竜神社と住ノ江、今度あそこ福富の一番村堺に福富社、三社参りちゅうて、雨乞いのあげんとを毎年しよった。

生垣:どんなことをするんですか?

大串:どんなことちゅうのが、太鼓を叩いて、そして…三社、祈願のために、その参拝と拝むん。参拝して。

生垣:台風予防の神事とかは?

大串:ちょっと、台風もちょうどあそこがね。竜神社ちゅうのが海の神さまでね。毎年ちょっと…年にちょっと…四回お祭りしようですよ。このへんも、東西両路肩のちょっと、あげんと神社じゃもんだけん。もう氏子になっとるけんね。

生垣:用水路にはどんな生物がいましたか?

大串:生物はね、フナ・ナマズ・ウナギ・コイ(笑)

生垣:今でもいますか?

大串:今はおるですよ。うん。しかしもう、ちょっとホラ今日のやっぱり生活条件がこいだけ、下水かれこれね。各家庭も、ほらこんだけ洗剤かれこれ垂れ流しようが。もうちょっと全然食用にならんですたい。

生垣:昔は食べてたんですか?

大串:ああ、食べよった。

生垣:じゃあ、相当大きかったんじゃないですか?

大串:ああ、うん。そらもう、大小様々。ふとくもおったよ。

生垣:私もその静岡の方でも、やっぱり用水路にフナがいて捕まえていたんですけど、ちっちゃくてもうとても食べられるような魚じゃなかったです。

大串:ああ、もう美味しかったよ。あのフナも。そうして、この辺がねちょうど個人個人の、灌漑用水の溜池があったもんじゃ、そこに拾いに行きよった。そして、その夏場に拾って持ってきて、湯がいて干してね、秋のおかずにしよった。美味しかったよ。保存食で(笑)

生垣:田んぼの中には?

大串:もっと、昔はね田んぼの中フナとかなんとかおりよった。

生垣:田んぼの中にも?

大串:水田でね、常時水がたまっとったけん。そやけん、あたいどんがこまかころは、ちょうど春先にあめどんが降ったあがりは、田んぼの中に溜池からフナが上がってきて、大分とっとったよ。あの辺はたべしかったな(笑)

生垣:お米が主なんですか?

大串:ここですか?はい。

生垣:お米以外っていうのは?

大串:うーん、ちょっともうここは、米の主産地。ばってん最近は、ちょっとほら米情勢が低落してきびしゅうなったけんが、裏作が主力やね。タマネギとか。

生垣:ああ、タマネギがすごいですね!

大串:タマネギ、レンコンでしょうが。それから最近はアスパラとかそういう方面にだんだん切り替わってきとる。

浜本:来る時タマネギがすごくたくさんあって(笑)

生垣:あたり一面タマネギの香り(笑)

大串:もう今年はとくに、そのタマネギがほうにすぎて、福富町の農家の生産物の主力はタマネギです。ちょっと今年はほうにすぎて、ちょっと一息ついたところ。だって二年なあ、ちょっとほら大暴落でたいてい叩かれたけんな。

生垣:麦は作らないですか?

大串:麦も作るですよ。

生垣:麦の作れる田んぼと作れない田んぼっていうのは?

大串:ちょっとー、作ればつくってが、しかし主力はタマネギになっとる。このへんな、福富が。もう主産品目はタマネギですもん。もう収益性が麦はわずかでしょうが。たいした収益はなさんもん。

生垣:この村で一番状態の良かった田んぼで、今の良い肥料を導入する以前はどれくらいお米はとれてたんですか?

大串:以前?以前はもうだいたいね、あげんとせいぜい良くて八俵くらいやったもんな。七俵・八俵くらい。最近はもう殆ど十俵・十一俵くらいとるけん。

生垣:逆に悪いとどれくらい?

大串:悪かちゅう時には、もう際限なかたい。ほら、ちょうど平成3年がね、9月の14日に台風17号が吹いて、9月の27日に台風19号が吹いたろうが。あの時の、ほら最大瞬間風速が、54mくらい。二つの台風の被害額が、ちょっと収納舎たぶんね倒壊数が210棟は倒れたん。もう、ほたんど各民家の東のほうの棟は瓦が剥がれてしもうてね。そいであんた、そのあがいが瓦の入手騒動で大変やった。なかったもん。もうどこもここもやられたでしょうが。そんでもう瓦探しが。

   その年がもう、そこまでは収穫かむの状態やった。その年の台風がちょうど風台風で、雨の少なかったけんね。そやけん有明海の塩水があんた、ずっと打ち上げてきよった。そいでもうすっぱいもん、こしい状態になって、みいも悪うして二俵か三俵しか獲れんことなった。じゃけんが、私たちの記憶限りでは、その年が一番不作じゃったね。

そして、また以前は大正3年の8月25日には高潮で、ちょっとちょうど4号線があるでしょう。あそこ国道がね。あそこから全部高潮で、私の家でねちょうどこのへんまで、このへん(床から80センチほどのところを指して)

生垣・浜本:ええー!

大串:やけん、ずっとしまはもう胸まできとる。全部、全部収穫かみやった。ちょうど8月の25日、高潮で。それから、部分的な決壊が32年と34年に、この昭和がらみ、この辺がもう決壊で、高潮で全然獲れんかった。

奥さん:あの、三番あらこにいったった何年ね?

大串:ああ、もう34年。ちょうど、あんいしあん台風がふいたろうが。あん時が死者が5100人。

奥さん:三番あらこのね。向こうのね。

大串:ちょっと全部決壊して。高潮でやられて。

奥さん:ここに土手のあったけんね。その土手でもでたもね。そやけん向こうの方の陵なんかは全部水の。二階から見てもなーんも真っ白(笑)

生垣:凄い…

生垣:麦は昔から作ってましたか?

大串:麦は昔からありよった、しかしちょっとほら…栽培も水田でしょうが。そいけん、

あげんと、むたを高うしてせんないば、もう水が、排水がなかもんじゃ。高うしてね、まきはばはちょこっと。そしてここに、ごしゃくらいひいて。そやけんが、いくらも収穫が入らん(笑)わずかなもんじゃった。

生垣:蕎麦は?

