【佐賀郡富士町大串】
佐賀郡富士町大串字現地調査レポート
1NC02010 佐賀里 有加
お話を伺った古老の方々:
江口 和磨さん 大正6年 3月生まれ
江口 伊津代さん 大正13年 4月生まれ
立石 安次さん 昭和2年 9月生まれ
田中 政見さん 昭和3年 3月生まれ
(五十音順)
到着したのはダムに沈む予定になっている富士町大串村であった。私と経験豊富な院生の渡辺さん二人組は、とぼとぼと村への道を進んでいったのであった。さてさてふと横を見ると、とってもおいしそうな野イチゴを発見。真っ赤な実がおいしそうに熟していて、それがいくつもいくつもあるのである。
(写真アリ・省略:原本は佐賀県立図書館所蔵)
地図の見方を知らない私は、のんきに渡辺さんの後をとことことついていく。商店で道を聞き歩くこと10分あまり、目的のお宅に到着。しかし予定時刻は10:30過ぎ。到着したのはなんと1時間近くも早い時間で、ちょうどお留守であった。対応してくださった奥様に礼を言いながら、しばらく待たせてもらうと、私の申し出を快く引き受けてくださった田中政見さんがあらわれた。そして、わざわざ西の谷に詳しい方の元へ連れて行ってくださった。運転してくださる田中さんに西の谷と古賀の境界の話をしていただいた。「私が生まれたのはこっちですけん、西の谷のこたあわからんとですもんね。昔はこの地域は二つの村に分かれておって、財産とかはお互い別々に管理しておったんですよ。お互い敵対しとりましたもんね。でもですね、今はそんなことはなかとですよ。」と穏やかな口調で話してくださった。今は一つの村でも、昔は二つの村に分かれていただけあって、西の谷まで結構な距離があった。
外におりると、そこは村の集会場。年配の男性が1人でてこられた。さらにもう1人。そして、年配の女性がさらに1人。なんと西の谷に詳しい方とは、この3人の方々を指していたのである。2対2ぐらいを考えていたのに、にわかに2対4になってしまい、突然緊張してきてしまった。その緊張をほぐすかのように、年配の女性(江口 伊津代さん 大正13年 4月生まれ)が、お茶やみかん、クッキー、しろぼうなどを勧めてくださった。非常に若々しい方で、生年月日を伺うまで年齢がわからなかった。どうやってしこなについて説明しようかと思っていると、渡辺さんがよどみなく説明を始めた。渡辺さんの説明が上手かったことと、私が図書館で借りていた服部先生の「二千人が七百の村で聞き取った二万の地名・しこな」の中の解説の部分をもっていき、回し読みしていただいたこと、この2点によるところが大きいと思う。
ゲンネンフチ・・・ゲンネンさんが、昔その場所で心中したという伝説。
リュウキチオトシ・・・昔、野狐(やこ)に騙されたリュウキチさんが死んだところ。
ナタナギ・・・ナタをそこで投げた。
クリナミヅキ・・・大串と栗並が水を分けたところ。
マンコンタニ・・・女性の陰部を意味する俗語。
ソラ・・・非常に高い山の頂上で、そこから空に手が届きそうなところから。
ベンジャサン(ベザイテン)・・・山の頂上で弁才天が舞い降りるほど高いところから。
ノクキ・・・なし
ヤコウジバクケ・・・なし
ゲト・・・なし
クイワラ・・・なし
ヨンク・・・なし
ウーフケ・・・なし
カミダケノツツミ・・・なし
ナガムタ・・・なし
オーセンサコ・・・なし
ウータニ・・・なし
コトウゲ・・・なし
ミミズヤマ・・・なし
コジャンコマ・・・なし
トリゴエ・・・なし
トリゴエト・・・なし
カワラダニ・・・なし
オフナゴ・・・なし
ノチノモト・・・なし
グチ・・・なし
シイノキ・・・なし
