歩き・み・ふれる歴史学レポート 「須田」 築地孝典
錦戸謙治
お話を伺ったのは、老人会会長 古川勇さん(大正15年7月1日生、矢櫃)と、
区長 光野利行さん(昭和5年2月15日生) です。
こんにちは。おじゃまします。
(私たちが古川勇さん宅に到着すると、部屋には古川さんとその奥さん、そして光野さんがいらっしゃった。自己紹介・挨拶を済ませ、地図をとりだし、質問を開始した。)
しこなを教えてください。
(略)(地図を見て思い出しながらしこなを言っていく。なかなかの記憶力である。しかし、須田は広く、全範囲はわからなかった。とりあえず保留にして先へ進めた。)
谷に名前はありましたか。
谷ねぇ。特別な名前はなかったねえ。地域の名前で呼んでた。
川には。
川は今と同じ。
田んぼには。
あざなで呼んでたな。
山の中に田んぼはありましたか。
山にはなかったねえ。
井手にはどんな名前がありましたか。
名前はとくになかった。
古賀の名前は。
ヤビツとか。
家に屋号はついていましたか。
屋号?屋号はなかったなあ。
大木や岩に名前はついていましたか。
大木・・・はあることはあるけど、特に名前はなかった。
田んぼへの水はどこから引いていますか。
発電所の裏。須田川の水を引いとる。・・・井堰の名前はないねえ。
50年前も同じでしたか。
同じ同じ。場所は少し変わったけど。ちょっと移動した。
水の量は潤沢ですか。
うん。潤沢。
水争いはありますか。
そんなんはない。水は上のほうでずうっと使って、その残りを使ってた。でも争わんでも水はたっぷりあった。
水を分ける上で特別なルールはありますか。
ない。
旱魃のときの思い出は。
旱魃になったことがない。
平成6年の旱魃は。
関係ない。
雨乞いなどの経験はありますか。
雨乞い。うん、明治に旱魃があって、そのときに雨乞いをした。それから毎年10月 にくんちをやっている。
台風予防の神事などはありますか。
ない。
用水路の中にはどんな生き物がいましたか。
どんことか。あぶらめとか。あぶらめ?ハヤみたいなやつ。うまいよ。
昔も今も変わりませんか。
ダム工事でまったくおらんくなった。
田んぼの中にはどんな生き物がいましたか。
ハヤやヤマメ、あとコイ。それとイダ。
川には。
カエルとかドジョウとかタニシとか。けど今はおらんくなってしまった。
麦を作れる田と作れない田はありますか。
あるけど今は作っとらん。
昔は作ってたんですか。
昔は作っとった。
村の一等田はどこですか。
一等田は・・集落沿い。(地図を指しながら)このへん。
昔米は反当何俵でしたか。
さあどれくらいとれよったかなあ。たしかよくて6ぐらい。
悪い田は反当何俵。
3、4くらい。
麦は反当何俵。
よくて4。
そばは。
そばは各自でね、少し作るくらい。
何斗蒔きとか何升蒔きとかいった田はありましたか。
何升蒔きはしたよ。6升くらい蒔く。
直播きでしたか。
いや、直播きじゃなかった。
昔はどんな肥料を使いましたか。
むかしは草を切っていれたり、あと、塩化カリ、カリン酸とか、あとうしのふん。
今は。
今はもう科学肥料。
稲の病気にはどんなものがありますか。
イモチン病、シラハガレ病、モンガレン病。
害虫はどうやって駆除しましたか。
タネ油を田んぼにポタポタ落として、そしたらほら油膜ができるやろ、そして稲を揺らす。そしたら虫が油の中に落ちる。
共同作業はありましたか。
ない。12月の祭り用の田んぼだけ。
ユイやカセイといいましたか。
さあ、知らん。テマガエシっていいよった。
お手伝いの早乙女はきましたか
あまりなかった。
早乙女にいきましたか。(そばにいたおばあちゃんに)
いや、行ったことない。
さなぶりはありましたか。
あるある。
思い出は。
いやもう、酒飲むばっか。
田植え歌は。
田植え歌はない。
飼っていたのは馬ですか牛ですか。
牛。
えさはどこから運んだのですか。
山の草。それを米ぬかと混ぜて。
牛を歩かせたり、鋤を引かせたりするときの掛け声は。
さあ、どうやったかな。もう長いことやっとらんけん。前は「マエ」で・・・たしか右に行くときは「ケシケシ」って言いよったかな。で、左が「トウトウ」。
どうやって手綱を操作しましたか。
一本で。
ゴッテ牛をおとなしくさせるためにはどうしましたか。
タマの根元を力いっぱいしばる。今は去勢してしまうけど。
牛は洗いましたか。
汚れを落とすくらい。川で洗うのは2週間に1度くらい。
草切山はありましたか。
ほとんどそう。
薪はどうやって入手しましたか。
雑木山から。
入り会い山はありましたか。
山の七合目から上はほとんどそう。
そこでどんな作業をしましたか。
杉やひのきを植え、さがり、枝打ち、かんばつ。はは、わからんやろ。それがわかったらすごい。
木の切り出しはどうやりましたか。
昔は山から牛で引っ張ってくる。
川流しはありましたか。
ない。
炭は焼きましたか。
よう焼いた。
収入はよかったですか。
たいしたことない。
自家生産ですか。
自家生産。
山を焼くことはありましたか。
昔はあった。
何をつくりましたか。
そば、いも、さといも、あとあずき。
どれくらいの期間荒らしましたか。
もうやいてすぐそばをまく。そばはまだ火が残っとっても大丈夫。
ソバは反当何俵くらいですか。
2俵ぐらい。
野稲は反当何俵。
野稲は作らん。たまーに作るくらい。収穫が少ない。
キイノはなんという地名ですか。
あちこちでする。ヤオチでしたり。
