湯の原の現地調査報告
佐藤淳平
原田峻佑
今回僕たちは佐賀県佐賀郡上熊川富士町の湯の原地区で区長の飯笹増男さんにお話をうかがうことができた。この地区は谷あいの小さな地域で目の前を流れる嘉瀬川を他地域との境とし、上流は小関橋まで下流は清水と呼ばれる山が川岸まで迫った所までが地区の範囲となる。
現在この地区内で使われているあだな
ヒャーシ 「林」がなまったらしい。
清水 湧き水があることからこの名がついた。現在でも使われている。
(シミズ)
昔この地域にあったあだな
*土砂の採取によってかなり地形が変わっている。
苗代(ナエシロ) 村の南西の山にあった田。裏田(ウラタ)、山田(ヤマダ)とも言った。
屋敷の谷(ヤシキノタニ) 南西の山にあった谷。
大谷(オオタニ) 南西の山にあった谷。屋敷の谷のやや下流にある。苗代に行くときに通った。
谷口(タニグチ) 田へ引く出水があったところ。
大谷口(オオタニグチ)
曲渕(マガリブチ)
かつての旅館の屋号
* かつてこの地区は温泉街として栄えていたため、飯笹さんの子供時代には旅館がたくさんあった。
マツカワヤ、シンヤ、フジミヤ、コマツヤ、ヒサゴヤ
戦前は湯の原温泉といっていたが、いつの頃からか熊の川温泉と呼ばれるようになったそうだ。集落は南古賀、西古賀、東古賀の三つに分かれていた。昭和二十年代から三十年代にかけて3回大水害に見舞われている。大正以前には渡し舟がヒャーシのあたりから三十メートルほど下流に行ったところにあったということだ。対岸へ紐を渡してそれを伝いながら渡したらしい。昔は現在よりも水量が多かったため、船で渡ることができたのだ。
農業について
湯の原地区の田は平地部にあり、かつては苗代といった山間部にもあった。
平地部にある一等田では化学肥料導入以前に米が玄米で反当り六俵、麦はよくできたときで四俵取れたそうだ。苗代の田は小さい上に収穫量も少なく二、三俵といったところだった。麦は昭和三十四年ごろ、減反が始まる前までは作っていた。昔は単肥でリュウアン、窒素、リン酸、カリウムを混ぜ合わせて使っていたが今では化学肥料を使っている。いもち病やウンカには昔から悩まされてきたようでかつてはウンカ駆除のために菜種油や機械の廃油を二メートルごとにまいていた。
用水といったものはなく谷からの出水を田に引いているということだった。今は量がだいぶ減ってきているそうだ。十日から二十日日照りが続くと下の田の水がなくなるなど水の量は必ずしも潤沢ではないが過去に水争いが起きたことはないということだった。雨乞いも話が出たことはあったが実際に経験したことはないということだった。用水路の中には以前は沢蟹やハヤ(アブラメ)、イモリやかえる、どじょうもいたが今ではもういないということだった。
昔は農作業に牛が使われていたようだ。昔を思い出しながら「一本の手綱で操作して右へ行くときはマエ、左へ行くときはサシというんだぞ。」と楽しそうに話してくれた。サシのときは牛のお尻を手綱でたたくそうだ。湯の原は牝牛ばかりを飼っていたそうでゴッテ牛をおとなしくする方法は聞けなかった。牛のえさは米ぬかや稲藁、自分の田で刈り取った草を与えていたそうだ。山に草を刈に行くことともあったらしい。
田植えや刈り入れ時にはテマガイといってお互いに加勢しあうことになっていた。終戦以前にはさなぶりもあっておもちやまんじゅうがでてお酒を飲んだということだった。
米の保存はかますに入れて籾殻で覆って保存していた。ねずみ対策はこれといってなかったそうだ。
米を作っていてうれしいことは台風、水害がなく、たくさん米が取れることだそうだ。これを聞いて以前に佐賀県の鳥栖市飯田町を調査したときのことを思い出し、当たり前のことだけれどこれに勝る喜びはないだろうなあと思った。
山林について
湯の原地区の山は村の南西一帯の山で現在はゴルフ場になっていて失われている。かつて、村の共有林は上熊の川にあり、昭和三十年ごろには植林もしていた。木材の切り出しは道に木を敷いて行う「どびき」という手法が用いられていた。薪は一月から二月ごろに自分の山から切り出し、屋根裏に保存していた。
炭焼きは収入が少なく自家生産で細々とやっていた程度だということだった。一方で楮(現地では「かご」という)の栽培と干し柿の生産は盛んだった。かごは200貫ほど取れた。干し柿は一万個ほど取れたそうで写真を見せてもらったところ、いなさがきにものすごい量の干し柿が並んでいて圧巻だった。干し柿の数え方は「連」というのだそうだ。
昔はよく山百合の根やあけび、やまぶどう、やまぶき、つわぶきをよくとって食べたそうだ。
昭和初期の暮らしぶり
当時は暖房として、自分の山から切って来た薪を囲炉裏で焼いて部屋を暖めていた。
道は現在のように舗装されておらず砂利道で、その道を毎日行商人が自転車で干物、乾物、塩漬けなどを売りにきていたとのことだ。
ざとうさんは、年に一度正月のときに来ており、飯笹さんご自身は一,二歳の頃のことなので記憶にないとのことだが、寒い日にやんぶしが来て家の前の樽の水をかぶってお経を上げていたらしい。そのやんぶしには、お経の後にお金をあげていたとのことだ。
