下無津呂レポート

調査者:古賀 健明
高村 直宏

調査内容

私たちは、富士町の下無津呂に調査に行った。下無津呂という地域は空気が澄んでおり、そのせいか気温が低く少し肌寒かった。調査前に、私たちは満行喜子さんという方に手紙を送った。その後、一通のお手紙をいただいた。(下記参照)

手紙の内容によると、下無津呂についてはあまりよく知らないということで、外尾栄大郎さんという方を紹介してくださるとのことだった。大変達筆な字だったので、どんな人なのか調査に行く前はちょっと緊張していました・・・

12月23日

AM 8:30  九州大学出発

AM 10:00  下無津呂到着

AM 10:20  満行喜子さん宅に到着

その後外尾栄大朗さん宅を紹介していただく

AM 10:40 調査開始

☆ 地名

妙珍田山、ヒコタンド、川曲、一本杉、カクラ、ハシバ、一本松、ウチノ宇土、セフクラ、辻の上、ナゴウサ、野ノ木原、西ノ又、横ミノ、水汲

☆ 下無津呂の人口

昭和20年 男190人 女223人

現在 206人 59世帯

ちなみに富士町全体では5056人 1385世帯

☆ 質問応答

Q 田んぼへの水はどこから引いているか?

A 昔水路があってそれを使っていたのだが、今は田んぼがなくなって使わなくなった。

Q 水を分ける上で特別なルールはあるか?

A 上流のほうから取っていっていた。水を分ける上での争いごとは特になかった。

Q 用水路の中にはどんな生き物がいたか?

A タニシなどがいた。

Q 麦を作れる田と作れない田はあったか?

A 麦は安いから作らなかった。

Q 田植えはせずに直播きだったか?

A 最近は直播きがはやっている。

Q 昔はどんな肥料を使っていたか?今は?

A 昔は山草を切って田んぼに入れていたが、今は化学肥料を使っている。

Q 稲の病気にはどんなものがあったか?

A 稲熱病なんかがある。(【稲熱病】イネいもち病菌の寄生によるイネの病害。感染は分生胞子による。普通、葉に褐色・紡錘形の病斑ができ、中心部から白化し、次第に茎や穂に広がる。感染株でさらに胞子ができ、二次感染が起こる。イネの病害では最も多く、低温多湿の年に多発しやすい。)大辞林より引用

Q さなぶりはあったか?

A 家でしたり、仲間でしたり。田植えが遅れた人のお手伝いとかもした。

Q 田植え歌は?

A 他の地域に比べるとはやらなかった。でも歌っている人もいた。

Q 飼っていたのは牛か馬か?

A 牛は以前いたが今はほとんどいない。馬は元々少ない。

Q えさはどうしていたか?

A 野草や稲わらを使っていた。

Q 草切り山はあったか?

A 田んぼにあり、部落の共有地だった。

Q 薪はどうやって入手したか?

A 入り会い地から取ってきた。

Q 入り会い山はどこにあったか?

A 一本松に多かった。(地図記入済)

Q そこでどんな作業をしたか?

A 薪を拾ったりしていた。

Q 木の切り出しはどのように行っていたか?

A 川流ししたり、人間が肩に乗せて運んだり、牛を使ったりした。

Q 炭は焼いていたか?

A あまり作らない。作ってもあまり儲からないからね。

Q 山を焼くことはあったか?

A あった。

Q そこで何を作ったか?

A 採草地にして牛のえさなどを作っていた。

Q かごは取ったか?

A 各家で取っていて、かなりの収入になることもあった。

Q 山の木の実にはどんなものが?

A カンネ、ササグリなど

Q ほかの山の幸はどんなものがあったか?

A アカナワ(きのこ)、クラゲ、ガネブ(ブドウ)など

Q おかしはあったか?

A 干し柿などがあった。

Q 食べられる野草は?

A アザミ、セリ、ヨモギ、ナズナなど

Q 食べられない野草は?

A 少ないがあった。

Q 米はどういう風に保存したか?

A 天井裏に保存した。囲炉裏を燃やして乾燥させた。

Q 昔の暖房は?

A 囲炉裏。寝るときはコタツ、湯たんぽ。−13℃にまでなることもあり、とても寒かったので防寒具は必需品!

Q 車社会になる前の道はどのような道か?

A 大正9年にできた。荷車、馬車がとおるような道だった。

Q 村にはどのような物資が入り、外からはどんな人がきたか?

A 干物など何でも手に入った。唐津からは物売りがきていた。ザトウさん、やんぶしなどもきていた。ザトウさんは年一回各家を回っていた。

Q 昔は病気になったときどこで見てもらったか?

A おまじない中心だったが、医者もいた。

Q 箕を売りにくる人を見たことがあるか?

A めったにない。

Q 米は麦と何対何で混ぜたりしたか?

A 半々もしくは4対6で混ぜていた。

Q 自給できるおかずは?

A タニシ、ニワトリ、大豆など

Q 自給できないおかずは?

A 魚類は自給できない。

Q 青年クラブはあったか?

A わっかし宿というのがあった。男だけで上下関係も厳しかった。

Q 力石は?干し柿を盗んだりは?

A あった。干し柿はズボンの中に入れて取ったりしていた。(笑)

Q 戦後の食糧難のときどうしていたか?

A 犬猫を食べることもあった。

Q 犬はどうやってつかまえるか?

A 自分の家の犬を捕まえて食べることも。

Q 夜這いはさかんだったか?

A 相方の合意があればやっていた。

Q よその村からくる青年とけんかしたりは?

A あまりそういうことはなかった。

Q もやい風呂はあったか?

A たくさんあった。

Q 恋愛は普通だったか?

A 普通だった。いつの時代も同じようなもんだよ。

Q 祭りはいつあったか?

A 9月14日。

Q 農地改革前の小作制度はどのようなものだったか?

A 地主と小作人がいて、三分の一は自分の田を持っていない小作人だった。不作の時などは地主さんに小作人が集まって、税を負けてくれと要求をすることもあった。

Q 昔神社の祭りの参加・運営は平等だったか?

A 運営側とでご馳走が違ったりした。

Q 戦争未亡人や靖国の母は?

A 戦死者の数は少なかったがいた。

Q 村は変わってきたか?

A みんな福岡とかに勤めに行ったりして、少子化が進んでいる。

PM 12:30 調査終了

☆ 感想

私たちは、普段の日常生活では体験できないことを体験できたように思う。周りを囲む山、静かに流れる川、澄んだ空気に存分に触れる事ができた。そして、村の人たちの温かい心に触れる事ができ、本当によかった。満行さんは料理がとても上手で、達筆で、親切にしていただきとてもうれしかった。ゲートボールをやっているそうで非常にお元気だった。調査が成功するか不安だった気持ちもすぐになくなり、のびのびと調査する事ができた。88歳の外尾さんは高齢にもかかわらず、大変博識で、非常にはっきりとした口調でお話してくださり調査しやすかった。たまに分からない佐賀弁もあったが・・・。外尾さんは昔は地元の消防団の団長をされていたそうで、色々古い資料なども見せていただいた。下無津呂は少子化が進んでおり、今後どのようになっていくか不安もあるが、もっと若い人たちを中心にこの村を活気づけて欲しいと思った。