ヒワレダ ・・・なし
カキナイ・・・なし
カワラダニ・・・なし
トウシュコウ・・・なし
イデクチ・・・なし
シチロウシャ・・・なし
ヤナギンタニ・・・なし
ゴンゲンダニ・・・なし
シオダケノツツミ・・・なし
ハヤマンタニ・・・なし
サコマエ・・・なし
ドウノモト・・・なし
ムンノマエ・・・なし
ウエンヒラ(オテランマエ)・・・なし
ムコ・・・なし
ナナマガリ・・・なし
サカイノ・・・なし
ツヅラ・・・なし
サカイノタニ・・・なし
オオツキ・・・なし
ハチケンイシ・・・なし
マツノコガ・・・なし
タイラコガ(平古賀)・・
三光井田・・・なし
イフモト・・・なし
ウランタニ・・・なし
シチロウサン・・・なし
フチイシ・・・なし
ショウゴイシ・・・なし
オオゴチ・・・なし
フキンサコ ・・・なし
サンネンミソ・・・なし
メブチ・・・なし
シイノキダニ・・・なし
ヒコタ・・・なし
ユミフチ・・・なし
タキフチ・・・なし
「ゲンネンフチ」にはゲンネンさんが、昔その場所で心中したという伝説があるそうだ。
「リュウキチオトシ」は昔、野狐(やこ)に騙されたリュウキチさんが死んだところであるが、今は野狐ではなくイノシシがよく来るそうで、福岡、主に前原から軽トラ5,6台できて、そのたびにイノシシ4,5匹は取れているそうだ。
「クリナミヅキ」は大串と栗並が水を分けたところである。つまりこの二つの地域においては水争いがあったといえるだろう。 S15,6年まではコンクリートの堰があったところで、現在は夏のみ水を分けているそうだ。水泥が多かったので、役所から役人が2人来て、ずっと水を見張っていたと聞いた。つい、お役所のかたは大変だなあと同情してしまった。古老の方々が記憶されている中で2回の渇水がおきたが、S53年の渇水のときには、少し豊作であったそうだ。私はよくわからなかったのだが、植物は太陽の光を浴びれば浴びるほどよく生長するため、湿田などではそういったことが往々にしてあるらしい。ちなみに1田で10俵取れれば万作と呼んでいたが、普通は7俵、よくて8俵だったそうだ。S40年ごろから機械を使っているが、機械を使っている現在よりも、牛を使っていた頃のほうが、収穫がよかったというお話を問いたときには驚いた。作業能率が上がった代わりに、土の回復能力や保温機能等にダメージを与えてしまったのだろうか。
農薬としては、菜種油、鯨油、灯油を撒いていたそうだ。竹に油を注ぎ、穴をあけて撒いていたらしい。農具も手作りだったのだろう。なぜ、油が農薬になるのかについては、油が水面に広がり、虫の羽に油がついて飛べなくなるからだろうということだった。ちなみに鯨油から発展して、鯨油のかすはおいしかった、今は鯨もめったに食べられない、捕鯨しないと魚がとれなくなるなど、鯨の話にもなった。
キトンキトン(シシオドシみたいなの)や、水車で精米を行っていたらしい。ちなみにS38年の大雪の頃までは、自分の家の堅田で大麦、麦を作っていたそうだ。もったてで畝をわって鍬で種をまき、肥料には牛の肥やし、人間のシモを用いていたらしい。麦は冬の間に踏み、強くしていたそうだ。