大串:いや、蕎麦は。ちょっと、昔のちょっと裏作の品目ちゅうたら麦が主体やったけん。ちょうどレンコンが福富に導入されたのが大正13年かな。13年から、あげんとできはじめて、今日では二百兆以上ちょとちくのうゆうてできる様になったどです。

生垣:このあたりで一番収穫の良かった1等田とか分かりますか?

大串:ちょっと今のはね、そのへんの収穫の差異はなかよ。もう上も下も。もうどこでも同じ。

生垣:昔もですか?

大串:昔はね。ちょっとこの辺のずーっと海岸周辺のは、ほらモリシオちゅうて近くから塩があげんとしよったんよね。ずっと流れ込みよったわけよ。その塩害が出よったけんが、あげんとたい。どうしてもその、この辺が収穫が少なかったと。

生垣:じゃあ、あまり差はなかったんですね?

大串:ああ、大体福富町の一等地ちゅうのは、去年の全国の土地評価額で福富町のオワザワ区メシオ群3477番ちゅうのが二万五千百円。一等地。そげん値打ちなかばってん(笑)

生垣:昔は肥料にはどんなものを使っていたんですか?

大串:昔はね、色々有機質の肥料のあった。もう満州からふとかねえ、大豆かすのあつくしたとの来た。それからシメカスとかなんとかね。昔は有機質の肥料とか使いよったけど、もう今日では化学肥料ばかり。まには、いくらか有機質の肥料を使われよるところもあるばってんが、ほとんど化成肥料の化学肥料ばかり。

生垣:稲の病気にはどんなものがありますか?

大串:ああ、稲の病気はひところのウンカ。ウンカの発生、ほらちょうど昨日やったかな。テレビで言いよった。ウンカの発生がちょうどほら、中国から飛来してくって、そんで毎年ウンカの被害がありよったて、もうここ2・3年はねえ、テレビで言いよったて。中国もあげんと農薬を使う関係で飛来せんじゃろうて。そのしけんじゃたいも、去年も全然飛来せんじゃて、ほらあの蛾が。

生垣:蛾?

大串:蛾。あの元たい、親たいね。卵を産み付ける親がもう飛来がなかて。そやけんが、そのウンカの被害ちゅうのが、ちょっと今のとこにはね、あんまり被害ちゅうのはなかですよ。大豆栽培から言うげんと、あのヨトムシてね、また新たに(笑)

生垣:そういう害虫を駆除するためにはどういうことを?昔は。

大串:昔は。昔はね、水を張ってそして種油か、何かあの稲のねおれたとこを、行ってね、足でぱーっと水をかけて、そして笹のおだで掃わいて、あげんと蛾ばね、油にむかってしょうが。そこに落とすようにして殺しよった。

奥さん:そやけん、メイチュウとうちてしょうがくせいにあいよったもんね。

大串:そやから、もう稲井の苗代の地点で、メイチュウてほら、葉っぱに卵を産みつけよったもんね。あいばほら、小学生やら動員して駆除しよった。

奥さん:とらせられしゃいよったんよ。そいで、一本いくらできゃいよんさった。

生垣・浜本:(笑)

奥さん:あいで嬉しがって、子供は『きょうはめいちゅとい』て言うてね、そうしてただんときでもメイチュウとってしゃいてよかったもんね。といよったよ。

大串:もう昔は、メイチュウが一番大敵やったですもん。もう、そんかりあんた、あいが

大発生したときにはほら、秋口になってあんた一晩中であおきとの真っ白に食べて

しまうんやけん。もう一晩で真っ白になるよ

生垣:共同作業っていうのはありましたか?

大串:うーん…一頃ねえ、ちょっと流行ったばってんなかなかよくできなんだ(笑)もう2・3年したけんね、やっぱもう破壊してもうた。壊れてもうた。なかなか持続のできんじゃった。

生垣・浜本:(笑)

浜本:流行った時期があったんですか(笑)

大串:うん、一頃ね流行ったよ。やっぱり人間関係ちゅうのはむずかしかなァて(笑)

ちょっとのささいなことであんた。

生垣:揉めて…?(笑)

大串:おじゃんになるけん。

生垣:共同作業は『ゆい』といいましたか?『かせい』といいましたか?共同作業とか共同体に名前は?

大串:それは色々、部落の名前を取ってロカタ協同組合とか。なんとか。その、小部落の名前を取って、共同作業に名前付けよった。

生垣:『ゆい』とか『かせい』といったような名前はありませんでしたか?

浜本:共同作業をすることを『ゆい』とか『かせい』と言ったりするようなことは?

大串:いいや、そがんことは言いよらんかったよ。ただ共同作業てね。

生垣:組合で(笑)

大串:しかしまあ、現在でもその、一部分機械の利用組合ちゅうた共同で利用しよんさあ部落もある。一部分。

生垣:田植えはいつでしたか?

大串:時期はだいたい、今のはね、大体機械化でもう短期間にすんでしょうが。二日。もう三日ちゅうて、せんもんね。もう殆ど二日くらいで終るさ。常用のあんた田植え機で高速でいくのであんた、一反くらいくらい見る間に植えてしまうわ。そやけんだいたいちょっと、まあ六月の17・8日が中心になってはいる。この辺な。

生垣:昔は?

大串:昔はねえ、もうちょっとほら、始めんのが6月の15日ごろから。そして7月の13日の、ほらあそこに白石ちゅうたがもんね、あそこにヤサカ神社ちゅうお祭りがあるもんね。あそこん13日、10日くらいまでかかりよったよ。なんかあごがつじゃった、田植え時期じゃった。昔の梅雨時ちゅうのは毎日雨の日やったよ。もう、そんかいあんた、ちょっと遠方に、ちょと田んぼに行く時は必ず歩いてじゃろが。必ず蓑傘に雨具ようがえはしていかんちゅうと、もう雨にあいよった。

生垣:お手伝いの早乙女はいましたか?

大串:お手伝いも、そらねえ昔は相当雇いよったよ。田植えちゅうのをすますには。もう方々から。なかなか地元のはせげんさんちゅうとは一斉に始まるけん、おんさだけよそからね、わたしの家でもほらナナヤマから泊り込みで雇いよった。

生垣:逆に行ったりすることはなかったですか?

