富士町大野の昔と今

調査者:古城麻里絵・古庄加代子

 話者:中島真澄さん(昭和2年生まれ 76歳)

 

◇小字やしこなについて

  調査当日(12月28日)は運の悪いことに雪が降っており、外に出て見てまわるこ

  とが出来なかった。また、このあたりは3年ほど前に土地がかさ上げされたために、

  なくなってしまったものも多くあるとのこと。

 小字中原のうちに

ウランタニ(裏ノ谷)→中原(大野の北にある集落)の下無津呂橋付近にある一軒茶屋の裏あたり。地図上に示す。

  コウヤンドウ(高野ノ土)→中原の北川橋付近で、神水川の東岸あたり。地図上に示す。

 小字大野のうちに

  マエダ(前田)→かさ上げ(埋め立て)によって消滅。いまは住宅に。

  タケノタ(岳ノ田)→「山のずっと上」で、中島さんも田んぼを持ってらしたそうです。

  ゴタンガク(五反ガク)→春日神社の裏手のほう。地図上に示す。

  キャーゴミ→中学校のそばに堤があって、そのあたりらしい。

  コトサンダ(コトサン田)→「おことさん」という人がいて、そこの家の田んぼ。も

うない。

  ヘイチャンダ(平チャン田)→平ちゃんという人(有名な人だったらしい)の田んぼ。

  ヒラキ→田んぼがひらいたところではないか?

  シラツチ(白土)→白い粘土がでていたから。学校が終わったらよく取りに行って、いろいろ作ったそう。中学校付近。

  牛市場→今NTTの電話交換所があるところにあった。牛の市が月に二回くらい。

    金福寺→正応3年の創建。江藤新平が脱藩の罪で同寺に蟄居、2年余りの生活を送った。(『日本地名大辞典 佐賀県』より)その間、子供を集めて寺子屋ように教えていたそうです。

  役所→代官所。文化財に出した。

  タカヒラ(高平)→国道で切り取りされているところが、高平という集落だった。家が17戸くらいあった。

  チョウチンエ→ちょうちんの張替えをしていたしていたところ。

  ナカンエ→屋号とまではいかないけれど、一軒一軒名がついているやつ。

  キンドンエ→高平の入り口付近にあった。

  トンモト畑→切り取りしたところの下。地図上に示す。

*中原と大野の境目は『中原橋』で、春日神社や中学校は完全に大野、小学校は中原だが少し大野に入っている部分もある。

 

 

◇稲作について

  田んぼへの水は、川から引いている。大きい川という意味で、「大川」と呼んでいた。昔から北川橋のたもとにある大野井堰から引いている。水の量は潤沢で、水争いなどはなかった。旱魃の時は山からの水が少なくなり影響はあるが、雨乞いはしたことがない。ただ、台風予防として『はっさく祭り』がある。これは毎年9月1日(2百10日ごろ)に春日神社で行われている。

  用水路や川の中には、ハヤ・アブラメ・ドンコなどがいた。「一軒茶屋の上に生コン(生コンクリート)を使った水を流すけんが、大きいのがいなくなった。」そうです。田の中には、どじょう・たにし・カエル・蛇などがいた。「たにしはおいしかったよ(笑)。もう今はたにしとか何とか貴重品じゃもん。昔はどこん田んぼ行ったっちゃおったもん。」

  昔は麦を作れる田と作れない田があった。昔はどこへ行っても麦ごはんばかりだった。小麦は粉を挽いてまんじゅうなどを作ったそうです。むらの一等田は、「小学校の下、中学校の前あたり(地図に示す)」。 収穫量で五等まであった。固定資産税とかも、一等と五等では差があったそうです。昔(化学肥料の導入以前では)米は一反当たり五俵くらい。悪い田なら四俵とれればいいほう。麦は米より少なかった。米は苗代を作って手植えばかりだった。