キイノは民有地ですか、共有地ですか、国有地ですか。
民有地。
草山を焼くことは。
めったにない。
かごは取りましたか。
紙の原料やろ。和紙の。ようとった。
山栗は。
ある。
カンネは。
カンネはない。
山の木の実にはどんなものが。
シイ、カシ、ドングリ、ヤマモモ。
他に山の幸はどんなものがありますか。
タケノコ、ワラビ、ゼンマイ、ウド。ウドは高級品。
干し柿の作り方は。
むいて、縄につけて、干す。
勝ちぐりの作り方は。
ない。
数え方は。
干し柿は連。
食べられる野草は。
フキとかツワ。あと、さっきのワラビ、ゼンマイ。
食べられない野草は。
食べられないのは残り全部たい。カヤとか、たくさん。
米はどのように保存していましたか。
缶に入れて。ねずみ対策にもなる。
米作りの楽しみは。
毎年つくるけど同じようにできない。それが楽しみの一種。どう作ろうかとか、管理も含めて。
苦しみは。
米が安いこと。採算がとれない。
昔の暖房は。
木炭とか焚き火。木炭はいろりに入れて。
車社会になる前の道はどの道でしたか。
今と同じだけど狭かった。
村にはどのような物資がはいりましたか。
魚とか。昔は金じゃなくて米で買っていた。
行商人は。
来ていた。
魚売りはどこから。
たぶん唐津のほうから。玄海灘の魚。
ザトウさんは。
年一回来ていた。
やんぶし、薬売りは。
来ていた。でかいふろしきに薬をいれて背負って。今は車でまわっている。
昔は病気になったときはどこでみてもらいましたか。
個人病院。出張してくる医者もいた。
川原やお宮の境内に野宿しながら箕を直したり、箕を売りに来る人を見たことがありますか。
ある。
その人たちはどこから来ていたと考えられますか。
さあ。どこからか。
米と麦を混ぜたりしましたか。
食糧難のときは、戦時中とか、混ぜとった。
何対何ぐらいでしたか。
7:3か8:2くらい。貧しいところでは半々でいれてるところも。
自給できるおかずと自給できないおかずは。
自給できるのは野菜、卵。できないのは魚、肉。
結婚前の若者たちの集まる宿はありましたか。
あった。
男だけでしたか。
男だけ。女をいれたら大変なことになる。
そこでは何をしていましたか。
わらじを作ったり、農耕道具を作ったり。
規律は厳しかったですか。
とても厳しかった。女と手をつなごうもんなら、非国民って言われた。
上級生からの制裁とかはありましたか。
それはあまりなかった。
力石はありましたか。
お宮に行けば。力試しをするやつ。60kgくらい。
干し柿を盗んだり、すいかを盗ったりしましたか。
干し柿は盗まれたことがある。盗んだことはない。
戦後の食糧難時、若者や消防団が犬を捕まえてすき焼きやなべにしたことはありますか。
よく食べた。うまい。
犬はおねしょの薬だと聞いたことがありますか。
いや、ない。
犬はどうやってつかまえましたか。
えさをやって、警戒しなくなったら。
「よばい」はさかんでしたか。
さかんだった。(よばいの話でしばし盛り上がる。古川さんはいったらしい、隣にいた人も行ったらしい)
よその村から来る青年とけんかしたことはありますか。
ない。話は聞いたことがある。
もやい風呂はありましたか。
全部そう。
恋愛はふつうでしたか。
こっそり。人に見つからんように。
盆踊りや祭りは楽しみでしたか。
楽しみ。他に楽しみがない。
祭りはいつですか。
12月。10月のくんちも。
農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか。
大地主と小作人。6俵とれて2俵くらい納めとった。
格差のようなものはありましたか。
この辺はない。
昔、神社の祭りの参加・運営は平等でしたか。
平等。
戦争はこの村にどのような影響を与えましたか。
勤労奉仕。子供も働きよった。手伝いに行ったり。
村は変わってきましたか。また、これからどうなっていくと思いますか。
見当もつかない。特にいま不景気やけん。政治がよくない。
一通り質問が終わったあと、戦争について詳しく聞いてみた。まず古川さん。
戦争には行ったんですか。
久留米で入って宮崎に行った。
おいくつだったんですか。
19から20歳。もう負けがわかっていた。
どんなことをしたんですか。
爆弾をかかえて戦車に飛び込む訓練。特攻とおなじたい。あと、ダイナマイトの扱い方を習ったり、防空壕を掘ったり。女も竹やりの訓練をしていた。
やはり大変でしたか。
大変。なんといっても食べ物がない。一日14時間、週1回24時間働いた。
つぎに光野さん。
戦争について教えてください。
終戦の年に兵隊の予備訓練に行った。とにかく飯がなかった。練習機がセスナ3機あ
って、もうぼろぼろだった。練習中、1機田んぼに落ちた。とにかくひどかった。終戦し
て、これでいかなくてすむとほっとした。
もっと話したいことはありますか。
いやもう思い出したくもない。
ありがとうございました。
(すべての質問がおわり、昼食となった。時刻は1:30。かなりハイペースで進んだ。昼食には山菜をご馳走してくれた。普段食べなれないものであったが、これがなかなかおいしく、ご飯が進んだ。 昼食後、包括できなかった範囲を調べようと思い、誰か知ってる人を紹介してもらおうと思ったが、詳しい人がお亡くなりになっており、他の人ではわからないだろうということだった。仕方がないので、お礼を言って家を後にした。)
左;光野さん 右;古川さん いただいた山菜料理