三月と九月には薬売りがやってきて、風邪薬や腹痛の薬などが入れてある置き薬の中を確認し、使った分を補充していたらしい。また、置き薬で対処できないような病にかかったときは、地区内にいる町医者に診てもらっていたらしい。
食事は、主食に自分の田畑でとれた米と麦を三:七あるいは六:四で混ぜて食し、おかずには自給できないので町に出て買っていた肉や魚と自給していた穀物や野菜を食していたとのことだ。
昭和十五,六年頃は、独身男性のみが夜に集まる青年宿があり、そこへは個人個人が行きたいときに行って、仲間内で話し合ったり寝たりして過ごし、翌朝家に帰っていたらしい。この青年宿には特に厳しい規律などはなく、制裁を受けるということもなかったらしい。その頃は、空襲などがあったので、あまり遊ぶことなどはなかったとのことである。
お宮の境内には、七,八十キログラムの力石という丸い石があり、男たちが持ち上げて担いでいたらしい。
三人くらいで、他人の家の畑からスイカや大根はよく盗んで、その家の人に追いかけられていたと少年時代のことを思い出しながら少しはにかんで話してくれた。
戦前には、針金で輪を作りその輪を犬の首に引っ掛けて捕まえ、すき焼きのように鍋の中に入れて食べていたらしい。犬はおねしょの薬になる、猫は食べると体が冷えると言われていたらしい。
よその村からの青年と喧嘩することはよくあったらしい。
もやい風呂として温泉や浴場があったらしい。
飯笹さんの青年期はちょうど戦時中で、とても恋愛どころではなかったとのことだ。
農地改革以前は、地主から土地を借りると、小作料として十二月から正月にかけて一反当たり五表の玄米を納めなくてはならなく、農家はほとんど利益がなかったらしい。この小作料は農家が地主と話し合って決めるもので、田によって格差があり上田では五表、下田では三表納めなくてはならなかったとのことだ。
八月二十二日には、温泉祭りという部落の祭りが行われ、青年団が劇をしたり、町芸人を雇ったりしていたらしい。
ここ湯の原は、十二,三戸の南古賀と十四,五戸の東古賀、さらに西古賀に分かれており、特に東古賀は多くの旅館を持つ温泉街であった。この部落では〇、五アール程度の祭り田という部落共有の田をつくっており、三つの古賀間で一年交代で全員参加の神社祭りの当番を決めて、当番になった古賀はその祭り田で、祭りのために米を作っていた。祭りの日には、当番の古賀が朝三時ごろから、祭り田でとれた米を使っておこわを作り祭りの準備をしていた。夜まではみんなでおこわと塩いわしを食べて、夜は酒を飲んでいたようだ。
戦争がこの村に与えた影響は、物資不足や食糧難で、それは昭和二十年代前半まで続いたらしい。また戦争未亡人になられた方も少なからずおられたようだ。
郭沫若と湯の原
僕たちが湯の原に調査にきていると聞いて近所のおじさんが郭沫若さんの古い新聞記事を持ってきてくれた。すぐ近くには郭沫若さんの記念碑もたっており、地域の人は郭沫若さんがかつてこの地域に滞在したことを誇りに思っている様子だった。
郭沫若さんは中国の著名な作家である。1918年に九州帝大医学部に入学したが郷里で17歳のときにかかった腸チブスのために両方の耳を悪くし、医学の道を断念、文学の道を志した人である。熊の川温泉には1924年の9月30日に静養と執筆をかね、妻子とともに身を寄せている。自伝的性格を持った私小説「行路難」と熊の川の山中で書いた「山中雑記」をはじめ、10月19日付の「紅瓜(赤い瓜)」には熊の川や古場の地名が散見される。当時、中国の知識人が日本にあってどのような待遇を受けたか、そのことが彼の精神にどのように作用したか。佐渡の風土が彼等の眼にどのように移ったのか。こうした当時の興味深い「中国人の眼」を理解することができ、きわめて貴重な文献といえるそうである。
湯の原を歩く
聞き取り調査が終了したあと、僕たちは飯笹さんと少し近くを散策することになった。かなり当日は寒くて大変だと思いつつも「現地を見たほうが理解がはやい。」ということで「まあ、行ってみようか。」と思ったのだった。
「昔はこの道が街道だったんだ。」などと聞きながら今では旅館が2,3軒しか残っていない狭い通りを川へ向かって歩き、郭沫若さんの碑を見たあと、川岸の歩道に下りた。渡し舟があった場所を横に見ながら、それについての説明や川の流れが昔とだいぶ変わってしまったことやダム建設で埋没する地域の住民が下流のほうにできた団地に移ってきていることなどを聞くことができた。
だんだん話を聞きつつ現地を歩いていたら「こういうのもいいもんだな。」と思い、やる気が出てきたので、川岸の歩道から階段を上がって今度は「清水」という地名の由来となった湧水をみせてもらうことにした。近所のおばあさんの家の裏手にその湧水はあり、現在でもトタンをかぶせてごみが入らないようにして使いつづけていた。お話を伺うとこの湧水は今まで一度も涸れたことがないということだった。
せっかく現地を歩いたのにその様子を写真として記録に残せなかったのが非常に残念で「カメラを持ってこればよかったなあ。」とかなり後悔した。
湯の原の未来
飯笹さんによると、昔から今まで村はそう変わっておらず、これからも裕福になることはなく、温泉が増えるくらいであまり変わらないだろうとのことだった。