  稲の病気で一番多かったのは『いもち病』で、稲が赤くなって枯れてしまう病気です。驚いたのは、害虫対策。鯨の油を使うのだろうと思っていたが、なんと重油を使っていたそうなのです。田んぼにたらたら落としてまわって、手で油水を両方にかけていく。つい「重油をまいて、稲は大丈夫なんですか?」と聞くと、「そりゃあ余計まくわけじゃなかけん」と笑っていらっしゃいました。昔はこの方法で害虫が結構死んでいたそうです。

  共同作業は『てまがい』と言った。田植えに人を雇ってする人もいたが、お手伝いを早乙女とは言わなかった。さなぶり(田植えの後のうちあげ)はご馳走を作って、お酒を飲むのがほとんどだった。田植え歌はあることはあったそうだが、よく覚えていらっしゃらないようでした。太鼓や鐘などは使わなかったそうです。ここにはなかったが、石川という部落には風流(ふりゅう)があった。

  この辺では、飼っていたのは牛ばかりで、えさは山から草を取って来たり、稲わらにぬか(お米を精米したら出てくる)をまぜてたべさせたりした。牛の手綱は一本でした。牛を歩かせたり、鋤を引かせる時のかけ声は、右が『キセキセ』左が『サシサシ』。牛はそれでちゃんと分かるのだろうかと思い聞いてみると、「それで行きよったもん」と!!

 ゴッテ牛(中島さんは「コッテ牛」とおっしゃいますが)をおとなしくさせる方法は、「金とりと言ってから、金ば抜きよったたい。」と。気が荒いのは何かすると人間にしかけてきたそうです。牛は、夏に川に連れて行って洗っていた。体いっぱいきれいに洗ってあげていたそうです。10日に1回くらい。馬じゃないから蹄鉄はもちろんしないが、足にわらで編んだものをはかせていた。

 

 

◇生活・文化について

  薪は雑木を使っていました。昔はガスがなかったから、薪でばかりだったそうです。山のほとんどは共有の山で、120町(≒1200アール)ほどある。そこでは、杉の下刈り、大きくなったら枝うち・間伐。材木は牛で運んでいました。今は山の中に2メートルぐらいの道を作って、林内車で運んでいる。川流しはしなかった。

  炭焼きは、昔はしていました。戦時中は木炭車ばかりだったため、収入は良かっただろうと思われます。自家生産ではなく、『炭焼きさん』がいたそうです。

  焼畑はあって、ソバを作っていました。反当何俵だったかは分かりません。キイノは、民有地も共有地もいろいろあったそうです。昔は肥料の代わりに草を切って田んぼにも入れるし、牛の飼料にもしていたから、春になれば野焼きと言って、草山を焼いていた。かごは今ごろの時期(12月)になったら大きい鎌で切って、皮をはいでいた。紙をすく人が買いに来ていたので売っていた。今でも大和町のナオ(漢字は不明)という部落に谷口さんという人がいて、紙すきをしているそうです。

  山栗は食べていた。カンネはあまり取らなかったが、根を石の上でたたいてでんぷんをとってだご汁にするらしい。どんぐりもさらしたら食べられるとは言うけれども、食べたことはなかった。山の幸は、山芋・わらび・ぜんまいなど、今もあるようなものならあった。干し柿の作りかたと数え方(連)は今と同じ。「晩には、柿の皮を剥くばかりだった」。

  勝ち栗というものは知らない。食べられる野草は、アザミ。彼岸花は食べられなかった。薬にはなっていたそうですが。

  米は、自分の蔵に保存していた。兵糧米も一緒。昔は国に米を出すのを徴出と言って、割り当ててきていたから、たくさんとりあげられていた。今は余ってばかりだが。ネズミ対策としては、杉の葉をさしておけば(尖っているから)ネズミが入れなかった。二十扉はしていなかった。米作りの楽しみ・苦しみは何だったかと尋ねたところ、「楽しみちゅうこたなか。苦しみばっかりやったろたい(大笑)。」という答えが返ってきました。山の草刈りは大変だし、稲も手で刈っていたし、一日中だこきを踏むのがきつかった。それに、昔は田んぼに入るのに今のようなゴム靴がなかったため、裸足で入らなければならず痛かった、など、なるほど辛い思い出をたくさん持っておられるようでした。どれも経験したことのないことばかりですが、お話しになる調子から、その辛さが伝わってくるようでした。