大串:それは間にはそう人もおんさばってんが、やっぱり雇いに行きよった。連絡とったりなんかしてね。

生垣:田植えの後の打ち上げ会とか、『さなぶり』?

大串:『さなぼり』?

生垣:『さなぼり』ですか…ありましたか?

大串:ああ、さなぼりはもうひっせいみやげたいね。そらあ、なんかあんた労働必須じゃったもん。もうちょっとつらかでしょうが。裏作の植付けする前の諸作業が。ずーっとその色々あるわけ。そいから、一応前準備をして、田植えのあんなに繋げていかんばなんけんが。もうなんかったのうあんきは。もう二ヶ月くらいはずっとのんきやったけんね。

生垣:じゃあもう、開放―!終ったー!みたいな感じで(笑)

大串:ああ(笑)うんそらあ。そんかりおら、今のはそのさなぼりの感触はなーいも、そのなかばってん、昔はさなぼりの時ほんのこてね、身体が休まるわけ。ひとつの区切りがついたていうことで、もうほんのこてほっとしよったよ。

生垣:それはみんなで集まって打ち上げ?

大串:うん、ちょと集まってーのさなぼりちゅうと、そらやっぱりもう間にはありようよ。そやけん今日もほら色々グループでね、そら色々業種によって、あげんとふれあいのグループは作っとるけんが、そういうあげんとで全部そらそんたいの寄り合いの飲み方はありようです。ゲートボールはゲートボールで、五月はせんででさなぼりとか(笑)

生垣:田植え歌はありましたか?

大串:この辺な、田植え歌ちゅうたは歌うてたちゅう、あげんとはなかったね。

生垣:じゃあ、もみすりの歌とかは?

大串:うーん、そぎゃんとはあんま…。歌うての農作業ちゅうのは、この辺ではあんまりなか。

生垣:歌う余裕がないとか(笑)

大串:この辺では、そゆことはあんまりない(笑)

生垣:飼っているのは牛ですか、馬ですか?

大串:ちょうどね、牛ば。ちょうど32年にね、ちょっと土地改良をして水田から乾田になった時点から、ずっと。その前からちょっと牛も導入されとったけど、完全にほとんどの農家が導入するようになったのは、32年の土地改良あたりから、牛を導入することなった。もともとは水田地帯で、ちょと馬は足ば持ち上げきらんわけ。牛はほら、割れとるでしょうが。その関係でいくらかねっても歩いていかれるわけ。もうほとんど10年くらいは、ほとんどの農家は牛は飼っとったですよ。ばってん耕運機が流行りだしたげにゃあ、もうちょっと用がなかもんじゃ(笑)

浜本:最近はやっぱり全然牛を飼っているところは少ないんですか?

大串:ああ、なか。もう全然なか。もうちょっと農機具の進歩が早うして、歩行用のトラクターが流行ってけんにゃしょうがない。もうすぐほら、常用に変わったでしょうが。

生垣:牛の餌っていうのは?

大串:麦とかね、さくずとか、米ぬか。あげんと。それからワラ。

生垣:牛を歩かせたり鍬を引かせるときの掛け声とかは?

大串:ううん、そげんともあんまりなかったよ。全然。

生垣:右に引っ張ったり、左へするときも?

大串:そらあ、もう手綱で。

生垣:手綱でやるだけですか?(笑)

大串:手綱で、右左は(笑)

生垣:どうやって手綱は操作するんですか?一本ですか?

大串:一本でよか。そげん、叩けば向こうさ、引っ張りこっちさ曲がり。(笑)

生垣・浜本:(笑)

大串:手綱一本で。よう牛もききよったもんじゃ。

生垣:ごって牛を大人しくさせる方法は何かありましたか?

大串:ごって牛を…ちょっとそりゃあー…あんま気の荒かごたあ牛はそげんおらんかったね。もうほとんど、どこの農家でもおったばってんが、そげん使うのに手を焼くような荒れた牛はおらんかった。

浜本:みんなおっとりしてたんですね。

生垣:牛あらいっていうのはなかったんですか?牛を洗うようなところは?

大串:専用の洗い場ちゅうのはなかったね。個々面々が洗いよった。こいの水どん汲んできて。

生垣:草きり山っていうのはありましたか?

大串:適当そのへんの牛のしげにおきよったよ。

浜本:どこかにまとめてとかそういうのは?

大串:いやいや、個々面々そのへんな自由に、適当に場所を選定して置きよった。

生垣:薪はどうやって入手するんですか?

大串:薪?薪ちゅうのは燃料用の薪ね?燃料用の薪ちゅうのは、この辺はもう藁が燃料じゃった。藁、それから麦藁ね。麦藁が燃料としては藁よきゃ効率のよかったばってんが、なかところは藁ば使いよった。

生垣:じゃあ、それぞれの田んぼで取った藁を?

大串:そうして取った藁を、ちゃんと一年分つみよった。藁こづみちゅうて。そうしてその、色々加工用品の藁とか燃料の藁とか、適宜使いよったさ。

生垣:昔はお菓子なども手作りされていたんでしょうか?

大串:お菓子?ああお菓子というのは、昔はね、あの七夕の日にゃ饅頭ば作っとった、ソーダ饅頭ば。

生垣:ソーダ饅頭?

大串:うどん粉で。必ず七夕さんには饅頭を作りよった。どこの家庭でもね。

奥さん:七夕饅頭ちゅうてね。

大串:それから4月3日のお節句にはね、フツ団子、フツ餅ば作りよった。フツ餅。あの、フツっちゅうて、あのーほら、あっちこっち生いとるでしょうが。丁度薬草になる、フツちゅうて。それをあの、ゆがいて、餅ん中に入れて、フツ餅て。これはもうひとつの年中行事の一つで、どこの家庭でん、そのあげんしとった。

生垣:緑色…あの、蓬餅みたいな…

大串:蓬餅たい!(笑)

生垣:蓬餅!(笑)

大串:蓬餅。蓬っちゅうのはこの辺でフツて言う。

生垣:フツ。

大串:うん、フツ。蓬っちゅうとフツ。

生垣:干し柿は作られましたか?