田んぼの話が出てきたので、田んぼといえば牛という流れになった。やはり生活に密着しているものであるためか、みなさん口々に話を始めた。牛は少なくとも一軒に一頭おり、大概ははじめに子牛を二頭飼っていたそうで、ウノ牛が産んだ子牛は売っていたそうだ。もとろん、コッテ牛が扱いにくいのでウノ牛だけを飼っている家もあったが、その場合はタネツケさんが人工授精をしに来てくれていたので困ることはなかったそうだ。それより昔は、コッテ牛がいる家までウノ牛を連れて行ったらしい。特にコッテ牛は良く売れたそうだ。牛を競りに出して話がまとまったときに牛酒を飲み、成立したとき手をたたく牛商いを行っているが、昔はバクロウ(バクリュウ)さんばっかりが牛商いをしていた。バクロウさんのこととなると、みんな口々に「バクロウさんは、自分の牛のことはよかとこばっかりしか言わんけんね。ほんとよかとこばっかり。」とおっしゃっていた。バクロウさんには口が達者な人が多かったらしい。ちなみにバクロウさんとの牛商いでは、日の挨拶だけをいい、その後は手を握って(半纏の中に手を入れて、金額を見る)牛の金額を交渉したそうだ。(例:親指は10万、薬指は・・・。)
それから私の予想に反して、みなさんは扱いやすいウノ牛よりも仕事がさばけるコッテ牛のほうを好んだらしい。立石さんによれば、「一流の牛はいないから人間がしつけねばならない。」らしく、食べ物に弱い牛の特性に付け込んで、しょうが酒をのませるのだという。しかし、やはりそれだけでは言うことを聞かないので、棕櫚で縄をなって鎖がわりにするのだそうだ。いまでも個人の家にある棕櫚の木の皮は、腐りにくいという性質を持っている。普通は小指くらいの縄になるように3つに縄をなうが、特別頑丈なのは、9つになう。ちなみに棕櫚の木とは、よく学校の校庭に植えられているやしの木みたいなもの。余談ではあるがその昔、私は棕櫚の実は、大きくなるとやしの実になるのだと思い、落ちてくるのを楽しみにしていた。このような鎖をされた牛をはなきれ牛というが、あくまでこれは、コッテ牛の場合のみに行う。ちなみに、言うことを聞かない人間のことをコッテ(手におえない、頑固者の意味)とよんだ。このレポートをしているときに知ったのだが、コッテイウシ(持牛)、コトイノウシという言葉が、古くは万葉の時代に存在し、そのとき既に「重荷を負う牡牛・強健な牡牛」という意味をもっており、伝統ある言葉なのだと知り、大変驚いた。(ウノ牛については、情報無し。)棕櫚の縄を使っても言うことを聞かないコッテ牛には、ハナグマとよばれる樫の木の棒で両端を鋭く尖らせたものを鼻に入れた。こうすると、直接鼻に突き刺さって痛いので、牛が言うことを聞くようになるらしい。ほとんどの場合、綱だけでは牛は人間にはむかってくるから仕方がないということだった。
コッテ牛の仕事には、今現在はシャクドウと呼ばれる機械を使って行われる材木ひきがあったらしい。これらの牛のことを、ドウビキ(材木を引く人をドウビキと言う)牛と呼んだそうだ。ドウビキ道はとても急なので(距離があってなだらかな道よりも急だけれども、距離がないほうが好まれた)、コッテ牛以外ではできない。ドウビキ牛は慣れているから、ドウビキ道を自分で行って、自分でとまる。ドウビキ牛は個人の持ち物だったそうだ。普通の牛には、買ってばかりいた麦やふすま、藁などを食べさせていたが、ドウビキ牛には屑米を炊いたものや、ご飯に塩をかけたものなどご馳走を食べさせていた。やはり、動きが違うということだった。ちなみに、ご飯に塩をかけたものはやせぎすの人間にもやっていたそうだ。立石さんは、このドウビキをなさっていたそうで、熱心に話してくださった。それにしても、立石さんのところはよくしつけが行き届いているようだった。
農家の方々は牛を大事にしておられたようで、牛のつめが丸くなってしまうのを防ぐために牛の靴とよばれる藁で作った靴を履かせていたそうだ。またダツクリ(ダツクロイ)といって、1年に2回夏使う前と使った後に、バンシャ(獣医)が注射をしたり、つめを切ったり、人間でいう針治療を行ったりする。牛も気持ちいいらしく、針治療の際はじっとしているそうだ。また、だにおいと言って牛に藁をかぶせてだにを追い払っていたらしい。