  昔の暖房は、囲炉裏を作って薪をたいていた。そしてその囲炉裏で何でもたいていた。三年ほど前までは残していたが、かさ上げで家を今の場所に移した時に壊してしまったそうで、とても残念でした。車を使うようになる前はバスを使っていたが、それ以前はすごく狭い道や峠道を歩いていた。村には唐津から魚売りが来ていた。イワシ・塩鯨・ヤマメなど。また、ザトウさんと言って、カマドにお経をあげる目の見えないお坊さんが、年に一度琵琶を持って来ていた。ザトウさんは、ご飯を食べさせてもらい、泊めてもらえて、良い待遇を受けていたようです。薬は、入れ薬やさんがあって、キヤマ(漢字は不明)の方から年末に一軒一軒まわって来ていた。今は農協で。戦後からは、病気になっても近所の民家で診てもらえたそうです。

  川原やお宮の境内に野宿しながら箕をなおしたり、箕を売りに来る人を見たことは無いが、こじきだろう。

  米は麦と混ぜたりしたが、割合は覚えていません。

結婚前の若者達の集まる宿(青年クラブ)はありましたか?この質問が一番おもしろかった。青年クラブはもちろん男ばかりで(笑)、わら細工などをしていた。規律は特別厳しいということはなかったようですが、こづかいは下級生が集めなければならなかった。「上級生からの制裁とかたまにはあったけれども(笑)」。どうやら私達が想像していたような怖い所ではなかったようです。当時はほとんど家で寝ていなかった、と伺って驚きました!!公民館に大きい布団を敷いて、みんなで寝ていたそうです。力石もした。「クラブで夜に盗みはしよった。芋を掘ったり。」と、とても楽しかったそうです。

 戦後の食糧難の時、犬を汁ものにして食べたことがある。けれども、鍋やすき焼きにしたことはないそうです。犬はおねしょの薬だと聞いたこともあるそうで、体がぬくもるからだそうです。犬はどうしたら捕まるか。これは何かすごい罠を利用したのではないかと思っていましたが、「エサでつる」の一言でした。

よばいは盛んでしたか?と尋ねると、笑われてしまいました。この辺ではあまりなかったのでしょうか。よその村から来る青年とけんかをすることも、めったになかった。

お風呂はもやい風呂(共同風呂)ばかりで、個人で持っている人は少なかった。

恋愛・結婚は普通で、今と変わらなかったそうです。お祭りも昔から変わらず、8月にあります。

田んぼの良し悪しで格差はあったが、神社の祭りの参加・運営は平等でした。

戦争によって、若者が軍事物資工場にやられていなくなった。戦争未亡人のかたも、80歳以上ではあるけれどもまだいらっしゃるそうです。

 

 

◇村のこれから

 大野は過疎になっています。村おこしも行ってはいるようですが、なかなか難しいそうです。ただ、今はダムを作ったりトンネルを掘ったり国道を作ったりしています。完成が遅れているそうですが、これが完成すれば、福岡からもっと人が来るようになるだろうとおっしゃっていました。確かに福岡からはまだ遠くて、私達も車で二時間くらいかかってしまいました。中島さんの息子さん達は三人とも福岡に住んで働いているそうなので、バイパスができれば行き来が楽になります。バスは一日に5往復ほどしかないらしく、バス停の無い所でも降ろしてくれるそうですが、人が多くなれば本数も増やせると思います。

この辺の夏はクーラーがいらないくらい涼しいそうですし、たくさん人が訪れる所になって欲しいと思います。