大串:干し柿はねぇ、あんまり作らん、この辺にゃ。だいたいもう干し柿はほら、向こうの佐賀市のちょっと上ん方の山つきの方が、あげんと、主産地じゃもん。

生垣:じゃあ作り方っていうのは…

大串:うん、そりゃあもう、個人でもねぇ、やっぱり柿の木の植えとった所のよけいのあるところは干し柿しよんなさった。

生垣:勝ちぐりも作られますか?

大串:うんにゃ、そげんとは作らんよ。

生垣:作りませんか。

大串:うん。

生垣:干し柿はどういう風に数えてらっしゃいましたか? 連ですか、やっぱり。

大串:うんあの、細か、あの、縄ば小さくもんで。

生垣:一連、二連と。

大串:ずっとあえ中にはさんで。

生垣:では食べられる野草は?

大串:薬草?

生垣:野草です。ご存知ですか? この辺りで実際採って食べていた野草というのは…。

大串:野草…ちょっとそげんとはあんまほら、やっぱりあの、病気のしたりなんしたりしたらほら、薬草をその煎じて飲んだりなんしたり大抵しよんなさったよ。やっぱりあの、慢性的な持病の持っとんなさる人は。なんがよか、かんがよかって言うんごたる、ほら大抵薬草薬草で、あるでしょうが。ねぇ、効果のある薬草、かれこれ、そういう人は慢性的な持病の持っとらす、持っとった人はね、ずっとあの、そがんして、飲みよんした、煎じて。

生垣:この辺りに生えているんですか?

大串:うん、まんにあっちこち生えとうよ。

生垣:例えばその名前とか、その草の名前というのは…。

大串:(笑)わたしどもは…。

生垣:採ったりっていうのは無いですか?(笑)

大串:うん、まだちょっと、その辺なあ。そいからしいたけを煎じて飲んだりなんしたりしよんなさる人もおんさった。

生垣:フツは採っていたんですよね。

大串:うん、フツはねぇ、そういうで、今んごとお餅に混ぜたり、そいから、あれば煎じて飲むと何の病気によかていうなごつ、信じて飲みよんさる人もおんなさったよ。

生垣:何に効くんでしょうかね…。

大串:うーん、何かね。そげん病気のしたことなかけん(笑)知らんばってんが。

生垣:逆に食べられない野草というのは? こう、毒のある…。

大串:毒ん…。丁度そげんのはな、セイタカアワダチソウかね。ありゃあ、あげんと、なんか喘息の薬かね。あれは薬じゃなかけんな。

生垣:あの、彼岸花の根に毒があるっていうのは?

大串:うーん、そぎゃんとはあんまわたしどもは関係のなかですよ。

生垣:お米はどういう風に保存されましたか?

大串:お米ですか。お米は、あの、なんか、貯蔵米ちゅうて、ちゃんと十俵入りとか五俵入りとかかんかんがあるですもん。そいに、今のはもう、ちょっと、贅沢んなって、冷房装置の貯蔵米、かれこれ、はやっとっけんが。

生垣:兵糧米はどういう風に。

大串:兵糧米? 兵糧米ちゅうんがそういう風に一年分ちゃんと貯蔵すっこたあげっとば、容器ば、どこの農家でも持っとっです。

生垣:ネズミ対策にはどんなことをなさいましたか?

大串:ネズミ対策ちゅうても、最近はおらんごとなった、ネズミも。元はあんた、もう、ネズミからかじられてね、相当被害にあった。もうちょっと最近おらん。ネズミも。どういう関係か知らんばってんが。

浜本:昔はたくさんいたんですね。

大串:うん。昔はもう川でもなんでもあんた、たくさんおったばってん、もうぜんぜん見かけんもん。最近は。全然ネズミの被害はなかね。

生垣:昔ネズミがいた頃というのは、どんな風にネズミからお米を守っていたんですか?

大串:ちょっとあの、なんかね、薬のほら、ネズミを殺す薬のあったもんね。猫いらずちゅうて。そういうもん使いよった。

浜本:猫いらず。

生垣:やっぱり猫を飼って。

大串:猫もね、ほとんどの家庭におったよ。そやけん大抵猫辺りがさ、相当してくれよった。

浜本:昔の猫は働き者だ…(笑)

生垣:米作りの楽しみというのはどんなものがありましたか?

大串:うーん、ちょっともう、今ん風その戦後、ちょうどほら、昭和22年にあのサクサ司令官がキョウシツば100パーセント出したがまた10パーセントうわずみで強制的に出されたでしょうが。出さんばれやったもん。昭和20年に、サクサ司令官っちゅうアメリカの指令で、そいであんた、そのころもう包容米もギリギリやったですよね。そいきゃあんた、もうおかゆくったよ。百姓しよって、米つくりの。

奥さん:そらまめめしとおかゆと。

大串:そらまめとかね。そぎゃんと入れて、大分苦労したよほんと。もうぜんぜんあんた、包容米は割り当てが強制的でもう、全然足らんやったもん。そいけんその頃のことのよば、ほんなことどれだけ百姓の苦労したか分からない。あんたたちはなんも知らんばってん。できんが、もう日本もこれだけほんにこうもほんなこて経済成長したなぁと思って、不思議かごたる。だけんやっぱりその、日本は負けはしたばってん、ほら昭和25年に朝鮮の動乱が始まって、そして、軍需産業から平和産業に切り替わって、そのあがいちょっと28年からちょっと経済の成長の、軌道に乗ったもんね。そいでちょうどほら、あの、岩戸景気かね、あいが、昭和28年、三ヶ月続いた。そして、33年からさらにまたあの、神武景気が四十八ヶ月。四十八ヶ月続いた。そいでその頃三種の神器ちゅうてほら、あの頃よ。昭和32・3年頃。三種の神器たい。冷蔵庫、洗濯機、テレビね。あいがほら、丁度オリンピックが39年だったけん、その前まで続いて、そのあがでちょっと小休止して、ちょうどあの42年に今度はあの、丁度、あのころ不景気やったよ、もうちょっと。わたしんとこの息子が工業学校を卒業して、もう全然職もなかった、大手全然とらんやったもん、不景気でね。で丁度42年の12月頃からイザナギ景気ちゅうが、五十八ヶ月続いた。ちょうどあの48年の、オイルショックまで。もうあの頃はやっぱり日本もとんとん拍子であんた、もう経済経済成長であんたもう、昭和の元禄時代じゃなかばってん、黄金の時代じゃったたい。