公役として萱切りがあり、この作業には男女の区別はなかったそうだ。萱きり場にはヨケ石(ヨケは、休むの意味)とよばれる石があって、萱を運ぶのに疲れたらそこで休憩していたらしい。意外にも、萱は藁よりも強度が強いそうだ。当時、萱は茅葺屋根を作ることに用いていたが、現在はほとんど作っていないらしい。佐賀の文化財として作ってほしいと言われたこともあるが、慣れた者でないと無理だし、作ることができるのは高齢者ばかりなので、実質的に復元は不可能なのだそうだ。しこな調査をしていく中でよく思うことなのだが、一つ一つの地域の文化が失われていくのを黙って見るのが非常にやるせないのである。
野焼きは、男女全部出て焼いても1目がかりだったそうだ。田中さんがS47年8月、杉のしたがえ(公役)に行った時、鎌で切っている途中に雷が落ちて隣の人が亡くなってしまい、自身も一命は取り留めたもののしばらくショックでおきられなかったそうだ。
自然の力が脅威であったこの地域では、雨、雪の影響が大きいものがあったらしい。S29年の大型台風(宮崎から佐賀に直撃)により、水害が起きた。稲がうれるころの9月、10月あたりに台風が直撃し、シモの方の堤や堤防が切れてしまったため、たいがいの物が流されてしまったそうだ。古老の方々は「戦争に負けて、神風が日本に来た」と言って笑っていらっしゃったそうだ。
また、今でも雪は降り積もるが、昔ほどではなくなったそうだ。昔は、雪が膝くらいまで降り積もったらしい。S38年には雪崩騒動(僻地の子供を家に送りかえったあと、ホワイトアウト状態に陥り、遭難してフラコヅミに落ちて死亡した中村先生の話。現在もその小学区には中村先生をしのぶ石碑が置かれている。)が起こるくらいだった。昔は、黄砂の混じった黄雪、赤雪(桃色をした雪。古老の方による詳細は不明だが高山に生息する藻類の影響と思われる。)も降っていたそうだ。雪は一度降ると半月は降り続き、1メートルのツララができるほどだったため、アシナカと呼ばれる、草履の半分が割れたがんじきのようなものを履いていたそうだ。これは雪の中を歩くぶんにはいいが、解けかけの雪の中を歩くのには向かなかったらしい。また雪の日には、さすがにテレビを見ながらでは仕事ができないので、ラジオを聞きながら土間で田んぼに使う縄を編んだそうだ。また自分の家は寒かったが、作業場では生木が焚いてあって暖かかったのでわざわざそこに通っていたらしい。
ここで、渡辺さんは文化の鍵となる「紙」について質問を開始した。この間、知識のかけらもない私は、聞きかじった言葉でしか質問できなかったことは割愛していただきたい。紙の原料としては、夏は麻、冬は楮を栽培していたらしい。楮は畑のあぜに、麻は畑に植えて(垣根の代わりのようにして)、栽培していたそうだ。植え替えをしなくても良いので、米を作るついでの収入源だったらしい。話を伺った際に私は知識がなかったのでいまいちよくわからなかったのだが、紙の原料になるのは枝(茎)の部分であり、その他の葉は不必要らしい。落葉樹である楮はほうっておいて良いが、落葉樹でない麻の場合、高い桶をかぶせて日光を遮り人間が自分で落とすそうだ。皮はぎを行う際には、材料を煮るなべの上に大きなかごを置いて、一緒にさつま芋を蒸し、上から桶をかぶせておやつにするのが楮蒸しの楽しみだったそうだ。この紙の原料作りは、手入れが必要な麻ははじめからユイし、手入れは楽だが、冬の寒い中での皮はぎは大変なのでそこだけユイしていたそうだ。
