歩き、見、ふれる歴史学レポート(杉山地区)

武田 康隆

 

話者  岡本清二氏

 

村の地名、しこな一覧(カタカナ)

 

(基本的に北から)ウウド、ナカハザコ、セン、ベイダノクチ、マノイ、オオヌカリ、カミマツノダ、トコロノモト、ツカダ、カワラヤキ、マツノダ、ヤシキ、スギヤマフジ(杉山富士)、ショウブダ、ササノモト、クズノモト、

スクノモト(スクノモト峠)、ナガノ、コムギダ、アシワラ、ハタケダ、イケノモト、ケイド、キシダカ、ナカタニ、ヤマクチンタニ(山口ん谷)、ナカンタニ(中ん谷)、シタンタニ(下ん谷)、ナカダニ、タイラ、シモノウラ、ミョウゴイシ、フカフチ、タケイデ(たけ井出)、タキノモト、イデンクチ(井出ん口)、ミヤノマエ(宮の前)、

ブンゴノウエ、トビノス、ヤマシタトウゲ(山下峠)、ヨコミチ、ババ、サワノダ、ヒノクチ、サレバヤマ、タヌキワラ、イシワラ、セキノモト、ウバノタニ、ミョウバオウ、オオイシノモト(大石の下)、コウラ、ヤゴダノクチ、シライシザン   以上。

 

村の水源   

杉山地区は基本的に湿度が多いので、特に水のことで困ることはなかったのだが、水源としては、大串川から関として、フカフチ、タキノモト、井出の口、タケ井出などがある。ここらへんでは干ばつで困ったことはなかったという。

 

水田での収穫

戦前 4〜5俵  現在 8俵

WHY?  

昔は、四月でも霜が降りていて、苗代ができなかった。また、干せる田もなかったので、田植えが初夏まで遅れてしまった。故に秋の収穫が遅れたため。今は、技術の革新で、四月に苗を植えることができるようになった。積算温度の関係で、収穫が多くなるようになった。ちなみに、品種改良によって七月に収穫できるような『七夕コシヒカリ』というのがあるが、これはうまくないらしい。

 

その他、田植えについて

苗代は家の近く。一ヶ月ほど田植えの出稼ぎなどにも行く。下のほう(南の方)では、6,7月に田植えするところもある。六月六日、七日までに植えたら、『節』といい、とても豊作になった。節に植えたら、鎌の葉が折れるといった具合に。六月二十日までだと、『チュウ』といい、このころで上々といわれていた。梅雨の終わりを『ハゲ』といい、ハゲまでには植えないと、大変だったらしい。麦などは、作っていたが、湿度が高いため、難しかった。

 

良く獲れる地域

杉山地区が(今回話をしてくれた岡本さん宅の付近)一番良く獲れる。一反から、昔は5,6俵、現在は10俵ほど獲れる。ハタケダ地域やコムギダ地域は、昔は水があまりなかったため、畑だった。

 

冷害について

昭和38から39年にかけては、共同基金によって農地整備が行われたが、ちょうどその年にはやびえ(冷害)にあい、普段の二割ほどしか獲れず、大飢饉になった。このときは部落の積立金により、しのいだ。この積立金は、森林の木の売却金によるものであった。この基金は、かなりなもので、道路も作れるほどであった。ちなみに同じ時期、隣の七山村では森林の土地ごと売却してしまったため、その後の資産がなくなってしまい、大変な事態になったらしい。

 

干ばつについて

平成6年の干ばつも全然関係なかった。ただ、ハタケダあたりは少しだけ影響があった。この地方では、雨乞いはしない。

 

昔からの言い伝え

カエル深いときは冷害   蜂の巣が高いときは大風   とうもろこしの根が出ているときは大風   カラスが夜までいるときは明日雨が降る   川から湯気が立つときは大雨

 

戦時中のことについて

米などは、調査されていたためなかったので、葛の根(カンネダゴという。黒い)を食べていた。せんいや、でんぷんが多かった。黒いほどいいもの。イノシシが好んで食べるため、いのししがあなをほって 人が怪我したりした。このあたりの方言で、色黒の人のことを『カンネダゴんごとしとっ(かんねだごのようだ)』といっていたりもした。

 

害虫や病気について

害虫はウンカが多かった。対策として、穂が出る前に鯨油を2,3回撒いていた。安価で、とても効果があった。ただ、今は虫が強くなってきている。病気などは昔は全然なかった。

 

その他の収穫物

杉山栗というぐらい、栗が取れていた。野生の栗で、ヤケノクリといい、小さかった。これを売った収入も大きかった。時には田の収穫より多いときもあった。だいたい戦前の金で、三千円ほど、今の金に換算して、三百万ほどであった。十月一日に解禁となり、共有地で大々的に行われていた。主に女性がしていた。栗は早い者勝ちで、一ヶ月ほどとり放題だった。栗は久留米や佐賀から商人が買いに来ていた。また、古湯まで男が売りに行ったことも会った。杉山の栗は杉山で守る、といったように、杉山森林生産組合というのがあった。すべての税を払っていた。

 

冬は炭焼きをしていた。赤炭。収入は米ほどではなかったが、寒いのでいい硬い炭ができた。官庁払い下げの木を使っていた。一人で作ると、約二十日かかった。

 

かまどを作ってはいけない日というのは特にはなかったが、最後の釜うちの日は、大安と決まっていた。また基本的に浄土真宗であったため、三りんぽうには葬式をしない。

 

牛は各家に一、二頭ぐらいだった。去勢は特にしなかった。が、米ぬかを作っているところは麹を作るのに忙しいので、去勢させて、牛を肥育して売っていた。

自然林を切った後、焼畑をしてそばを作っていた。連作はオッケーだった。そば殻などで、どじょうをつっていた。

 

伝説、言い伝え

中谷から、老婆がでてきて、うばの谷に中谷ばばとなり、消えていった。また、中谷に、朝日さす、夕日輝く梅の木の下に財宝があるらしい。ミョウゴノイシではお化けが多発していたため、石に南無阿弥陀仏と彫ったら、よくなった。太刀洗では道に太刀が落ちていた。最後の石は今はなくなってしまった。

鉱山ではケイ石が取れていた。緑柱石が今も残っている。