生垣:じゃあやっぱり楽しみというより、米作りに関しては苦しいという思い出の方が…。

大串:そりゃあ相当ね。ほんなこて、もう昔はほら、もう人力一本じゃったでしょうが。そいやけもう、農薬もなーんもなし、ちょっと田植えをして、そうして一週間ばかりお茶やすみをするけん、すぐたんぼにいぎらんやった。田の草取り。ね。もう全然薬なかけんが。そいが盆まであんたかかったよ。あの32度34度の夏の暑か盛りにでもあんた、もう待ったなしで仕事せんないば間に合わんもんじゃけんが。たいていほんなこて、苦痛か面もおおたですよ。ちょっと2時頃下りて、ちょっと田の草混ぜてちょっと、湯のごとたぎよるでしょうが。ほいでん動機のさして、しょったいなかに引き上げてね、休んだりなんしたりしたこともあったよ。水のあるうちにある程度草のえんごだしとかんと大変じゃもんね。

奥さん:鎌でむしってね。そいけん、わたしどがつこうときはもう、あのおばちゃんのたいてい苦労しとんひゃねて思うごたね。もうまっすぐからわっと草陰。鎌かけて。ヒガジマさんちゅうおばちゃんがね、たいてい苦労しとんしゃいよてわたしは思うて。鎌でむしらんばならんていうのがちょっとね。

大串:水田でちょっといっちょ水の、すぐあんた腐るばい。べえと浮いてしょうが。もうどうにもならん、もう。米はとれもしなんで。

生垣:作業中に倒れる方はいらっしゃらなかったんですか?

大串:そぎゃんことはなかったよ。そやけん、今のそれこそあげんと、マスコミが宣伝しよるばってん、わたしたちは小学校の5・6年ごろなーぎな、夏休みには毎日干潟に行きよった。揚巻取りに。丁度あの、丘からね、船で、買い付けの人の来よんなさったけん、ちょっとかいがけはお金もらうもんじゃけん、そいが楽しみで行きよった。どぎゃんのかろうがね、そんなこて、行きよったよ。紫外線の障害とかんとか今の言よんばってんが、なんて言ようかと思って。(笑)どぎゃん暑かとて、行きよったとに。

生垣:(笑)話は変わりますが、昔の暖房というのは?

大串:暖房なかなあもんね。あの、カラスミだけ。もう、暖を取るわげんた、もうほんな、カラスミだけ。ね、そぎゃんあの、焼き物の火鉢のあるでしょうが。太かとの。あれ、そのこんくらいのカラスミを二つば入れて、灰をいっぱい被せて、昔のおやじさんたちは火鉢の番人で、もうちょっと、他に暖房器具はなかもんじゃけん。へえってうずくろて。

生垣・浜本:(笑)

奥さん:火鉢はねえ、このくらいのとやろうが。それだいでん座って、手いっちょさいばしでね、あの、あたいよったよ。

生垣:掘りごたつのようなものはなかったんですか?

大串:そりゃあ、家庭によっちゃ掘りごたつしちゃとこもあったよ。もうほとんど他に暖房器具ちゅうのは全然なかった。ちょうどそげん暖房器具がはやったのは、あの今の34・5年頃からぼちぼちあの、はやってきたったいね。ストーブとかなんとか。

生垣:じゃあ冬は寒かったですね。

大串:ああ、寒かった、寒かった。そんかわりあんた、もう昔の家はほら、泥壁やったでしょうが。それやけん隙間があちこちあるもんが、冬の嵐なぎ、もう、雪が頭んこう、つんよらした。隙間風であんた、吹き込んできて。

奥さん:布団の上に雪のね。北から吹き込みよったもん。

大串:だって昔のほら、あれじゃったもんね、保温関係はよかったね。もう葦葺きで、そして壁は泥壁でしょうが。そやけんその、夏場でんもうちょっと、かわらいためん、二度、三度くらいやまちょうた。そうてひらよか、土間がありよったけんね。もう涼しかよった。夏は。冬じゃってもほら、もう最近のこのあげんとと、家の構造と違うて、ちょっと泥壁でね、部屋ん中の温度は吸収されんばってん、今のはガラスであんたすっぱんて部屋の中の温度吸収してしまうもんじゃけん。余計寒かわけたい。夏は暑か、冬は冷やかて。隙間風いらんばってんね。もう部屋ん中の温度の逃げてしまうもん。そいけんが最近の家の構造は、すべて冷房せんばらんごた家の構造のしくみになっとる。

生垣:車社会になる前の道はどうでしたか。

大串:車社会になる前や。自転車。ばってんもうほとんどは農作業、カラミあたいに行くにしても、もうほとんど歩いてやった。

生垣:やっぱり砂利道ですか。

大串:ああ、砂利道。昔はあんた、あげんとの田舎の舗装されたとこ一箇所でんなかった。全部砂利道やった。もうほとんど、舗装されたなんた県道じゃって同じ、町道、すべて砂利道ばかりやった。

生垣:今と昔と昔の方が道の数は多いですか。

大串:道の数ですか。道の数はうんと多なっとる。そいやけんほら、もうほとんど各個人の、個人個人の所有の地には、ほとんど道路にかかって全部配列ばしとるもんね。昔はあんた、ちょっとあがたん中行くにはちょっと他人の、田んぼのせあらって行かなんばいうようなかしこもありよった。もう今のはちょっと網の目のごたる、道路だけは整備されて、なあんもその辺にゃ不自由のなか。もうすみずみに至るまで舗装までしてあるけん。

生垣:村にはどのような物資が入ってきましたか?

大串:物資ですか。そやけん、農作物だけは自給自足体制でもう全部いきよったばってんね、そやけんがその、昔は青物やさんてなんじゃいその、うやくてんなんてのはああもんね。もう全部その、自給自足でじかにちゃんと一年、四季それぞれにあわせてちゃんとできよったちゅうわけ。ばってんその、ほかの衣類てのなんてのは全部ちょっと…

生垣:外から…

大串:みそしょうゆからなんからあんた、自給自足で家々でちゃんとつくりよったけんが。

生垣:外から例えば、行商人や魚売りは?