話は戻るが、ナホガミという和紙生産の有名どころが楮を買いに来ていた。一度に楮は60キロを売り渡していたそうだ。いい収入源になっていたそうなのだが、実際に金として貯めていたわけではなく、そのお金でそのまま製品を買っていたらしい。「障子買い」といったそうだが、私は単純に物々交換と理解した。渡辺さんによると三椏はお札を作る原料であるが、ここではつくらなかったようだ。
ついでに養蚕のお話を伺ったが、ほとんどやっていなかったらしい。養蚕を行っていた家では、その家の女の人が織物を織っていたため、染屋さん=クル屋さんがあり、宮本さんという方が有名だったそうだ。興味深いことに、この宮本さんに染物を頼んでいても、期日どおりにでき上がっていることは少なく、口癖は「明後日できる」だったらしい。
紙の原料について聞き出した渡辺さんは、さらにうるし等についても聞きこみを開始した。さすがは渡辺さん、慣れたものである。しかし、古老の方々の答えは非常にあっさりしたもので、うるし、はぜ、などのかぶれる系統のものは、栽培していなかったし、取れなかったそうだ。ちなみに、ろうそくの原料であるはぜを栽培していない代わりに、椿油を使ってさまざまなことに用いていたらしい。椿の実は個人で所有している木から、個人個人でとっていたそうだ。もちろん油を搾る際も個人で行っていたらしい。椿油からは、ろうそくのほかに整髪料として使っていたそうで、「髪が本当に黒々となってきれいだったんよ。」と伊津代さんは楽しそうに語っておられた。また、和磨さんは椿油の油粕で髪を洗うとよく汚れが落ちるとおっしゃっていた。おそらく、使用済みの食用油から石鹸を作るように、シャンプーとしての働きをしていたのだろう。もちろん椿油を食すことも可能。
また、山にはスミヤキやさんがいたが、自分のうちの木炭は、自分でつくっていたそうだ。また雑木山の材木は水が多かったらしい。
子供の頃、電気は朝起きる頃に供給され、夜寝る頃には供給がストップしていたらしい。しかもしょっちゅう停電がおこっていたが、九州電力ととうほう電力が合併してからは、このような停電がなくなったとみなさんにこにこして話しておられた。当時は、電力泥棒を取り締まるため、役場が用意した左ねじの電球でないと使えないことになっていたそうだ。普通は右ねじの電球をわざわざ左ねじ専用にするという徹底ぶりをみても、水泥棒同様深刻な事態であったのだろう。昔は電気代があれば生きていけたそうで、自給自足の生活ができていたらしい。
学校に通っていた頃は、柿木に登って、柿泥棒をしていたそうだ。その他に、あけび、きいちご、野いちご、ぽんぽんイチゴ(きいちご、野いちごの冬バージョン)などを食べていたそうだ。しかし、伊津代さんは「いまどきの子供は、机の上に柿やら干し柿やらを置いておいても見向きもしないもんねえ・・・。」とさびしそうに呟いておられた。一瞬場がしーんとなり、それぞれが思いを馳せていらっしゃるようだった。みなさん、お孫さんのことを思い浮かべていらっしゃったのだろうか。
最後に私たちは、お話を伺った地域を一部見てから帰ることにした。というのも、西の谷は日本の棚田100選に選ばれており、この機会に見ておきたかったのである。(調査直前詰め込み知識による。)公民館を出て目の前に棚田はあった。しかし、棚田はダムの整備によるものだろうか、その面影を残しているものは数えるほどしかなかった。
(写真アリ・省略)
お話を伺った古老の方々
(写真アリ・省略)
写真左より、江口和磨さん、立石安次さん、田中政見さん、江口伊津代さん
本当にありがとうございました。