大串:それはもう、行商はね魚てんなんてのはちゃんと売りにきよらした。ばってん昔の生活の実態が、お魚てんなんてのが、一週間に一回食べるか二回食ぶっかていうくらいのもんやったよ。もう全部自給自足でその、野菜が主体やった。

生垣:カマドにお経を上げるお坊さんはいらっしゃいましたか。

大串:にゃ、そぎゃんとはおんなさらんかったよ。

浜本:ではやんぶしや薬売りは?

大串:やんぼしさんていうのはお坊さんじゃろだい。あぎゃんとはおんなさったよ。福富にはおんさらんやった。よそからきよんさった。

奥さん:ひむろさんちゅうてちょろっとばかり占いばしよんしゃった。

大串:占い師さんじゃろだい。祈祷師さんたいな。

浜本:薬売りの人は来ましたか?

大串:薬売りはすこからいれ薬もうちょっと年間…

奥さん:めくらさんの杖ついて。

大串:入れ薬はもう年間ずっと一年分置いて行きなさる。

奥さん:真宗はそがんやんぼしさんでん雇わんもんね。禅宗がお坊さん。やんぼしさんのきやるとこは。

生垣:では昔は病気になったときどこでみてもらいましたか?

大串:病気なったらそりゃもう結局お医者さんにかかって。もう丁度ここの福富町がね、昭和5、6年頃やちょうしゅう、今の新型アヘンじゃなかばってんが、もうちょっと、腸チビス、腸チビス、知らん?

浜本:ああ、チフス。

大串:チブス、チブス。あいが、もう大流行で、大分あんたあげんとで死にさったよ。そげんちょうどあの、あげんと、村でちゃんと病院ば作っとったばい。そこもちょっと収容しきらんでちょっともう各面々で隔離してやけんしよった。だいぶ死にさった。そのときはほんなこて何人死にさったやろか。相当死にさったよ。

生垣:川原やお宮の境内に野宿しながら蓑をなおしたり、蓑を売りにくる人を見たことはありますか?

大串:そぎゃん人はおんさらんかったよ。

生垣:お米と麦を混ぜて使いましたか?

大串:そりゃあね、もう昔はほんに農家のば、白ご飯食べるのは少なかったよ。もうほとんど正月か盆くらいのもんやった。もうほとんど麦飯。もうひとつの米の節約で。麦はもう四分六分、多かとか四分六分くらい混ぜて食べよったよ。もうほとんど七分三分とか四分六分とか。麦が安かもんじゃね。

生垣:野菜類というのはもう自給自足で。

大串:もう一切自給やった。

生垣:自給できないおかずというのは魚ですか?

大串:ああ、おかずっちゅうのは魚やさんとかとうふやさんとかね。

生垣:とうふやさんですか。

大串:うん。とうふやさんもちゃんと、村内にも何軒かあったけんね。売りにきよさった。買いにも行きよったし。

生垣:結婚前の若者達の集る宿というのはありましたか?

大串:宿は、クラブちゅうたよ。

生垣:青年クラブですか?

大串:そう、青年クラブ。青年クラブがちょっと、ひとつのよりどころ。いろいろな会合によう使いよった。

生垣:そこは男性だけですか?

大串:んにゃ、女性もきよった。

生垣:そこではどんなことをされたんですか?

大串:うーん、その、フリュをしたり、いろいろその、なんか、よいやの話とか会合に使いよったよ。

生垣:規律は厳しかったですか?

大串:規律は…やっぱり統制はとれとったね。昔の青年団は。組織的に、統制はとれとった。確かに、もうちょっと上下のやっぱりその、あげんたあ、厳格な差別のありよったけん。そやけん、その一番若青年はコンパンて言いよった。

生垣:コンパン? どういう字を書くですか?

大串:字はどぎゃん書こか。よう知らん。そいいて、上のも五つくらい上の、もうちょっと同じ青年団の幹部級なでちょっとひろうじゅしよった。そういうやっぱりそのしきたりは、ほんなこてはっきりしとったね。

生垣:上級生からの制裁はありましたか?

大串:そうそう。ちょうど昔の兵隊と同じたいね。

生垣:力石は?

大串:米のから上げ競争てなんてんはしよった。60キロいったとの。60キロ級。運動会辺りでもありよったもんね。

生垣:干し柿を盗んだり、すいかをとったりというのは(笑)?

大串:そりゃあねえ、昔はその辺なぁ多分にありよった。もう、ちょっとここ面々の果物は、ちょっと青年のもんていうようなことで(笑)もうお先に青年団辺りがちゃんと食べよったもん。ばってんなんも、その辺のはね、やっぱり昔はひとつの伝統習慣じゃなかばってんが、当然のことと思われてやかましいもなんもありよらんかった。

生垣:じゃあ盗られた人も何も言わないんですか?

大串:うん。盗られた方もそぎゃん腹かくあげんとはなかったよ。ああ、青年団が盗ったばいて。(笑)

生垣・浜本:(笑)

生垣:戦後の食糧難で、若者や消防団が犬をつかまえてすき焼きや鍋にしたことはありましたか?

大串:それはまあ、肉はね、やっぱり豊年祭りちゅうてね年に一回、12月にありよったね。その、部落部落によって。もうちょっと組合全部よって。三日くらいやったよ、この辺も。一応その、餅をついて、三日ぐらいありよった。それが一番楽しみやったたいね。祭りで。お祭りのあるときがその、呉服屋さんたちが襦袢とか、冬もんを売りにきよんなさったって、その時期なからんば買うてもらえんやった。

生垣:犬の肉がおねしょの薬になるということは聞いたことがありますか?

大串:うーん、そりゃあ、あげんと、身のぬくもるちゅうてね、あたたまる、ちゅうて。そりゃあ犬ば食べよるところもありよったよ。

生垣:犬を食べるためにつかまえたことはありますか?

大串:うんにゃ、この辺はそぎゃんことはやられてない。場所によってはね。やっぱり犬を食べたりした部落もありよったよ。

生垣:「よばい」はさかんでしたか?

大串:(笑)。昔はね。今のはもうちょっと、女子の権利の強うなって、ちょっとこういうことをやかましゅういわれるけど、昔は当然のごとありよったよ。

生垣:やっぱりよその村からも来たりしましたか?

大串:うん、よその村から、その辺の交流は多分にありよった。よそさん出向いたり、行ってきたり。その辺のはだいぶありよったよ。

生垣:よそからきた青年とこの辺りの青年がけんかしたりということは?

大串:そぎゃんことありよったよ。なわばり争いじゃなかばってんが。

生垣:もやい風呂という共同風呂はありましたか?

大串:はいはい、共同風呂はありよった。ほとんど。

生垣:ほとんどが共同風呂ですか?

大串:今んごとひとつの経費節減の一環で、ちょっと個人個人に建てれば石炭かれこれ要るもんでね、共同風呂ちゅう、ほとんど共同風呂がありよったよ。多かところは十個くらいはもう、共同風呂建てて使いよった。そこの周辺もほら、家の固まっとるもん。十二・三軒ぐらいその、共同風呂で使いなさんよった。

生垣:共同風呂というのはどんな感じの…

大串:ちょっと、すこおしね、個人個人の風呂よりかちょっと太かぐらいの風呂やった。

生垣:共同風呂だけでひとつ建物を作るんですか?

大串:うん、ちょこっとあげんと、簡単に小屋を作って。もう共同風呂はね、あっちこっちありよったよ。

生垣:やっぱり盆踊りやお祭りは楽しみなものでしたか?

大串:うん、今最近も町で盆踊り大会をちょっとやりよった。花火をうちあげてね。近頃だいぶん派手になった。昔は盆踊りたってそうかいぐらんやったけど。

生垣:今までもちょろちょろとお祭りの話が出ましたが、例えばいつ何がありますか?

大串:ちょっとここではね、神社関係が丁度この、氏子の関係からいうには竜神社の祭りがね、4月15日が一番年間での、大きな祭典です。それから8月1日が夏祭り。そいから、おくんち。風祭。9月1日が風祭。そいから10月の19日のおくんち、四回。それから、福富は各神社でまちまちで、あのお祭りの日にち辺り違うもんね。町ですんのが盆踊りと、町自体であるのは盆踊りいっちょやろ。そいから桜祭り。あげんと、カンゴウ祭りちゅうて丁度、4月ちょうど桜の、日程は決まっとらんもんね。丁度その時期を見計らって、できようけんが。あ、ロードレースとかなんとか、ゲートボール大会とか、いろいろあります。

浜本:恋愛ってどういう風な感じで…やっぱり恋愛結婚が多かったですか?

大串:うーん、ほとんどねぇ、昔の縁組ちゅうのは親辺りがもう決めてしまいよった。

生垣:お見合い…じゃないですね。

大串:うん、本人が直接その、その恋愛とかなんとかいう縁組はちょっとまれやったね。もうほとんど親が決めよった。

生垣:じゃあ結婚式当日に実際にだんなさんに会うとか…

大串:んにゃそういう縁組の多かもんくさいに、結婚日に初めてだんなさんに会うっていうのはだいぶんありよったよ。もうほっけんさかいでもう絶対的な、親がそんたいの権限な持っとったじゃけん、縁組じゃてんなんしてもね。

奥さん:親がね、承知せんぎ恋愛しとっても。

大串:本人がよか仲て決めとっても親が絶対いかんちゅうぎにあんた、もうどうしも。縁組できよらんかった。もう親がちゃんときめとったじゃけん。

奥さん:今のごとね、結婚の自由じゃけんよかばってん。

生垣:ちなみに、お二人は…?

大串:んや、親が決めたったい(笑)もう絶対服従であんた。

生垣:では、農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか?

大串:今もさっきから言うたらあんた、ほとんど8割以上がもう全部この部落も小作人じゃったもん。地主さんの田んぼ買って工面しとるだけやったけんが。そやけん、そういう人が今、小作料として、田んぼの中の使用量として一反に米三俵くらいは三俵かじきとなんと言うてね、ちゃんと納めて、その残りで生活しよった。そいがあんた、ほんに、ゆうぎんとは小作人さんたちは戦争に負けて、ぎゃんよかことのなかったごたあ状況たい。あんた、もうちょっと全部地主さんの田んなかもう千円くらいで買いとら。元はなんた田んなか一反買おうであんた、米は60じゃい70じゃい出さんな買わりよらんかった。農地改革でもうちょっとよういうで闇米が高か時代じゃったけんが、もうなんじゅうじゃいで米田んなか一反買いよった。

生垣:格差というのはありましたか?

大串:何の?

生垣:村の中で。

大串:経済的な格差?

生垣:そうですね。

大串:それはもううんとあるですよ。それはもう、福富町があの今の、農協の貯金ざたが80億だかあるですもん。借金が16億ばかり。ばってんその中にも段階がうんとあるわけたい。上下の段階が。なかなかその農家も、厳しいその、なかなか大変ていうよな状況じゃばってん、こいでこそよかもんは億万長者のごとやけん、農家でも。(笑)もう開きが、段階がうんともう開いてきて、だんだん開くばかりさね。今のきゅうきゅう言いよるもんもおるしね。もう借金だらけの農家もおるし。

浜本:昔よりも今の方がだんだん格差は開いてきていますか?

大串:格差ですか。まぁどっちかといえば、昔もやっぱりそりゃあもう、今そんな状況で経済的にもう行き詰まった人もおんさったけどね、今も同じよ。

生垣:むかし神社の祭りの参加や運営は平等でしたか?

大串:うん、運営辺りはね、一応その、今んごとその、元は村社で全部維持運営ば町がしよったでしょうが。村社で。ばってんちょっと戦後、政教分離の形で全然、行政はノータッチでじゃあ地元の氏子が維持管理はせんばならんけんが、その点はちゃんと仕組みが総大山あたりの制度がでけて、その人たち音頭をとって、いろいろその年間の一応、意地経費あたりは氏子から徴収してね、そして運用しとる。

生垣:参加することに関しては平等でしたか?

大串:うん、そりゃあもうちょっと、地元におれば、ほとんど。ばってんなかなか今のほら、神社ぶっかかたいの維持運営ちゅうた、今後の若者時代になあげんとは、なかなか簡単にいかんとですよ。これはもういよいよそういう裁判沙汰になったりしよるけんね。だけんちょっと外で一回そういうケースがでけたて、ちょうどあの、氏子から氏子ちゅうが地元周辺の同時にこれは氏子にならんばらん人じゃったばってんが、そういうその、そういう金は出さんとかなんとか言うて。そいで裁判にかけて。出さんならんなら村外すていうて、そして裁判にかけて、やけんあんた、その人勝ちやったじゃけん。やっぱりその、政教分離ていう、はっきりその辺の金の問題でね。田舎はまだそういうケースはおこらん

生垣:戦争というのはこの村にどのような影響を与えましたか。

大串:戦争が及ぼした影響や。こりゃちょっと、ほんにその、敗れた時点で言うと悲惨なもんじゃあばってんが、今日の姿をふまえて考えげんにゃ、かえって、負けたけん、良かった結果じゃなか? ほんにこれが戦争に勝っとけん、日本のなお、どうなってるか分からんよ、こりゃ。また東南アジアかれこれあんた、分裂してしもうて。(笑)

生垣:戦争未亡人や靖国の母はいらっしゃいましたか?

大串:今ね、ちょっと福富の戦死者が、丁度毎年慰霊祭ばしよるもんね。そやけん、246人。全部で。そいがその、今度の太平洋戦争だけじゃなくて、丁度日露戦争、日清戦争以後の福富町在住の戦死者が246人。そやけん今度の大東亜戦争でどのくらい…150人くらいおんなさるね。日露戦争あたりではいくらもおんさらんけん。

生垣:その頃どれくらい男性がいらっしゃったんでしょうか?

大串:何?

生垣:あの、150人というのが物凄い数なのかというのがちょっと分かりにくくて。

大串:うん、ちょっと多かくさいね。ちょっと他にげんして、100人以上も亡くなるちゅうことはちょっと、戦争以外にあっとらんけんが。

生垣:当時福富には全部で何人くらい…?

大串:ああ、人口ですか。人口が一番福富のピークで9300人おった。今のがもう5560、これは2000年の国勢調査の人口じゃけん、5563人。もうずーっと毎年減りよる。

生垣:まず半分が女性としてそれから子供がいてって考えるとやっぱり150人は多いですね。

大串:うん。もうしかしば日本も、もう多民族国家になってしまうぎゃ、あんた。人間の増えないば。そいやけん2007年以降はもうずっと一気に下降してくでしょうね。

生垣:やっぱり村は変わってきていますか?

大串:昔からみてや。そりゃあ変わっとくさいね。住宅にしても道路の整備にしても今、昭和の初期に死んだもんの今ひょかっとどん帰ってこらすなら、ほんな、竜宮城じゃろだい。(笑)浦島太郎と同じたい。どうにもなんもね、昔は電話もなかれば、ラジオもない、テレビもないじゃろ。ガスも水道もなかろが。もうほとんどが自給自足体制じゃったけん。そいき今のあん時分の死んだもんのひょろっとでもこらすないば、目の回ってしまう。

奥さん:天気見なんかは昔の人が上手ね。雲のどがんとびよけんて言うたごと。今はもうこのラジオのあんまりはようから騒動してもやいんしてもこうかってごと感じのすんもんね。

大串:昔は情報の分からんやったけん。もう全然、自然状況環境でもうよかれこれじゃなかろうん、状況が分からんもんじゃけん。今のちゃーんと逐一あんた、どこんだれにきよ、緯度何度てのちゃーっと緯度までちゃんと割りだしてくっとじゃけん。

生垣:例えばどういうとき雨が降る、というのは…?

大串:うん、だいたい今んごとこの辺のことわざに、雲の佐賀行け雨土産ち言いよった。そいでこの辺から佐賀方面に雲の行くときや、雨の降るて。そしていろいろことわざのありよったよ。春はや雨難してね。はやん風の春ふくぎんにゃ、雨の降らんて。天気が続くていう。ちょうどそれからあすこの、きりあがりにや、台風のくるってなんでんよう言いよった。いろいろその、自然状況でね。

生垣:これから村はどうなっていくと思いますか?

大串:うん、とにかくもう、ここもほら、町村合併で六町が合併することはもうちょっと協議会が来年の10月までにはちょっと、合併すること決まるけんね。やけん、結局はようなろだい。

生垣:合併後は名前はどうなるんですか?

大串:うん、だいたい市の名称の、アンケート調査であの、募集をしとったね。そいで一番多かったのが、杵島郡、いや杵島市。あいが一番、なんやかんやいろいろ出とったばってんが、杵島市が一番多かった。1700やったかな。そいがほとんど。あとはもう、いくらじゃけど。カタカナのキシマ市があいがいくらやったか、二番目に多かったよ。

生垣:福富町の名前はどうなるんですか?

大串:うん、それはもう福富は町名たいね。それはもう、いつまでも町名。したのあざかれこれはもうずっと変わらじ、ずっとつながっていくわけ。ただその変わるのは、町が市になる段階で杵島市になるわけ。杵島郡が。

生垣:杵島市、福富町になるんですね。

だいたいの質問は終わりました。最後にお生まれはいつでしょうか?

大串:生年月日? 大正10年の2月4日。82歳。

生垣:お元気ですね。ありがとうございました。

 

     感想

最も驚いたのは、大串さんが昔のことを事細かに記憶しておられることだった。具体的な年や名称の出る度に、当時の大串さんにとってそれらがとても印象的なできごとであったのだろうと思えた。雨だったせいもあるだろうが、歩いた六府方は田んぼが並び水が豊富にあって、とても過去は「お天等まかせ」といわれたほどの土地とは思えない。地盤沈下をおこすほど深井戸を掘り、またダムを建設した人々の想像できないほどの苦労と努力が垣間見える。お話を聞きながら、これでは現代の若者が我慢知らずと言われるのも無理はないかと思った。またお話に聞く昔というのは本当におおらかで、しかし今からでは戻れないだろうことがとても残念に思われる。食べられるほどの大きさのフナというのは、是非見てみたかった。

福富は昔は海だった土地も多かったというくらい海に近い町のように思われたが、話を聞くかぎり、少なくとも六府方は海の幸ではなく稲作で暮らしていたというのが不思議だ。

なお、実際にお話を聞いている際はなんとなく感覚で解釈していった方言が多かったのだが、こうして記録として拾おうとするとなかなか聞き取るの難しかった。おそらく聞き取り違いの言葉も多々あると思う。